世界は
バスが止まり、華が前の人に続いて降りると、ムワッとした熱気と同時に、海の匂いがした。
華はさりげなく深呼吸をしたが、その息の吐き出し方も溜息のようになってしまい、自分でもおかしかった。
(やれやれ、何を深刻になっているんだか)
と、その時、運転手と一緒になってバスの荷物置き場から皆のかばんを出していた担任の先生の大きな声が響く。
「ほら、誰のでも良いから、一番近い荷物一つ持って集合場所に行く! 自分のを探すなよ!」
(と、言われてもね)
華は内心笑いながら、言われたとおり一番近くにあった白いボストンバックをひょいと担ぎ、じりじりと焼け付くような砂の道を歩きだした。
周囲の空気すべてが振動しているような感覚がする。
聞こうとするとめまいがするような、重なって重なって出所もつかめず、意味はなさそうな声。
蝉の声だ。
そのくせ皆が同じようなリズムで叫んでいる。
何かを伝えようとするかのように。
「白井さんってさ」
華が振り向くと、いつの間にか後ろにいた瞳が、いつになく真面目な顔をしていた。
明らかに男子のものらしい黒い大きなリュックサックを背負っている。
「それ、重そうだね?」
「うん」
瞳は渋い顔をした。
「絶対、なんか禁止されてるものが入ってる。誰のだろ、一体」
「禁止されてるもの?」
「ゲームとか。ま、そんなことより、白井さんってさ」
瞳は華の顔をじっと見た。
「無敵だよね」
「え?」
華はニヤッと笑ってしまった。
大真面目に「無敵」などと言われるなんて。
しかし、瞳は冗談を言っているつもりは毛頭ないらしい。
太陽の強烈な光を手で遮って歩きながら、瞳はまじめな顔をしている。
「だってさ、顔はかわいいし、性格も良いし、勉強は出来るし、運動神経抜群だし、さっきのでトランプとかも強いって分かったし」
「……本庄さん、褒めすぎ」
「そんなことないでしょー」
瞳はケラケラ笑ったが、華は考え込んだ後、
「……私は運が良いだけだよ」
と、さらりと言ってのける。
「何にしてもさ」
「またまたぁ」と瞳は笑いかけたが、華が本気で「それだけのこと」と思っていることに気付き口をつぐんだ。
「ホントにね」
華がしみじみ、という調子で呟いたのを見て、瞳は驚くより呆れてしまう。
「……いや、それだけじゃないでしょ」
「んー?」
華は聞いているのか聞いていないのか曖昧な声を出し、ボストンバックを担ぎなおした。
「そう?」
「「そう?」って……。むしろ「運が良いだけ」って言う事例が知りたいぐらいだよ」
「今ここで、本庄さんとか皆と仲良くできてること」
「え?」
瞳は戸惑った。華は淡々と続ける。
「今までもさ、どこ行っても、変な転校生が入ってきたっていうのにみんな仲良くしてくれてさ。ふっと思い出したときに思うんだ。「運が良かったんだな」って」
違う、と瞳は思った。
転校生は主役だ。
舞台の上に突然舞い降りた存在であるわけで、注目を集めないわけがない。
皆が何かを期待して接する時間がある。
問題はその後。
「仮想敵国」にならないためには、熱が冷めるまでにその場所に溶け込んでいる力があるか、主役であり続ける力があるか。
そのどちらかだ。
瞳は横目で華を見た。
顔にかいた汗をTシャツの袖で拭っている。
ただそれだけのことなのに。
華は明らかに後者だった。
男子の集団がじゃれあっているのを二人が追い越した時。 順治が「あ」と声を出した。
「本庄、俺の荷物」
「あー??」
瞳はからむ様に順治をにらみつけた。
「あんた一体何持って来てるの!? 滅茶苦茶重いんです けど!!」
「わ、馬鹿!!」
順治は焦った顔で人差し指を口の前に立てた。 そして辺りを窺い、声の届くところに教師がいないことを 確認する。
「デカイ声出すなよ……! ばれたらどうしてくれんだ!」
「え、順治ホントに持ってきたわけ?」
幾人かの男子が呆れたような顔をしている。
「お前らが持ってこいって言ったんじゃんか!」
「いや、でも、ホントに持ってくるなんて……」
華は男子の面々の顔を見ながら言った。
「本庄さんが「ゲーム」って推理してたけど?」
「白井さん、正解!」
「いや、だから、本庄さんが……」
「まぁそんなことより」と瞳は遮ると、リュックサックを 順治に押し付けた。
「ばらされたくなかったら自分で持ちな」
「……分かったよ。じゃあ、これ」
と、順治は今まで自分が持っていた、ナイキのエナメルバ ックを渡そうとする。
それで瞳は露骨に顔をしかめた。
「は?」
「え、だって……」
「黙っといてあげる代わりに持てって言ってんの。交換し たら意味ないじゃん」
「お、鬼か!?」
「あ、先生」
慌てて振り向いた順治の耳に、瞳のはしゃいだ笑い声が響 く。
「うっそー! じゃ、よろしく」
他の男子達もゲラゲラ笑う中で瞳に向き直った順治は、諦 めて荷物を受け取り、ごく小さく呟いた。
「……クソ」
悪ノリした男子の一人が笑いながら華をそそのかす。
「あ、白井さんも持ってもらったら?」
「え、いいよ」
華は苦笑いを浮かべていた。 順治はむすっとした顔で―――それでも何かをアピールす るチャンスだと思ったらしく―――「ん」と彼女の方に手 を伸ばした。
「持つよ。二つも三つも変わらない」
「ううん、ホントに大丈夫」
華は順治に微笑んだ。
「自分で持つよ。自分のだから」
「自分の?」
瞳が意外そうに目を丸くした。 華はひょいっと肩をすくめて見せる。
「そ、一番近くにあったから。言ったでしょ? 「私は運 が良い」ってさ」
「そうかもしれない」、と瞳は思った。
華はTシャツにショートパンツをはき、足にはサンダルを 引っ掛けていた。 大リーグか何かのチームの帽子を目深にかぶり、肩ぐらい の髪をポニーテールにしている。
彼女はその場所に合っていた。
完璧に。
しかも決して溶け込んでいるわけではない。 やけに白い手足や顔が、きらめくような微笑が、彼女をそ の風景の中から浮かび上がらせていたのだ。
それでも、だ。 華はその場所に合っていた。
じりじりと肌が焼ける音が聞こえてきそうな日差しも、や かましいぐらいの蝉の声も、手で触ってつかめそうな熱い 空気も、猛烈な勢いでやってくる海からの風も、すべてが 華のためにある。
瞳にはそう思えた。