49 「いつか大人になるあなたへ 後」
「なるほど……大変だったね」
会社の小会議室。相談を聞き終え、大井康夫は冷静な声と表情で答える。
「いえ、こちらこそ大井部長にこのようなことを相談してしまって……」
対面の相手、水滝翡翠の謝罪に、そんなことはない、相談してくれてよかった、と伝え、さらに励ましの言葉を掛けてから、康夫は慎重に確認する。
「一番いい解決法はやっぱり法務部から顧問弁護士経由での、先方との話し合いだと思う……けれど、私のところに来たってことは、ことを公にしたくないんだよね?」
「はい、今の仕事を完成させたいんです。出来れば穏便に……」
さて、どうしたものか、と康夫は考える。
水滝は三年前、康夫が事業二部次長時代の部下であった。康夫などとは違い、とても優秀で、若くして課長になった若手の出世頭だ。
水滝は現在、多数企業が参画する大型プロジェクトの当社責任者に抜擢され、出向という形で精力的に職務をこなしている。そんな彼女に主幹企業であるIMMJの当該プロジェクトマネージャーがちょっかいをかけ始めたのが数ヶ月前。
水滝はとても美人であり、まだ独身だ。相手方は水滝に惚れたのだろうか。どちらにせよ言い寄られた水滝は丁重に誘いを断った。そこで終われば何の問題もなかったのだが、そのプロジェクトマネージャーはプロジェクトからの追放を匂わせ、関係を持とうとしてきた。あまりに卑劣な行為で、深刻なパワハラでありセクハラだ。
水滝はきっちりと断り、その違法性を指摘した。だが、それは火に油を注ぐだけであったそうだ。パワハラがエスカレートし、そして、どうにもならなくなった水滝は、今日、康夫に相談に来た。
康夫は今、総務部部長とまったく関係のない部署にいる。そんな康夫に相談に来たということを鑑みれば、水滝の気持ちもわかってくる。
法務部を通して正式に抗議すれば、このご時世だ、相手方は確実に失職する。それで万々歳か、と言えば、水滝にとっては残念ながらそうはならないだろう。
水滝は現任プロジェクトから外されるだろうから。
配慮と言う名の圧力が確実に働く。相手会社に対する配慮。顧客に対する配慮。そして水滝に対する配慮。
その結果、水滝には他の案件を任せることになるはずだ。そしてその案件はかなりの好待遇が用意される。そうしなければ、今度は会社側が水滝に訴えられた時に困るから。
様々な配慮と言う名の、臭い物には蓋をする良くも悪くもな風習。水滝に非は一片もなくとも、それは既定路線となろう。
(だからこそ、法務部でもなく、直属の上司でもない私に相談にきたんだろうしね)
さて、どうしたものか、と康夫は黙考する。
テーブルに置かれたメモリーを意味もなく見やる。今回の証拠がすべて入っているとのことだが、確認はしていない。
水滝が意味のない嘘をつくわけがないし、証拠として必要十分なものが揃っているのだろう。
(まぁ、考えたところでそうそういい考えなんて浮かばないか)
自身の力のなさに辟易する。とはいえ、一番手っ取り早く安全な手段がダメなら、次善の手段を選ぶしかない。
「……知り合いの弁護士の先生に同席してもらって、そのプロジェクトマネージャーと僕で話し合いしてみようと思うんだけどどうだろう。落とし所としては……そうだね、水滝さんに対して今後何かしらの嫌がらせが確認された場合は、即刻裁判するって言う念書を取るのでどうだろう?」
君には不本意かもしれないけれど、と康夫は頭を下げる。
水滝の顔は化粧で誤魔化していても隠し切れないほど憔悴しているのが分かるだけに、弱腰の対応しか提案出来ない自分がイヤになる。最低でもそのプロジェクトマネージャーはプロジェクトから外させるべきだというのに。
「いえ、十分です。あの、本当にありがとうございます!」
涙を流す水滝にハンカチを渡し、康夫はスマホから旧知の弁護士である市ノ川の電子名刺を表示させようとして、
「大変に優秀な弁護士の先生でね。もしよければ……あっ」
ア行にある市ノ川を表示しようとして行き過ぎた為に左にフリックしたらヤ行まで行ってしまう。そしてそこで見つけたのはヤ行の最後にあった吉田辰巳の名前。
辰巳は浦和領家サッカー少年団の元団員である吉田修哉の父である。そしてここで重要なのは彼の肩書だ。IMMJ企画戦略部部長。彼は今回、騒動になっている会社の社員であった。
辰巳に協力を依頼し、IMMJ内部で極秘裏に処分をしてもらえば、解決策としては悪くない。辰巳はとても信頼の出来る友人だ。きっと力になってくれるだろう。
康夫は水滝に辰巳のことを話し、彼経由での解決を提案する。水滝は康夫にすべてを任せると言って同意してくれた。
さて、どうなるかな、と康夫はもうこの問題は大丈夫だなと内心で思いながら水滝に微笑むのであった。
午後四時。アスファルトがぐにゃりと溶け靴裏にくっつくかのような熱さと日差しから逃げ、康夫は目的地のスポーツバーの扉をくぐる。外との温度差に一瞬鳥肌が立ち、それから冷風が遅れて身体を包む。
首もとをミニタオルで拭きながらホッと一息吐き、それから店内を見回す。暖色系の照明にシックな木目調の内装、壁には赤色のユニホームと色紙、選手たちの写真が一面に飾られている。お盆の平日夕方であるにもかかわらず席は7割方埋まっており、店内はお客たちの笑い声があふれていた。
店内中央に投影される大画面エアモニターでは紅葉のリプレイ映像が流れており、それを肴に多くの会話がなされている様に康夫は苦笑する。
一番奥のテーブルから、白のポロシャツの似合うスラリとした四十代前半の健康的に日焼けしたダンディな男が康夫を呼ぶ。
「大井さん! こっちです、こっち!」
康夫は手を上げ、男、吉田辰巳の座るテーブルへ向かう。席に着き、正面の辰巳に謝りを入れる。
「いや、お待たせしてしまって申し訳ない」
「私もさっき来たところですから気にしないでください。そんなことより何を飲まれます?」
早速とばかりに辰巳がエアスクリーンにメニュー表のソフトドリンク欄を投影する。康夫が普段酒を飲まないことを知っている辰巳のさり気ない気遣いに感謝しつつ、康夫は、ではウーロン茶をと頼む。
辰巳がエアスクリーン上でウーロン茶の項目をタップする動作をし、それからドイツビールとつまみを適当に注文していく。
年々夏の暑さに身体が付いていかなくなると互いに笑い合っている間に、冷えたウーロン茶にビンビールとグラス、お通しがテーブルに並ぶ。康夫はビールを注ぎ、グラスを軽く合わせる。
「それでは、乾杯」
「乾杯」
乾杯もそこそこに、康夫は冷えたウーロン茶を一気に半分ほど飲み干し、辰巳は一気に杯を空にする。
「ぷはぁ、美味い! いやぁ、こうして大井さんと乾杯をすると昔を思い出しますなぁ」
「ははは、昔はちょっとしたことでいつも子供たちと乾杯してましたからねぇ」
「そうそう、試合に勝っても負けても、なんだかんだで皆で飲んで食べて大宴会でした。いやぁ、楽しかったなぁ」
まだ団員数の少なかった時代を思い出し、感傷に浸る。辰巳も同様であったのだろう。お互いかつてのことを思い出し、笑顔になる。
「いや、私たちも歳を取るわけだ。四、五年前がつい先日のように感じられますからな」
「ははは、まったくですね。おっと、お注ぎしますね」
「おお、これはありがとうございます」
ビールを一口飲んだ後、早速とばかりに辰巳が紅葉のことを聞いてくる。
「紅葉ちゃんの怪我の具合はどうなんですか?」
「本人は元気いっぱいですよ。決勝戦にも絶対出るんだーって言ってましたから大丈夫かと」
「それならよかった! いやぁ、よかったよかった。これで安心してビールが飲めますね!」
「ははは、ご心配をお掛けしました。色々と情報が錯綜しちゃってますからね。どうにも試合に出れるかは微妙な状況になっているみたいですけど」
「そうですねぇ。まぁ私も紅葉ちゃんは決勝戦に出なくていいんじゃないかと思いますなぁ。もう負けてもいいわけだし、とにかく怪我なく帰ってきてもらいたいですから」
しばしの沈黙。かつての教え子であり、紅葉と楓にとって姉のような存在である立花の怪我のことを思い、本当に悲しくなる。お互い深々とため息を吐く。
立花がいなかったら浦和領家サッカー少年団はなくなっていただろう。明るく面倒見のいい、本当にいい子であった。あの人見知りの激しい楓すら立花には心を許して懐いていたのだから、どれくらいいい子かわかるというものだ。そんな彼女が選手生命に係わるほどの大怪我をしてしまった。不条理だと思わずにはいられない。
「……何か出来ることがあればいいんですけれど」
「私たちは見守ることくらいしか出来ませんからね」
周りから歓声と悲鳴が聞こえてくる。中央のエアモニターの、紅葉が得点をした後、ぶっ倒れるシーンに対する反応であった。
ピッチの上で仰向けに寝る紅葉のやり切った感満載の寝顔がアップされ、康夫は思わず笑ってしまう。
「本当に紅葉ちゃんは昔っから変わりませんな」
「まったく本当に」
顔を見合わせて笑い合う。紅葉はその圧倒的なプレーに比して体力がない。昔からしょっちゅうガス欠でぶっ倒れていた。
(というより、体力がいくらあってもあんな超絶プレーじゃ疲れて当たり前か。そこんところ紅葉はどう考えてるんだろうか。体力の配分を考えつつ、一試合通しで試合に出れるようになるには、まだまだ時間がかかりそうかな)
出来ることなら一緒に解決してやりたいなぁ、と康夫は思う。
店内の酔っ払いたちが、紅葉の心配と協会批判、それから決勝戦に紅葉を使うべきでないという主張がなされ、そうだそうだと多くの賛同を得ていた。
(これは大変そうだなぁ)
浦和レッジと紅葉ファンが集うここであっても、紅葉を使うべきでないという論調だ。事情に疎い世間一般の人たちからすれば、その論調はより強くなるだろう。
紅葉のことを少し気の毒に思いながら、辰巳と少年団時代の思い出話を話し、おつまみを食べる楽しい時間を過ごす。
「私なんか子供が卒団してからほとんど顔を出せていないですからね。それに引き換え大井さんは監督をお続けになられてるんですから。いやぁ、大井さんには本当に、頭が下がります!」
「いやいや、と言っても紅葉が抜けたらまったく勝てなくなってしまったヘボ監督ですからね。常勝無敗から無勝常敗監督になってしまって。あまりに勝てなさ過ぎて子供たちに申し訳なくて困ったもんです」
「ははは、そりゃあ、仕方ないですよ! 紅葉ちゃんがいるといないじゃ天地の差だ。それにしても紅葉ちゃんは本当に凄まじいですね! 先日の試合なんてもう一人でオーストラリアを倒してしまったんだから! 紅葉ちゃんの凄さは知っているつもりでしたけど、あれには開いた口が塞がらなかったですよ!」
「ははは、確かに。あれには私もびっくりでした。おっと、お注ぎしますね」
「いや、これは私ばかりすみません。おっとっと、ありがとうございます」
辰巳が美味そうにビールを飲むのを見て、康夫は笑う。辰巳とは少年団時代、指導や審判、送迎などで一緒に少年団を盛り立てた仲だ。
全国に度々行くやんちゃな子供たちをバックアップするのはとても大変だ。
団員が少ないので、親たちへの負担が半端なかった。余計な係りや持ち回りなどは全て廃止し、最低限の労力での組織運営を目指したが、子供たちが練習をしたがり、さらに大会に勝ちまくるものだから負担は増える一方。康夫は有休など焼け石に水というくらい会社を休みまくっていたので、いつ首と言われても不思議ではなかった。
とはいえ、そんなダメダメ社員が首にもならず、むしろ会社側から積極的に協力を得られたのは会社が浦和レッジのスポンサーであったことが大きかった。
スポンサー企業の特典には埼スタのVIPルーム観戦シート購入権があり、役員たちの接待の場として使われている。VIPルームには試合前後に選手やOBがあいさつ回りに来てくれるファンサービスがあるのだが、そこで元日本代表のOBで今は下部組織の監督をしている、とあるお調子者監督が、康夫のことを私の永遠のライバルであり、あんな名監督は他にはいない、あんな優秀な社員が所属しているというのはさぞ鼻が高いでしょう、出来ることなら引き抜きたい、などと毎回やたらめったら褒めちぎるのだそうだ。
接待相手がそんな話を聞けば、そんなに素晴らしい社員がいらっしゃるのですか? と嬉々として話を深堀してくるのは当然の社交辞令であろう。
ここで困るのは役員たちだ。康夫のことなど名前しか知らん、つか、会社を休みまくるダメ社員だぞ、あいつは。などとは、口が裂けても言えないわけで。いやぁ、彼は我が社の誇りです。我が社もCSRの観点から積極的に彼のような社員を応援していて、うんぬんかんぬん、と口から出まかせでその場を乗り切るわけだ。
そんなことが何度も続けば、さすがに嘘を嘘のままにはしておけなくなり、会社側が本当に康夫と浦和領家少年団を援助するようになるのだから、永遠のライバル(笑)様様である。もっとも、向こうとしては恩を売り、紅葉を取り込む一環としての作戦であったのだろうが。
そんなこんなで首にならないのをいいことに、康夫はダメ社員一直線で子供たちの指導をしていたわけだ。
忙しく大変だったが、本当に楽しい毎日であった。スポ少を通して和博とはより仲が深まったし、紅葉とは変わらず仲良しで、大変ではあったが、子供たちとの絆は確実に深まった。何より、その成長を傍で見守り、応援出来た。親としては宝物のような時間を過ごしていたんだなぁと今更ながら思う。
――本当に、本当に楽しい毎日だった
辰巳とはそんな濃密な日々を助け合ってきた。いつの間にか心強い戦友のような間柄になっていた。
その親友の辰巳が、水滝のセクハラ相手の会社に勤めていたのは本当に運がよかった。辰巳は康夫の依頼を聞くや即座にその男を札幌支店に転勤するよう差配してくれた。
七月や十月の区切りのいい月初すら待たずに出された人事移動の辞令に誰もがその男が何かしたと気付いただろう。けれど、その人事異動と水滝の関係は誰も分かっていなかったと、水滝から聞いた時はさすがに出来る人は動くスピードが違うと感心したものだ。
辰巳に礼を言ったところ、逆に辰巳に感謝されることになった。それは分からないでもない。辰巳の会社としても本来なら該当社員を懲戒免職の後、全力で謝罪せねばならない案件がなかったことになったのだから。
お互い苦い笑みを浮かべ合い、では会社の金で豪遊しましょう、と言う辰巳の提案でお盆休みの今日、スポーツバーに集合したわけだ。
水滝の件はすべて終わったことだ。今更話題に出して、お互い礼を言い合うのも座りが悪い。旧交を温める機会として、美味しいごはんを食べるくらいでいい。康夫はそう考えていたし、辰巳も同じ考えかなと何となく察する。
若干角度が悪く見えずらい中央のエアモニターに映る紅葉を肴に子供たちのことで盛り上がる。息子たちが良い意味でライバル関係になっていることに青春ですなぁと笑い合い、康夫はちょっともったいぶった後、紅葉から仕入れたばかりの情報である、辰巳の息子、秀哉が立花雪奈を水族館に誘った件を密告する。辰巳はそれを聞き大喜びだ。
「いやぁ、あの奥手がついにですか! これでようやく孫の顔が見れますな!」
「ははは、何、おじいちゃんみたいなこと言ってるんですか! しかし、紅葉はまったく秀哉君の気持ちに気付いてないみたいでしたから、お邪魔虫になって告白どころではないかもしれませんよ」
「いやいや、きっと紅葉ちゃんが二人の恋のキューピットになってくれますよ。まぁ失敗してもその時はその時で盛大にからかうネタが出来てよし! どうなるか楽しみですな!」
「そうだ。楓も行くと言ってましたから、楓にスパイ役をやらせましょうか?」
「それはいいですな! あ~~……しかし、あの楓ちゃんにお願いするとなると高くつきそうで怖いなぁ~」
「ははは、それはたしかに」
それから話が楓のピアノのことになり、あの楓が世間を賑わす活躍をしていることに人生の不思議を感じ合う。
「そう言えば、紅葉ちゃんと奥さんは韓国で、和博君はインハイで家にいないんですよね」
「ええ」
「楓ちゃんはコンサートを終えて帰ってきてるんじゃないんですか? 家に一人はまずいんじゃ? なるべく早く帰った方がいいですな」
「それなら大丈夫ですよ。今日はお友達とお泊り会だそうですよ。だから、出来る限り遅く帰ってくるようにと念を押されてしまいました」
「ははは、思春期の少女にお父さんはお邪魔虫なんでしょうねぇ、でもまぁ早めに切り上げて帰りましょう……おっと、大井さん! 和博君の試合が始まってますよ!」
「おおっと、本当ですね」
辰巳の視線を追った先にある中央のエアモニターに、インターハイ決勝戦の映像が流れていた。スポーツバーに訪れた理由であるインハイ決勝の観戦もそっちのけで盛り上がってしまっていたことに苦笑しながら、康夫は手元のエアモニターをタッチし、お品書き欄から映像選択画面へと表示を変更する。そしてインハイ決勝戦を選択。康夫たちの斜め上空に新しいエアモニターを出現させる。
このお店では、各テーブルにエアモニターが設置されており、各自で好きな映像を見ることが出来るようになっており、客たちが一番多く見ている映像が中央メインエアモニターに流れる仕組みになっている。
康夫の耳元で高校生たちの気合の入った若い声と実況解説が流れ出す。対象者の席だけに狙って最適な音量を届ける最新式の指向性サラウンド技術だ。辰巳との会話をまったく邪魔しないで、クリアな音が届くのに康夫は感心しながら、目の前のエアモニターに視線を移す。
「しかし、一年生でインハイ決勝のスタメンとは和博君も凄い! いやぁ、ぜひ優勝してもらいたいなぁ」
「ですね、優勝出来ればあの子も少しは自信がつくかもしれませんし……いや、無理かなぁ」
「ははは、和博君は昔から自信がないのがマイナスに働いてましたからねぇ。妹たちが凄すぎますからなぁ。まったく和博君は大変だ。おお、それにしてもいいポジショニングするな、和博君にはボランチがあってますよ!」
「ですね。少年団時代にキーパーからフォワードまで全部やらせたのが、和博の引き出しとサッカーIQを高めたんでしょうかねぇ……我ながらさすがの名監督ぶり!」
「あっはっは! 自分の息子だからって、足りてないポジションを和博君に強制的にやらせてましたからな、大井さんは! 和博君にとってはいい迷惑だったろうなぁ」
「まぁ、監督の息子がババを引くのは仕方ないです。それに紅葉の役に立てるならって本人も結構乗り気でしたし。しかし、何がプラスに作用するかわからんもんですねぇ」
「こいつはとんだ名監督もいたもんですな! おお、積極的に上がるな、いいぞ和博君!」
和博がクロスからのこぼれ球を拾い、そのままシュートを放つ。おしくもポストを叩いたシーンに店内が盛り上がる。
浦和レッジのユニやポスターが飾られている店内を見れば、客層はレッジサポのサッカー好きメインだと分かる。お盆の平日夕方、スポーツバーに来た客たちの目当てはインハイ決勝だ。埼玉代表として戦う和博たちへの応援はどんどんヒートアップしてゆく。
そんな中、少し毛色の違う騒めきが店内に広がる。その騒めきは店内を飲み込み、それからすぐ、中央のエアスクリーンの映像が切り替わる。インハイ決勝から、U-19女子サッカー代表監督の前日会見に。映像の中では、監督の東条の横に紅葉が座って微笑んでいた。
辰巳が苦笑交じりに聞いてくる。他の客たち同様、紅葉の会見を見るかとの問いだ。
「大井さん、どうします?」
「……ええ、まぁ、あれですね。少しだけ紅葉の様子を見て、それからすぐチャンネルを戻すってことで、どうでしょう?」
「周りのお客さんもきっとそんな気持ちでチャンネルを変えたんでしょうな」
「ですかねぇ、おっと、お注ぎしますね」
辰巳が個別エアモニターを紅葉たちの映像へ。康夫は笑いながらビールを注ぐ。
「これは私ばかりすみません、いやぁ、気の合う友人と飲むビールは最高だ」
「ははは、だいぶ酔ってきたみたいですね。しかしここはいい店だなぁ。ソーセージが美味いです」
康夫はカレー味の熱々揚げソーセージをハフハフパクパク摘まみながら、東条の決勝に向けた意気込みをまったりと聴く。
「それにしてもすごいマスコミの数だなぁ」
「ですねぇ」
カメラのフラッシュが絶え間なく東条とその横の紅葉に注がれ続け、画面を明るくする。記者たちのざわめきや取材音が東条の声とともに耳に届き、会場の熱気が画面越しに伝わってくる。
それは見ている康夫の方が緊張してしまいそうになるほどなのだが。皆のお目当てであろう当事者である紅葉は至って普通だ。東条の話に笑みを浮かべながら時折相槌を打つ。
そのたびにセミロングの髪がハラリと顔に掛かり、それを手でそっと払う仕草をする。明るいブラウンの髪を下ろしたままの紅葉は少し珍しいが、どんな髪型でも世界で一番可愛い自慢の娘なのは変わらない。
我が娘ながら、どんなに注目されようとも緊張しないその神経の図太さに康夫は感心してしまう。もしもこの場にいるのが楓であったならどうなったかと想像し、涙顔の楓が逃げていく様を幻視し苦笑する。
東条の話が終わり、続いて紅葉が明日の決勝戦に対する意気込みを話し出す。フラッシュのあまりの光量に紅葉の目が細まる。
『統一朝鮮チームは予選で当たっているのでその実力が素晴らしいことは分かっています。優勝を賭けた大一番ですから全力で来るでしょうし、予選以上に接戦になると思いますが、皆と力を合わせて勝てるよう頑張りたいと思います』
紅葉は明日は頑張ります、という内容を笑顔ではきはきと話し終え、ペコリと頭を下げる。
「うん、相変わらず紅葉ちゃんはしっかりしているなぁ」
「ええ、あの子は昔からしっかりした子です」
ありきたりな内容も話し方次第なのだな、と店内の客たちの拍手や口笛、好意的な感想を聞きながら思う。また、紅葉の発言から、紅葉は明日の決勝戦に出場するのでは、という可能性が浮上し、記者たちがざわつく。
会見は質疑応答へ移る。その前に司会者の女性が注意事項を淡々とマスコミ陣に説明していく。
『全ての発言は2025年パリ報道国際ルールに則り、自動同時翻訳、同時音声反訳され公開されます。公開された発言内容についての訂正、意義申し立てはお手元のURLより行ってください。また、公序良俗に反する発言、誹謗中傷等の発言、発言者の内容を意図的に捻じ曲げる行為、著しく名誉を傷付けると判断した場合…………』
画面が分割され、まだかまだかと現場の記者たちがじれている様子が映される。皆が紅葉が明日出場するのか質問したくて仕方ないのだろう。
大丈夫だろうか。
(紅葉はしっかりしているけど、抜けてるところもあるからなぁ)
事前に想定質問に対する模範解答練習はしているだろうが、それでも紅葉はポロっと変なことを言ったりするので心配になる。
ついエアモニターに見入ってしまい、辰巳に笑われる。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。これが楓ちゃんだったらもう大惨事でしょうけど」
ハハハと楽しそうに笑う辰巳に、康夫も苦笑いする。そうこうしているうちに質疑応答が始まる。早速とばかりに記者の質問が紅葉へと飛ぶ。モニターが二分割され、紅葉と東条の顔が左に、記者の顔が右側にそれぞれ表示され、一瞬遅れて記者の所属と名前が表示される。韓国スポーツ紙の記者が名乗り、挨拶をし、それから皆が聞きたかったことをダイレクトに聞く。
『大井選手にお伺いしたいのですが、明日の決勝戦は出場するんでしょうか? 監督からは何と言われていますか?』
紅葉が隣の東条を見つめ、彼女の頷きを確認してから、答える。
『はい、明日は先発の予定です。点を取ってこいって言われています』
会場のざわめきが大きくなり、それから店内の会話が一気に盛り上がる。明日もうちに来て応援してくださいね、と看板ウェイターが大きな声で客たちに営業し、しっかりしているねぇとツッコまれて笑いが起きる。
次に日本の大手新聞記者が東条へ詰問口調で問う。
『どのように大井選手の起用を決めたんですか? JFA会長は大井選手を起用しないと明言していましたが、これは東条監督の独断ということでしょうか? 大井選手の怪我の具合と合わせてお答えください!』
『……はい、私の独断です。大井さんの体調について、心配はないと医師と本人から確認を取り、起用を決断しました。起用理由は決勝戦に勝つ為です』
『大井選手に問題がなく、あなたは起用を決められた。そうすると、それは起用しないと明言されている会長との意思疎通に問題があったということになるかと思いますが?』
記者の咎めるような物言いに東条が一瞬口ごもり、それから決意の表情を浮かべて答える。
『それは……そう受け取っていただいて結構です』
会場のざわめきが一段と大きくなる中、記者が、では、と続けて質問する。
『大井選手を起用するのは勝ちに拘っての決断とのことですが、それは大井選手の個の力に頼るしか得点が取れない為ですよね? 実際、今大会のU-19女子日本代表は全得点に大井選手が絡んでいます。監督は守備の改善こそ成功されましたが、最後まで攻撃の改善は出来なかったということの証左だと思います。代表監督として何が足りなかったと思われますか? また、大井選手に頼り切りな現状こそ、対戦相手が大井選手を潰そうとする大きな要因となっているのは明白ですが、その点について監督として責任を感じていますか?』
『はい、攻撃のシステム面で……』
東条が己の力量不足と時間不足、攻撃面でのブラッシュアップが上手くいかなかったことについての反省点を上げ、最後に紅葉に頼り切りになっている現状はすべて私の責任だと明言する。
「……紅葉ちゃん頼りになったのは、立花さんがいなくなったからだろうに、それは言えないとはいえ、なんだかなぁ」
「ええ、しかし東条監督は監督を辞任するつもりなんですかね? 回答があまりに無防備というか、やけっぱちというか……」
協会の判断に逆らい、独断で紅葉を使い、さらに記者会見で馬鹿正直に非は己にあると言う。突っ込んでくださいと言わんばかりの東条の回答に、アメリカの大手新聞記者が純粋に不思議そうな表情を浮かべ、東条へ問う。
『大井選手が出ると出ないとでは勝率が変わってくることは誰の目にもわかります。監督としては是が非でも使いたいでしょう。ですが、病み上がりの、それもフィジカル不足を露呈したばかりの少女を起用するというのはあまりに近視眼的過ぎるとは思いませんか? 目先の勝利より将来の日本を背負って立つ選手である大井選手を守ろうと動いた協会の判断の方が正しいと私は感じました。なぜ東条監督は協会と対立してまで、言い換えれば、自身のキャリアを傷付ける可能性を負ってまで、今回の決断を下したのですか?』
東条が答えようとするのを紅葉が遮り、声を張る。
『あの、いいでしょうか? 本当のことをやっぱり言った方がいいと思うので!』
何事か、と会場と店内が同時に紅葉に釘付けになる。紅葉が真剣な表情で話し始める。
『ええと、会長から連絡があって体調のことを聞かれたんです。それで大丈夫ですって答えたら、試合に出たいかって聞かれました。もちろんですって答えたら、分かった、後は任せろと言ってくれたんです。色々と批判があると思うけど、それは全部私が受け持つ。君は試合に集中しなさいって。それから会長は私を使わないって嘘を付いてくれたんです。もし私が出るって分かったらまた色々と邪魔や嫌がらせがあるかもしれないからって。それに私が出たいって言ったら、私も批判されるかもしれないから、東条監督の決断と言うことにしろって……でも、やっぱり私のせいで会長や監督が批判されるのは悲しくて……応援してくれてる皆に嘘を吐くのがつ、辛くて……』
紅葉が下を向いて目元を手で覆う。前髪で顔が隠れる。フラッシュの光が瞬く中、紅葉が手で目元を拭い、視線を前に向ける。
赤く充血した瞳で紅葉が言う。
『会長や、監督は、わ、私を守ろうとしてくれたんです……私を試合に集中させる為に……で、でも、私の為に批判されるのは…………』
紅葉が詰まり詰まりの口調でそこまで言うとまた手で顔を覆って俯く。隣に座っていた東条が紅葉の頭をポンポンと優しく撫でてから、申し訳なさそうな顔で話す。
『大井さんには余計な心配をさせないように試合に集中してもらいたかったのですが、むしろ追い詰める形になってしまったようです。ごめんなさいね……12歳の少女が過剰な期待によって潰されることは絶対にあってはならない。日本サッカー協会村田会長の決断のもと、多くの協会関係者の方々、特に岩田副会長は大井さんの為に最高のスタッフを用意してバックアップしてくださりました。私は監督として選手たちに試合で最高のパフォーマンスを出してもらえるよう全力を尽くしてきたつもりでしたが、まったく至らない点ばかりのようです。その責任は大会が終わったら改めて取りたいと思います。どうか、U-19女子日本代表と大井さんを温かな気持ちで応援してくださるようお願いします』
そう言って東条は深々と頭を下げる。それから、少しお時間をくださいと断ったのち、俯いたままの紅葉をそっと抱き締める形で壇上を離れ扉の奥へと消える。
司会の女性が中座についてお詫びを繰り返す中、会場のざわつきから戸惑ったような困惑したような微妙な雰囲気が伝わってくる。
店内でもそれは同じだ。お酒が入り、大声で談笑していた客たちの声は小さくなり、それぞれが反省の弁を述べている。
まだ12歳なんだよね。大丈夫かな紅葉ちゃん。協会のこと批判しすぎてたな。そもそも紅葉が怪我したって報道は嘘だったんだ騙された。
他にも様々な声が聞こえてくるのに康夫は苦笑いを浮かべ感慨深く呟く。それに辰巳が驚いた表情を浮かべ、声を小さくして聞いてくる。
「いやはや、まさか紅葉の泣き真似が見られるとは。お父さんとしては複雑な心境だなぁ」
「えっ? 泣き真似なんですか今の?」
「紅葉はまぁ結構な泣き虫ですけど、泣く時って2パターンしかなくて、試合に負けた時と、後は大切な人が傷付いた時くらいしか泣かないんですよ。メンタル面で追い詰められて泣くなんて考えられないですね」
「あぁ~確かに……日本代表のプレッシャーがよっぽど凄かったからという可能性は?」
「……ないですね。あの子の何が凄いって、プレッシャーなんかで絶対にプレーの質を落とさないことなんですよ。選手個人の責任はチーム皆の責任。で、チームの責任は選手を選んで指揮している監督の責任だし、監督の責任は監督を選んだ人たちの責任。どんなミスしようがそれは私たち選手の責任じゃなくて監督や大人たちの責任なの、って、監督である私の前でよく言ってたもんですよ」
「あはは、それはよく覚えてます! うちの息子がじゃあ俺たちの責任は? って聞いたら、試合に集中して楽しむことが私たちの責任なの! って堂々と言い切ってたなぁ。緊張で情けない面を晒してた息子が、小学二年生の子にそこまで言われて、もっと情けない苦笑いになったのには笑わせてもらいました」
「皆のメンタルケアの為に言ってたんでしょうね。大舞台であればあるほど、緊迫した試合であればあるほどメンタルが重要になってきますが、紅葉は本当にメンタル制御が上手いんですよ。どんな時でも試合を楽しむには? って小学一年生の頃から実践してるんですから、筋金入りですよ」
「そんな紅葉ちゃんが泣いた理由……ああ、なるほど」
「ですね」
それは店内の様子を見れば一目瞭然。一時間前には皆が協会批判をし、つい先ほどは監督批判をし、紅葉の決勝戦出場反対の話をしていた。それが今では協会や監督に賞賛の声を送り、紅葉の決勝戦出場について賛成だ、いややっぱり心配だとそれぞれが言い合いをしている。
「あとちょっとというところですかね?」
「ええ、戦略としてはよかったですが、泣いたことで余計に子供っぽさを強調しちゃったかな? 子供を守らなくちゃって思わせてしまったようですね。う~ん……やり方と紅葉を動かせる人物って考えた時、今回の筋書きを描いたのは池田さんかなぁ。うちの奥さんに許可を取ってそれから紅葉に泣き真似レッスンしたってところかと」
「なるほど、仕込みは完璧、となるとここからさらに何か仕掛けてくる可能性もあるか」
「ええ、その可能性は高いかと」
こりゃあ楽しみですね、と笑う辰巳に康夫は気が気でなくなる。
(皐月さんはマスコミ嫌いだからなぁ。池田さんに徹底的にやりなさいって言っている可能性が)
東条に肩を抱かれながら紅葉が席に戻ってくる様子を見ながら、平穏に終わりますようにと康夫は願わずにいられなかった。
紅葉の瞳が赤く腫れている様が映像に映り、皆が息を飲む。目薬だろうなと思いつつも娘の涙顔に胸が詰まる。
改めて記者からの質問を受け付ける。記者という職業に配慮や遠慮というものはないらしい。皆が一斉に手を上げて質問しようとする。
ズバリと聞きにくいことを聞けるのはある意味、記者という職種の良いところなのだろう。日本の大手新聞社の記者が間違いがないようゆっくりと聞く。
『村田会長から連絡があり、また邪魔や嫌がらせの心配があると言った。ということは、それはつまり開催国である韓国が大井選手に邪魔や嫌がらせをしてきたという認識でよろしいですね。その邪魔や嫌がらせのせいで、大井選手はプレーに集中出来なくなってしまったんですね?』
『はい、その認識でいいかと。ただ、プレーへの影響は私自身としては特になかったと思います』
『ありがとうございます。……プレーへの影響はなかったということですが、それは断言出来ますか? 嫌がらせがなければもっと素晴らしいパフォーマンスが出来たかもしれません。韓国に対して怒ったり、理不尽だと感じませんでしたか?』
この記者の頭の中には、韓国を悪役にする記事が既に出来上がっており、後はその裏付けとなる言質を紅葉から取りたいのだなと、康夫は苦笑する。紅葉も同じ思いなのだろう、苦笑しながら答える。
『それはまぁ、ちょっとは思いましたけど。でも、サッカーの代表戦ってそういうものなのでは? 国を背負って戦うんです。勝つ為にやるべきことを徹底的にやるのは当然です。嫌がらせなんかでメンタルを揺さぶられてたら、話にならないでしょう?』
いやいや、と康夫と辰巳は互いの顔を見合い苦笑する。
「言ってることが、さっきの涙と矛盾してますよね」
「ええ、思いっきり。まぁ、紅葉は正直者ですからね」
紅葉が真剣な表情で記者を見つめながら続ける。
『開催国で相手に気持ち良くプレーさせるなんて、それこそ無能のすることです。芝の長さを変えたり、水を撒いたり、自分たちに有利な状況を作るのは当然です。ただ、それはルールで許されている、もしくはルールに明記されていないグレーゾーンの範囲においてです。今回、VARへの介入が疑われている問題はまったくの別問題であり、選手が怪我をするようなプレーを黙認することは絶対に許されません』
紅葉の整った顔から表情が消え、本当の人形のようになる。そして、すぅっと細められたヘーゼル色の赤く腫れて痛々しい瞳が康夫を睨みつけてくる。しんっと静まり返る店内。画面越しに睨みつけられたすべての視聴者が黙り込む。
『AFCがもし、仮に、KFAをこのまま無罪とするなら。そしてあり得ないこととは思いますが、JFAがこのまま抗議をしなかったら。その時はきっと怒ると思いますし、失望すると思います』
淡々と紡がれるが故にその感情の大きさがより伝わってきた。
「……怒ってますね」
「……ええ」
気まずい空気が漂う中、日本のテレビ局女子アナが韓国で気に入った食べ物は何か聞き、紅葉が申し訳なさそうに現地のものは食べていないと謝り、それから代表納豆カレーが美味しかったとフォローを兼ねた話題転換をしつつ、代表で納豆カレーがブームになった経緯を面白おかしく話す。
使えるネタを入手出来たアナはニコニコで、決勝戦に向けて抱負を、と締めの質問をする。紅葉は、頑張りますと笑顔で一言。すっかすかの内容ではあったが、アナにとっては大満足な結果だったようだ。ニコニコしながらお礼を言って画面から消える。
韓国の記者が明日の試合で特に警戒している選手をなぜか東条でなく紅葉に聞き、紅葉は6人ほどの名前とその特徴を上げて、皆素晴らしい選手なので、胸を借りる気持ちでぶつかっていきたいですと答える。記者は嬉しそうに大井選手も頑張ってくださいと応援までして、ホクホク顔でフェードアウトする。
うちの娘は相変わらず取材慣れしてるなぁと関心を通り越して苦笑してしまう。
オーストラリアの記者が準決勝でのプレーぶりを絶賛した後、紅葉になぜオーストラリアの選手をそんなに簡単に抜けたのか問う。
『まず、簡単には抜けてないです。オーストラリアの選手はフィジカルが素晴らしく組織力もあって本当にいいチームでした。懐が深くてファウル覚悟で来られたので本当に苦戦させられました。6番、8番、13番……特に6番がかなりやっかいで苦労させられました』
『それでもあなたは一人でオーストラリア守備陣を切り裂きました』
『それもいいえ、です。チームメイトが徹底的にバックアップしてくれたから抜けたのであって、私一人の実力ではないです』
『……分かりました。ですがチームメイトのバックアップがあったとしてもあなたはオーストラリア代表を抜きさり続けました。それは事実です。世界中の人々があなたのプレーに熱中し、驚嘆しました。どのようにしてそのプレーをなし得たのか? 皆が議論し、そして誰も分かっていません。出来ることなら大井選手本人に解説して欲しいのです。お願いします!』
『……そうですね、』
紅葉が右手を顔の横に上げ、親指と中指、薬指をくっつけ、人差し指と小指だけ上げたキツネを作り、そのキツネをコミカルに動かし数度お辞儀させる。
「?」
皆が紅葉の行動にキョトンとする。カメラがズームされ紅葉の顔と右手を映し出す。
紅葉が微笑み右手を下ろす。
『今、キツネさんを見ちゃった97人を私は抜くことが出来ます。ええと、フェイントして相手を抜くのと今のは一緒なんです。相手の状態をしっかり把握して、視線や動作をフェイントで誘導して、逆を突く。そんなに難しいことはしてないでしょう?』
『……ええ、と……か、確認なのですが、97人というのはどこから? 適当な数字ですか?』
『? 記者さんの席に座っている人で私の右手を見た人の数ですね。見なかった12人の中で、パソコンに顔を向けたままの7人と寝ちゃってる2人を除いて、右手に反応しなかった3人は抜けなかったってことになります』
『待ってください! 一瞬のうちに…………109人の視線を確認したのですか? そんなことが可能なのですか?』
『一瞬のうちではないです。下準備として、キツネさんを作る前に記者さんたちを見て、そこで人数を数えたんです。それで寝ている人や視線を下に向けている人、ボーっとしている人をピックアップしておいて。それからキツネさんを出した段階で全体を見つつ、ピックアップしていた人たちをチェックする。これをサッカーの話に戻すと、常に全選手の動きを把握しておいて、直接関係する選手たちをより細かく分析するということになります。全体を見ることで、相手がどういう意図を持ってディフェンスしているのかが分かります。ディレイして味方待ちなのか、身体を寄せてくるのか、それとも足を伸ばしてくるのか。またそれに対して味方が無駄走りしたり、パスコースに入ってくれたり、ワンツーを要求したりとオフザボールをすることで相手が対応に迫られる。それからフェイントでさらに相手に対応を迫って、その相手の対応の裏を突いて抜く、といった感じですかね』
紅葉が微笑みながらマジックの種明かしをする。さも難しいことはないとばかりの口調に誰もが絶句する。
康夫が画面越しに見ていた限り、紅葉の視線は一定であった。首を振ったり瞳がキョロキョロしたりといった不自然さは皆無。
つまり見ようと思って見るのではなく勝手に見えるということ。
瞬間記憶力、空間把握力、それから、類まれなる視野に圧倒的な情報分析力。それは周辺視システムの極致。
やろうと思えば出来るということは、無意識下でしているということ。一体どれほどの負荷が脳と目にかかるのか想像も出来ない。
(……いやはや、分かっていたことだけれど、うちの娘たちはちょっとずば抜け過ぎてるな)
天才などと他人に呼ばれる能力、それは普通に生きるのには不必要なものばかりなのだろう。
紅葉も楓も生活が破綻するほど……生き難いほどあまりにその才が突出し過ぎている。
父親として娘たちの普通の幸せを願う身としてはこれ以上進まないでくれと止めたくなる。
(……うん、どんなものであれ、娘たちの成長を喜ぼう。もしも困ったことになったら、その時お父さんが助けてあげればいいんだしね)
もとより楽しそうな娘たちを止めることなど康夫には出来ないのだ。ならば問題が起こった時、手助けする以外、康夫に出来ることなどない。
オーストラリアの記者は絶句とも納得とも何とも言えない胡乱な顔で数度頷きながら聞く。
『……そのずば抜けた認識力があなたの武器であり、オーストラリア代表を抜き続けた秘密と言うことですか』
『えぇと、凄い武器ってことはないかと。誰でもやってることですので。ただ準決勝の時は本当に集中出来ていたので、敵味方の動きがいつもよりよく見えていたし、後はボールを取られてもいいから絶対抜いてやるって気持ちと、ドリブル以外を捨てたのがたまたま上手くいったのかなぁって思います』
『ありがとうございます! あなたの凄さが分からないことが本当に良く分かりました! 本当はもっといっぱい質問したいところですが、他の方たちに殺されそうなのでここまでとさせていただきます! いつか単独取材をさせてくださいね!』
『はい、ありがとうございました』
会場の雰囲気が明らかに変わっていた。皆が知りたがっていたことを質問した記者に賞賛と、紅葉の天才性への驚嘆。静まり返る店内、けれど熱量はより高く、熱していた。
スペインの記者があなたはすでに世界トップレベルの実力がある。けれど十八歳になるまで欧州サッカーには来れない。そのことについて現行の制度に不満はあるかと問う。
『欧州サッカーという世界最高峰の舞台にはいつか挑戦したいです。でも、今は明日の試合のことで頭がいっぱいなので、そんな遠い未来のことだったり制度についてだったりは考えてないです』
準決勝のプレイが世界でセンセーショナルに報道された直後だ。各国の記者が我先にと手を上げ、紅葉へ質問する。
『準決勝ではドリブル一辺倒でパスをまったくしませんでしたが、それは監督からの指示だったのでしょうか? また上の世代とのフィジカル格差が目に見えて感じられる場面が多々ありました。多くのファンが怪我の心配をしていますが、大井選手自身、危険を感じてプレーしているのでしょうか?』
『いいえ、そのような指示はなかったです。ただ、好きにやれって言われていたので、好きにやらせてもらいました。怪我の心配は、そうですね、ないとはいえないですね』
『不安がある中でも決勝戦に大井選手は出場したいとおっしゃられているわけですか? 選手として試合に出たいという気持ちは理解出来ますが、あなたのファンが怪我の心配をしていることも理解して、監督とどうすべきか改めて再考すべきではないでしょうか?』
紅葉は破顔一笑し、頭を軽く下げる。
『皆さんに色々と心配させてしまって本当にすみません』
頭を上げた紅葉は大きな瞳をキラキラ輝かせ、康夫へ画面越しに語り掛けてくる。
『勝つ為に死力を尽くして、全力を出し切って、それでも足りずに全力以上を要求される。勝てば賞賛を、負ければ批判を。国の代表というのは、とてもシビアなものだと思います……でも、だからこそ、成長出来る。オーストラリア戦で私はすっごい成長出来た。それはオーストラリア代表が死ぬ気できたからであり、仲間が私を信頼して手助けしてくれたからであり、そして私にちょっとの運が向いていたからだったと思います……明日の統一朝鮮戦は準決勝よりもっと大変です。相手は親善試合すら組めないほど仲の悪い宿敵。そして完全アウェーでの決勝戦。スタジアムは相手サポの応援と私たちへのブーイングで溢れるはずです……日本の皆さん、そんな中で戦う私たちを応援してくれませんか? 皆さんの後押しが私たちには必要なんです!』
応援よろしくお願いします、と深々と頭を下げる。顔を上げ、少し上気した頬に掛かった髪の毛を整え、それからニコリと笑う。
『私が敵を抜くシーン、見ていて楽しくなかったでしょうか? 私が成長するシーン、見ていてワクワクしませんでしたか?』
皆が紅葉の瞳に囚われたかのように、紅葉の言葉を聴き、そしてその意味をしばし考える。思い出されるオーストラリア戦のドリブル。試合の経過とともにキレをましていき、最後は神憑り的なほどであった。
試合の間中ずっと度肝を抜かされっぱなしで、めちゃくちゃ興奮した。世界が紅葉のことを本当の意味で知り、そして魅了された。海外のメディアが一斉に紅葉を取り上げ、大絶賛する様は父親として日本人として、やはり嬉しく感じずにはいられないものがあった。
そりゃあねぇ、と皆が過去を振り返り、口々に同じような言葉を言い合う。記憶の中の痛快感を呼び覚まされた康夫たちに向けて、たっぷりの間を取った紅葉が、口角を上げ、挑発的な、それでいて酷く無邪気な表情ではきはきと告げる。
『私はもっともっと上手くなれる。世界で一番になるまで私は、私たちは止まりません! 明日は私たちが、すっごく楽しい決勝戦にしてみせます! それからアジア王者になって、皆さんと一緒にお祝いしましょう!』
紅葉の堂々たる勝利宣言に一瞬会場が静まり返る。それから一人の記者が拍手を。連鎖するように拍手の波が起こり、それはあっという間にスポーツバーにまで押し寄せてくる。
酔っ払いどもが大声で紅葉の名前を連呼する中、店の看板娘さんが、明日は紅葉ちゃん割引しますので、ぜひうちで観戦してくださいね、と再びの宣伝。
明日の試合が待ちきれないとばかりに、わいわいがやがや活気づく店内。
「ふぅ、紅葉ちゃんの完勝ですね」
「ええ、本当に」
「結局、紅葉ちゃんが笑いながら応援しろって言うだけで、はい、って頷いちゃうんだから、我々はチョロいもんですな」
「……というより、紅葉と比べると、私たちは悲観論者すぎるのかもしれませんね。気持ちは楽観的に、視線はフラットに、行動は最悪も想定しつつ、絶対の自信を持って……本当にサッカー選手向きなメンタルなんですよ、あの子は」
「……そのポジティブ思考こそ、紅葉ちゃんの圧倒的なカリスマの源泉なのかもしれませんね。見てくださいよ、この場にいる酔っ払いどもの顔を! もう明日が楽しみで仕方ないってニヤケてますよ!」
ははは、それは私もか、と辰巳が嬉しそうに笑い、ビールをごくごくと美味そうに飲み干す。きっと康夫の顔も同じ、ニヤケ顔だ。
結局のところ、試合で見たいと思われるサッカー選手であれば、外野は黙るしかない。シンプルで自明の理である。
紅葉以上に試合で見たいと思える選手などいない。なにをやらかすのか、どれだけ成長するのか、どんなスーパープレーを見せてくれるのか。
店内で皆が話すのは紅葉の話題ばかり。もはや、紅葉を試合で使うなという空気はどこにもない。早く明日になれと願う空気で店内は満ち満ちている。
司会の女性が、勝ち誇った表情で、次が最後の質問になります、と一生懸命手を上げる記者たちに告げ、彼らの怨嗟の念を気持ちよさそうに受け取って微笑を浮かべる。
ああ、司会者の女性もグルだったのか、とそこで漸く気が付く。
世論をきっちり動かした紅葉、というか、その背後で策動していた連中は、世論戦の勝利を確信し、もはや試合前インタビューなど不要とばかりにさっさと会見を終わらせにかかる。
本当にお見事と康夫は烏龍茶を飲みながら、感嘆する。
(マスコミの関心事は紅葉のことだけだったし、聞きたい内容も簡単に想像出来る。後はその質問を上手く利用して誘導するだけ。協会や監督を思いっきりディスらせた後に、違ったとなれば、人は後ろめたさを感じて批判し辛くなる。紅葉の泣き真似で同情させた後に、紅葉の凄さを認識させてからの、私はすっごいプレーをするんだぞー、見たいだろーと思わせる)
下げてから上げる。そのギャップが大きければ大きいほど感情の高まりも大きくなる。より紅葉の言葉が効果的に働く。まさに完璧な試合運び。
(しかし、ここまでやる必要あったのかな? 不必要に期待感を高め過ぎた気がするけれど。皐月さんが認めたってことは必要があったんだろうし、う~ん……協会側は今回の件に反対してたとか? はは、さすがにそれはないか)
康夫の思考はそこで中断する。それは次の質問があまりにもクリティカルなものであったから。
韓国の記者が最後の質問者に指名され、意気揚々と紅葉へ話しかける。
『大井さん、あなたの本当のお父さんを我が国のNPO法人が探しているのはご存知だと思いますが、もしお父さんが見つかった際には国籍をどうするか教えていただけますか?』
『……ええと、ちょっと言っている意味がまったく理解出来ないんですが』
『失礼しました。では少し詳しく……』
紅葉が何も知らず戸惑っていると気付いた記者が、かいつまんで説明するには、児童救済未来財団というNPO法人が紅葉の実父を大々的に探しているのだそうだ。韓国はかつて孤児輸出国であった為、世界中に実の親を知らずに育った子供がいる。そんな孤児たちの多くは自分のルーツを知りたいと願い、実親を探す。今回、その手伝いをしている児童救済未来財団が紅葉の親を探しており、もし実父が見つかった場合、紅葉は日本国籍を捨て、フランス国籍を選ぶのかというのが記者の質問であった。実父のことをほぼ特定しているような記者の口ぶりに、紅葉が戸惑った表情のまま、記者へ答える。
『私はそんなことを頼んだ覚えはありませんし、頼むことなどありえません。ですが、もし、あなたへの質問にあえて答えるなら、日本国籍ということになるかと思います』
『血の繋がった父親に会いたいとは思われないのですか? 父親は会いたいと願っていると思いますが』
『ええと、そうですね。そもそもですが、私のお父さんはたった一人です。本当も嘘もないです……そしてもし、その方が私に会いたいと願われているとしても、それは我慢すべきだと思います』
『我慢ですか?』
記者が怪訝な表情をする。司会者の女性が話の終わりを待たずに会見を終えるか悩んでいるのが、顔の僅かな強張りから察せられる。いや、それは康夫自身が聞きたくないからこその思い込みがそう見せているだけか。
『はい、親というのは子供の幸せを願うものです。血が繋がっていようがいまいが、そんなことは関係ない。私のお父さんとお母さんはいつだって私の幸せを願ってくれています。親というのはそういうものだって私は両親からそれを学びました。そして、今、私はすっごく幸せです。子供の幸せを願う本当の親ならば、すべきことは会いたいという気持ちを我慢することではありませんか?』
『確かに大井選手のおっしゃっていることは正しいでしょう。ですが、我が子に会いたいと願う親の気持ちもまた尊いものです。親の立場にならないと理解出来ないでしょうが』
『……そう、ですね……少なくとも私には分かりそうもありません。私は薄情な人間なんだろうな……ただ幸せであればそれでよいと。余計なことはすべきじゃないと思った……でも私も何かするべきなのかな……』
何かを確認するように呟く紅葉。深く考え込み、そして困ったなと首を振る様は何かに苦悩するよう。司会者が割って入ろうとマイクをオンにする音。記者が慌てて謝罪し、司会者を牽制する。
『私はあなたを責めるつもりはまったくなかったのですが、あなたを傷付けるような発言になっていたかもしれません。その点について本当にすみませんでした』
『……いえ、こちらこそありがとうございました。あなたのおかげで、私は本当に子供で、考えなしなんだなぁって気付くことが出来ました』
紅葉は朗らかに笑い、記者に礼を言う。それからカメラに視線を向け、挑むような真剣な表情で、どこかにいるだろう実の父へと明朗に話しかける。
『うん、そうだね……ええと、血の繋がったどこかにいるお父さん。もし今見ているなら、アンシャンテ! そもそもあなたが私に会いたいと思ってるのかすら分からないので、こういうこと言うのはおかしいかもしれないけど……もし、私に会いに来るなら歓迎します。ただ一つ、あなたは覚悟しなくちゃいけません。あなたはお父さんと比べられるってことを。世界で一番格好良くて、大大大好きな私のお父さんにあなたは勝てますか? その自信があるならどうぞいつでもお越しください』
以上です、と紅葉の澄んだ声が響く。紅葉本人的には、胸を張って、不敵でふてぶてしいニヒルな仕草をしているつもりなのだろうと康夫には分かる。が、その仕草は何ともやんちゃっ子っぽく、愛嬌マシマシで、恐ろしいほど可愛いかった。
質問者であった記者の映像が消え、それから本日の会見は以上ですというテロップが流される。
司会者が早口で感謝の言葉を告げる中、カメラのフラッシュに包まれた紅葉たちが退席する。
「愛されてますねぇ、お父さん」
「……ははは、まぁ、自慢の娘ですからね」
辰巳の場を和ませるチャチャに、康夫は嬉しさと複雑な心境を出さぬよう素っ気なく答える。そんな康夫の態度を見て、辰巳が大爆笑する。ひとしきり笑った後、辰巳が、
「さっきの紅葉ちゃんとまったく同じ表情してますよ。さすが親子」
これには康夫も頭を掻いて苦笑するしかなかった。
皆がビール片手に先ほど終わったばかりの紅葉の話題で盛り上がる店内。康夫も彼らの楽し気な様子にビールが飲みたい気持ちになる。
メニュー欄を見ながら少し考え、それから辰巳におすすめを聞く。
「ここはドイツビールが売りみたいですね。何かおすすめはありますか?」
「おっ! いつもはビールを飲まれないのに飲まれるんですか? でしたら、う~ん、ヴァイスビアヘーフェがいいですかね。さっぱりしていて飲みやすいと思いますよ」
「なるほど、じゃあそれを頼みます。後はビールに合うおつまみをいくつかと……」
「いやぁ、大井さんと酒を飲み交わす日が来るとは、今日はいい日だ。でもどうしたんですか? 普段絶対に飲まれないのに」
「はは、そういう気分というか何というか……そうですね、じゃあまぁビールのアテに私がなんでビールを飲もうと思ったか聞いてもらえますか?」
辰巳のもちろんという返事に康夫はたいして面白い話じゃないんですが、と前置きしてから話し始める。
先ずはなぜ、ビールを飲まないのか。それは自身の育った家庭環境が原因だ。そう言って話し始める康夫の話を吉田辰巳は頷きながら聞く。
アルコール依存症の父親は酒に酔っては暴力を振るう最低な男であった。愛想を尽かした母親が蒸発し、家族は康夫少年と父親の二人だけとなる。いつも酒を飲んでは暴力を振るい、酒が抜ける度に謝る父親のことが康夫少年は大嫌いだった。康夫が大学生の時に父親が死んでも、康夫は父親が大嫌いであったし、決して許せない存在であった。だから大人になっても酒は絶対に飲まないと心に誓ったのだ。
店員がビンビールとグラス、それからおつまみを次々にテーブルの上に置く。注がれたビールの泡が弾けるのを見つめながら康夫が続きを話し始める。ではどうして酒を飲もうと思ったのか。それは話せば長くなる、と。
社会人となり、妻となる皐月と出会う。皐月もまた康夫同様、親の愛情を知らずに育った。そんな二人が家族になって、そこで恐怖する。私たちは愛し合っているが、果たして子供を愛することが出来るのだろうか、と。決して安易に確かめることの出来ない、それでいて絶対に間違えることの許されないその問い。
二人は苦肉の策として、犬を飼うことにした。犬の赤ちゃんをきちんと愛情を持って育てられれば、私たちはきっと大丈夫だ、と自分たちに言い聞かせることにしたのだ。
犬など飼ったことのない二人はとりあえず、一生懸命に犬に愛情を注いでみた。躾をしないのも犬にとっては体罰だと本に書いてあったので、躾はしっかりと行った。しかし、叱るという行為は体罰とどう違うのか。悪いことをした時に、ダメだと拒絶することがどうしても出来なかった。
結局、犬をかなり甘やかして育てることになってしまい、結果はダメ犬の出来上がり。犬はどうしようもないほど甘えん坊の我がままっ子に育ってしまった。けれど、愛情を持つことも、暴力を振るったりせずに育てることも出来た。そんなちっぽけな自信を糧に、二人は子供を儲ける決心をした。
実際に長男が産まれてきて、子育てを始めれば、仮初の自信など吹っ飛び、いつ暴力を振るってしまうのか、疑心暗鬼になるばかり。そんなどうしようもない新米の親たちを救ったのはアホの子だと思っていた犬であった。
これまでの我がままが嘘のようになくなり、長男へ寄り添う様は立派な父親のよう。もしもこの子に危害を加えるなら、絶対に許さないからな、とその瞳と態度で示す犬に、二人は心底安堵した。私たちが酷いことをしようとしても、この犬が止めてくれると思うことが出来たから。
それから色々なことがあった。嬉しいことも悲しいことも。家族が二人増えて五人と一匹になって、もう子供たちに暴力を振るうことは絶対にないと康夫が断言出来るようになった頃、犬は家族に見送られて天国へ旅立った。
犬と特に仲の良かった娘はすごく落ち込んでしまった。犬のことを敵視していた娘も、よきライバルの死に大泣きした。長男は命の大切さ、尊さを犬の死から学んだ。
康夫は犬へ誓った。君の代わりに絶対に子供たちのことを守るから。だからゆっくりお休み、と。
父親になるタイミングというのはいつなのだろうか。子供が産まれても、男にとってその実感は希薄で曖昧だ。だから康夫が本当の意味で父親としての覚悟を持つことが出来たのは一匹の家族が死んでからであった。
大井家は一匹の犬と一人の少女を中心に回っていた。どちらも康夫と血の繋がりはない。けれど、そんなものは関係ないと康夫は思っていたし、実際に今日、娘の気持ちを聞くことが出来た。
別に嬉しくなどない。娘が康夫のことを愛しているのは知っていたのだから。
「そうですか、それはそれは」
さすがにこれには、突っ込まずにはいられなかった。ニヤケまくった顔でそんな澄ましたこと言われても、である。
「はは、ええと、どこまで話しましたっけ。そうそう、紅葉に、格好良くて自慢のお父さんだって言ってもらえて思ったんです。これからもずっと誇れるお父さんでありたいって。でもそれってすっごい大変だと思いませんか? 娘はそりゃもうすっごい勢いで成長していて、正直もう色々な面でお父さんを追い抜かしてる気がするんですよ」
「そんなことないですよ」
ニコリと笑い康夫が辰巳に確認してくる。
「私の引き抜き話をしてこいって言われませんでした?」
「……はい」
「最近多いんですよ」
困ったものですと康夫が笑う。辰巳も苦笑するしかない。
辰巳が会社のトップ直々に康夫を引き抜いてこいと仰せ付かっていること。しかもその命令を無視して辰巳が言わないことまで見抜かれていた。
(うちの上はバカばかりだな。紅葉ちゃんと楓ちゃんのお父さんを欲しいと言わずに、大井さん自身を欲しいと言えば、考慮くらいしてくれただろうに)
康夫に失礼な話を辰巳がするわけがないし、娘たちにちょっとでも不都合が生じる話を康夫が受け入れるはずもない。会話のネタとして俎上に載せる価値すらない。
康夫は優秀だ。部下の水滝が頼ったのは恋愛感情もあったと辰巳は睨んでいるが、それも康夫が優秀であったからこそだ。その優秀な康夫であっても大井紅葉と比べるとなると厳しいのは確かであろう。
比べる相手が悪いと辰巳は内心で苦笑する。
「覚悟を決めたんです。娘が成長するなら、それ以上に私も成長してやると。いつまでも頼れる格好良いお父さんでいるんだって」
「……なるほど」
正直に言って辰巳は康夫のことを誰よりも尊敬している。今、その思いがさらに強くなった。
「それで、成長するにあたり、苦手としているビールとはどんなものか、確かめてやろうと思ったわけです」
「ははは、なんですか、そりゃあ」
「いやいや、小さな一歩が後に大きな歩みとなるかもしれないですよ。それにほら。子供が成人した時に、一緒に酒を飲むってちょっとカッコイイじゃないですか」
あれって憧れません? と笑い、グラスを持ち、恐る恐る口に黄金色の液体を流し込む康夫。グラスを置き、無言になる。しばし後、ポツリと、
「苦くて不味い」
そう渋面を作って呟く康夫にたまらず辰巳は大笑いしてしまう。ひとしきり笑った後、
「それが大人の味、かもしれませんよ。大井さん」
「そうなんですかねぇ、いやぁ、しかし不味いなぁ」
辰巳は一気にグラスを飲み干す。のど越しを楽しみ、苦味の後に豊かでフルーティな甘さが口内に広がるのを楽しむ。
「うん、美味い」
辰巳はこの尊敬する友人とその家族の将来に想いを馳せ、友人との気兼ねないひと時と、美味い酒を堪能するのであった。