夜鬼
「そう言えば、鋏買うのを忘れていたな」「ツッ!!」
授業が終わり、あなたは図書館で時間を潰す。
その時、昼間と同じくカバンの中の本を広げて、鋏を買おうとしていたのを思い出す。
もう爪出来ればいいや。と思い、爪をはわせたのだが。
最後の最後で油断してしまった。
指先を薄く切ってしまった。
血がゆったりと流れ出る。
急いでトイレに向かうと、血を綺麗ん冷たい水で洗い流し、ティッシュで血止めする。
トイレから席に戻る瞬間、蛇口からぽたぽたと美羽が滴る音がした。
やや、後ろ髪をひかれるも、戻ってしめなおすのを面倒に思ったあなたはそのまま前に進む。
摩擦熱、紙で指を切るのはそういった原理が働いていると、どこかで聞いたことがある。正直言ってそれが正しいのかどうかも確信がない、曖昧な記憶。
だが、要するに、それだ。この場で起こったのは。
これだけで済めば良いのだが、追討ちが掛かる。
・・・・・・、なんというかその、
こけた
周囲からの冷たい視線に耐えかねさっさと起きようと机に手をついたのだが、その手触りからすぐに手を離してしまう
「汚れていないよな」
慌ててあなたは本の状態を確認した。
汚したくないのだ。
それに、机の上には図書館から借りた者もある。
汚すわけにはいかない。
杞憂だったらしい。
血の痕は買った本。オカルト入門の外部だけだ。
違う推薦として残り、絵の下側たら薄く続く。
「うわ、なにこれ」
加えて、手には塩のような灰のような粉末が付着している。
食品ならば、匂いを嗅ぐなり、舐めるなりの対処をとるのだが、流石に、これで行う勇気はなかった。
拍手をするようにして、粉末を払い落とす。
床に散らばるそれは、ふけのようにも、小さな昆虫の死骸のようにも見える。
改めてあなたは絵を覗き込んだ。
そこには三叉の槍を持った神? とそれに傅く、醜悪な生物の絵があった。
「ど、どうしてこれが!!」
その下賜付く生き物に見覚えがあった。
昨日買った本に出てきたマネキンの頭と蝙蝠の翼をもった化物だ。
見るからに古式な絵柄ではあるが、どこか現代的な意匠。
幾何学図形。
数学的、科学的な紋様が加えられており、写実的だが、現代アート的な抽象的な外観。
芸術に詳しくないあなたでも、その異常性を理解できた。
あまりにも属性を加えすぎている。ごった煮だというのに、見事に調和している。
だというのに、言い知れぬ気持ち悪さを感じるのだ。
「またこの絵か」
気が付くと、あなたはまるで魅入られたかのように絵を見つめていた。
青い海のような安らぎと、炎のような胸のざわめき。
ずっと絵を見つめていたいという吸引力と、こんな絵は捨てるべきだという斥力。
結果、あなたは抗うことが出来ずにずっと絵を見ている。
目を離そうとしても離れない。
まるで絵に呪われたかのように。
―――もしかしたら、あの本には呪いがかかっていたのかも。
昨日あの古本屋であれを買ってからというもの、あなたの周りで言いしれぬ不吉さが渦巻いていた。
「ポセイドンの絵だよなこれ」
三股の槍にどことなく海をほうふつさせる風貌、ギリシャ的な雰囲気。
もしかしたらゼウスかも知れないが間違いないだろう。
「あれ、紙の上に粉末がないな」
机の上に粉末がまんべんなく落ちているのに、本の上にはない。
落とした時に落ちたおかも。
釈然としないが、あなたはそう判断した。
不意に、本についた血が薄まったように感じた。
あれ? 目の錯覚かとあなたは目をこする。
「ばかばかしい」
そんなオカルト小説みたいな自体があるわけないと、あなたは自嘲する。
「何独りで笑っているの」
気持ち悪い。声にこそ出さなかったが、心の声がき終えてきた。
「君! 図書館は通話禁止だっていうけど、だれも守っていないんだから電話に出てよ」
話しかけていたという事はこの人が携帯の持ち主だろう。
初対面のはずだ。なのに既視感を感じてしまう。
「それにしても、まさか君が携帯を拾うとは。
昼間ななんとなしに声をかけただけなのに」
「悪いんだけど、どこかであったけ?」
「覚えていない、昼休み此処で座っている君に話しかけたでしょう」
確かに、そんな人物がいたことは覚えている。
「こういうのを文学的には縁が出来たっていうのかな」
「袖振りあうのも多生の縁というのは、こうしてみると実に見事なことわざだわ」
そういって携帯を取り戻すと、高速で操作し始めた。
「確か、電話越しだったけど、君の電話番号は教えてもらったわ。
今度お礼になんか奢るから、明日って空いてる」
「空いているぞ」
「そう、だったら何か奢るわ」
もしかして、これって逆ナンかな。
生まれて初めての経験にドキマキしてつい視線をそらしてしまう。
幸運なことに彼女の視線は携帯に向いている。
連絡があったのかを確かめるべく、あなたも鞄の奥に放置してあった形態を引っ張り出した。
友達も知り合いもいないあなたに連絡が来るのは非常にまれで、ほとんど電源を切っているのだ。
電池が残っているのか不安だったが、電源を入れた。
黒い画面が真っ白な画面に移り変わり、ゆっくりと携帯が生き返るかのように機能を回復させていく。
電源が入ると、着信を知らせる振動が何度もなった。
どうせこれっきりの付き合いなのだ、ごはんくらい奢ってもらおう。
普段のあなたならそれで満足するはずだ。
ここでそれじゃあ又と別れるだろう。
「もう、これで帰るの」
一歩あなたは踏み出した。
あんな映像を見たせいだろう。
「そのつもりだけど、もしかして口説いてるの」
苦いものをなめたみたいに露骨に嫌な顔をあなたはしている。
「気になっただけだ」
「何だ。からかいがいのない人ね」
「面白みなんて求めていないからな」
「そうね……
あ! この本て」
彼女は机の上の本を見て黄色い声を挙げた。
「見覚えでもあるのか」
「……うちの古本屋の本なだけ」
怪しい、直感的にそう悟った。
問いただそうと思ったが、彼女とこの本にいかなる関係性があろうとも、気にもならない。
「オカルト的な物に興味があるのか」
「えっと」
本を裏返すと、彼女の黒目があてどなくさまようのが見える。
「実はさ、俺卒業論文で魔女狩りについて書いてるんだ。
正確にはある文学作品が書かれた時代背景についての調査なんだけど」
ただの言いがかりだ。
あの光景、昼間見た白昼夢は夜になろうとあなたにこびりついていた。
「そうね……」
そういって、彼女は論文にざっと視線を通す。
「待たしに言わせれば、過激な魔女狩りは理想と現実。
それをどうすり合わせるのかの問題ね。
魔女の鉄槌。
魔女裁判のマニュアルを書いた人物って、熱狂的なマリア崇拝者というのはよく知られた話だし」
時間を潰すのが目的だったが、想像以上の博識さにあなたは面食らった。
気が付けば時間が過ぎ去り、図書館の閉鎖を知らせるアナウンスが流れていた。
「あ、あのさ……。
俺これから自転車で帰るんだけど、そっちは」
「え! もしかして口説かれている」
お前にはその発想しかないのか、という言葉は自省。
それでも、これだから女はとか、脳内お花畑が解かの悪態を唱えた。
「少し気になったから聞いた。それ以上の意味は無い」
「バスで帰るつもりだけどそっちは」
「自転車……」
言って、後悔した。
これでは駐輪場にいっしょに行ってもらえない。
自尊心と安全。
一体どちらを取るべきだと、これまで人類が何度も何度も行き当ったであろう問題に行き当たる。
ここで、実は俺もバス。
と言えればいいのだが。
「帰り道は別々だな」
と、あなたは自尊心をとったのだ。
☆
屠殺される生き物はこんな気持ちか。
普段使っている道であなたは理解した。
肌には鳥肌が立っていて、喉は乾き足が重い。
キョロキョロと周囲を何度も見てみるが、怪しいものなどどこにもない。
何時もどうり、平穏で安全な帰り道である。
「所詮夢は夢か」
あなたはほっと一息ついた。
きっと暑さのせいでどうかしていたのだと今なら分かる。
あなたはひとり合点した。
周囲を警戒してゆっくりと歩いていたのが普通の歩調で、段々と調子に乗ってきて足音他空く堂々と。
「あれ?」
足がこけたときのように地面に付かない。
深いぬかるみに足をとられでもしたかのように何かに絡め取られた。
「何だ、これ」
ゴポゴポと空気を拒絶するように、粘性を持った黒い液体は酸素を吐き出す。
それだけで、この黒い粘液のようなものが自分がいる世界とは全くの異質な何かであると直感した。
現世と異世界。
その二つの境界がここにある。
あらかじめ予習をしていた、だからあなたは冷静に事態を対処できた。
予言の中であなたは携帯を起動させようとしていた。
ここではもう起動している。
SOS。
誰かに呼びかけようとするが携帯を落としてしまう。
手が大きく震えたからだ。
「ま、まず」
かすかな、それでいた大きな希望の光が掌おら零れ落ちた。
慌てるあなたの後ろで、マネキンのような頭を持った怪物はあなたを包み込むかのようにして闇の中に引きずり込んでいく。
直接触れた怪物の触感はまれでゴムのようで、既存の生命体というよりもボールなどの人工物に近い。
その体が静かに脈動していく。
その震えが強くなるごとにあなたの体から熱が奪われるような寒気を感じる。
カツン。
靴に何かが当たる。
「うわあああぁぁあ!!」
恐怖から大声を上げ、思わずのけぞった。
体が大きく傾き、闇に身体がズブズブ沈んでいく。
しかし、それとは別に闇の中から浮上してくるものがある。
形態だ。
足に当たったのは携帯で、崩れる拍子に蹴りあげたのだ。
不格好な体制のままに手を伸ばす。
もはやボタンなんて見えない。
焦りのままに、適当に携帯をいじくるだけだ。
運よくprrrっと着信音がするが、どこにつながったか分からない。
というより、助けを呼ぶ相手などいない。
―――ならば、せめて。
あなたはこの状況を伝えるべく情報を話す。
大学の駐輪場にいること、化物に襲われている事、これから自分は死ぬことを。
腰のあたりまで体が沈んだとき、あなたは死を覚悟した。
ここまで沈んだ。
もう抵抗する意味もない。
いっそ諦めて運命に身を任せるのみいいのかもしれないと思えた。
顔まで黒い沼地に沈んだ。
そして、あなたは目にする。
暗い暗い、こことは全く別の位相にある世界の風景を。
そこは山だった。
黒い葉を茂らせた植物が群生する異界。
こんなもの、この世界のどこでもお目にかかることはできないだろう。
化物はあなたを抱え上へと浮上しているのに、外に出ている手は下へと落ちようとする力が働く。
経験したことがない力のベクトルに気持ち悪さすら感じる。
その重力の異変が、ここがより一層異世界えあることを印象付けた。
必死にしがみついていた腕にも限界が訪れ……。
腕の疲れから手を放してしまったまさにその時。
黒い闇の中から白い手が伸びていた。
黒い怪物はその手を見るなり退散し、空間をリンクさせる、あなたは現実世界に引き出された。
あなたの目の前に顔を青くした女が佇む。
たぶん、昼間の女性だ。
不在着信のままだったので、タッチだけで連絡が言ったのだろう。
あなたは長時間冷水で泳いだときのように肌は冷たく、それでいて息はあらかった。
傍らにいた女性はあなたの背を優しくさすってくれる。
「あ、ありがとう。助けてくれて!!」
感謝のあまり涙が止まらない。
彼女はもっと事情を知りたいようなのだが、この状況では話を聞くのは無理だと割り切ってくれた。
明日の朝は無そう。
そう約束し、去っていく。
その後ろ姿をそっと見ながら、あなたはこう思った。
―――あの女、怪しいな。
これでプロローグは終わりですね。