08 「小学生ライフ」
紅葉は小学生になった。真っ赤なランドセルを背負って日々元気に登校している。紅葉は始め、授業はとてもつまらないものになると思っていた。曲がりなりにも、前世で高校まで卒業している。二度目の授業だ。しかも、勉強(体育除く)が大嫌いな性格である。
そんな紅葉が、足し算やひらがなの書き取りという単純作業をずっとやらされるのだ。紅葉じゃなくても、苦痛以外の何物でもないだろう。
しかし、予想に反して授業は楽しかった。いや、授業自体、苦痛ではあるのだ。だけど、前世のように先生の話を聞かずに、サッカーの新技や動き出し、フォーメーションをノートに落書きしながら、ただチャイムの音を待つだけとはならなかった。
(解るって楽しいんだな!)
小学一年生の授業はさすがの紅葉でも全て解る。人間、出来れば何でも楽しいものだ。解るから、出来る。出来るから楽しい。楽しいから、やる。やるから解る。この好循環を途切れさせてはならないと紅葉はしっかり授業を受けていた。
前世の紅葉なら、解るから寝てていいやと考えたかもしれない。しかし、亡くなる直前に聞いた幼馴染の言葉が、紅葉を机に向かわせた。
『私が先生になって勉強嫌いの子を減らしてやる』
咲の強気な言葉と、温かみのある笑顔が脳裏を過る。彼女は夢を叶え、学校の先生になれただろうか。
(きっとなれてる。それで、ビシバシ生徒を叱っているんだ。絶対)
今でも紅葉は彼女のことを想うだけで心が痛む。だが、それと同時に活力も湧いてくる。頑張っているだろう彼女に恥じない生き方をしたいと強く思うのだ。
咲の夢とその切欠を知っている紅葉が、勉強をしないで勉強嫌いになるというのは、彼女に対する裏切り行為に他ならないと思う。何の因果か、紅葉としてもう一度学校へ通うことになったのだ。今度は勉強をしっかりして、勉強好きになりたいと紅葉は強く思っていた。
そして、何事も基礎が大事だ。土台がなければ、必ずどこかでつまずくと、紅葉はサッカーを通してよく理解している。そう考えれば、勉強の基礎となる小学一年生の授業はとても大事であるとわかる。
算数、国語、生活に体育、紅葉は全ての授業に全力で取り組んだ。先生の質問には常に手を上げ、テストは全部満点を目指し、予習復習だってしっかりやる。こんなにサッカー以外のことで時間を使ったのは前世を含め初めてのことであった。
(勉強は楽しいけど、やっぱり辛い。サッカーしたいなぁ。だけど、ここが踏ん張りどころだ。準さんだって言ってただろ。逆境の時が成長するチャンスだって。ここで頑張らなくていつ頑張るんだよ!)
小学一年生の授業であるが、紅葉にとってはサッカーから離れ勉強することは、まさに人生一番の逆境であった。何をいい大人がと思うかもしれないが、紅葉の前世は超劣等生であったのだ。座学すべて壊滅状態の残念な子であった紅葉が、こうして勉強を頑張っていること事態、驚天動地の出来事であった。
紅葉は、前世で恐ろしいほどサッカーしかしてこなかった。
幼い頃はサッカー好きの家族に囲まれ、ボール遊びをする毎日。小学三年で横浜ジュニアに入り、すぐにナショナルトレセンにも選出された。クラブのない日もずっとボールを追いかけていた。サッカーでへとへとになって帰り、午後九時に寝る健康的な生活に勉強などする暇はなかった。やる気はもっとなかった。
授業は小学生の後半から解らなくなり、中学一年生で完璧についていけなくなった。サッカー選手になれば勉強なんていらないと、授業中は寝て体力回復に努める始末。高校はAO入試で面接のみ。
高校二年の時にはトップチーム入りし、レギュラーに定着した。そのころにはもうほとんど授業に出なくなっていた。中間、期末テストは幼馴染の咲が作った『ずばり的中試験問題』を丸覚えして毎回乗り越えてきた。高校を卒業出来るとは思わなかった、と当時の担任に言わしめたほどのサッカーバカであったのだ。
そんな紅葉が今では、周りの子供たちから解らないことを教えてと聞かれる立場になったのだ。
(やれば出来る子だって、思ってたんだよ! うん、さすが私!)
紅葉はもうニッコニコ笑顔が止まらないほど、笑み崩れながら、同級生たちに国語や算数を教えていた。
「サンキュー! 外人!」
「わぁ、そっかぁ。ありがとね、外人さん」
紅葉はクラスの皆からお礼を言われ、絶好調だ。
(あれ、私って天才?)
とまで思っていた。
ちなみに、外人というのは紅葉のあだ名である。紅葉の見た目からつけられた安直なネーミングであるが、紅葉はこのあだ名をちょっと気に入っていた。
Jリーグにおいて、外人、特に中南米の選手は助っ人という位置付けにある。彼らはチームの即戦力として入団し、日本人Jリーガーを引っ張っていく存在として頼られている。チームによっては勝敗の少なくないウェイトを彼ら外国人選手の好不調が占める。それは、彼らのレベルが圧倒的に高いことを意味しているのだ。
(うん、この子たちはよくわかってるね。私は人生二度目で余裕あるけど、この子たちは慣れない新生活であっぷあっぷだもんね。だけど、大丈夫! 助っ人外国人の私がついてるからね!)
勝手な解釈をし、外人と呼ばれお礼を言われる度に、ドヤ顔を繰り返す紅葉。完全に小学一年生として馴染んでいるのはある種、紅葉の才能かもしれない。そんな感じで紅葉は楽しく学校生活を送っている。気懸かりがあるとすれば、クラスが別々になってしまった楓がちゃんとクラスメイトと馴染めているかだが。
(カエちゃんは人見知り激しいからなぁ、無理だろなぁ)
心配ではあるが、クラスが違うとフォローも難しい。ペアのお姉さんとも上手く会話が出来ないと言っていた。大丈夫だよと励まし、頑張れと心の中で応援することしか出来ない。
ペア制度というものが、紅葉の通う小学校にはある。最上級生である小学六年生がマンツーマンで新入生の面倒を見るというものだ。紅葉の相方は岡田愛海さんというお姉さんであった。紅葉は物怖じしない性格なので、愛海ともすぐ仲良しになれた。お昼休みはいつも一緒にボール遊びをしている。
本当は兄の和博やその友達の鯨井達也たちに混ざってサッカーをしたいのだが、せっかく紅葉の面倒を見に来てくれる愛海を無視など出来るわけがない。校庭の隅で愛海とボールを蹴り合う。
(ちょっぴり残念だけど、これはこれで楽しいしね)
愛海は典型的な運動音痴で、球技などまるで出来ない。なので、紅葉が一からサッカーとは何ぞや、とレクチャーしている。
「わっ、ごめん! 変な方いっちゃった!」
「平気だよ! っと、はいっ! 愛ちゃん」
今は五メートル離れたところからパスの練習をしている。紅葉は正確なワンタッチパスを愛海の右足に送り、愛海はそれをトラップし、インサイドキックで返球する。あっちこっちに飛んでくるボールを紅葉は体勢を崩さないよう意識しながらワンタッチで優しく愛海に返す。そのボールを愛海がトラップし損ねる。
「あ~ん、ミスばっかりしちゃってごめんね、紅葉ちゃん」
「ん~ん、すっごく上手くなってきたよ愛ちゃん。ただ、また最後にボールから視線が逸れちゃってたよ。後ね、もっとリラックスだよ。下半身に力が入ってる。それと、トラップする時もキックする時も上半身の使い方が重要なんだけど……ううん、何でもないです」
そんないっぺんに言われても無理ですと言わんばかりの愛海の申し訳なさそうな困り顔に、紅葉は言葉を止める。
「ごめんね、紅葉ちゃん。お姉ちゃん、ちっとも上手くならなくて」
「そんなことないよ! 愛ちゃん上手になってるよ!」
「そうかな? うん、紅葉ちゃんに教えてもらって上手くならないわけないもんね!」
「もちろん!」
ねー! と顔を合わせて笑いあう。ひとしきり笑い合った後、愛海が紅葉の肩をガシッと掴み、紅葉の瞳を覗き込むようにして話しかけてくる。
「ねぇ、紅葉ちゃん。私は紅葉ちゃんの味方だからね」
「う、うん」
「だからね、私は紅葉ちゃんの力になってあげたいんだ。紅葉ちゃん、私に相談したいことがあるんじゃない? 言いづらいことでもお姉ちゃんには言って欲しいんだ」
「えっ、あれ……気付いてたの? 愛ちゃん」
「もちろん、紅葉ちゃんが悩んでいることなんてすぐにわかったんだから! ね、だからお姉ちゃんに相談してみて? 力になるから」
紅葉は悩む。聞いてもいいのだろうか。それにしても、愛海はすごい。紅葉が悩んでいるとどうやって気付いたのだろうか。
しかし、本当に聞いてもいいのか。
――おっぱいって重いのか。やっぱり、おっぱいが邪魔して足元が見えづらいのか
愛海は小学六年生にして巨乳の持ち主であった。ロングの黒髪に縁なし眼鏡がよく似合う文学少女で身長は百五十センチくらいだろうか。百二十センチ弱の紅葉は下から愛海を見上げる度にその胸の膨らみに目を奪われた。
そしてその度に思うのだ。
――こんなに大きいとサッカーがやりにくくなるんじゃないかな、と
今の紅葉は女なのだ。愛海のように将来、胸が膨らんでくるだろう。そうなったら、サッカーがやりづらくなるのでは、と悩まずにはいられない。
(それに生理もあるんだよね。咲はすっごい辛いって言ってたし。試合の日に生理になったらどうするんだろう)
毎月血を流すなんて、前世で男だった紅葉には想像もつかない世界だ。でも、いつか紅葉にも確実に訪れるのだ。どうなのだろうか。心は男のまま女の身体になるというのは。わからない。だから不安になる。しかし紅葉は頭を振って不安を振り払う。
(悩むのはその時になってからでいい。今は愛ちゃんとサッカーを楽しむ方が重要だ)
「ううん、悩み事なんてないよ。あっ、予鈴なったよ、愛ちゃん! 行こっ!」
「……うん、じゃあ、教室に戻ろっか」
紅葉は愛海と手を繋いで教室へ戻る。
(やっぱり、聞きづらいよね。それにもし、愛ちゃんがおっぱい大きいこと気にしてたら、どうするんだ。傷付けることになっちゃうだろ! うん、そうだよ! 聞かなくてよかった)
大丈夫、絶対紅葉ちゃんのことお姉ちゃんが助けてあげるからね、という愛海の呟きは残念ながら紅葉には届かなかった。