09 「紅葉とお姉ちゃん」
愛海はどこにでもいる普通の女の子だ。趣味といえば、読書くらい。中学受験に備え、小学四年生から塾に通っている。彼氏など当然いない。というか、仲の良い男子自体いない。引っ込み思案な性格がいけないのだと理解しているが、治せるものではない。学校に塾、女の子の友達と遊ぶ。愛海の日常はそんな感じで淡々と過ぎていた。
小学六年生に進級し、新入生の面倒を見ることになった。愛海は最初、ペアになった一年生のところには何度か顔を出すだけで、そのままフェードアウトするつもりであった。一人っ子の愛海に小学一年の子とどうやって接していいのかなどわからなかった。
それにもうほとんど覚えていないが、愛海が小学一年生だった時のペア相手もほとんど愛海に会いには来なかった。それでも、小学一年生の時、愛海は困らなかった。
(別にお世話なんて必要ないじゃないか)
そんな感じで、愛海は大井紅葉と会った。一年二組の教室に行き、六年生が担当の子の名前を呼んで、手を上げた一年生のところへ向かう。男子が全員ペアになり、今度は女子の番、四番目に愛海の番となり、緊張で震えそうになる声を何とか絞り出す。
「大井紅葉ちゃん?」
「はい」
六年生の視線が手を挙げる少女に吸い寄せられるように集まる。元々、この少女は物凄く目立っていた。誰がこの少女の担当になるのかと、みんな興味津々であったのだろう。
そんな視線の中、愛海は何とか紅葉の座る机へと辿り着く。緊張しながら挨拶をする。
「私の名前は岡田愛海です。よろしくね、紅葉ちゃん」
「大井紅葉です! よろしくお願いします!」
嬉しそうに笑顔で挨拶を返され、愛海は赤面してしまった。
(うわぁ、こんなに綺麗な子っているんだ。凄いなぁ)
紅葉は綺麗であった。六歳の女の子に綺麗という感想はおかしいかもしれない。けれど、この少女は可愛いではなく綺麗なのだ。肩口まで伸びた明るいブラウンの髪、小さくシャープな顔、整った鼻梁にぷっくりとした桜色の唇、透き通るような白い肌、そして何よりも目を引く、アーモンド形の大きな瞳。そのヘーゼル色の美しい瞳をキラキラ輝かせて紅葉は愛海を見上げてくる。
――うわぁ、であった。とにかく、うわぁ、である
彫りも深いし、肌も白い。外人? いや、ハーフなのかな? と思ったが、それを聞くのは躊躇われた。何か言わなくてはと思うも何も出てこない。困って視線を逸らす。下げられた愛海の視線にサッカーボールが映る。机のフックにぶら下がる網目状のネットに入った真っ赤なボールは泥汚れなどなく新品のように綺麗だ。
「あっ、サッカーボール。紅葉ちゃんはサッカーするのかな?」
「うん!」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに紅葉がニコニコ笑顔で答える。会話のネタを掴んだと愛海は安堵しながら、何気なく呟いてしまう。
「そっかぁ、へぇぇ……あれ、でもサッカーボールって学校に持って来ていいんだっけ」
その言葉に、紅葉が大きく目を見開き、驚愕の表情となる。さっきまで浮かべていたキラッキラの笑顔との落差が半端ない。
(ミンク、ん、ムンク? だっけ、そんな絵みたいになってしまった……って、マズい! 何やってんのよ私は!)
「あ~、でも、縄跳びとか独楽とかそーゆーのは持って来て大丈夫なんだから、当然サッカーボールだって大丈夫だよね。あはは、ごめんね、変なこと言って」
「ほんとう?」
「うん、ホントホント! 大丈夫!」
「そっかぁ、よかったぁ……あのね、このボールはカエちゃんが買ってくれたんだよ。あっ、カエちゃんは妹で、一組にいるんだ」
「そう、よかったわね。えぇと、双子なんだ。じゃあ、妹ちゃんも紅葉ちゃんと同じで綺麗な髪色なのかな?」
「ん~ん、カエちゃんは黒髪だよ! 後、妹だけど双子じゃないよ!」
そこでパンパンと手を叩く大きな音と静かにしてくださいという声が教室に響く。ペア組が終わったのだ。担任がこれから、外でお兄さんお姉さんたちの言うことをよく守って遊ぶようにと一年生に伝え、愛海たちには絶対に一年生から目を離さないようにと注意が与えられる。
「よし、じゃあ紅葉ちゃん、サッカーやろう。って言っても、私サッカー出来ないから教えてくれるかしら?」
「うん!」
ボールを大切そうに抱える紅葉の手を取り、校庭へと移動する。道すがら、このボールは妹の楓がお年玉を使って購入してくれたのだ、と心底嬉しそうに語る紅葉に、愛海も自然と笑顔になってしまう。
(可愛いなぁ、この子! 絶対ギクシャクして、うまくいかないと思ってたのに。そんなの全然杞憂だったみたい。心配して損しちゃった)
「それでね、私はお礼にカエちゃんの欲しがってたポータブルデジタルレコーダー買ってあげたんだ。カエちゃんすっごく喜んでくれて、毎日ピアノの練習で使ってくれてるの! でもそれが高くて、お年玉全部なくなっちゃったんだぁ」
「そっかぁ、喜んでもらえてよかったね!」
うん、と笑顔で答える紅葉の頭を自然と撫でてしまう。紅葉はそれをくすぐったそうにしながら目を細めて受け入れてくれる。
(本当に可愛い! 何この生き物は! 髪の毛サラサラだなぁ。うわぁ、嬉しそうにしちゃって。いいなぁ……でも、サッカーボールより絶対レコーダーの方が高かったんじゃないかな……いや、この子が満足してるんだから、突っ込むのはよくないよね)
「じゃあ、紅葉ちゃんの練習に付き合うよ? シュートする? 私キーパーやるよ」
お姉さんとして主導しようとしても、愛海の拙いサッカー知識ではその程度の提案しか出てこない。紅葉のシュートをわざと取らないで、ゴールさせて喜ばせようという魂胆だ。
「いいの!? じゃあ、ドリブル練習したい! 付き合ってくれる?」
「もちろん!」
「愛ちゃん、五十メートル走は何秒? あ、愛ちゃんって呼んじゃだめかな?」
「愛ちゃん? うん、もちろんいいよ! え~と、五〇メートル走ね……九秒ちょっとだったかなぁ?」
「本当! 早いね! 私は十秒二八だよ。じゃあね、私が最初に愛ちゃんを抜くから、愛ちゃんは追いかけてきて欲しいの。私に追いついたら身体をぶつけてきて! 私は倒れないようにドリブルを続けるっていう練習なんだけど、いいかな?」
「もちろんいいわよ!」
(ん、えっ? いいのか? 身体をぶつけたら、こんな小さな子、倒れるに決まってるじゃない! 危ないからダメだよ)
「え~と、紅葉ちゃ『じゃあ、行くね!』」
愛海の静止より早く紅葉が動き出す。倒さないように気を付けてやるしかないと愛海は決意する。紅葉が愛海の前で、靴裏を使ってボールを左に転がす。次の瞬間、愛海の視界からボールが消える。愛海の右側を紅葉が通過していく。慌てて身体を捻り、後ろを向くとドリブルしながら遠ざかる紅葉の姿があった。
(えっ? いつの間に、って追いかけないといけないのか)
急いで紅葉の後を追う。が、差は縮まらない。少ししたところで紅葉が停止し、振り返って愛海のところまで戻ってくる。
「はぁ、はぁ。紅葉ちゃんすっごいドリブル上手いんだねぇ。びっくりしちゃったよ」
「ありがとう……ねぇ、愛ちゃん。嘘はいけないと思います」
腰に手を当て、ツーンとした表情で紅葉が愛海の瞳を覗き込んでくる。実に可愛らしい。
「うっ、その何でわかったのかな?」
「愛ちゃんに追いついてもらう為にゆっくりドリブルしたんだよ? なのにちっとも追いついてこないんだからわかるよ!」
なるほど、それならわかるわね。愛海は頬を染めつつ謝罪する。
「ごめんなさい、五〇メートル走は一〇秒後半です。見栄張りました」
「反省してる?」
「すぅっごく反省してます。許してください」
「はい、許します」
あっさり許され拍子抜けしていると、私の方こそごめんなさいと謝られてしまう。どうして紅葉が謝るのと慌てて聞くと、無理矢理付き合わせて嫌な思いさせちゃったから、と言われる。全然気にしてないよと頭を撫でながら笑顔を浮かべると、紅葉も本当? よかった、と笑みを浮かべてくれる。
(いい子過ぎるでしょこの子! こんなんじゃ将来絶対悪い男に騙されるよ! というか、すでに妹ちゃんに騙されてそうだし。私がこの子のことしっかり守らないと!)
こうして、愛海は足しげく紅葉のところに通い、面倒を見るようになったのであった。
そしてすぐに、紅葉の様子がおかしいことに気付く。時折、愛海の胸元を深刻そうにじっと見つめて溜息をついたり、何か愛海に言いたそうに口元をムニムニさせたりするのだ。
愛海はピンときた。いや、紅葉に妹の楓を紹介された時から予想していたのだ。こんな時がくるのでは、と。そして、紅葉に家庭科の授業で作った白玉ぜんざいをおすそ分けに言った時に、その予想は確信へと変わった。
「わぁ、いいなぁ外人!」
「美味しそう! 外人ずるいなぁ!」
クラスメイトたちから外人と紅葉は呼ばれていたのだ。紅葉は困ったように笑っていたが、ちょっと傷付いた顔をしていた。
――いじめだ!
(見た目が違うってだけで、何でそんな酷いこと言うの!)
でも、ここで紅葉が笑顔を浮かべて我慢しているのに、私が怒るわけにはいかない、と愛海はグッと怒りを飲み込み、紅葉の頭を撫でて、その場を後にした。
翌日のお昼休み、何か悩み事があるでしょうと聞いたら、どうして気付いたのと驚かれた。力になるから言ってと紅葉を諭したが、紅葉は最後までいじめのことを言わなかった。
(私を心配させたくないんだろうなぁ。この子は優しいから)
こんなにいい子がいじめられるなんてあんまりだ。どうすればいいのだろう。私に何が出来るだろうか。
先生に言うのはどうだろうか。先生から注意されて、いじめはなくなるか。なくなるわけない。言葉の暴力といういじめは確かになくなるかもしれない。しかし、待っているのは無視という、もっと辛いいじめだ。
先生からいじめるなと言われ、それを守ろうとすれば、関わり合いになるのを止めるという手段が一番簡単なのだ。そして、いじめに加担していない生徒まで関わり合いを止めてしまう。
愛海はそうなった生徒を実際見てきた。いや、愛海自身友達であった少女のいじめを止められず、関わり合いを止めてしまった。愛海に勇気があれば、友達を助けられたのだろうか。わからないが、とても後悔した。
そして先生がいじめは解決したとその生徒の肩を叩く。その後はお決まりのアンケートがくる。あなたの周りでいじめはありましたか、と。結局先生はいじめの解決など興味ないのだ。いじめに対応し、いじめをなくしたという証拠作りしかしないのだ。
いじめを受けていた生徒は結局転校していった。それからどうなったか、愛海は知らない。紅葉にそんな辛い思いをさせたくない。紅葉の問題は見た目だ。性格は明るいし、気遣いもちゃんと出来る。紅葉のよさを周りに理解してもらえれば、絶対にいじめはなくなる。
――クラスメイトに紅葉を理解してもらう作戦……あ、そうだ!
そこで、一つ愛海は案を思い付いた。一年二組の生徒全員でサッカーをするのだ。スポーツの出来る子はちびっ子たちの間ではヒーローだ。紅葉が得意のサッカーで活躍すれば、いじめなんて一気になくなるかもしれない。
時間はお昼休みで十分だ。後は紅葉のクラスメイトをどうやってサッカーに参加させるかだ。いや、それも簡単だ。愛海のクラスメイトはペア制度で紅葉たち一年生のお世話をしているのだ。彼らからお願いすれば、ちびっ子たちも集まるはずだ。
――あとは、私が勇気を出すだけだ
愛海は放課後、クラスメイトたちが帰る前に大きな声を出す。
「み、みんなにお願いがあります!」
なんだ、どうした、と皆が愛海を見つめる。恥ずかしい。それにもしかしたら、これで愛海自身がいじめにあってしまうかもしれない。それでも、これは紅葉の為なのだ。勇気を振り絞って声を張る。
「私のペアの大井紅葉さんが、クラスでちょっと浮いちゃってるそうなんです。私は紅葉さんがクラスメイトと仲良くなって欲しいと思ってます。それで、お願いなんですが、皆さんのペアの子たちを明日のお昼休み、校庭に誘ってくれませんか? そこでサッカーをして親睦を深めたいと思ってます。協力お願いします」
愛海は顔を真っ赤にして全てを言い切り、頭を深々と下げる。教室が一瞬無音になる。
「岡田偉い!」
「岡田さん、あの子と仲いいもんね!」
「私岡田さんのこと、見直したよ! 勇気あるね! もちろんおちびちゃん誘って、参加するわ!」
「俺、ガキンチョに舐められてるから、誘っても来ねーかもしんないけど、誘うぜ!」
「俺なんて、余ったからって二人も面倒見てるんだぜ? どっちも俺の言うこと聞くいい子だけどな」
「岡田って静かで大人しい奴だと思ってたけど、やるときはやるんだな! 惚れそうだぜ」
「おい須藤! 岡田さんは俺が狙ってたんだぞ! あ、もちろん参加させるよ岡田さん!」
「でも、わかるわ。あの子、見た目もそうだけど、独特な雰囲気というかオーラ? 持ってるし。お人形さんみたいに綺麗だもんね、クラスで浮いちゃうよねぇ」
「それで、将来めっちゃ美人になったあの子を見て、あ~なんで昔もっと仲良くしておかなかったんだぁって後悔するんだよ、きっと」
皆が、口々に愛海の提案を受け入れてくれる。普段話したことないクラスメイトたちが次から次へと愛海に声を掛けてきて、褒めてくれる。
「ありがとうございます」
愛海は目を赤くしながら、クラスメイト全員にお礼を言う。最後に、明日の仕切りと審判は俺に任せろとサッカー少年団に所属している大山が愛海に約束してくれ、無事に舞台は整ったのであった。
――きっと、紅葉ちゃんのいじめはなくなる!
愛海は泣き笑いの表情でそう確信した。
五月の半ば、暖かな日差しが降り注ぐ中、一年二組ちびっ子対抗サッカー大会は行われた。この大会の発起人が愛海であり、それが紅葉の為だと知り紅葉は愛海に大感謝した。
(私がサッカー好きだから、こんなことしてくれるなんて! 愛ちゃん、あなたは神か!)
紅葉はボールに群がるように寄ってくる子供たちを全員抜き、ボールを奪いにくる味方選手も二人華麗にかわしてゴールを決める。そのまま愛海のところに走っていき抱き着く。
「愛ちゃん見てた!」
「ええ!! すっごい格好良かったよ紅葉ちゃん!
「えへへ、愛ちゃんのおかげだよ!」
「ううん、紅葉ちゃんが頑張ったからよ! きっと皆紅葉ちゃんのこと理解してくれるわ。頑張って」
「うん! もっといっぱい点取ってくるね!」
紅葉は涙ぐむほど喜んでくれる愛海に手を振ってフィールドに戻る。紅葉は立て続けに二度ネットを揺らし、助っ人外人の力を見せつけることに成功する。外人すげーというクラスメイトの喝采を受け、破顔する。
そこに審判役の大山が紅葉のことを外人と呼ぶのは禁止だとクラスメイトを一喝する。えっ、と驚く紅葉とクラスメイトにそういう差別になるあだ名はダメだと続けていう。クラスメイトはポカンとした表情の後、はーい、と返事を返す。
(えっ? 何が差別? どういうこと?)
六年生たちから拍手が沸き起こり、その中で愛海が号泣している。クラスメイトは楽しそうにサッカーを再開している。紅葉は何が何だかわからなかったが、結局サッカーに熱中する。怪我防止の為に接触プレーが禁止されていたり、皆がボールに突撃するだけだったりと、サッカーと呼ぶにはちょっと酷い試合内容ではあったが、そこには笑顔が溢れていた。
(やっぱり、試合は楽しい!)
あだ名がなくなるという残念なこともあったが、紅葉は久しぶりの試合を大いに満喫した。
(それにしても、今の小学生は八人制サッカーが当たり前なのか、知らなかったなぁ。う~ん、やっぱり、練習メニューも昔より向上してるのかなぁ……うん、早くどこかちゃんとしたとこで練習した方がいいな。それにサッカーは試合が一番面白いしね!)
紅葉は早くチームに入ることを決める。そんな紅葉に審判を務めていた大山が声をかけてくる。
「お前まじで上手いな! どうだ、うちの少年団に入らないか? うちの小学校で毎週土日に活動してるんだけど、お前なら即レギュラーになれるぞ!」
「ホント!? うん、入る!」
紅葉は満面の笑みで返事をする。なんて都合のいいタイミングなんだろうか。これは日ごろの行いがいいのと、愛ちゃんのおかげだなと紅葉は笑顔を浮かべながら、愛海にお礼をしに向かう。