05 「残される気持ち」
家で飼っていたゴールデンレトリバーのジョンが亡くなった。足が弱ってしまい寝たきりとなり、ごはんも食べなくなってしまった。動物病院で診てもらったところ、老衰だとのことだ。スポイトで水を与え、身体をマッサージし、オムツを替えてあげることしか出来ることはない。
寝ている時間が増えていくジョンを、和博と楓の二人と一緒に見守ることしか出来なかった。そしてそんな状況から三日、ジョンは静かに息を引き取った。
紅葉は涙が止まらなかった。最後、元気でねとジョンに言われた気がした。笑っていろと励まされた気がした。それでもダメだった。紅葉が産まれて五年間、ずっと一緒にいた相棒がこんなに早く、それもあっけなくいなくなってしまうなんて考えてもみなかった。
「死んじゃったらどうなるの?」
楓が泣き止まない紅葉の手を握りながら、お母さんに質問する。お母さんが楓と紅葉の頭を優しく撫でながら答えてくれる。
「死んじゃったらお話出来ないでしょう? だから、死んだらどうなるか、死んだ人は教えられない。死んだらどうなるかは誰にもわからないことなの」
「……わかんない」
「わかんないよね。本当はお母さんもわからないの。でもそうね……楓はジョンのことを覚えているわよね。これから先ジョンのことを忘れちゃう日が来るかしら?」
「わたし忘れないよ! ずっとジョンのこと覚えてるもん」
「そうよね、覚えてるわよね。じゃあそれは、楓の心の中に死んじゃったジョンが入り込んで、一緒にいてくれてるってことなんじゃないかしら。ジョンのことを忘れない限り、楓の中でジョンが生き続けることになるのかもしれないわね」
「……やっぱりわかんないよ」
困った顔をする楓にそうね、わからないわよね、と呟きながらお母さんは少女たちの頭を撫でる。紅葉は泣きながらその話を聞いていた。 紅葉は一度死んでいる。お母さんの話通りなら、死んだらどうなるか答えられる、稀有なる存在ということになる。
しかし、実際はまったく違う。死んで気が付いたら紅葉という赤子になっていた。死んでから、紅葉になる間のことは何一つ覚えていない。
何一つ覚えていない、が、知ってはいる。紅葉として生まれ変わってから、すぐに調べようとした。なかなか一人になれず、結局調べることが出来たのは二歳になってからであったが。
家族が寝静まる夜中に家のパソコンを使って調べた。牧村太一は本当に死んだのか。御園咲は無事であったのか。
インターネットには事故のまとめサイトが無数にあり、様々な情報が記載されていた。そのうちの検索でトップにきたウェブを見る。両手を使ってマウスを操作し、ゆっくりとスクロールしていく。死亡者名『牧村太一』『真辺秋奈』。
咲の名前がないことを確認し、ほっとする。そして、やっぱりかと紅葉ははぁと息を吐き出す。
真辺秋奈、それはお母さんの妹さんの名前だ。お母さんと秋奈さんは仲が良かったのであろう。毎月月末になると紅葉たち家族は秋奈さんのお墓参りに行く。お墓を掃除し、お線香を供える。お母さんはその後、目を閉じて静かに手を合わせる。楓たちもお母さんを真似して手を合わせる。
それが終わると、車で待機していたジョンと合流し、近くの公園でお母さんお手製のお弁当を食べ、家族みんなで遊ぶ。楓も和博も、そして紅葉も大好きな時間であった。
とはいえ、普通に考えれば毎月(雨の日は除く)妹のお墓参りに行く姉はいないだろう。それが、レジャーのついでだとしても違和感がある。その違和感も、娘の成長を見せる為であれば話が違ってくる。
(そう、私の成長を見せる為に)
ネットに書かれた一文が紅葉の心を抉る。
『牧村太一氏が身を挺して真辺秋奈さんを守ったことで、彼女のお腹の中にいた赤ちゃんの命が救われたことは奇跡的な確率であった』
紅葉は暗がりの中でモニターをじっと見つめる。あの時、太一が庇った妊婦さんが真辺秋奈さんで、その秋奈さんの赤ちゃんこそ、今の紅葉なのであろう。はぁ、と二歳児が出してはいけない重い溜息が出る。
(赤ちゃんを救った? ふざけんな、乗っ取ってるじゃないか! 私は牧村太一だ。じゃあ、大井紅葉という赤ちゃんの魂はどこにいる?)
――太一が紅葉を殺してしまったのではないか?
太一は紅葉の身体を乗っ取り、生きているのだ。それは殺人と何が違うというのだろうか。私が死ねば、本来の私が現れる? そんな都合のいい話があるだろうか。わからない。だけど、私がここにいる時点で、大井紅葉は死んだ。そんな気がする。
(紅葉を殺した私は大井紅葉として生きていくしかないんだ)
どうしようもないことのはずだ。だけど、楓の傍で生きた二年間で痛切に思い知らされてきた。赤子ほど尊く大切なものはない、と。
それを殺した。ただただ償うことの出来ぬ所業の罪深さに目の前が真っ暗になる。これ以上読む気が起きず、ウェブを閉じ、PCをシャットダウンする。
「どうすればいいんだろう」
紅葉が暗がりの中でポツリと呟く。もしかしたらと心の中にあり続けた、救いようのない真実。絶対に答えの返ってこない問いかけ。しかし、その問いかけに返事があった。
「わんっ、わんわん」
ジョンであった。ジョンは呆然と立ち尽くす紅葉に近づくと、ペロペロと頬を舐めてくる。紅葉はジョンの濡れた鼻を手で撫でる。今は何の気力も湧かなかった。嬉しそうにじゃれてくるジョンを見てポツリと呟く。
「ジョンは悩みがなさそうで羨ましいなぁ」
「うぅぅぅぅ、わんわん!」
「わっ、こら、危ないよ」
ジョンにパジャマの袖口を引っ張られ、危うく転げそうになる。そのままジョンに引っ張られて、ついた場所はリビングの端にあるジョンの寝床であった。ジョンが紅葉の袖を銜えたまま座る。それに引っ張られて紅葉はジョンの腹の上に乗りかかるように倒れる。
紅葉は身体を捻り、ジョンの身体を背にする形で蹲る。ジョンが紅葉を包むように身体を丸める。
「あはは、ジョンは暖かいねぇ」
陽だまりのようなジョンの匂いに包まれ、紅葉は安らぎを感じる。凍ってしまった心が解けていくようだ。紅葉はポツリと問う。
「ねぇ、ジョン。私はここにいてもいいのかな?」
ぶるりとジョンの身体が震え、ペシリとジョンのしっぽが紅葉を叩く。当たり前だろうと言われた気がした。
「あははっ、いいの?」
くだらないことを何度も聞くなとばかりにもう一度しっぽが紅葉の頭を叩く。
「いいのかな。私、バカだから、どうしたらいいのか全然わからないんだ。私、お母さんもお父さんも和君もカエちゃんも、みんな好きなんだ。みんなすっごい優しくしてくれるの。でも、本当ならそれは紅葉が受けるべき待遇なんだ。私が横取りしていいものじゃない」
またペシリとしっぽが紅葉の頭を叩く。そして、ジョンがふわぁと大きな欠伸をする。何をバカなこと言ってんだ、早く寝なさいと眠そうに言われた気がする。
「あははっ、もう! 人がせっかく頑張って考えてるのに。でも、うん、そうだよね。わかんないのはわかんないんだ。どうしようもないのはどうしようもないんだ。今の私に出来ることはこの身体を大切にして、一生懸命生きることしかないんだ。いつか、私が目覚めるその時まで、私は精一杯生きる。よし! また明日からサッカーの特訓だ! 明日は負けないからね、ジョン! って痛いよ、さっきからバシバシ叩かないでよ、もう」
ジョンがまた大きな欠伸をする。紅葉もジョンと一緒に欠伸をする。そして一匹と一人はそのまま夢の世界に旅立つのであった。
その日以来、紅葉は時々、ジョンと一緒に寝るようになった。お母さんは仲良しねと笑っていたが、楓はジョンのしっぽを掴んで、お姉ちゃんを盗るなと怒っていた。
(私が私を受け入れられたのはジョンがいたからなんだよ。私が落ち込んでる時、ジョンがいっつも私の傍にいてくれたから、私はここまで来れたんだ。なのに、酷いよ。私を一人にしないでよ)
別れがこんなに辛いものだとは知らなかった。あるべき温もりの感じられないことが、こんなに心凍らせるものとは思わなかった。
(私が死んで、咲もこんな気持ちだったのかな)
ふと、脳裏を過ったのは前世の恋人のこと。彼女とはジョンと紅葉のように、ずっと一緒にいた大切な関係であった。悲しそうに泣き続ける咲が紅葉の前に現れる。
彼女は太一が死んで立ち直れたのだろうか。今の紅葉のように泣き濡れていないだろうか。彼女に会いたい。会って、確認したい。彼女が立ち直っている姿を見て、安心したい。
死んで、五年だ。今更かもしれない。それに咲は芯の強い子であった。立ち直っているだろう。
(会いに行ったところで何も出来ない。でも、咲に会いたい。私が太一であると伝えられなくても。咲の元気な顔を見たい)
紅葉は居ても立っても居られない気持ちになってしまった。そして、一人で咲に会いに行くことを決めたのだった。