48 「いつか大人になるあなたへ 前」
ホテルの自室。東条絵里は怒りを抑える為に一つ息を吐く。
11時から始まった電話は昼食時間を過ぎてもまったく終わりそうになかった。気持ちを落ち着かせ、テレビ電話越しの相手へ問う。
「つまり、大井を使うなというのが理事会の最終勧告ということですか?」
「くどいぞ! 協会の意思は何度も伝えただろう!」
JFA副会長の岩田が、唾を飛ばす勢いで絵里の問いを切り捨てる。そしてもはや言い飽きたとばかりにため息を吐き、回答を告げる。
「スポンサーが彼女の起用を求めないと伝えてきた。会長もそれに同意した。理事たちも思いは同じだ。他に何が必要ある! あ゛あ゛!?」
岩田がスキンヘッドのいかつい顔を歪めて恫喝する様に、ヤクザかよ、と突っ込みたい衝動に駆られるが、グッと堪える。
(協会も尻に火が付いて大変なんでしょうけど、それを現場に押し付けるなよ……はぁ~、アホくさ)
理事会の最終勧告か? と聞いて返ってきたのが、理事会も同じ思いだという曖昧な答え。つまりはそういうことだ。世知辛い世の中だなと思いながら、それでも絵里は通じもしない正論を唱える。
「チームドクターから試合出場の許可は出ています。オーストラリア戦でドリブル一辺倒になったメンタル面もカウンセリングの結果、継続的な観察の必要があるとのことですが、決勝戦出場には問題ない旨、診断書をいただきました。大井本人もオフザボールの動きで相手を引き付け、チームに貢献したいとはっきり言っています。そして優秀なスタッフ陣が全力で彼女をサポートします。怪我のリスクは極めて少ないんです。本人も試合に強く出たがっています……それに何よりも! 大井がいなければこのチームは機能しません! 勝つ為には大井が必要なんです!」
岩田は、優秀なスタッフ陣と言うところにだけ噛みつき、他は無視する戦略できた。
「はっ! ドクもトレーナーもカウンセラーも! 情報分析官に管理栄養士にフィジコも! 用意したのは私だ! 大井の為だけに日本で最も優秀なサポートチームを結成した! 誰も、もちろん君も感謝の言葉すらないがな!」
「……監督として重々感謝しております」
絵里とてあまりに豪華なスタッフ陣が、紅葉の為だけに派遣されたことくらい理解している。感謝していますと殊勝に答えるしかない。
だが、岩田は絵里の態度が気に食わなかったようだ。語気を荒げ、早口でまくし立てる。
「それが、どうだ! マスコミは我々を非難しかしないじゃないか! 怪我が心配? 笑わせるな! サッカーに怪我は付き物だろうが! 男子フル代表以上の手厚いサポートをしたところでゼロになど出来るか! そんなのは当たり前だ! 12歳の少女を招集したことが問題!? そもそも我々は大井をU-16に呼ぼうとしただろうが! それを君やマスコミ連中が大井をU-19に呼ぶよう圧力を掛けてきたんだぞ! だいたい……」
岩田がマスコミに対して罵詈雑言をぶちまけ続けるのに絵里は神妙に頷いておく。内心は、お偉方の保身術と論点のすり替え術の巧みさに辟易しながら。
とはいえ。今回のSNSなどを使った世論の協会叩きが常軌を逸していることについては、絵里も同情を禁じ得ない。
(皆が大井に魅せられて、それで怖くなっちゃったんだ。無理もないけれど皮肉よね)
紅葉の価値が紅葉を試合から遠ざける。試合に出たいと願う紅葉が、最高のプレーをしたが為に試合に出られなくなる。実に皮肉な結果だ。
オーストラリア戦の試合中に気絶した紅葉は、大会指定病院で精密検査を受けた。結果は打撲等あるものの異常なし。
その紅葉の検査結果が即座に韓国マスコミによって喧伝された。
全治一か月の重傷として。
紅葉の両足は痣だらけであったし、全身にも内出血の後が無数にあった。確かに、それが完全に治るには一か月以上かかるだろう。全治一か月と言えなくもないし、全治一か月なら重症と言えるかもしれない。
岩田の言う通り、サッカー選手にとって痣など怪我の内に入らない。試合をすればどこかしらに出来るものでしかないのだから。
紅葉が倒れた時の写真を使い、全治一か月の重傷と伝える。それから、まだ身体の出来上がっていない十二歳の少女にとって、U-19の試合に出ることが如何に無謀でどれほど危険であるかを訴える。
そして、紅葉をU-19女子日本代表に召集した日本サッカー協会の体質批判や絵里の起用批判へと繋げる。
完全に受け手にミスリードさせる記事。そもそも本来漏れるはずのない紅葉の検査結果が即日でなぜ漏れたのか。韓国サッカー協会もしくは組織委員会から意図的に漏れたとしか考えられない。
紅葉の検査結果の原本をマスコミに渡し、さらにもともとあった火種とも言えないものに無理やり火を付ける。韓国サッカー協会による韓国マスコミを使った紅葉潰し。
気付かれてもいいのだろうか、と不思議に思えるほど分かりやすい構図だ。紅葉を決勝戦に出させない為にホスト国が仕掛けてきた世論戦。
そう、池田に説明されたが絵里には到底納得出来なかった。
勝ちたい。優勝したい。それはお互い一緒だ。理解出来る。けれど、もうすでにお互い来年のU-20ワールドカップへの切符は手に入れている。ミッションはコンプリート済みであり、順位によって来年の予選ポットが変わることもない。であればある意味決勝は、来年を見据えたガチンコのテストマッチという側面も帯びてくる。相手にとっては紅葉対策を試す最初で最後の場となる。来年勝つ為に試さない手はないと絵里は思う。
もちろん優勝したいという気持ちは良く分かる。統一朝鮮チームは自国開催なのだからその想いがより強いのも分かる。それでも、なりふり構わず汚い手、ほぼほぼグレーの手を使って危険を冒してまで、紅葉を出場させないように追い込む必要があるのだろうか。そこまでして勝ちたいのか? その勝ちに意味はあるのか? 絵里にはどうしても納得出来なかった。
(大井に対する嫌がらせにVARへのあからさまな介入。そして今回のフェイクニュース。絶対に許せないな)
そんな絵里の胸中など関係ないとばかりに、韓国マスコミの報道に追随する形で日本のマスコミのごく一部も協会バッシングを開始し、紅葉の決勝戦出場はリスクが大きいと書き立てた。そこまではよくあることだろう。だが、今回に限って言えば、そこからが違った。
日本世論があまりにも過剰に反応したのだ。紅葉への期待度に比例してなのだろう。世論は協会を叩きまくり、さらにはスポンサーや絵里たちまで非難し始めた。相手の思い通りの展開となったわけだ。
岩田が、散々言われたであろう言葉を絵里にぶつけてくる。
「もし、明日の試合に大井を使ってみろ! なぜ、世界への切符を手にした後に大井を使ったのか。なぜ、怪我の影響が残る大井を使ったのか。なぜ、メンタル面で問題を抱えている大井を使ったのか。身体の出来ていない少女を重要度の低い試合で投入する愚かな行為とますます責め立ててくるぞ! そして何より! 大井という天才がこんなところで怪我をするかもしれないというその可能性こそ、世間は拒絶しているんだ! 大井を使うことはリスクしか生まない。スポンサーが恐れるのも無理はないだろうが!」
そう、世論は紅葉を失うこと、失う可能性を心の底から恐れている。そしてその世論に完全に屈した協会は、紅葉の決勝戦出場を止めるよう絵里に連絡してきたわけだ。
(まさか、本当にこんなことになるなんて)
池田の懸念が当たってしまったことに絵里はため息しか出ない。電話越しにがなり立てる岩田の言葉を無視し、昨日の出来事を思い出す。
※※※※
病院から戻ってきた紅葉は元気いっぱいにチームメイトや絵里たちに謝罪してきた。パスをしなかった理由についても包み隠さず打ち明けてくれた。それを聞き、深刻な問題になるかと危惧した。けれど、慌てて行ったカウンセリングの結果は問題なしの要経過観察というものであった。
トラウマを侮ってはならない。パスの瞬間、選手たちの怪我する映像が脳裏にフラッシュバックする。それは立花の怪我を間近で見たが為のトラウマだろう。
紅葉の圧倒的な状況判断力、絵里からすれば未来予知とすら思えるほどのそれがバグを起こしている。紅葉の説明から絵里はそう解釈した。あまりに紅葉の能力が異常すぎて正しいかは分からないが概ね間違いではないだろう。
そのバグが続けば選手生命すら危ういのではないかと思うのだが。しかし、当の紅葉本人は絶対に大丈夫だと自信満々に言い切る。
後はしっかり咀嚼して自分のものにするしかないんです、と真剣な表情で呟く紅葉の言葉を本当の意味で理解出来るものは誰もいない。
突き抜けすぎている。かつて天才と呼ばれ、日本代表のキャプテンまで務めた絵里ですら、紅葉のことは理解出来ない。
(小一の頃から大井を見守ってきたけれど、この子はいったいどこまで成長するのかしら)
サッカーはやっぱり楽しいですね、と満面の笑みを浮かべる紅葉に絵里は苦笑するしかない。紅葉の礼儀正しい受け答えと的確な回答に、これ以上の心配は必要ないだろうとカウンセラーも納得させられてしまう。
それでもやはり紅葉を使うことに不安は残る。だが、絵里に紅葉を外すという選択肢は選び難い。それは勝ちに固執するが為ではない。
(大井の成長する姿を見たい)
監督としてこの手で紅葉を育てているという感覚。紅葉と言う天才が育っていく様を監督というポジションで見ることは、何物にも代えがたいものがあった。
そして紅葉はあまりに唯一無二すぎる。一人で点を取り切る力だけでも最高なのに、さらにチームを統率し、仲間に的確な指示を出し、そしてさらにチームメイトのモチベーションまで上げてしまう。
体力がないという弱点こそあれ、そんなマイナスなど関係ないほど紅葉は監督からすれば最高に有用な、それこそ反則級の手札である。
だからこそ、本当に今の紅葉を使うべきなのかと己に何度も問いかけ、結局は紅葉を使うべきだという結論になってしまう。そしてそれは本当に正しいのか、紅葉に依存しているだけではないかと不安がよぎる。
絵里は決勝戦で紅葉を使うべきか悩み続けた。けれど、絵里のその悩みは選手たちの意見によって晴れることになった。
夜9時、紅葉が夢の中にいるだろう時間に呼ばれた会議室で、絵里を出迎えたのは選手たち、それからコーチやスタッフに池田もいた。絵里が大鳥に先導されて席に座るや否や、
「紅葉ちゃんの負担を減らす為に左サイドから攻めます! 攻撃は私に任せてください!」
左ウィングの柳瀬が頬を真っ赤に染め、思い詰めた表情で告げてくる。それにボランチの酒井が不敵な笑みを浮かべて柳瀬に一声掛けてから、絵里に向かって柳瀬の発言をフォローするように伝えてくる。
「私が紅葉以上のパスを送ってやるから、しっかり崩せよな! 監督! 紅葉を囮として右に置いて、柳瀬を軸に全員で左から攻めたいのですが、どうでしょうか?」
左セントラルミッドフィルダーの剣崎と、左サイドバックの田岡がそれぞれ声を上げる。
「左で崩すのに、柳瀬を全力でサポートします! ポジションを少し前掛かりにさせて欲しいです」
「アタシは全力で左をオーバーラップします! 任せてください!」
長身フォワードの今泉が声を張り上げる。
「中央で身体張ります! どんどんクロスちょうだい!」
他の選手たちも次から次へと、自分のすべきことを絵里とチームメイトへと必死に伝えてくる。控えの選手たちも、私はこうすると声を上げ、皆がその声に頷き合う。
絵里は選手たちの熱量に圧倒されてしまう。
(……本当に凄い。皆が自分のすべきことをしっかり言える関係を構築して、そして迷いなく勝利を求めている)
選手たちの気持ちは紅葉に無理をさせないこと。そして、紅葉におんぶにだっこであり続けた自分たちを変えたいと言う強い気持ち……いや、
誰もが、年下の女の子を心配し、そして助けたいと願っているのだ。
そして勝ちたいと願っている。それはなぜか考えるまでもない。
――紅葉が誰よりも勝ちに拘っているから!
(私は監督だ。この子たちの気持ちを集約し、そしてチームを勝たせることが私の役割だ)
絵里は全員を一通り見つめ、そして決意する。気持ちを集約する必要はない。後は勝たせることだけ。
スクリーンに敵味方の選手を配置し、一人ずつ役割確認をしていく。
「フォメは予定通り4-3-3で、準決勝と同じメンツで行くわ。ただ、攻撃のシステムを変える。酒井、あなたにはマークが厳しく付くはずよ。だから、攻撃時に一列下がって最終ラインに入りなさい」
「はい!」
二列目中央の酒井を下げ、センターバックの位置へと配置する。そして酒井にボールが入った時の動きをスクリーンに表示する。
「酒井にボールが入った時は後ろはパスコースを作ること。前は抜け出し狙っていけ! 酒井は軽くはたくところと、しっかり狙うところのメリハリをしっかりつけろよ!」
酒井の気合の入った声を聞き、それから、両サイドバックの二人に声を掛ける。
「田岡と近藤、あなたたちは酒井のポジに入って、ラインを押し上げて、中盤でライン形成。カウンターを確実に潰しなさい!」
「はい!」
両サイドバックを偽サイドバックとして攻撃時に中央に配置し、パスのつなぎ役と、カウンター阻止の積極的プレスを指示する。
「ボールを奪われたらすぐに詰めてけよ! その為に奪われた奴らは絶対に食らいついて時間稼ぎするんだぞ!」
全員の大声が返ってくる。絵里は一つ頷き、センターフォワードと右セントラルミッドフィルダーの二人にはゴール前に陣取るよう指示する。
「今泉! 秩父! あなたたちは中央前線で身体張れ! 気合でゴール奪え!」
「はい!」
「何十回外してもいい! 絶対に私が点を取るんだっていう気持ちでゴール前に入ってけよ!」
左ウィングと左セントラルミッドフィルダーには高い位置での突破を課す。
「柳瀬! 剣崎! あなたたちが左サイドを攻略しなければこの作戦は成功しないわ。相手の守備を絶対崩せ! 何度でも攻め続けろよ!」
「はい!」
センターバックのキャプテン大鳥には試合の流れを読んで攻撃のタスクも割り振る。
「大鳥! 行けると思ったら、守備は増渕と酒井に任せて、オーバーラップしてゴール前に上がっていいわ。得点取るのを手伝いなさい!」
「はい!」
そしてゴールキーパーにはポジショニングの注文を付ける。
「成田! あなたはいつもより5メートル高い位置を取り続けなさい。攻めの姿勢で飛び出せよ!」
「はい!」
全員に向かって発破をかける。
「大井には右サイドに張ってもらう。それだけで敵は右に二、三人配置するはずよ。こっちは数的優位なんだから、大井に頼らず攻め続けろ! 出来るわね!」
「はい!」
「分かってると思うけど、攻撃し続けること! ボールを失うのを恐れるなよ! 積極的にしかけろ! 取られたら、死ぬ気で奪い返してまた攻撃する。大井みたいなプレーはいらないから! 泥臭く走れ! ラインを揃えて、ポジに気を付けろ! 頭を使ってオフザしろよ!」
全員が大きな声で、瞳を燃やしながら頷く。コーチ陣も交え、敵の動きと自分たちの動きの詳細を詰めていく。
絵里は子供たちの熱量に感動し、そして心の中で謝罪する。
(ああ、この子たちは本当に凄い! 私はこの子たちが大井の才能に圧し潰されるんじゃないかって心配していた。でもそんなのまったくの杞憂だったんだ……私なんかよりこの子たちは賢いし強いわ)
コーチに自分の意見をしっかり伝え、それから意見を貪欲に、納得するまで求める選手たちを見つめ、絵里はクスリと笑う。
(この子たちの吸収力が凄いのか、それとも大井のカリスマが凄いのか)
目の前の光景は紅葉とコーチたちとのやり取りとそっくり。選手たちが紅葉をお手本にしているのは一目瞭然だ。
選手間の会話が多いのも紅葉のおかげだ。女子チームはどうしても仲の良いグループが出来て、メンツが固定してしまう。けれど、このチームは紅葉のおかげでチーム全員がよく喋る。
紅葉は練習中でも食事の時でも、休憩中でも、毎回違うチームメイトの所に行って会話をする。選手たちが年下のレアキャラみたいな存在に話しかけられて戸惑っていたのは最初だけ。皆が紅葉のことを構い倒すのはすぐであった。そうして気が付けばいつの間にか全員が活発に話し合う間柄になっていた。
絵里のところに来た夕食の席で、そのことをコーチに尋ねられ、紅葉は笑いながら、嫌われてもいいという覚悟で全員に話しかけていると教えてくれた。
八方美人と思われ嫌われようとチームメイトの性格や思考を理解出来れば、その分、連携が良くなるし、私のことを理解してくれれば、いいパスが来るし、チームは強くなる。嫌われたら嫌われたでちょっと悲しいけど、相互理解の点ではオッケーでしょう? と小首を傾げる紅葉に周囲が絶句する。絵里も絶句した。
笑ってしまうほどのメンタリティだ。絵里はかつてを思い出し、ほろ苦い気持ちになる。
(凄すぎ……てか大井が例外! 普通はくっそメンドイ派閥が出来るし、そりの合わない奴とは話さなくなって、パスすら来なくなるもんなんだから!)
それでチームが弱くなって、試合に負けてしまうのだから、実にバカバカしい。本当に人の集まり というものは難しい。
(本当にこのチームの監督になれて幸せだわ……大井を無理やり呼んだ私、マジで偉い!)
カウンターの時の対処法でフォワード陣とバック陣が大喧嘩を始める。それを大鳥やコーチたちが執り成し、ことが収まったと思ったら、今度は大鳥がオーバーラップのタイミングで弱気の発言をしたことで全員から集中砲火を浴びる。バランスなどしったことかと皆が積極策を提示し、コーチたちから論理的に諫められる。
これこそ本当のチームだ。かつての絵里には出来なかった、あるべき日本代表の姿が確かにあった。涙が出そうになるのを必死に堪える。
東京オリンピックの時、絵里たち日本チームは惨敗を喫した。その理由は色々あろう。単純に実力不足であったのも確か。けれど、覆せないほど明確な敗因もあった。
チームの意思統一が出来なかったこと。それこそが致命的であった。
監督に意見した選手が代表落ちし、海外組は活躍してもほぼ呼ばれない。そして特定クラブの国内組重用に、その特定クラブの得点王は呼ばれないという不可解選考。
そして監督は試合に負ければ選手の実力不足を指摘するだけ。具体的な戦術戦略人選の変更をしない。
そんな状況で誰が監督へ意見出来ようか? 選手間の意思疎通が図れようか? チームが団結出来ようか?
誰もがこのままじゃいけないと気付いていた。それでも声は最後まで上がらなかった。
絵里はキャプテンとして意見すべきであった。だが、出来なかった。
優勝しよう、という掛け声に本当の意味で気持ちは籠っていなかったのだろう。紅葉のように嫌われてでもチームをどうにかしようと考えられれば違ったのだろうか。
分からない。結局誰も何もアクションを起こさなかった。そして当然の結果が待っていた。
監督が退任しても世論の絵里たちへの批判と失望は消えなかった。かつての奇跡、震災後の活躍を、今回も彼ら彼女らは期待していた。その期待を裏切ってしまった。それは重々承知している。悪いとも思った。
だとしても! ネット上ならどんなに酷いことを言ってもいいのか? 代表選手であれば個人攻撃すら許されるのか?
代表選手とは何なのだろうか。
代表選手と言っても大学生やプロ契約を結んでいない子だっている。プロであっても収入は一般会社員より少ない。それにプロである期間は本当に短い。夢のない話だが、女子サッカー選手を目指してもまったく儲からない。ただサッカーが好きだから。それだけの理由で頑張ってきた子たちがほとんどだ。
なのに、世論は絵里たちを悪魔のように責め立てる。いや、分かっている。彼らはSNSや匿名掲示板、記事のコメント欄に、本当に軽い気持ちで呟いているだけなのだ。
自分が正しいと思ったことを書き込んでいるだけ。誰かを傷つけているという気持ちなど微塵もない。
その呟きこそ誰かを傷付け、誰かを追い詰めていると誰も自覚しない。惨敗のショックで落ち込んでいる絵里たちにその仕打ちはあまりに酷であった。
絵里は責任を取って選手を引退した。それはけじめであったし、なにくその精神でもあった。世論から他の選手たちを守りたかった。まだ若い絵里が辞めれば世論が同情するだろうという後ろ向きな打算と狙い。
結局それは功を奏し、絵里はサッカー選手でなくなった。正しい行動であったかなど分からない。何も変わらなかったようにも思える。
協会は組織内でなぁなぁの総括を終え、また一からやり直し出した。それじゃあ何も変わらない。何かを変えなければ日本女子サッカーは停滞したままになってしまう。
(サッカーが好きな女の子が思い切りサッカーが出来る環境を作る。私が変えてやると思った。その為に女子サッカーのレベルを上げようと監督になった。でも私は監督としてあまりに実力が足りていない。そのことを痛感させられることばかり。だけど、この子たちは成長してくれた。私が成長させたんじゃないし、大井のおかげだけど、それでも嬉しい……私だってこの子たちと一緒に成長したい。いや、しなくちゃダメだ)
主体性の乏しかった選手たちはもういない。皆がチームの勝利の為に行動していた。絵里は目の前の光景がたまらなく嬉しかった。
かつての絵里には出来なかった。絵里は目の前の子供たちが誇らしくてたまらなかった。
(……この子たちならきっと、私の夢を叶えてくれる)
感動で涙目の絵里に、喧々諤々の議論を終え、満足気な顔をした酒井が話しかけてくる。
「監督、絶対に勝ちましょうね!」
「……ええ!」
(ヤバい、泣きそう)
皆が、コーチたちすら、勝とうと声を上げる光景に涙腺が崩壊しそうになる。池田がカメラを向けていなければ、たぶん泣いていた。
「ところで、紅葉に伝えるのは監督に任せますね!」
「……ん?」
「左サイドからの攻めだったり、偽サイドバックだったり、守備のやり方だったり、紅葉を囮にすることだったり、色々と決まったわけですけど、それを紅葉に伝えるのは監督の役割ですもんね! お願いしますね!」
「…………え?」
実に生き生きとした顔と声で酒井が言う。
「ほら、前に紅葉抜きで会議してたのバレた時、紅葉めっちゃ拗ねたじゃないですか。いやぁ、紅葉ってエスパーかってくらい人の心を読んでくるじゃないっすか! 紅葉抜きで会議してたのすぐにバレるだろうなぁ。だから、ここで決まったことを伝える時、また紅葉拗ねると思うんですよ~! いやぁ、まったくお子様には困ったもんですよねぇ~」
「しかも二回目! うわぁ、やっばぁ~」
「しかもしかも、紅葉ちゃんは作戦上動くなー! って指示するんでしょ!? ……うっわぁ~、紅葉ちゃん切れるんじゃない?」
「確かに! 紅葉ちゃんってどんな時でもチームの中心選手としてやってきただろうし、サポートに徹しろって言われたら怒るかも」
「ん、それは大丈夫だよ。小学生の時に紅葉が自己中心的なプレーした時、監督のお父さんにすっごい怒られたんだって。お前なぁんか勘違いしとりゃせんか? お前の為にチームがあるんじゃねぇ、チームの為にお前がいるんだ!! ってさ。それ以来、紅葉はチームプレーの重要性に気付いたんだって」
「それまじ? かっくぃぃ! さすが名監督として有名なだけあるね、紅葉ちゃんのお父さん!」
「……ちなみにそれ嘘だけどね。紅葉ちゃんって小学一年生の時からチームプレーばっちりで、献身的なプレーしてたらしいから。でも、そんな荒唐無稽な話、誰も信じないから、スラダンのパクリ話の方が信憑性あるって、広まったんだってさ」
「……マジ?」
「マジ」
「……ま、まぁ、どっちでもいいじゃん! しっかりお話すれば紅葉ちゃんなら納得してくれるよ! 紅葉ちゃんいい子だもん! 監督、後は任せましたよ!」
全員が口々に、監督お願いしまーす! とニヤニヤしながら、言う。
(……なるほど、ね)
紅葉なら間違いなく、明日の朝練で即座にチームメイトの変化に気が付く。そして、自分抜きで会議をしていたことも見抜くだろう。その時どうなるだろうか。絵里がバラした一度目の時は拗ねたそうだ。では二度目ではどうだろう?
考えたくもない。
(とりあえず、こいつら全員ぶん殴りたい)
ニヤニヤした表情で絵里を見つめてくる教え子たちに絵里は本気で殺意を覚えた。
※※※※
岩田のお小言をスルーし、絵里は岩田に向かって微笑みながら伝える。
「大井の件につきましては分かりました……それでは、前日会見の準備がありますのでこれで失礼させていただきます」
「……ああ、発言内容と想定質問回答集は、すぐに用意して送る。くれぐれもマスコミを刺激しないように頼むよ」
「はい」
「君には苦労を掛ける。将来的にはフル代表監督という形で報いたいと思っているから、しっかり頼むよ」
「はい、ありがとうございます。それでは……」
テレビ通話を切った瞬間、絵里は中指を立てて、毒突く。
「笑わせんな! こっちは朝一で、大井の無表情攻撃に耐えたばっかなんだぞ! 誰が、お前らの言うことなんか聞くか!」
朝のことを思い出し、ブルっと背筋を震わせる。
岩田のヤクザ顔より紅葉の無表情の方が遥かに怖かった。
神が造りし最高傑作、人間離れした美しい顔が、人形のように固まり、ヘーゼル色の大きな瞳が絵里を静かに見据えてくる。
数十秒が果てしなく長く感じられた。紅葉の様子を窺っていた選手たちもカチンコチンに凍り付く中、紅葉が微笑む。
死ぬかと思った。めっちゃ怖かった。
次はないですよ、という慈悲の言葉に全員がコクコクと頷く。
紅葉がはぁ~、と一つ呼吸した後、今度は楽しそうにニコリと微笑み、絵里と、事態を見守っていたチームメイトに宣言する。皆に全部任せるね! 絶対に勝とうね! と。
言われた選手たちに、色々な意味でどれほど気合が入ったことか!
今から紅葉は使わないと言う? そんなの誰が納得するか! 誰も絵里の言うことを聞かなくなること必至だ。考えただけで吐き気がする。
(さてさて、私もいっちょ頑張りますか!)
絵里は反撃の為に池田に連絡を取る。紅葉の為であれば、あの切れ者は誰よりも心強い味方となる。
「フル代表監督は惜しいけどねぇ~……まぁそれより、今が楽しすぎるからなぁ」
不作と言われたU-19女子日本代表はもういない。きっと紅葉とともにこれからの日本女子サッカー黄金期を築いていく。その始まりに絵里は立ち会えた。ほんのちょっぴりかもしれないが、貢献出来た。
「託すに値する選手を持てた喜び……かな?」
絵里はニヤニヤしそうになる顔を引き締め、策謀を練りに池田の元へ向かう。
かつての絵里は世論に屈し、サッカーを捨てた。白状しよう。今、とても後悔していると。
選手として紅葉たちとピッチに立てたなら、どれほど楽しかっただろうか!
想像するだけでワクワクする。しかし、それは叶わない。
改めて思う。
(私はサッカーが本当に好きだったんだ……あぁ、もったいないことしたぁ! ……でもまぁ)
「仕方なし! 監督ってのも楽しいしね。よっしゃ、今度はとことん反撃してやる! 世論なんて知るか! 私の教え子の邪魔するなら皆敵だ! 覚悟しろよ!」
きっとかつても反撃すべきだった。不条理を受容せずに正しいと思うことを伝えるべきだった。
監督へ。チームメイトへ。協会へ。世論へ。
返ってくる反応は手酷いものであったかもしれない。いや、確実に悪いものであっただろう。でも、それでも諦めず叫ぶべきであった。反抗すべきだった。例えそれがどんなに無意味で辛い道であろうとも。
後に続く者たちの為に。
(今度は間違えない。大人として私は子供たちの前をしっかりと歩くんだ)
今、絵里の双肩に日本女子サッカーの未来が確かに乗っていた。それは途方もなく重いものであった。けれど絵里の足取りはかつてないほど軽く、心は晴れやかであった。