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心の洗濯屋さん

作者: 村崎羯諦

 ムーニ国という小さい小さい王国に、パニチャという女の子が住んでいました。パニチャはパパとママの三人で暮らしていて、パパとママは心の洗濯屋さんとして働いています。パニチャはまだ小さい女の子ですが、とても良い子なので、時々パパとママのお仕事をお手伝いしています。


 心の洗濯屋さんには毎日、友達とケンカしちゃったり、大切な人と離れ離れになってすごく悲しい気持ちになった人たちがやってきます。パニチャのママがお店番をしていて、お客さんから枯葉のようにしわしわになった心を預かります。ママからその心を受け取ったパパとパニチャは、お店の奥にある洗い場でゴシゴシとお洗濯を行います。心は人それぞれに違っていて、まん丸な形をしたものもあれば、角があってゴツゴツしたものもあります。パニチャのパパはそんな色々な形をした心にあったお洗濯をするので、パニチャはいつもすごいなあと感心します。


 サイチクの豆とお庭に咲いているローズマリーの花をまぜて作った手作りの石けんを使い、三十分ほどかけて丁寧に丁寧に手で洗ってあげます。すると初めは元気のなかったお客さんの心も、まるで生まれたてのようにきれいになっていくのです。きれいになった心をお店のベンチで待っているお客さんにお返しすると、どんよりとしていたお客さんの表情は晴れやかになり、それから元気いっぱいの声でパニチャの家族にありがとうとお礼を言って、軽やかな足取りで帰っていくのです。


 辛くて辛くて泣きそうになっている人たちが、前向きになれるようにお手伝いをしているんだよ。パニチャのパパはいつもそう言っています。パニチャはパパとママ、そして心の洗濯屋さんというお仕事が大好きでした。パニチャの将来の夢は、パパのような立派な心の洗濯屋さんになって、たくさんの人の心を元気にすることです。今日も暗い表情をしたお客さんがやってきて、パニチャとパニチャのパパは乾いた心のお洗濯をします。元気になーれ、元気になーれと、パニチャとパニチャのパパはとても楽しそうにお仕事を行うのです。


 そんなある日、ムーニ国の中央政府というところから、とてもとても偉いお役人さんがパニチャのお店にやってきました。真っ黒なスーツを着ていて、見ているこっちの首が痛くなるほどに背の高い男の人でした。その人は左手に持った竹あみのカゴをテーブルに置き、これの洗濯をやってくれと言いました。パニチャのママがカゴをのぞくと、中には乱暴に入れられた四つ、五つの心が入っていました。それを見たパニチャのママは首をかしげました。なぜなら、いつもお店にやってくる人たちの心とは違って、洗濯が必要なほどに汚れているようには見えなかったからです。ママはパパを呼んで、パパにも確認してもらいます。けれど、パパもママと同じように元気な心にしか見えませんでした。


「あのう、心の洗濯が必要なほど汚れているとは思えないんですが……」

「いいや、これは汚れきった心だよ。それもなかなかこべりついて落ちないくらいにひどい汚れ方をしている。だから、この石けんを使って洗ってくれないか?」


 お役人さんはそう言うと、ポケットから白と黒のまだら模様をした石けんをとりだしました。パニチャのパパは不思議に思いながらも差し出された石けんを受け取り、洗濯を行うことにしました。竹カゴに入った心を洗い場に持っていき、受け取った石けんでゴシゴシ洗濯を始めました。パニチャはいつものように後ろからパパのお仕事をじっと観察します。いつも使っているものとは違い、その石けんは腐らせてしまった卵のような臭いがしていて、泡の色もきれいな透明ではなく、黒の斑点がポツポツとできた灰色でした。それでもパパはいつものように丁寧に一つ一つ洗ってあげました。そして、洗い終わった心をお返しすると、お役人さんは満足気な表情を浮かべて喜びました。


「心の持ち主もきっと喜んでくれるにちがいない」


 お役人さんはそう言うと、他のお客さんが払う何倍ものお金をおいて、帰っていきました。パニチャはお客さんが満足してくれたのでほっとしながらも、どこか心の引っ掛かりのようなものを感じました。けれど、お役人さんと入れ替わりに、ご近所に住む若い先生が沈んだ表情でやってきたので、パニチャとパニチャのパパはいつものように自分のお仕事へと戻っていくのでした。


 それからというもの、その背の高いお役人さんは頻繁にお店にやってくるようになりました。いつも、竹カゴにいくつもの心を入れて、これで洗ってくれとあの変な匂いのする石けんを持ってくるのです。パパは一度だけ、この心の持ち主は誰なのかと尋ねてみたことがあります。けれど、男の人は高い位置から教えることができないとつっぱねるだけで何も教えてはくれません。それでもパパがしつこくたずねると、仕舞いには声を荒げ、激しい口調で怒鳴りつけてくるのです。お役人さんも大事なお客さんなので、パパとパニチャは一生懸命お洗濯を行います。けれど、パニチャはお役人さんが持ってきた心のお洗濯をしているときだけは、大好きなはずのお仕事が早く終わらないかなと思うようになるのでした。


 そして、お役人さんが持ってきた心を洗っている時、パニチャは見覚えのある形をした心が混ざっていることに気がつきました。小さな小さな頭を必死に回転させて、パニチャはようやくご近所にすむ若い先生の心とそっくりだということを思い出しました。先生はいろんなことを知っていて、よく近所の子供達を家に招いて、遠い外国のお話をしてくれます。パニチャも何度も先生の家に行ったことがあります。他の子供達と同じように、そこで聞く先生のお話と先生が出してくれる外国の美味しいお菓子がとても大好きなのでした。お役人さんが持ってきた心があまりにも先生の心と似ていたので、学校がお休みの日、パニチャは思い切って先生の家を訪ねることにしました。


 先生は笑顔でパニチャを出迎え、中に入りなさいと言ってくれました。パニチャは元気そうな先生の姿を見て、ほっとしましたが、先生の家の中に入ってみると、お部屋の中ががらりと変わってしまっていることに気が付きました。壁一面に貼られていた色んな外国の国旗やポスターは剥がされ、ムーニ国の国旗が壁に隙間なく貼られていました。お日様のあたる窓際には、洋服棚の上に置かれていた外国の画家の風景画の代わりにムーニ国の王様の肖像画が飾られていました。


「知っているかい、パニチャ。この国にはね、他の外国よりもずっと優れた文化、技術、自然、いろんな素晴らしいものがあるんだ。国民はみんな規律を重んじ、目上の人や家族を大事にする。これほど美しい国に生まれて私は幸せだし、みんな王様に感謝をしなければいけないと思うんだ」


 それぞれの国に良いところと悪いところの両方があって、どれが素晴らしいかなんて決めることはできないんだよ。先生が口癖のように言っていた言葉とは正反対の言葉に、パニチャはとても驚きました。それから先生はテーブルに置いていた国旗棒を手に持ち、「王様万歳! 王様万歳!」と部屋中に響き渡る声で叫んだ後、ムーニ国の国歌を歌い出しました。カエルのように野太い声で意気揚々と喉を震わせ、感情が高ぶっているのか、時々嗚咽混じりに咳き込みます。


 パニチャは変わり果てた先生の姿を見て、わけもわからず怖くなりました。パニチャは駆け足で自分の家へ帰り、パパとママに自分が見てきたことを泣きながら伝えました。パニチャのパパはパニチャの話を聞いたあと、さっと表情を曇らせました。それからじっと腕を組んで考え込んだあとで、すくっと立ち上がり、「確かめたいことがある」とだけ言って、そのまま家を出ていきました。何を確かめるのか、そしてどこに行くのか。パニチャはわかりませんでした。けれど、家を出ていってから、一日、二日が経ってもパパは帰ってきませんでした。そして、三日目の夜遅く、ようやくパニチャのパパは帰ってきました。家を出ていったときに着ていた服はボロボロに擦り切れ、顔は痣だらけ。右目のまぶたは真っ赤に腫れていて、うっすらと涙の跡が残っていました。そして何より、パニチャのパパは今までお店にやってきたどのお客さんよりもずっとずっと悲しい顔をしていました。パニチャはふとパパが両手に二つの紙袋を持っていることに気が付きました。ママに身体を支えられながらパパが家の中に入っていく間、パニチャは紙袋の中をこっそり覗いてみました。パニチャのパパが持って帰ってきた紙袋の中には、見たこともないくらいにたくさんのお金が詰められていたのです。


 その日からというもの、パニチャとパニチャのパパとママの生活は一変しました。パパはお仕事中に楽しげなお話をすることがなくなり、突然手を留めてうつろな目で部屋の隅っこを意味もなく見つめることが多くなりました。以前はやりすぎなほどに丁寧に行っていた仕事も少しづつ少しづつやっつけ仕事になっていき、パニチャがうっかりミスをしてしまった時には仕事部屋全体に響くくらいに大きな舌打ちをするようになりました。仕事が終わったあとは、明かりの消えたキッチンの隅っこにうずくまり、ママとパニチャとも話すこともなく、小さく震えながらお酒を飲みます。夜中には突然奇声をあげながら飛び起き、聞き取れない言葉を発しながら手当たりしだいに椅子やテーブルを蹴飛ばします。そうかと思えば、はたっと突然その場で立ち尽くし、まるで生まれたばかりの赤ん坊のようにおいおいと泣き出したりするのです。「私は最低な人間だ。私は最低な人間だ」。パニチャのパパはそうぶつぶつつぶやきながら自分の髪の毛をぶちぶちと引きちぎり、部屋の壁にガンガンガンと頭をぶつけるのです。パニチャはお父さんの怒鳴り声とか鳴き声とか、頭を壁にぶつける音で目を覚まします。そういう時は決まってパニチャはぎゅっと目をつぶり、羽毛のお布団の中にくるまって、もう一度眠りにつくのを待つことしかできません。おへその下あたりが針で刺されたように痛くなり、かけっこをした後みたいにバクバクバクと心臓の音が聞こえてきます。


 変わってしまったのはパパだけではありません。最初はパパをしっかりと支えていたママも、一日一日と少しづつ顔がやつれていって、笑う日よりも笑わない日のほうが多くなっていきました。ママは家を空けることが多くなり、国の真ん中にあるブランド物のバックや靴が置いてあるデパートにお出かけするようになりました。背の高い男の人は相変わらずお店にやってきて、お仕事の料金としてたくさんのお金を置いていきます。そのため、お金だけはたくさんありました。いつしかママは値段も見ずにたくさんの要らないのや使わないものを買い、それからすぐに捨ててしまうようになりました。部屋の中を外国製の高い家具で埋め尽くしては、一ヶ月でまたそれらを捨てて、また別の高い家具に入れ替える。それの繰り返しです。家にはデパートの社員さんがママに新しい商品を紹介するために頻繁に訪れるようになりました。ママは彼らが勧めるままに商品を買います。以前のママは倹約家でしたし、そうしなくちゃ駄目だよとパニチャは教わっていました。けれど、パニチャはそんなママに対して何も言えませんでした。買い物をしているときだけ、ママは子供のように目をキラキラと輝かせ、とてもとても楽しそうだったからです。


 パニチャは前よりもずっとずっと可愛いお洋服を着ることができて、とってもとっても美味しいご飯をたくさん食べられるようになりました。けれど、パニチャはちっとも幸せではありませんでしたし、むしろ悲しい気持ちで毎日を過ごしていました。パニチャはパパとママと遊ぶことはなくなり、気がつけばたくさんいた友達もなぜか一人一人とパニチャとは一緒に遊んではくれなくなりました。パニチェは一人ぼっちでいることが多くなりました。一人でいる時間のほとんどを、パニチャは昔の楽しかった日のことを思い出して過ごします。思い出の中のパパとママは春のお日様のように穏やかな笑顔を浮かべていて、パニチャと一緒に今日あったことをお話したり、お庭でお花のお手入れをしています。けれど、思い出の中が楽しければ楽しいほど、ハッと現実に戻った時に、どうしようもないほどの寂しさを感じてしまいます。そういう時、パニチャは自分の右足の指と指との間を、人差し指の爪で気が済むまでひっかきます。皮がめくれても、ほんのりと赤い血が滲み出しても、爪の先が柔らかい肌を突き破っても、寂しくて寂しくてたまらないときには、パニチャはひっかくことを止めません。透明に近いピンク色だった人差し指の爪はうっすらと青黒くなり、爪と指の間にはいつも乾いた血が詰まっているようになりました。もちろん、治りかけのかさぶたと血でぐちょぐちょになった場所を爪で引っかき続けるのはとても痛いことでした。それでも、パニチャは止めません。痛いという気持ちで頭がいっぱいになっている間は、悲しい気持ちを感じずに済むからでした。


 そして、風にほんのりと杏の香りが漂うようなある日のことでした。パニチャがいつものようにお部屋の中で目を閉じ、楽しかった日のことを思い出していると、突然部屋の扉が開き、中にパニチャのパパが入ってきました。パパは虚ろな顔を上げるパニチャにそっと近づき、その小さな小さな体をぎゅっと抱きしめました。


「ごめんよ、パニチャ。今まで辛い思いをさせてしまって。でも、もう大丈夫だよ。パパが全部間違っていたんだ」


 パニチャのパパが身体を離し、パニチャの目をじっと覗き込みます。パニチャはまだ思い出の中にいるのだと勘違いしてしまいました。なぜなら、パニチャのパパは思い出の中と同じように、澄んだ秋空のような優しい笑顔を浮かべていたからです。


「今までなんで気が付かなかったんだろう! 私の洗濯屋というお仕事が、この美しきムーニ国とムーニ王を支える極めて愛国的なものだということを!!」


 パニチャのパパが目を輝かせながら、子供のように叫びました。それからもう一度パニチャの身体を抱きしめ、「さあ、そんな悲しい気持ちとも今日でおさらばだよ。お客さんからいつももらっている石けんが残っているんだ。パパがパニチャの心をきれいに洗ってあげるからね」とささやきました。パニチャはこっくりと首を縦に振り、パパに言われるがまま、自分の心をパパに手渡しました。正直パニチャはパパの言うことがよくわかりませんでした。けれど、あの頃のように戻ることができるなら、パニチャはきっと大事な大事な宝物だって喜んで渡したことでしょう。


 凍てつくような冬がすぎれば、陽気な春がやってくるように、パニチャの毎日は少しずつ明るく楽しいものになっていきました。パパとママは少しだけ口うるさくなりましたが、昔のように優しい性格に戻りました。パパは一層お仕事を頑張るようになり、頻繁にくるお役人さんもとても褒めてくれます。昔のお友達とはまだまだ仲直りはできていませんが、ご近所に住む先生や、先生のもとに集まる他の子供たちと仲良くなることができました。日曜日には先生の家にみんなで集まって、ムーニ国の昔話を聞き、それからみんなで国歌を大声で歌うのです。パニチャは一番上手に国歌が歌えるので、先生も他の子達もみんな褒めてくれます。パニチャはそのことをとても誇らしく思っています。


 パニチャの毎日は以前のように明るく楽しいものになりました。パニチャの夢も変わっていません。パニチャの将来の夢は、パパのような立派な心の洗濯屋さんになって、たくさんの人の心をきれいにすることです。パニチャは今日も元気にパパのお仕事をお手伝いします。黒と黄色の石けんの匂いにはまだまだなれませんが、それでもパニチャは楽しそうにお洗濯を行います。きれいになーれ、きれいになーれと、耳を澄ませば今日も、お店の奥からパニチャとパニチャのパパの楽しそうな声が聞こえてきます。

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