絵本の中の少女
川沿いの道を歩いている少女が一人。
彼女は木漏れ日を全身に浴びながら、じっくりと歩みを進めてゆく。
空の青、芝の緑。
上に周りに、対岸に、桜の花が咲き誇る。
微かに色づいた花びらが、いまだ散らず、花そのものを保っていた。
それは彼女の知っている「完璧」に、ほとんど近い景色だった。
少女はあの時の景色を思い出していた。
思い描くのは、いつもあの時のことだ。
あの場所のことだ。
あの時、あの馬鹿と、一緒にいた場所。
少女はふと立ち止まり、対岸の桜並木を見つめた。
そういえば、ここをもうほんの少し行けば――。
「――舞」
「ひゃ!?」
少女は飛びのいて身構えた。
声をかけた少年はもう慣れたもので、驚きもせず、苦笑しながらその様子を見ていた。
「毎回毎回、飽きないねぇ、その反応」
目の前に少年の口元がある。
ずっとおでこか、髪の毛があったはずの場所に。
少女は少年を見上げた。
じっとりとした視線が、見慣れた顔に見慣れない角度から突き刺さる。
「……毎回毎回、狙って後ろから声かけてくるあんたも大概だけどね」
「怒るなよ、声かけただけで」
舞は迷惑そうに言った。
「何の用? 忙しいんだけど、私」
「よく言うぜ、目的もなくぶらぶら歩いてるだけの癖して」
「な!? 違うし!」
「と、言っても、どうせ図書館に行って、また絵本選ぶだけだろ。後で一緒に行こうぜ」
見事に言い当てられた舞はうっと息を詰まらせた。
隼人は平然と肩をすくめた。
「ま、別に嫌ならいいけど」
「……別に嫌ってわけじゃないけどさ」
舞は口を尖らせたが、特別な反論は浮かばなかった。
別に嫌ではなかった。
確かに。
ただ言い方が気に食わなかっただけで。
「……「だけ」って言うのについてくるんだね?」
「暇だもん」
「……あっそ」
舞は不機嫌な顔で歩き出した。
隼人が笑いをこらえながらその後ろをついてゆく。
桜の香りが掠める。
隼人はその空気の中に舞の気配を感じ、鼻をひくひくと動かした。
慣れ親しんだ香りだ。
風は舞の黒髪をなびかせて、通り過ぎてゆく。
木漏れ日がすべすべしたうなじに反射して、自由に飛びまわった。
顔は見えないが、少なくとも足取りは軽い。
多分、何となく楽しくなって、笑顔をこらえられずにいるんだろう。
その笑顔を隼人は知っている。
ずっと知っていた。
「……綺麗だな」
舞が振り向き、視線が見事にかち合った。
慌てて目をそらす。
咄嗟に飲み込んだ動揺が、余計な言葉をつれてくる。
「景色だよ、もちろん」
振り向いた瞬間に丸かった舞の目が、きっときつくなる。
隼人は素知らぬ顔をして対岸に目をやった。
後悔は表情に現れない。
彼は内心唇を噛んでいた。
馬鹿野郎、と思った。
こんな会話ばかりを続けているから、前にも後ろにも進めなくなるのだ。
こんな、中途半端なやり取りばかりを。
「と、ところでさ」
声が裏返った。
馬鹿野郎、とまた思う。
舞を見ると、彼女はまるで何も聞こえなかったかのように川面をにらみつけていた。
水は黒く、にごっていた。
どっちに流れているのかも分からない。
川の上にせり出した枝から落ちたほんの僅かな花びらが、波のない水面で躊躇っている。
隼人は無理に笑い、明るい声を出した。
「舞が好きだ好きだ言ってたあの絵本、翔太ん家の会社から出てんだぜ? 知ってたか?」
「知ってるよ、そんなこと」
舞の声は冷たかった。
「発行元チェックすればすぐ分かるじゃん。「津村石人」が賢さんの友達の友達だったんでしょ? 翔太くんに聞いたよ」
「……左様ですか」
「それがどうかしたの?」
「いや、ちょっと思っただけなんだ」
隼人の声に自信がない。
しかし、彼はやめなかった。
「……舞が一番気に入ってるシーン――ほら、あの、「あーちゃん」が桜を見てるシーン――、ここの景色にそっくりだなって」
それは美しい風景と、少し切ない小さな物語が描かれた絵本の一場面だ。
主人公である幼い少女が桜の降る川べりに腰掛け、何かを待っている。
そんな情景があった。
舞は初めて見開きのその絵を見たとき、隼人と同じことを思った。
確信した。
こ れ は 私 の 景 色 だ 、と。
舞がクスリと笑った。
「奇遇だね」
「え……!?」
「私、その景色を見に来たんだよ」
夢を見た。
春の光の中に、よく知っている少年がいた。
そして彼の隣に、「あーちゃん」の「その後」みたいな少女の姿が。
それで、ここの景色を思い出した。
「しかし、隼人もなんだかんだあの絵本好きだったんだね。桜のニュースで思い出したわけ?」
「いや、昨日見た夢で」
「……え?」
「なんか妙な夢でさぁ……」
舞の驚きには気づかず、隼人が話し続ける。
聞けば聞くほど、驚きが強くなる。
ついには舞が途中でさえぎり、興奮気味にまくし立てた。
二人は同じ夢を見ていた。
翔太と、「あーちゃん」の夢を。
何故そんなものを?
二人は首を傾げた。