花火
三人は夜の砂浜で、海を聞いていた。
というのも、その星の光を飲み込むような闇よりは谺する地響きのような轟音が彼らを大人くさせているのであり、それが風なのか波なのか、あるいは他の何かなのか、彼らには判断がつかなかったからだ。
彼らは大人たちを待っていた。
三人の後ろで、花火の箱が入っているビニール袋が風でバタバタ鳴っている。
彼らはその音と、誰かが動くたびにじゃりっと砂が鳴る音を聞くともなしに聞いていた。
「遅いね、おばさん」
その声はこの闇にすっと融けるように後ろに下がり、まるで別の世界からの声に聞こえた。
言葉を発した舞自身にさえも。
「……場所が分かんないのかも」
「暗いしな」
彼らはその圧倒的に開けた砂浜で、舞を真ん中にピッタリ寄り添って座っていた。
車の中と同じように。
それなのに何故か、先程あった気まずい雰囲気はなく、それぞれがそれぞれに寄りかかるようにくっついていた。
「これさ、もう始めてた方が良くないか?」
隼人は舞の後ろにある花火の箱を叩いた。
「え、でも……」
「こんだけ暗いと母さんたちも見つけづらいだろ」
「……待ってなさいって言われたじゃん」
隼人は大きく鼻を鳴らす。
「なんか問題あるか? 別に監督抜きでも事故りゃしねーよ!」
「……多分、そーいう問題じゃないと思う」
「じゃあどういう?」
「知らないけど。ね、それよりさ」
と、舞は翔太を覗き込む。
「なんで急に元気になったの?」
「え」
急に話題を振られ、翔太は思考が停止してしまう。
「それは俺も興味があるな!」
「うわっ!」
隼人は舞の背中に乗っかるようにして顔を出し、翔太を睨み付ける。
「やっと決心しやがったと思ったのに結局うごかねーし! お前、「雪の精」は明日帰っちゃうかもしれないんだぞ!?」
怒鳴られて翔太の頭がゆっくり回り始める。
かもしれない、じゃないな、と思う。
むしろ、確実にそうだろうと考えていた。
理由といえばただの勘だが、確信はあった。
華は明日、帰っていく。
「……いいんだよ」
翔太は海に飲み込まれそうな、それでいて妙に静寂を伴って響く声で呟いた。
その声に驚き、その意味に戸惑い、隼人が顔をしかめる。
「あ?」
「大丈夫、分かってる」
「分かってねーよ! あのなぁ―――ッ!」
怒った隼人を制したのは舞だった。
彼女は最低限の素早い動きで、隼人の脇腹に肘を打ち込み、彼を黙らせた。
そうして彼を自分の上から追い払うと、何事もなかったかのように翔太に問いかけた。
「……ホントにいいの? これが最後のチャンスかもしれないよ?」
彼女自身は望んでいなかった。
心の片隅で、いや、真ん中で、行って欲しくない、と思った。
しかし。
「……それはないよ」
翔太は穏やかに、だがきっぱりと言った。
予想だにしていない言い方で、舞は一瞬自分の問いかけを忘れてしまう。
「え、何が」
「最後じゃない」
翔太は言い切るような口調を無理に使った。
いや、彼は確かに信じている。
最後ではない。
必ずまた会える。
必ず。
しかしそれをどうして信じられているのか、彼には分からなかったのだ。
でも多分、と翔太は思う。
また三人ともが黙り込んだ。
隼人は舞を、舞は翔太を、翔太は海の方を見ている。
ごく短い静止の時間が過ぎ、舞はふと、隼人の方を振り返る。
当然視線がぶつかり、二人ともが驚いた顔をする。
「……何?」
「……別に」
二人は幾秒か見つめ合った後、全く同じタイミングで海の方へ向き直った。
そこは完璧な闇というわけではなく、空には星が見え、波が立てば月明かりを反射して輝き、どこか後ろの方にある建物からの微かな光がぼんやりと世界の形を教えている。
それは心地よい闇だった。
隼人は急に花火の箱に手を伸ばし、開封する。
そして舞が制止の言葉を発するのを封じるように、彼女の手に手持ち花火を押し付た。
彼は翔太にも渡すと、自分のは口にくわえ、両手でチャッカマンを握ると、親指二本で火を点した。
まず翔太が手を伸ばし、火をもらう。
舞の目の前で鮮やかな火がほとばしり、彼女はぼうっとそれを見つめた。
翔太は立ち上がりながら新しい花火を一塊つかみ、光を見ながらぼんやりと歩き出す。
舞の目に、彼は帰り道が分からずさ迷う亡霊のように見えた。
舞は本気で心配している。
「……舞、早く」
隼人はまだ火を点している。
舞ははっと片手をついて腰を浮かせ、そしてその立ち上がりかけた体勢のまま、ほとんど考えずに花火を火にかざした。
ちりちりと焦げた紙が丸まっていくが、中々火がつかず、それを見ていて舞は母親たちの言葉を思い出し、口を尖らせる。
「だから、待ってないとって」
「とか言って、もう火、つけてんじゃん。ほら」
隼人が笑うと、花火が「シューッ」という音を出して火を吐き出し始め、舞は「うわっ」と声を上げながら立ち上がった。
「アハハ! 何びびってんだよ?」
「びっくりしただけ!」
隼人は彼女の弁明には構わず、ごく自然な動きで寄り添い、火をもらった。
すぐに隼人の手の中で花火が輝き始める。
何故か二人は寄り添ったまま、その火を見つめていた。
二人が「呪い」と呼ぶ繋がりがある。
確かにその執拗さには「呪い」と呼ぶべきところがあった。
翔太から見ても、二人は一緒にいそうだった。
どこまでいっても、何をしていても。
舞はそれを嫌だと思っていた。
隼人のいない未来を想像することもできずにいるくせに。
舞は幼い。
答えは目の前にあるのに、それを正解と思えずに、ただ思えずに、目を逸らそうと試みているのだ。
隼人はそれを知っている。
そして「呪い」の本質的な正体も。
自分の立ち尽くしているその道が、進むべき場所を教えていることも。
知っていたからこそ、彼はあんなに怒ったのかもしれない。
「あちっ!」
舞がくしゃみをした時、花火が少し隼人の足にかかったのだ。
舞が謝る前に隼人がやり返した。
「あつっ! 隼人!」
「あた! てめー、舞!」
飛び退きつつ、花火を振り回す隼人を、舞が追いかける。
隼人はかわし、次の花火に火をつけて振り回すのに舞も負けじと応戦する。
飛び交う鮮やかな炎は交差し、ぶつかり合い、いつもよりキラキラと輝いた。
二人は本気だった。
本気ではしゃぎ回っている。
二人の大きな笑い声が辺りに響いた。
翔太が目を上げたことに理由はなかった。
ただ本能が、直感が、心が、彼にそうさせた。
彼はほとばしる炎をゆっくり繋げながら、静かに考えていた。
今、自分が落ち着いていられるのは、華が自分と同じことを思っていると信じているからだ。
華と同じ思いでいるのだと。
―――違ってたら?
翔太はぞっとした。
ダメだ。
そんなことは考えちゃいけない。
ダメだ。
思考の堂々巡りが始まりかけたその瞬間、翔太は顔を上げた。
彼の目は一度もぶれず、迷わず、躊躇わず、明かりのともっている数多くの窓のうちのひとつ、たったひとつに向かった。