50 「天秤を動かす雫 前」
真夏の韓国ソウルWCスタジアム。2002年、ワールドカップ準決勝、韓国対ドイツ戦の舞台。
当時、開催国であった韓国の熱狂は凄まじかった。赤いユニフォームで真っ赤に染まった超満員の観客席、絶叫と声援が降り注ぎ、韓国中が一体となって自国選手を応援した。
惜しくも試合には敗れたが、誰もがアジア勢初の躍進に酔いしれ、興奮のまま町に繰り出した。
それから、30年近く経った今日。ソウルWCスタジアムは再び超満員の観客で溢れ、異様な熱気に包まれていた。アウェー側観客席に陣取る青のユニフォームを着た日本代表サポ四千人。彼らを無数の警備員が護衛する一角以外は、かつて同様すべて赤く染まった。
紅葉は降り注ぐ怒声で何も聴こえない中、君が代を口ずさむ。口ずさみながら、上を向き、照明灯の明かりを睨む。視界が真っ白に染まり、ここがどこだか分からなくなる。生温い風がスタジアムを吹き抜け、紅葉の頬を撫でる。
またこのピッチに戻ってきた。戻ってきてしまった。
あれから半月も経っていない。だというのに、私の心に燃え盛るのは悲嘆ではなく歓喜。それが紅葉には悲しかった。
(雪奈お姉ちゃん、私は薄情だ。ごめんね)
紅葉はハレーションを起こしている瞳で前を見つめる。覚悟は当の昔に出来ている。ならば振り返らず、進むだけ。
大きく深呼吸をし、チームメイトに声を掛ける。
「こんなに注目してもらえるなんて、選手冥利に尽きるね!」
「紅葉ちゃんがあんな会見したからでしょうが!」
「あの会見、日本でも韓国でも、ってか、世界中で話題になってるんだよ!」
「はぁ、そんな全世界が注目する中で、試合する日が来るなんて……おぇっ、吐きそぅ」
皆がちょっとだけ強張った顔を無理やり笑顔にして口々に文句を言ってくる。
(うん、これなら皆しっかり戦えそうだ)
精神的に強く頼もしく成長したチームメイトに紅葉は嬉しくて、やっぱり笑顔が零れてしまう。
「負けたら大変だよね、きっと!」
嬉しそうに言うことか! と、十本の手が次から次へと、紅葉のほっぺたをむにぃっと引っ張っていく。
ちょっとだけ痛いけれど、その痛みは絆の証だ。紅葉は赤くしたほっぺにえくぼを作り、
「じゃあ、私は右で遊んでるから皆頑張って! 日本中、ううん、世界中が皆のプレーを見てるよ!」
はぁ~、と全員が盛大にため息なのか深呼吸なのか、良く分からない呼吸をするのを見ながら紅葉は内心で今日の試合プランを考える。
今日の試合、試合の組み立てからフィニッシュまで紅葉抜きで行われる。紅葉は囮として、右前で張って敵を引き付けるのが役目だ。
紅葉はいないものとして扱われるので、残念過ぎることにパスは来ない。
(もちろん囮はしっかりやるし、仲間のことは信頼してる。けれど、だ)
囮の役目をこなした上でプレーする分にはオッケーだよね!
とにかく集中を切らさぬこと。そしてボールがこぼれてきそうなら、どん欲に回収だ。そうすれば何度かはボールに触れるだろう。
(せっかくの決勝戦、楽しまなくちゃ)
いい意味で張りつめた表情のチームメイトとリラックスした笑みを浮かべた紅葉は試合前のルーティンを終え、グラウンドに散らばってゆく。
紅葉に求められているのは囮であり、自身と一緒に敵を一人もしくは複数人試合から除外することである。ボールに触れないという残念な任務ではあるが、一つだけサプライズがある。
なんとフル出場が確約されているのだ!
囮としての駆け引きがあるとはいえ、ほぼほぼ地蔵でいるわけだから、疲労の心配はない。というわけで、途中交代なし。なんて太っ腹なのか。
「嬉しすぎるでしょ!」
二十時丁度、キックオフの笛がなる。日本は前半メインスタンドから見て、左から右へ攻める。微風ながら風の助けも借りられる。
紅葉はセンターサークルからバックパスで最終ラインの大鳥へ一旦ボールを下げる。それから自身は右前へ走り、敵のバックラインを押し上げるようにポジ取りする。
そんな紅葉をお迎えしてくれるのは16番のボランチ張と13番の左サイドバック安の二人。紅葉を睨み、ぴったりと挟み込んでくる様子から、紅葉への徹底マークを言い渡されているのが分かる。
試しにフラフラと移動を繰り返してみて、ついてくるの確認し、とりあえずの役割は果たせそうだ、と安堵する。
さて、と気持ちを切り替え、この喰い付いてきた二人を確実に引き留める為に紅葉は全力を注ぐ。
フォーメーションはU-19女子日本代表が4-3-3。ゴールキーパー成田。バックラインは左から田岡、大鳥、増渕、近藤。中盤に剣崎、酒井、秩父が並び、トップに柳瀬、今泉、紅葉といういつもの布陣で挑む。
対する統一朝鮮チームが4-2-3-1と公式上ではなるかもしれないが、実際は右ウィングの紅葉とともに敵左サイドバックと左ボランチの二人がさよならするので、3-1-3-1という布陣だ。
日本代表が数的優位を生かし、細かいパス回しを駆使しながら相手陣内へ侵入していく。前線を押し上げながら、サイドバックの田岡と近藤がボランチの位置に入っていく。代わりにボランチの酒井が一列下がり、最終ラインに吸収される。
これは右前を紅葉が埋め、左前はウィングの柳瀬とセントラルミットフィルダーの剣崎が崩しのスペースとして使用するから。
サイドバックが、囮役と敵で埋まっているスペースと、柳瀬が一対一で使用するスペースに入り込むのは愚策でしかない。
だったら、パスの出し手であり、相手から厳しいマークを受けている酒井を一列下げて、その代わりとして両サイドバックがボランチの役割をするという作戦である。
この偽サイドバックの利点は攻撃よりも守備時に威力を発揮する。
サイドバックが最前線まで上がってクロスを上げる。攻撃のパターンとしては鉄板であり、破壊力十分であるが、最前線のそれもサイドにいては、カウンターを受けた際、完全に守備の役に立たない状態になってしまう。
では敵のカウンター発動時、サイドバックがボランチの位置にいたら? カウンター時に抑えるべき要所、ど真ん中にサイドバックの二人がいることになる。そして、最も重要なこととして、押し込んでいる時、相手がクリアしたり、苦し紛れのパスをした時、この二人のポジションに最もボールが飛んでくる。
セカンドボールをしっかり回収して攻撃を継続することが出来れば、当然ワンサイドゲームとなる。
ボール回収の条件として、相手に余裕を与えないことが重要になる。ボールを奪われた時にどれだけプレッシャーをかけられるか。パスコースを切れるか。皆の連動したプレッシングが肝となる。
攻撃において、クロスという直接的な攻撃手段や、サイドの数的優位は失われるが、その代わりに、後ろと前を繋ぐ役割、そして前の補助をすることが出来るので、より切れ目のない厚みのある攻撃が出来る。
実質的数的優位、押し込む前提、パサーへの圧力低減、スペースの有効利用、と東条監督が偽サイドバックを選択したのも頷ける。
剣崎から左前の柳瀬へボールが渡る。一対一の場面。柳瀬は積極的にドリブルで抜きにかかる。一人躱し、バランスを崩しながらもクロスを上げようとする。けれど敵のリカバリーも素晴らしかった。フォローに来ていた敵センターバックに身体を当てられ、柳瀬がボールを奪われる。
倒された柳瀬はすぐさま立ち上がり、センターバックに飛び掛かる。斜め横にいた剣崎もセンターバックを囲い込むように詰め、最前線真ん中にいたフォワードの今泉とミッドフィルダーの秩父がそれぞれパスコースを切り、キーパーへのバックパスすらさせないように位置を修正する。
ゴール近くで危険を冒せないと敵センターバックがクリアし、それを狙い通り中央にいた田岡が回収する。
(うん、ナイス!)
皆の献身性と素晴らしい連動に紅葉は思わず笑顔になる。
(皆、本当にいい動きだ。よし、私も負けてられないぞ!)
田岡が後ろの酒井へバックパス。酒井がフリーでボールを受けるも、すぐさま一人残っていた敵フォワード、李が酒井へ詰める。酒井が落ち着いてワンツーで李をいなし、パスの出し所を探す為にルックアップ。
――ここだ!
紅葉は酒井へ向かって後ろへ猛然とダッシュする。一瞬だけフリーになるが、すぐさま張と安に追いつかれ、囲まれる。
「こっち!」
それでも紅葉はダッシュし続け、パス! と叫びながら、ハーフライン近くまで戻ってくる。ボールが酒井から剣崎を経由して柳瀬へ飛んでいき、コーナーを獲得するのを確認しながら、紅葉はようやく立ち止まる。
腰に手を当て、ふぅっと息を吐き、敵全員に見えるよう相手側に向き直り、両手を大きく開いて、心底不貞腐れた表情を作ってから、
「ボール! 今、こっちオッケーだったよ!」
頭を振りつつ、なんでボールを寄越さなかったのかと不平を伝える。もちろんまったくオッケーじゃなかったのだが、関係ない。
コーナーを蹴りに左前へ小走りで向かう間もブツブツ文句を言い、時々振り返り、次こそ絶対にボール頂戴ね! と大声で伝える。
(う~ん、どうだろう……ちょっと足りないかな? 舌打ちとかした方がいいかな? いやさすがにそれはマナー悪いよね。よし! 次はイヤミったらしく、しずかちゃんに向かって拍手してみよう。ふふ、囮って意外に難しいんだなぁ)
紅葉の役割である囮。一番マズイのが、相手に紅葉へのパスはないとバレることである。あれ、あいつもしかして、ハブられてない? 私たち守備する意味なくない? てか、仲間から無視されるとか可哀そう。などと看破されてしまえば、作戦は失敗である。
パスが来ないのを悟られないことが最低限のノルマだ。あんまり得意ではないが演技だったりも交えて敵を騙さなくちゃね、とつい笑顔になるのを慌てて仏頂面に戻しながら、紅葉はボールをセットする。
さて、と紅葉は気持ちを入れ替える。キッカーとして、セットプレーはボールに触れる数少ない機会である。得点を奪う為にも無駄には出来ない。
左コーナー。右脚で蹴るので、ゴールに向かって曲がって落ちるボールが蹴れる。ニアか、ファーか。ニアにいる柳瀬への低弾道クロスも悪くない。
日本の高身長コンビ、大鳥と今泉はファーの離れた位置に重なるようにおり、紅葉がクロスを上げると共にゴールに向かって飛び込んでいくポジション取りをし――
「あっ……と」
(危ない危ない。いきなりポカするところだった)
紅葉は自分のした提案を思い出し、それから狙いを定めるように視線をゴール前に据える。
大鳥にオフェンシブミットフィルダー10番の金が、今泉にセンターフォワードの李がそれぞれマークについている。体格を考慮した至極普通のマーク選択である。情報分析官も確実に大鳥と今泉には、金と李がマークするだろうとお墨付きを与えるほど。
そして、情報分析官はこの二人について特記事項としてとあることをレポートしていた。金と李は不仲であり、互いのパス交換が極端に少ない、と。
したがって、守備時のポジショニングにおいて、この二人のパスコースを切る優先順位を一段下げてもよいのではないか、と提案する。補足説明として、二つの国で構成された朝鮮統一チーム内において、金と李がそれぞれの国のリーダーとしてグループを形成している影響を指摘している。
とはいえ、情報分析官の特記事項は机上の空論だ。パスコースを切らねばやられる可能性がある。脅威があるのなら対処しなければならないだろう。優先順位は脅威度によるべきと東条監督はパスコースの件を一蹴した。
その話を聞いた紅葉はそこで、一つの提案をする。実にシンプルな提案。すなわち、フリーキックの際にこの二人の不仲を利用するというもの。
ピッと審判の笛がなる。紅葉は手を上げ、それから一度深呼吸してからコーナーキックを蹴る。敵味方がゴール前に走り込む。
(うん、失敗。てか、ヤバい奴だこれ)
紅葉は蹴った瞬間即座に失敗を悟り、とにかくわき目も振らずに自陣目指して走り出す。
(間に合うか? ……間に合え!)
事前の取り決め通り、今泉が李を振り払い、大鳥が李の前に入り込み、李をブロックする。このままいけば今泉がフリーになる。日本側のスクリーンプレーに対応するには、大鳥のマークをしていた金が今泉に付かなければならない。
果たして不仲の二人に即座の声掛けや瞬時の対応は可能か? 一瞬でも敵が迷い、頭一つ分でも出し抜ければ、紅葉の精確なクロスから、得点を奪うことが出来る。
相手の弱点を突く。ごくごく普通の作戦であろう。
けれど、敵は完璧に対応した。今泉の前に躍り出た金がゴール前だというのに慌てることなく、ボールをペナ外にいる呉の足元へ落としてみせる。
呉が淀みなく反転し、カウンター対策兼ボール回収係として後ろに残っていた近藤を一瞬で剥がし、独走を開始。
日本の守備はセンターバックの増渕と田岡、そしてゴールキーパーの成田のみ。皆が前掛かりになっていた。そして紅葉のクロスに対する信用度が悪い意味で高すぎた。戻りが遅い。
増渕が呉に接敵。とにかく速攻を阻止しようと立ちはだかるも、斜め前にボールを蹴られる。猛然と走り込んできたサイドバック宋がボールを受け取り、日本陣内の右ハーフサイドを独走。
敵味方が全速力でハーフウェイラインを越えて日本陣内へ雪崩れ込む。けれど、このカウンターに関与出来る選手はもはや限られている。敵は、サイドを駆け上がる宋に、中央の呉と趙、さらに後ろに李と驚くべきことに金。
日本は田岡が呉と趙を一人でカバーし、宋へ追いすがる増渕、そしてキーパー成田のみ。近藤が呉の斜め後ろ、さらに後ろに剣崎と大鳥が全力で戻る。
攻め手三人に守り手が二人。ゴールまで残り25メートル。増渕が宋に追いつき、ファウル覚悟でショルダーチャージ。けれど一瞬早くボールが宋の足を離れ、中央、呉へ。ゴール前、田岡が決断。趙を捨て、呉のシュートコースを消す。
呉は落ち着いて隣の趙へ。趙がトラップしたところを近藤が後ろからスライディングしてボールを奪おうとする。奪えなくても相手の前に入って、ファウル覚悟でブロックする捨て身の守備。しかし、趙は冷静に斜め後ろへボールを戻す。
走り込んできた李がそのボールをダイレクトでシュートしようと右足を振りかぶる。
させるか!
一人左サイドを駆け戻ってきた紅葉が、身体を投げ出し、足を伸ばしてブロックに入る。
スライディングしながら、李を仰ぎ見れば、そこにはニヤリと口元を歪める嬉しそうな顔が。
(あっ!? やられたー!)
紅葉は敵の狙いを理解する。けれど分かったところでもう遅い。李はシュートせずにボールをスルー。ボールが向かう先には振りかぶった金の姿。
弾丸シュートがゴール左隅に突き刺さる。咆哮する金へ李が抱き着き、互いに感情を爆発させ合う。二人目掛けて残りの全員が走り込み、輪になって喜び合う。
観客の大歓声に負けない大声で、紅葉に、見たかコノヤロー的なことを叫ぶ者までいる。いや、紅葉には韓国語が分からないので、実際に何を言っているのかは分からないのだが、何となく雰囲気でそんなことを言っているんだろうなぁとは分かる。
金が仲間を窘め、紅葉へソーリーと頭を下げてくる。
紅葉はコクンと頷くことしか出来ない。見つめてくる金。何か言った方がいいのかなと思考し、それからただ素直に思いついたことを口にする。
「ナイスゴール」
言った瞬間、しまったと口元を抑える。対戦相手にしてみれば、侮辱とも受け止められない言葉だ。謝ろうとするも、その前に金は笑顔を弾けさせ、
「ありがとう!」
そう言って微笑み、颯爽と身を翻し、李と何かを楽しそうに話しながら自陣へ戻っていく。
――かっこいいじゃんか!
さっぱりした男前な笑顔に思わず見惚れてしまう。それがまた、
――すっっっごぉく! 悔しい!!!
(不仲を演じて、こっちがそこを狙うように仕向けたのかな? そうっぽいよね。くぅぅ、完璧にやられたぁ)
紅葉はこのままでは終わらせないぞ、とリベンジを誓う。
金ハリンにとって、こんなにゴールが嬉しかったのは初めてであった。
(もしかすると、これ以上のゴールは二度とないかも)
そう思えるほど、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。仲間たちの祝福を受けながら、日本相手に、いや、大井紅葉相手にとったゴールの喜びを噛み締める。
チームメイトが紅葉に対して、どうだ! 金ハリンの方がお前より上だ! と叫ぶ。それは紅葉に失礼であるし、何より恥ずかしいので、やめなさい! と叱り、それから紅葉に頭を下げる。
紅葉から返ってきた返答にハリンはさらに嬉しくなる。これ以上は感情を我慢出来ない。急いで紅葉に背を向ける。
「何をそんなにニヤついてんのよ」
李ヨンスクが近づいてきて、ハリンに聞いてくる。
「分かってる癖に!」
「宿敵に褒められたのがそんなに嬉しい?」
「ええ、最高に!」
「ちぇっ、スルーせずに私がシュートしとけばよかった!」
李の実に悔しそうな表情を見て、ハリンは笑みを深めながら告げる。
「今のゴールは私とあなた、ううん、私たち全員でもぎ取ったゴールよ。だから、大井さんはナイスシュートじゃなくてナイスゴールって言ったんじゃないかな」
ふ~ん、とつれない相槌。けれど、今のハリンには分かる。李が照れているということが。
(いやはや、こいつがこんなに可愛い奴だったとは。ふふっ、人は見かけによらずってか)
照れ隠しなのか、少し早口に李が喋る。
「でも、ヤバいわよ。あんたは見てないけど、大井の最後の顔……めっちゃ目が爛々に輝いてたよ」
「まぁ、でしょうね。すっごい負けず嫌いなんだって、彼女。そりゃあ、私たちを本気で倒しにくるでしょうよ」
「……余裕だな」
「はっ! まさか! でも、想定通り! 勝負はこれから! そして私たちは勝つ! でしょ?」
「そうだな、ああ、そうだとも!」
打倒紅葉、それこそが朝鮮統一チームを唯一結びつける絆であり、そしてそれは紅葉が強大であればあるほど、強くなるのだ。
思えばこんなことになるとはこの大会が始まるまでは思いもしなかった。この半月弱の間にハリンは変わった。
(分からないものね、人生ってやつは、さ)
ハリンはアジア最高選手と自他共に認める活躍をしてきた。U-16アジア選手権MVP、U-17世界選手権ベストイレブンに選ばれた。自国開催のU-19アジア選手権では最注目の選手と言われていた。
大井紅葉が登場するまでは。
紅葉が若干12歳でU-19日本女子代表に選ばれたことで、話題は紅葉一色になった。抜きん出た実力もさることながら、そのアイドル以上のルックスで紅葉は韓国内でも人気になっていた。
確かに上手い。警戒した方がいい。紅葉にマンマークを一人つけることにし、着々と試合の準備をする。
ハリンの世代は、日本に負けなしである。後は試合が始まるのを待つだけだと準備万端整ったところに、協会から本当に日本に勝てるのか、と再三の確認が監督に来たそうだ。そしてそれは監督を通り越して直接ハリンたち選手にも来た。
選手に直接そんなことを聞くなどあり得ないことだ。監督と選手への信頼を恐ろしく下げ、選手のモチベーションを奪う愚かすぎる行為。
あまりにも過剰な協会の反応。その理由を推測するのは簡単だ。というか、一つしか考えられない。
上からの圧力があった。皆がそう結論を出し、そして内心でため息をつく。
朝鮮統一チーム、それは平和の為のショーとして政治が生み出したものだ。国民の多くも、ハリンたち選手も望んでなどいない。
一生懸命練習し、国の代表になる実力を得たとしても、定員の半分は強制的に他国の選手が選ばれる。彼女たちより私の方が上手いと叫んだところで、それは絶対に認められない。選手の立場からすれば、理不尽な理由で代表への扉が狭まるだけ。
最初からわだかまりのある中で、文化も習慣も何もかも違う者同士が集まり、一つの国の代表として活動しなければならない。仲良くなど出来ようはずがない。チーム内でいがみ合い、真っ二つに分かれるのは必然だ。
話が逸れた。朝鮮統一チームは政治が産み出した産物である。その目的は南北の融和と平和。そして朝鮮統一チームの活躍による国民の国威発揚と政権の支持率アップ。では、その朝鮮統一チームにとって一番マズイこととは?
日本に負けること。それはかなりよろしくない。とはいえ、勝負事だ。負けることもある。
自国開催、そして国民が注目している舞台で負けること。あまりよろしくないが、勝負事だ。仕方ない。
日本に自国開催かつ注目の舞台で負ける。しかも尋常でない注目度の中で、だ。アンダー世代では考えられないほどの異常な注目度。女子フル代表よりも、男子フル代表よりも、というより、サッカーの試合という範疇を越える注目度の中での敗北。
それは許されるのか? 不安を抱きながらハリンたちは日本戦に臨んだ。そして経験したことのない大観衆の中、最悪すぎるほど紅葉にボコされてしまった。
皆が追い詰められた状況。観客から罵詈雑言が滝のように降ってくる。高が相手選手へ危険プレーをして怪我をさせてしまう。最悪を通り越して地獄だ。
観客のブーイング、わけの分からないレフリング、もはや感情は振り切れ、ただ1点でもいいから得点を取らなくてはと無我夢中で相手ゴールを目指し、そして0-3のまま敗戦。
ハリンたちを待っていたのは予想通りの大バッシング。皆がハリンたちを責め、ハリンたちは犯罪者のように扱われることになった。
高は故障を理由にチームから切り離され、監督は今大会終わりで更迭が決まった。
地位も名誉もプライドも、何もかもがたった一戦で無くなった。
――これからどうしよう?
紅葉にリベンジ? したいと思う気持ちと、紅葉には勝てないという気持ちが入り交じり、気持ちがぐちゃぐちゃになる。
ただ協会は、いや、政治家だろうか。彼らは日本に絶対に勝て。優勝しろと命令してくる。汚名返上しろということなのだろう。
空っぽになったハリンたちは日本に勝つ方法を話し合った。
打倒紅葉。空っぽな頭にストンと入ってきたそれに、いつの間にか皆が夢中になる。喧々諤々の議論が交わされる。調べれば調べるほど、理解すればするほど、実戦を思い起こせば起こすほど、紅葉が如何に恐ろしい存在であるかが分かる。
天才? いやそんな言葉では足りない。サッカーの権化。サッカーの怪物だ。紅葉という怪物に勝つには全力を尽くす必要がある。内部の確執や、周囲の批判などに構うリソースは断じてない。
あんなに毛嫌いしていた李とも打倒紅葉という思いを共有すると、なぜ嫌っていたのかすら分からなくなる。
紅葉という強大な敵を前に、いつの間にかチームが纏まり、一つの方向を向いていた。日本は必ず決勝戦に来る。ならば私たちも絶対に決勝戦に行かなくては。中国になど構っていられない。全力でもって中国を下し、紅葉対策を練り続ける。
日本対オーストラリア戦を観て、紅葉の強さを改めて思い知る。勝てるかもと思っていた気持ちが根こそぎ吹っ飛ぶ。だが、気落ちはしなかった。すでに勝敗はもうどうでもよくなっていた。
このチームで紅葉に全力でぶつかりたかった。正々堂々などとは言わない。あの怪物にそんな綺麗ごとを言っていたら試合にすらならない。けれど、ドン引きして引き分けPK戦などは絶対に嫌だ。
ならばどうすればいいか。オーストラリア同様、紅葉に二人付けて試合から可能な限り紅葉を除外する。酒井へは李がチェイスし、紅葉へのパスは皆で遮断する。
数的不利になるが、引き過ぎず、耐えてショートカウンターを決める。数的不利をカバーする為に、とにかく走りでは負けない。押し込まれたら紅葉側を厚くし、いつでもヘルプに行けるように準備する。
他にもたくさん話し合った。紅葉の超絶精度を誇るセットプレーは恐ろしいほど脅威だ。だが、もしも紅葉の狙いが読めたらそれはピンチが一転大チャンスになる。私たちの不仲を狙ってくるとか? 冗談口調で李が発言し、いや、あり得ると議論の対象となる。
それでも、やはり紅葉には勝てないと皆の意見は一致する。まぁ勝てなくてもいいじゃんか、と皆で笑い合う。打倒紅葉は果たせないかもしれないが、全力で戦おう。紅葉抜きの日本に勝とうと話す。
ハリンたちは悪役だ。紅葉へ様々な嫌がらせをし、立花という日本の要を潰し、さらに、正義の味方である紅葉を倒そうとしている。
もう散々非難されてきた。国民すら味方なのか分からない。それでも、いや、だからこそなのだろう。ただただ打倒紅葉を願うのだ。
紅葉に点を取られても諦めることなく戦おうと皆が気合を入れる。
協会はどうしても日本に負けたくないらしい。汚い手を使って世論を動かし、紅葉を試合に出させないよう策動する様は嫌悪感しか覚えない。
私たちの邪魔をするな。不純なものを混ぜるな。代理戦争? バカか。勝手に言ってろ。
紅葉という怪物に出会い、ハリンは変わったのだろう。国の威信、評価、そんなものは心底どうでもよくなっていた。
紅葉に勝ちたい……いや、違う。勝てなくてもいいんだ。上手く言葉には出来ないけれど、何というか、そう、紅葉を追い詰めたいのだ。いや、それもちょっと違う。
ああ、そうか。挑みたいのだ。
どんなに頑張っても絶対に越えられない壁。それに挑む時。人は何を思う。絶望だろうか。絶望するだろう。だけど、思うのは絶望だけだろうか。
安心しないだろうか。どんなに頑張っても壁はずっとあるのだ。挑戦をずっと受け止めてくれるという安心感を覚えないだろうか。
本当に壁を越えられないのか確かめたくならないだろうか。本当はあと少しで壁を越えられるんじゃ、と頂点が見えぬが故に逆説的に希望を抱き、そしてその希望は壁を越えるまで絶対に消えない。
勝てなくてもいい。ただ純粋に挑みたい。代表としては失格なのかもしれない。まぁいいかとハリンは笑い飛ばす。
このピッチに紅葉がいる。そして私は信頼のおける仲間たちと紅葉に戦いを挑んでいる。
――この掛け替えのない時よ、永遠に
願わくば勝利を。ハリンはセンターサークル内にいる紅葉を見つめる。ゾクリと悪寒が背筋を走る。頬が勝手に引き攣る。
ああ、あれはヤバい。あの笑顔は本当にヤバい。ハリンはゴクリと唾を飲み込み、そして一度深呼吸。笑顔を浮かべて叫ぶ。チームメイトが口々に答える。
「皆! 分かってんでしょうね!」
「分かってるわよ!」
さぁ、紅葉が来るぞ!