第一話:無人島に何か1つ持って行くなら
無人島に何か1つだけ持って行くなら、君は何を持って行く?
俺の幼馴染、氷見胡蝶は身体が弱い。
子供の頃から運動神経は低く、百メートルも走れば息を切らして倒れてしまいそうになるほど体力がない。
そのため、ちょっとした気温の変化ですぐに体調を崩して風邪をひくことなんてザラにあった。
そして今日も。
高校の入学式を終えて、俺は胡蝶の家にお見舞いにやってきてきた。
俺は胡蝶のお母さんに挨拶をして、いつものように二階にある彼女の部屋のドアをノックした。
二回、リズムを刻むようなノックに、ドア超しから能天気な声が聞こえた。
「どーぞー」
俺はノブを回して、部屋に入る。
部屋には、何もなかった。
もちろんそれはただの比喩で、真実は何もないわけではない。
八畳ほどのフローリングの部屋は、扉から真っすぐ先には窓があり、少し開けられたそこからは春の暖かい風が白いカーテンをゆらめかせる。
そしてその窓のすぐそばには、ベッドがあった。
その隣に小さな丸い椅子が一席。
以上。それだけ。
他に家具という家具はなく、モノというモノはない。
部屋の窓際にベッドと椅子。ただそれだけ。
何もないという表現が、あながち間違っていないワケがそれだ。
そして、そのベッドにはもちろんのこと。
幼馴染の彼女がいた。
「あれ、北風君だ! わわっ、北風君だ! きったかぜくーんだ!」
視線を落としていたハードカバーの本を投げ捨てた彼女は、入室してきた俺を認めると、文字通り手放しで喜んだ。
放り投げられた本は宙を舞い、キレイに掃除されてホコリ一つないフローリングの床に落下する。
「北風君! どうしたの、今日は? あれれ? 北風君、制服だー。見ない服だー! ごほっ、ごほっ!」
「分かったから、落ち着け胡蝶。風邪が悪化するぞ」
「う、うう……。だって……」
涙目で口元を抑える彼女のそばまで歩いて、俺は丸椅子を引いてそこに座る。
そうして改めて、胡蝶を眺める。
真っ白く透き通るような長い髪。子供の頃とまるで変わらない幼い顔立ち。
それでいて、まるで絵画のようなどこか距離を感じる美しさが、彼女にはあった。
花柄のパジャマ姿の彼女は、俺の視線に気づいて小さく首を傾げた。
「どうしたの? 北風君? そんなジロジロと私を見て」
「いいや、何でもない。調子はどうだ?」
「いつもの風邪だねー。風邪っぽい風邪だねー。春風邪なんてものがあるのかどうかは知らないけど、風邪だよー」
「そっか」
咳をたまにしているが、どうやら彼女自身は元気そうだった。
少しだけ安心する。
「それはそうと、北風君。その服は何? ブレザー? 中学の制服じゃないよね?」
くいくいと俺の服を掴んでは、ペタペタと触る胡蝶。
「ああ、今日は高校の入学式だったからな」
「っ! 入学式! ってことは、北風君、今日から高校生なんだ!」
「ああ。ちなみに、お前もだけどな」
ピンと胡蝶の額を指で弾く。「あうぅ」と額を押さえた彼女は、悲しそうに笑う。
「そうだったね。にしても、そっか……。それはなおさら残念だったなー」
「何がだ?」
「せっかく北風君と同じ高校に進学したのに。その初日から風邪でお休みするなんて」
なんだそんなことか。
「別にいつでも一緒に学校なんて通えるだろ。クラスも一緒だったしな」
「そうなの!? うわーい、やったーっ! ごほっごほっ!」
挙げた腕を下げて、咳をする彼女の背中を俺は摩る。
「だからあんまりバタバタするなって」
「うう……。でもよかったよ。ああ、でもせっかく今日は北風君に私の制服姿を見てもらおうと思ったのに」
「それはまたの機会に楽しみにさせてもらうわ」
「……楽しみなの?」
「ん?」
じーっと何かを期待するような目で、胡蝶がこちらを見てくる。
「私の制服姿。北風君、見られると嬉しい?」
「まあ。一応な」
「うひひ。やったあ」
歪な笑い声をした彼女は、掛布団に顔を突っ伏す。一体なんだと言うのだろう。
「……それより、胡蝶。今日は何の話をしようか?」
「うひひひ。……え? あー、そうだなー。何か面白い話題、ある?」
「ああ、考えてきたぞ」
ずばり、と俺は指を一本立てる。
「《無人島に一つだけ持っていくとしたら、何を持っていくか》だ」
【話題:無人島に一つだけ持っていくとしたら、何を持っていくか】
「おおー。定番の定番の来たね―」
ぺちぺちと、力が弱すぎて鳴らない拍手をした胡蝶が笑う。
「まあ。定番こそ、話題が広まるってもんだろ」
「そうだねー。無人島かー。いいよね、無人島。で、設定はどうする?」
「設定?」
俺は首を傾げる。
「うん、設定。無人島の。断崖絶壁だとしたら、魚採れるかどうかも分からないし。森や池があるのかどうかでも、持っていくものって変わるじゃない?」
「そうだな……」
俺はしばし考えて言った。
「海には魚がたくさんいる。釣りや漁ができるくらいには浅瀬がある。森には木の実がある。危険な野生動物はいない。雨風を凌げる洞窟もある。季節と気温は日本の関東圏と同じ。――こんなもんか?」
「うん、そんなもんだね」
ふむふむと頷く胡蝶は、「うーん、そうだなー」とメトロノームのようにベッドの上で身体を左右に揺らす。
胡蝶の思考スタイルだ。
「私、魚はあまり好きじゃないから果物とかたくさん欲しいなー。でもでもきっと私の体力じゃあ、採れないだろうし……」
「そうだな。あ、でもキノコとかもあるかもだぞ」
「キノコかあ。松茸あるかなー」
「あるよ」
「あるんだ!」
すごいな、無人島……と目を丸くする胡蝶を見ていると、飽きないな。
まるで信号を見ているようだ。
青から黄色、そして赤。
感情の色が瞬く間に切り替わっていく。
飽きない。彼女を見ているのは、本当に。
「――ぜくん。ねえったら」
「え?」
胡蝶の声に、はっとして俺は彼女を見やる。
「北風君なら、何を持っていくの?」
「俺か? そうだな……」
自分で話題にしておいて、ちっとも考えてなかった。
ふむりと天井を見上げて、言う。
「俺なら、鉈かな」
「ナタ……デココ?」
「なんでだよ」
「美味しいよね、ヨーグルトに入れるのが好きー」
「美味しいな。じゃなくて、鉈だよ、薪とか斬る」
「ああ、あれね。女子中学生の必需品のやつだね!」
どこの女子中学生が鉈を必需品とするんだよ。
「便利だもんね。屋根の上で戦う時とか。……北風君、無人島でバトルでもするの?」
「しねえよ。ってか、鉈って武器じゃねえから」
「んー。あ、分かった! 泉に投げ入れるんだね! それで女神様が出てきて、『あなたが落とした鉈はどっちですか?』って聞くんだね!」
「いや、無人島に泉はあっても女神様はいねえよ」
というか、それはもはや童話だ。
「じゃあ、鉈は何に使うの?」
「なんにでも使えるよ。例えば木を切って家を作ったり、魚を調理したりな」
「ああ、なるほど! さっすが、北風君、あったまいいー」
そうでもないと思うけど。
「それに木を切る道具があれば、最悪イカダを作って無人島から出られるしな」
そこで、胡蝶の表情から色がなくなった。
まるで、真っ白になったように、感情がなくなった。
「……北風君は、無人島から出たいの?」
「いや、最悪を考えてだよ。無人島で何日間過ごせとかなら、する必要はないけど。もしも漂流した時とかを考えて――」
「……でも、最終的には、出て行っちゃうんでしょ?」
「胡蝶……?」
胡蝶は少しだけ顔を俯かせ、「それは、少しだけ。悲しいな」と言った。
「……胡蝶だったら、どうするんだ?」
俺は尋ねる。
「え?」
「無人島。何か一つだけ持っていくとしたら。何を持ってんだ?」
俺は尋ねる。
胡蝶はジッと考えずに俺を見つめ、そしてニコリと笑って言った。
「もちろん。北風君を持っていくよー」
「……俺?」
「うん!」
ぎゅっと俺の手を掴む胡蝶。顔が近かった。
「北風君がいれば、私の代わりに食べ物を持ってきてくれるし、私の代わりに家を作ってもらえる。それに話し相手にもなるしね!」
「おいおい……俺はモノじゃねえぞ?」
「――モノだよ」
胡蝶は、強めの口調で俺の否定を否定した。
「私にとって北風君はモノだよ。それは北風君もそうでしょ?」
ニコリと笑う。胡蝶が笑う。
屈託のない。純真無垢で透明で色がない。
真っ白な笑顔だった。
「……そうだな」
俺たち幼馴染は、そうかもしれない。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。あ、風邪薬持ってきたから。ちゃんと飲めよ?」
俺は彼女のベッドの脇に風邪薬の箱を置いておく。これも日課だった。
「えー。甘いのー?」
「苦いのー」
「うげーっ」
まだ飲んでもいないのに、苦そうな顔をした胡蝶を見て、俺は微笑する。
「胡蝶もそろそろブラックコーヒーとか飲める歳にならないとな。高校生なんだし」
「ブラックコーヒーの何が美味しいのか、全く分からないよー。甘いのがいいよ、甘いのが」
味覚はまだまだ子供のようだ。
「じゃ、またな。悪化しないようにちゃんと寝ろよ」
「うん。またね、北風君」
ゆっくりとドアを閉じて、俺は彼女の部屋から出て行った。
「……。………」
静かなお部屋。何もない。何もなくなったお部屋。
ベッドが一つ。椅子が一つ。枕元には大好きな幼馴染が置いていった風邪薬が一つ。
「……」
少女は、風邪薬の箱を開けて、中から袋に入った粉薬をフローリングの床にばらまいた。
袋を破って、捨てる。
粉薬を、ぶちまける。
「……」
薬は嫌いだ。
苦いから。ではなく。
――身体が良くなるから。
「……また明日も来てくれるよね、北風君」
ごほっ、と。
一つ咳をして、少女は横になった。
「明日は、何のお話をするんだろう」
すっごく。すっごく。
楽しみだ。
君とならどこまでだってつまらなくないよ。