お勉強をしよう1
「…ってことで花祭りに行こうと思うんだ。どうかなマリラ」
午前中の作業を終え現在家族で昼食の席についている。
ディックのアンナに対する熱弁がやっと一段落したところだ。
「どうって急に言われても色々考えないと」
マリラは若干困り顔でディックの問いを返した。
「うん、それは分かってる。でもアンナにとって必要なことじゃないかと思うんだ」
「それはそうだけど…」
「アンナのお陰で結界以外で畑を守ることができそうだしね」
「ねえ、本当にアンナがそんなこと言ったの?」
「そんなことって?」
「薬草に付けてる木札を見て勇者様の旅の順番に並んでいるとか、魔除けの香のことや毒のこと」
「うん、言ったよ。ねーアンナ」
ディックが良い笑顔をアンナに向けた。
大人の会話に参加するのは面倒なのでとりあえずアンナはコクコクと頷き返して食事を続けることに専念する。
パンとスープの簡単な食事だが、フランスパンっぽい固めのパンが幼児にはなかなか手強いのだ。よく噛めば小麦の味が楽しめ美味しい、しかし幼児の顎には負担が大きい。スープに浸して食べれば楽なのは分かっているのだが、マナー的にどうなのか知らないので毎回アンナはハードパンと格闘しているのだ。
「アンナは何時から字が読めるようになったのかしら?木札を読んだのよね?」
「あれ?そう言えばアンナ字が読めたのか?」
マリラは困惑を隠せない。毎日絵本を読み聞かせているが字が読める素振りを今までアンナが見せたことがなかったからだ。
ディックも不思議そうだ。昨日自分が絵本を読み聞かせているときそんな素振りは見なかったような…いや、よくよく思い出してみると字を目で追っていたような気もするが自信がない。
あ、しまった。私ってば文字が読めない振りしてたんだった!
内心焦るがやってしまったことは仕方がないのでアンナは開き直ることにした。前世とはいえ社会人も経験しているのだ。ポーカーフェイスの一つや二つ出来ないわけではない。最近では子供っぽくなろうと全力で当たっていたので精神年齢がかなり下がっている気がするが、三十路の底力を発揮するときだ。
「絵本読めるよ。パパとママは小さいときもしかして読めなかった?」
3歳なら文字の読める子供も多少はいるわよね?
歌舞伎なんて3歳で舞台デビューしたりするよね?
3歳ってわりと色々出来るよね?
ああもう異世界事情が分かんない。普通の3歳児はどうなの???
「字が読めなかったなんて、そ、そんなわけないだろ、ハハハ」
目を泳がせながらディックは乾いた笑い声をあげる。
「えーっと、ママは知らないが、パパは小さいときから読み書きできたぞ」
ああ、嘘じゃない。3歳ではなかったが小さいときに字を教わっている。親父ありがとう、ギリギリ父の威厳が保てる。
こう見えてディックは金持ちのボンボンだった。子供の頃からしっかりと教育を受けてきた。
実家は薬術院で平民ではあるが代々続く名家である。
薬術院の『院』とは特別なもので、中小企業あるいは個人経営の薬屋に対し、卸売業や薬だけでなく医療関係の魔道具や回復術を使える魔術師も抱えている大企業に『院』の文字が国から与えられるのだ。
ディックはそこの三男であった。巷で「若き天才錬成術師」と名を馳せ国から是非ともと誘われ宮廷薬師の職に就いた。魔神の復活で優秀な人材が不足していた為である。もし長男であったなら断っていたことだろう。
「えっ?マ、ママだって小さい頃から魔術書を見ていたわ」
ディックの裏切り者~、覚えてなさい!
キッ、とマリラはディックを睨んだ。
嘘はついてないわ。見ていただけで読んでいたとは言ってないもの…。
普通それはギリギリアウトであろう。しかし、マリラの名誉の為に捕捉するならば5歳の頃には初歩の魔術書を読み始めていたので誤差の範囲と言って言えなくもないと本人は思っている。
マリラの実家は代々宮廷魔術師を多く輩出している名家である。魔術馬鹿一族と言われているとかいないとか…。マリラは最年少で宮廷魔術師試験に合格した才女であり実力も高かった、しかし叔父が宮廷魔術師師団長であったため縁故採用だの何だのとやっかみが酷く採用当時は針のむしろ状態であった。一年が過ぎる頃には魔法の才能と圧倒的な攻撃力に魔力保有量の多さ、そして何よりもその美貌に親衛隊ができたのだった。
ディックとの結婚が決まった時には大騒動が繰り広げられたのだが、それはまた別のお話である。
また、現在は宮廷魔術師団を退職しているが静かな環境でのんびりと魔術の研究をしている。アンナが全く手の掛からない子供であったので、研究は順調に進んでいるのだが、第二子第三子を望むならそうもいかなくなるだろう考えている。
「パパもママもご本を読んでたんだ~。じゃあアンナがご本読むのは普通だよね?」
「そ、そうだな普通かな…」
「そうよね普通…普通…よね?」
絶対普通じゃない!と二人とも思ったが今さら言えない。
あー良かった。ライトノベルあるあるの識字率が低いとかだったらどうしようかと思ったけど、普通ならセーフ!心配して損しちゃったかな?
アンナはホッと息をついた。
だが残念ながらこの世界の識字率は決して高いわけではない。冒険者は冒険者ギルドに張り出される依頼書程度しか読めないし、個人経営の商人等も必要最低限の読み書きしか出来ない。農業や漁業や林業等田舎での仕事に従事している人ほど識字率は下がっていく。
それに対し貴族や裕福な家庭の子供達は十代前半で三年間学校に通う為、上流階級の人間の識字率は100%に近い。裕福でない子供も何か秀でた能力が有れば特待生として入学することができる。貴族の子弟は入学前に家庭教師をつけ、予めある程度学んでから入学するので学業で困ることはあまりなく社交の練習のような場になっている。
貧富の差がそのまま学力の差になっているためゼルグナードでは少しでも国力を上げるために二年前に平民の学校が設立された。しかしまだまだ問題が多くうまく回っていないのが現状である。
しかし世間を知らないアンナは普通という言葉を拡大解釈する。
字を読めるのが普通なら書くことは?
さっきパパは読み書きできたって言ったよね…。
ならいっそ書き方教えてもらうってのはどうだろう。
うん、これって字の習得のチャンスじゃない?
「ねーパパ、アンナもパパみたいに小さいときから読み書き出来るようになりたい。字の書き方教えて」
今は絵本レベルの文字しか知らないけど本格的に覚えたい。ついでにこの国のマナーや歴史も教えてくれないかしら。
さすがにゲーム上ではマナーについて触れていなかったもの。いや、むしろ勇者に対し王族が謙っていた。
「ハハハ、アンナは勉強がしたいのか。ならついでに算術もやるか?」
勉強好きな子供などいないと思っているディックはアンナをからかった。
算術?計算ってこと?
うーん、小6でそろばん1級取ったんだけど…
あ、待ってこの世界十進法で合ってるの?10で繰り上がりじゃなかったらヤバイ。
それに暦や貨幣とか何も知らなかった!
知らない計算式とかが普通かもしれない。
要るわ算術、大事だわ。
「算術やるー!色々やりたい~」
アンナはノリノリだ。
ディックは冗談を言ったつもりだったのだがアンナの食いつきに若干腰が引ける。
そしてマリラの目がキラリと光った。
「いいわね、お勉強。花祭りで街に出るなら子供用の教材も見繕いましょうか」
「え、本気?」
「当たり前じゃない。折角子供がやる気を出してるんだもの親が協力しないで誰がするの」
マリラはどうやら教育ママの素質があったようだ。
ディックはマリラの言葉に重い本を何冊も持たされ、本屋を巡る自分を簡単に想像できた。付き合っていた頃デートと称して魔術書を買い求める為、何軒も本屋を梯子し荷物持ちをした経験は一度や二度ではない。
「折角だもの本屋が多い街に行きたいわ。どうせなら王都に行きましょうよ、久しぶりに実家に顔を出したいし両親にアンナにを会わせたいわ」
王都!行きたい!はじまりの街だー!それにおじいちゃんとおばあちゃんに会いたい。
アンナは満面の笑みだ。
マリラは出産時実家で半年以上過ごしている。初めての育児なので自信がなかったこともあるが乳飲み子を抱えての旅は辛いものがある。マリラの家族もアンナを心配していた。乳児は突然熱を出したり風邪一つで死に至ることもあるのだ。天才薬師が側にいることは理解していても田舎での生活に心配で仕方がなかったのだ。結局アンナがお座りが出来るまで祖父母の家で過ごした。
そんな訳でアンナは祖父母を知っているのだ。
「うーん、王都かぁ。それだとかなり家を空ける事になるよ」
「駄目かしら」
「そんなに長く畑を放っておくのもなぁ。それに片道だけで一月以上かかるよ、幼い子供連れならもっとかかるかもしれない」
「そうよね…」
マリラはがっくりと肩を落とす。
アンナもしょんぼりだ。
マリラ至上主義のディックがそんなマリラを労らないはずもなく、
「王都は来年にしよう。来年はアンナの儀式の年だから家を空ける事に誰も文句を言えないさ。一年あれば色々準備も整うはずだよ」
マリラは少し考えてからコクリと頷いた。
「分かったわ、今回は諦める。でも教材は注文して取り寄せてもいいかしら」
「うん、マリラの自由にしていいよ」
「ねえ、薬師長様って侯爵様だったわよね?」
「ああ、そうだけど?」
「優秀な家庭教師をご存知ないかしら。その方にお薦めの教材を教えて頂きたいの」
ディックはまじまじとマリラを見つめる。
アンナもマリラを凝視する。
英才教育!?何か凄いんですけどぉぉぉ。
これはどういう展開になるのかとアンナは気になって仕方ない。
「それは構わないけどアンナに貴族の教育を受けさせるってこと?」
「貴族と言うか出来る限りの最高の教育を受けさせたいの」
「必要なこと?」
「私、思うんだけど魔神が倒され瘴気が減って魔獣の脅威も減ったでしょ。災厄級の魔物の噂も聞かなくなったわ。そうなると冒険者の仕事が減ってくると思うの。」
「うん、減ってるね。腕の立つ上級冒険者はいいが下級冒険者は仕事に溢れている。身を持ち崩して盗賊になる輩も出てきて騎士団も大変らしい」
「冒険者が減るとそれに付随していた職業も右肩下がりになるでしょ。たぶんこれから世の中がどんどん変わってくると思うわ」
「…かもね」
ディックの実家である薬術院でも最近売上が落ちている、と兄から愚痴の手紙を受け取った。冒険者の数が減れば傷薬や回復薬の売れ行きが悪くなるのは仕方のないことではあるのだがなかなか対処が難しいらしい。
世の中が変わってくると考えるマリラは正しいだろう。
「どう変わるかは分からないけど、どう変わっても生きていけるようにしてあげたいのよ」
「アンナの可愛さがあればどう変わっても生きていけると思うけどね。このゼルグナード一の美少女なんだから。勿論ゼルグナード一の美女はマリラだけどね」
「もう、真面目に話してるのに」
ぷくっと頬を膨らますマリラは大変可愛らしい。思わずその頬に触れたくてディックの指が自然とワキワキ動いてしまう。
「いや~、マリラはホント可愛いなぁ」
「そういうのは置いといて、ねぇ薬師長様にアンナの教育のこと相談してくれる?」
「わかった、次の報告日に聞いてみるよ」
「本当に絶対よ、忘れないでね」
うるるんっとマリラの大きな瞳がまっすぐディックを見つめる。
「大丈夫忘れないさ、マリラが毎日キスしながら言ってくれたら。ベッドの中でも語り合おうか?」
「やだもう、子供の前で何言ってるのよ」
「愛について?」
「今はお勉強についての話でしょ」
ディックはいつもこうなんだから、とぶつぶつ言っているマリラだがほんのり顔が赤い。
「じゃあ愛については後で話そう」
「だからアンナの前でそういうこと言わないで」
ディックとマリラはチラリとアンナの様子を見た。
アンナは両親がイチャつき始めた時点で会話に興味を無くしていた。
目の前のハードパンにかじりついている。
イチャイチャ会話など一切聞いていませんアピールだ。
「アンナは聞いてないよ」
ディックはニッコリとマリラに微笑みかけた。
肉食獣のような目は言外に何を語っているのか?
マリラの顔が更に赤くなってくる。
ニッコリからニンマリに変わった笑顔は舌なめずりでもしそうだ。
とりあえず、ママ ファイト。
と無責任に応援するアンナだった。
登場人物がずっと三人…少なすぎる( ;´・ω・`)