07 「ピアノと楓」
「はい、上手に弾けましたね! それじゃあ、どんなこと考えて弾いたか教えてくれるかしら?」
ショパンのワルツ第5番を弾き終えた楓は、ピアノ椅子に座り、足をぶらぶらさせながら、隣に立つ太田美穂を見つめる。美穂は楓を褒め、そして質問する。
楓は満面の笑みを浮かべて、ありがとうございます、と美穂に礼をした後、顎に手を当て考え込む。実に可愛らしい仕草だ。今のピアノに技術的なミスはなかった。細かいミスとも言えないミスや修正点はたくさんあったが、それを指摘する必要はもうちょっと後でいいと美穂は考えている。
幼い楓に必要なのは確固たる音楽的価値観なのだ。クラシックという西洋の文化を理解し、咀嚼し、馴染ませ、己のものとする。これは、大人になってからでは無理だ。価値観が固定した大人では、上っ面を理解するのが精いっぱいだろう。技術は後からついてくる。今は楓の感性をこそ、鍛えるのだ。
「恰好良く弾こうとしました。テンポも上げて、それでいて余裕のあるような優雅さを表現しようとしました」
「そうね、その感じが伝わってきたわね。じゃあ、優雅さって何だと思う? ショパンの5番は大人のワルツって言われるのは何でだと思う? ハ短調と変イ長調を使うことで、不安定で、それでいて揺れ動く調性、シックで大人の音を表現しているって言われているけれど、それはどうやっているのかしらね」
「う~んと、最後の華やかさを強調する為? に敢えてクロスリズムで不安定な音を出しているんだと思います」
楽譜通りに弾けるのは当然。そこから先がピアニストに求められる。それを教えることは難しい。楓が自身で考え、ソルフェージュ能力を基礎として表現していかなければならない。美穂は楓に自身で考えさせることで、より深く音楽を理解させようと試みている。
「そうですね。さすが楓。でも、この曲は序盤中盤終盤すべてが重要なんですよ。序盤の優美さ、中盤の艶やかで大人びたパッセージ。最後は複合リズムの第一主題と8分音符の速いパッセージに華やかなコーダ。これらすべてが協調してこそショパンのワルツなんです。今の楓の演奏はそれぞれが独立して、バラバラになってしまっていました。テンポは今のままで、どうすれば、流れが繋がるかわかりますか?」
「う~ん、わかんないです」
楓の即答に苦笑しそうになる。この子は弾くのが好きであって、考えることは嫌いなのだ。
「じゃあ、楽譜をもう一度読み込んでみてください。後、ミシェルの弾いたワルツ集を貸しますから、聴いてみてください。その中にも、おっきなヒントがありますよ。きっと楓なら気付くと思います。それから、ワルツの1番から順におさらいしてください。ショパンの声が聞こえると思います。それが今日の課題です」
「はい!」
真剣な楓の返答に美穂は頑張ってねと返す。あの楓がこんなに立派になったんだなぁ、と美穂は感慨深いものを感じながら、バイバイと手を振る楓に手を振り返す。しかし、ここまでくるのは本当に大変だったなぁ、としみじみ美穂は過去を思い出す。
美穂はピアニストを目指し、音大卒業後、フランス留学した。そして、ヨーロッパのコンクールを転戦し、結果を残せず二十六歳で帰国した。
――才能がなかった
音楽の世界は残酷だ。同じ譜面を同じだけ練習しても、一方は独創的で叙情的な素晴らしい演奏と認められ、片や、つまらない、型どおりの演奏だと切り捨てられる。楽譜通りに弾くのは当然だ。解釈の違いもあろう。
しかし、誰をも感動させるような自分らしい演奏というのが美穂には解らなかった。その『何か』こそ、ピアニストとアマチュアを分ける境界線なのであろう。徹底的に弾き込み、音楽理論、音楽史を勉強しても、美穂にはその『何か』が最後まで解らなかった。才能がなかったのであろう。
さすがに疲れた。毎日休みなく練習して、人生のすべてを捧げた。そして、結局お前には才能がないと誰からも何も言われることなく、自分自身で気付くのだ。心が折れた。何もやりたくない。
帰国し実家でごろごろと自堕落な生活をしていると、母が勝手に近所の子供を連れてきた。ピアノしか弾けないのだから、音楽教室でもしなさいということらしい。嫌だと言ったらお見合いさせるぞと言われた。
仕方ない。適当に教えるかとやる気なく二人の子供、大井紅葉と楓の面倒を見始めた。
美穂は音大を卒業しているが、指導者になる教育など受けていない。プロを目指す子を指導出来るとは思えない。
もし、本格的に習わせたいのなら別のところに行ってください、と親御さんである皐月さんに言う。皐月さんは笑いながら、ピアノの楽しさを教えてあげてくださいと言う。
――そんなの、私が教えてもらいたいわ
と、思ったが、笑顔でわかりましたと答え、二人の少女のレッスンを始める。二人は実に対照的であった。
そもそも、この二人がどういった間柄なのかすら美穂にはわからなかった。どちらも五歳だそうだ。楓は紅葉のことをお姉ちゃんと呼んでいる。しかし、双子ではない。楓は黒髪黒目、整っているが、のっぺりした容貌は典型的な日本人である。それに対し紅葉は、明るいブラウンの髪に薄いヘーゼルの瞳で、顔の彫りも深い。日本人では絶対にない。
複雑な事情があるのだろう。まったく似ていない姉妹だが、態度もまったく違った。紅葉の後ろに隠れて、もじもじしている楓と、笑顔が眩しいほどキラキラしている紅葉。紅葉が楓の手をぎゅっと握ると楓が少し落ち着いた表情になる。
まったく似ていない姉妹だが、仲良しであるのが実によくわかる。
(可愛いなぁ、二人ともお人形さんみたい)
美穂はほっこりしながら、ピアノ椅子に座り、二人を美穂の両隣に座らせる。
「じゃあ、一緒に歌おうね」
そう声を掛け、美穂はアンパンマンのマーチを弾きながら歌う。楓が目を輝かせて、一緒になって歌い出す。紅葉も笑顔で続く。三分弱の曲が終わると、楓はもう一回もう一回とはしゃぐようにおねだりしてくる。さっきまで、おどおどしていたのが嘘のように目を輝かせている。
(よかった。事前に好きな歌聞いておいて)
続けて子供向けの曲をピアノアレンジで弾いていく。音符の読み方だとか教本や練習曲だとかは後でいい。
音楽教室の先生ではなく、幼稚園の先生になった気分で美穂はピアノを弾く。次に二人を太ももに乗せて、鍵盤を自由に触らせる。ポンパンピンと楽しそうに小さな手で鍵盤を押す二人に美穂は上手ね、と褒める。手のフォームを少し教え、ドレミファソラシドと押せたところで初日は終わった。
宿題は出さない。代わりに次は何がしたいかリクエストを聞く。楓は先生みたいに上手に弾きたいと声を弾ませて答えてくれる。頬がにやけそうになるのをぐっと堪え、じゃあ、いっぱい練習しようねと指切りする。幸せすぎる。子供がこんなに可愛いなんて知らなかった。
紅葉はサッカーが上手くなりたいと答える。うん、意味がわからない。
こうして美穂は二人の生徒を得た。後で、楓は一度きりのつもりであったと聞き、とても驚いたのを覚えている。楓は毎週すごく楽しそうに美穂のレッスンを受けていたから。
そして、ピアノの楽しさにハマった楓がピアノを買って、と紅葉に言ったらしい。何でも、初回のピアノレッスンに来る時、約束をしたのだそうだ。何でも買ってあげると。
結局、紅葉の誕生日プレゼントとして皐月さんがピアノを買うことになった。皐月さんからどれを買えばいいですかと聞かれ、美穂は悩んだ。当然、グランドが一番いいに決まっているが、そんなものポンと買えるわけない。
現実的には中古の消音付きアップライト、若しくは、電子ピアノということになるだろう。これも当然、アップライトの方がいい。そしてアップライトもピンキリだ。ピアノは高ければ高いほどいい。とはいえ、誕生日プレゼントに五十万円のアップライトを子供に買い与えるのは中々難しかろう。
美穂は率直に金額面とそれぞれの利点を教えた。本当ならこれを買ってくださいと言うべきなのだろう。だけど、美穂にはそんな自信も経験も知識もなかった。
美穂は販売店に行く大井親子についていった。楓と一緒に試弾し、ピアノを選んだ。でも、美穂の助言は役にたたなかった。新品の最高級アップライトを気に入り、これがいいと駄々を捏ねる楓に、それは高いと困る皐月さん。
決め手は、紅葉がお父さんの肩たたきとお母さんのお手伝いを毎日するという約束であった。それにより、百二十万円の新品アップライトピアノを購入することが決まった。
それにしても買ってもらう楓じゃなくて、紅葉が肩たたきとお手伝いをすることになったのはどうなのだろうか、とは思ったが、口には出さなかった。楓の笑顔を見て、笑顔になっている紅葉がとても印象的であった。
それから、楓は毎日家でピアノの練習をしている。週一であったレッスンを週三にして、美穂が出す課題もドンドンこなしていく。
――この子には才能がある
小学一年生になった楓を真剣に指導しながら、美穂は確信し、泣きたい気持ちになった。教えることの難しさを美穂は実感していたのだ。この子に教える技術を美穂は持っていない。このままでは才能を潰してしまう。皐月さんにそのことを伝え、評判のいい先生を紹介すると言った。
しかし、楓は美穂先生がいいと泣いて縋ってきた。嬉しかった。でも、ここで楓の優しさに甘えてしまっていいのか。楓の為を思うのなら、きっぱりと別れるべきなんじゃないかと悩んだ。
そんな美穂に紅葉が助言をしてくれた。紅葉はちっともピアノが上手くならなかったが、一応毎週美穂の元に来て、ピアノを続けていた。
バーナムの導入書『ヨーヨー遊び』を何とか弾き終えた紅葉が美穂に向き合うと、こう尋ねてきた。
「先生はカエちゃんのこと嫌いになったの?」
「そんなことないわよ。楓のこと好きよ」
「じゃあ、今まで通りカエちゃんにピアノ教えてあげて。先生じゃないとカエちゃんピアノ辞めちゃうよ?」
「私よりも優秀な先生に指導してもらった方が、あの子の為になるの。紅葉も楓を説得するの手伝って」
紅葉は笑顔を浮かべてこう言った。
「先生が実力不足だって思うんなら、勉強しなくちゃ。きっと、今からならまだ間に合うよ。それにカエちゃんに間に合わなくても、次の子にはしっかり指導出来るようになる」
「楓に間に合わなくてもいいの? 紅葉は」
少し嫌味な言い方になった美穂の返しに、紅葉は首を振って答える。
「ん~ん、ダメ。でも、美穂先生に捨てられちゃったら、どっちにしろカエちゃんはピアノ辞めちゃうから同じかな?」
「……捨てるんじゃないわ。新しい先生に引き継ぐの」
「うん、わかってるよ。でも、カエちゃんそーゆーの頑固だから無理。人見知り激しいしね。カエちゃん研究家の私が言うんだから間違いないよ。だから、先生は猛勉強してカエちゃんに相応しい先生になるか、カエちゃんを見捨てるか。どっちかしかないと思うよ?」
「私にそんなの……」
できるわけがない。言葉は出てこなかった。紅葉が笑顔のまま続けて言う。
「私の尊敬する人が言ってたんだけどね。逆境の中でこそ、人は成長するんだって。プレッシャーを力に変えて、緊張感を楽しむんだって。カエちゃんを潰したらどうしようって思ってる先生は、今きっと成長出来る大チャンスの中にいるんじゃないかな」
美穂は腹を括った。楓のことに関する紅葉の分析は絶対だ。美穂がこのままなら、確実に楓はピアノを辞めるのだ。美穂が何とかしなくてならないのだ。
美穂は大学時代の恩師に相談し、その助言で音大に聴講生として入ることにした。ピアノ指導者コースの子たちに混じって勉強したのだ。
児童心理に音楽指導理論や初見視奏、そして最新のフォルマシオン・ミュジカルなど一生懸命に学習し、自分のものにしようと先生に何度も質問を繰り返した。
習ったことをすぐに取り入れ、楓やその他の子たちに実践する。正解はない。不安でいっぱいだ。けれど、自信満々に教える。そして、陰で大学の講師に何度も質問する。
――なるほど、逆境の中で成長するとはよく言ったもんだ。成長しなけりゃ、潰れるんだから、必死にもなるわ。
紅葉にその言葉を贈った人はよっぽど自身にストイックであったのであろう。苦笑いしか湧いてこない。コンクールに参加し、予選落ちを繰り返していた時代も逆境であった。しかし、あの頃は逃げていたのだろう。次があるさ、と。
(それじゃあ、勝てないわけだ。成長しないわけだ)
今度は次などない。美穂の失敗のツケを支払うのは別人、美穂にとって大切な子なのだ。潰れるわけにはいかない。
追い詰められた生活を続けていたおかげであろう、今は自信を持って私が楓の先生だと名乗れるようになった。陰では冷や汗ダラダラで不安いっぱいのままだけど。
でも、それは指導者として、なくしてはいけない心なんだと言い聞かせることにしよう。驕って、失敗するより不安である方が、ずっとましだ。
「先生ー! きたよー!」
美穂にとって自慢の教え子が今日も元気に来てくれる。この子と一緒に、成長する。いや、この子に引っ張ってもらっているのだろう。この子の弾くピアノを聴くのが楽しい。ああ、幸せである。
「早いよカエちゃん! あー、先生こんにちは!」
美穂にとっての失敗作も来ていたようだ。いや、まじゴメン。今なら、もうちょっと上手く教えられる気がする。いや、やっぱり無理かな。本当にごめん。
きっとこの先、美穂は多くの生徒を持つだろう。それでも、この二人以上に思い入れも成功も失敗もしないのだろうなぁ、と美穂は考え、苦笑いを浮かべるのであった。
「いらっしゃい! 楓、紅葉」
美穂は自分を変えてくれた大切な子供たちに、笑顔で挨拶をする。