47 「お兄ちゃんのその日は」
午後八時、風呂を済ませ、部屋に戻ってきた大井和博はベッドに倒れ込む。
(……まじで疲れた、もう寝よう)
同室の先輩たちはまだ風呂から帰ってきていない。明かりのついた静かな室内。眠気が一瞬で限界を超える。瞼を閉じ、腕で目を覆って眩しさから逃れる。
暗闇の中、ウトウトしながら思い浮かぶのは数時間前の光景。
灼熱の中で行われたインターハイ準決勝。和博はボランチとしてフル出場した。35分ハーフで決着は付かずPK戦へ。
和博は6番目のPKキッカーとして今大会初めてPKを蹴った。
これを外せば負け。めちゃくちゃ緊張した。
競技場のトラックを挟んだ観客席から、叫ぶような大声援が和博を襲う。
本当に厳しい練習を三年間続け、それでも一度も一軍としてピッチに立つことが出来なかった先輩たちの声。彼らはこの大会が終われば、部活を引退し、遅まきながら受験勉強を始める。
今日か、明日か。ただ、それだけの違い。だけど、その違いは果てしない。
頭の中が真っ白になる。吐き気などもうとっくに通り越して何も感じない。フワフワとした不思議な感覚。
「PKは右上に思い切り蹴ればいいんだよ!」
どこからか紅葉の声が聴こえる。
「絶対に外せないからって、キーパーと駆け引きして逆に蹴ればいいとか思っちゃダメ。そんな甘い考えで蹴ると、置きにいって緩い球になっちゃうからね。だから、キーパーのことなんか忘れてここに蹴ればコース読まれても平気だってくらいの威力で右上に蹴り込むの」
和博はなるほど、と頷き、でもなんで右上なのと尋ねる。それに対し紅葉は自信満々に言う。
「左上は鬼門だからね! 右より左の方がもしかしたらバーが太い可能性すらあるよ! なのでPKは右上一択です」
なるほど、紅葉がそういうなら右上だ。何たって、紅葉は和博の先生なのだから。
和博はクスリと笑いながら右上目掛けてシュートを放つ。ずっと右上ばかり狙って練習してきたのだ。その動作はスムーズで、狙いも正確に……。
「うわっ!?」
和博は跳ね起きる。そして、ここがピッチではなくベッドの上だと思い出す。風呂から帰ってきていた先輩たちが笑いながら声を掛けてくる。
「どうした? 決勝戦で大ポカする夢でも見たか?」
眠気は完全に引いていた。頭を一つ振ってから、同じ中盤の相棒である三年、田中の言葉に和博は否定せず頷く。
「盛大に失敗する夢でしたよ」
「そんなに気負わずにな。和博はもう十分すぎるほどチームに貢献してるんだからさ」
「あざます!」
灼熱の中、ともに中盤を走り続けてきた戦友である田中にちゃんと認められている。そのことが無性に嬉しい。
ベッドに寝転がったまま、右サイドバックを務める御代川が会話に入ってくる。
「しっかし、和博の覚醒っぷりは半端ねーよな! まじでお前がいたからここまで来れたって言っても過言じゃねーよ。覚醒したのインハイ予選直前だよな? 何? やっぱり童貞卒業して自信が付いた? だとしたら、俺はお前を殴らなくちゃならねー」
「いやいや、何ですかそれ?」
握りこぶしを作る御代川。突然の下ネタ言い掛かりに和博は何言ってるんだと困る。田中が、あ~、と笑いながら突っ込む。
「御代川は和博と三好の関係を疑ってるん? 何? 御代川って三好のこと好きだったの?」
「そ、そんなんじゃねーし! それに俺は紅葉一筋だし!」
「いや、それはマジで止めてください」
「へ?」
「ははははは」
つい、即行で突っ込んでしまった和博に、御代川はポカンと口を開けて驚き、田中は楽しそうに笑う。
さすがに人の妹に対して一筋発言は悪いと思ったのか、御代川が短髪を掻きながら、冗談だとお茶を濁し、和博もすみません、と謝る。
「まぁ、あれだ。ちょっとした冗談だからさ。悪かった」
「いえ、こちらこそすみません。それから、三好先輩とは本当に何もないんで」
三好忍は二年生の女子マネージャーだ。美人で明るく、誰にでも優しい大人の女性で、力仕事や雑用も率先してやり、気配りも出来るので男女問わず慕われ、監督からも重宝されている。
そんな三好に和博は入部した当初から何くれとなく構われてきた。和博とて男だ。三好のような美人に特別扱いされれば悪い気はしない。けれど、好かれる理由などまったくない。三好との仲は恋人とかそんなものではない。ただの仲のよい先輩後輩だ。周りに茶化されても笑うしかない。
御代川が冷蔵庫からペットボトルを投げてよこすのにお礼をしてから、口を付ける。冷えたお茶を三人そろってぐびぐび飲む。
「ぷはぁ、しっかし今のはセクハラ&パワハラだったな。俺としたことが平成時代のオヤジみたいな発言をしてしまった。で、和博、本当にカノジョいないんだな?」
「何が、で、なんすか……はぁ、いないですよ」
「よしよし、俺とお前は親友だ。どっかの誰かさんと違ってな。ほら、もう一本どうだ」
また投げてくるペットボトルを和博は笑いながら受け取る。一人仲間外れ扱いされた田中が笑いながら反撃してくる。
「でも、和博はこの大会が終わればカノジョ絶対出来るぜ。何たって今大会一番の注目株だからね」
「くっ、確かに。取材も和博ばっかだし、女どもの黄色い歓声もお前がボール持った時だもんな。おい、お茶返せ、この裏切り者」
「いやいや、待ってくださいって。俺への注目って言っても、その理由は先輩たちだって知ってるじゃないですか」
「理由は関係ねー!」
「その通り」
和博がひでぇ、と呻くように漏らすと、その仕草が面白かったのか二人が笑い出す。一頻り笑った後、田中が、
「でもさ、こんなに注目されてよくプレッシャーに押しつぶされないよな。鋼のメンタル持ってるよ、和博は」
「いやまぁ、子供の頃からずっとですからね、慣れましたよ」
「つっても、ここまで凄くなったのは最近だろ? こりゃないよなー」
御代川が自身のスマホ画面を部屋のテレビに映し出す。和博は画面に視線を向ける。
日本で最も有名なポータルサイト、そのスポーツ欄の一番目立つところに大井選手情報と書かれた紅葉のあっかんべーバナーが輝いていた。
紅葉の顔をクリックしてサイトを進めば、紅葉が出場する明日の日本対朝鮮統一チームの日程があり、その下には紅葉の映像クリップ集、さらに下に紅葉に関する記事が無数に並ぶ。
『大井旋風、ピアニスト大井楓の名演に世界から称賛の声』
『大井全体練習参加 怪我なしも問われるJFAの責任』
『姉妹揃って快挙! 大井楓が世界の巨匠から認められる』
『日×豪戦TV視聴率30%の奇跡 決勝戦は紅葉効果で紅白越えか!?』
『脳震盪で退場した大井に心配の声多数寄せられる』
『IMMJサマーコンサートで大井楓が名演 演奏後に笑い誘う』
『日×朝統戦 大井出場微妙か? JFAへ抗議殺到で田沢チェアマン謝罪』
『フォト:全体練習で汗を流す大井 怪我の影響なし』
『朝鮮統一戦前日会見に大井か。明日17時より生放送』
『世界から大井紅葉へのオファー殺到か 浦和側認める』
『大井に怪我はなし 元気に全体練習』
『大井決勝戦回避? U-20Wカップ出場確定で危険を冒すべきでないと田沢チェアマン』
『姉に続け! 大井楓がその実力を証明する』
『大井紅葉のスーパープレーに世界が絶句 世界はどう報じたか』
『東条U-19女子監督 大井起用法に批判殺到』
自動更新する度にNEWマークの付いた新たな記事が現れる。そしてすぐに恐ろしい数のコメントが付いてゆく。
「すっげーよな、和博の妹ちゃんたち。天才姉妹だってさ。楓ちゃんもすっげーいい演奏したんだな」
「みたいですね、今日コンサートだって相当荒れてたんで、無事に終わってよかったです」
「ああ、人見知りなんだっけ妹ちゃん?」
「そりゃあもう」
「ピアノが出来るって、それだけでかっけーよな。どれどれ」
御代川が楓の動画付き記事をクリックする。
『IMMJサマーコンサートで大井楓が名演 演奏後に笑い誘う』
パリ管弦楽団の首席指揮者であるバガニール氏のもと、ソリストとして見事な演奏を披露した大井楓さん。演奏終了後にハプニングが待ち受けていました。
大井楓さんはU-19女子日本サッカー代表として活躍する大井紅葉さんの妹です。その姉妹仲の良さはとても有名ですが、クラシック界では大井紅葉さん以上に将来を嘱望される才能の持ち主です。
大井さんはベートーヴェンピアノ協奏曲第5番「皇帝」を圧倒的スケールで弾ききり、会場から万雷の拍手を受けます。この一週間寝食と厳しい練習をともにしてきたオーケストラの大学生たちも笑顔で足を踏み鳴らし拍手を送る中、大井さんは立ち上がり深々と一礼しました。
バガニール氏も指揮台を降り、大井さんのもとへ笑顔で歩み寄ります。しかし、大井さんは一礼を終えると早足に舞台袖へ消えてしまいました。
無視される形となり取り残されたバガニール氏は驚いた表情の後、肩をすくめて苦笑しました。大井さんが恥ずかしがり屋であることを知っている観客たちから笑いが溢れます。
バガニール氏は笑顔で観客席に向かって拍手を要求しました。会場からの拍手でソリストを呼び戻す為です。
会場中が笑いに包まれながら、類まれなる才能を披露した大井さんを呼びます。しばらくしてようやく舞台袖から顔だけをちょこんと出し、慌てて引っ込める大井さんの仕草に会場が再び沸きました。
結局、頬を真っ赤に染めて大井さんは舞台上へ戻ってきました。バガニール氏と握手をし、観客へ向かってお辞儀をした後、逃げるように舞台袖へ。
12歳の少女の可愛らしい行動に、バガニール氏もオーケストラも観客も皆が笑顔になる瞬間でした。
動画を見終え、先輩二人が楽しそうに笑う。和博は楓の頑張りを見せつけられ本当に驚く。
筋金入りの引っ込み思案である楓に、観客が呼んでいるという状況は絶望でしかない。絶対に舞台へ戻ることなど出来ない。いや、出来ないと思っていた。
(あいつも頑張ってるんだな)
ちょっと目頭が熱くなる。
「でも、妹ちゃんもめっちゃ可愛いよな」
「将来は清楚系美女になる感じするよね。和博と似てるし、兄妹って言われるとめっちゃ納得だな」
「よし、和博義兄さん、妹さんを俺にください!」
「おいおい、もうそのネタしないんじゃなかったのか」
どうぞどうぞ、楓でよければもらってやってください、と和博は笑顔で答える。
なんでやねん! と先輩二人に突っ込まれるもなんのその。これには和博だけでなく両親も笑顔で同意するだろう。
記事をスクロールすること三ページ目、そこでようやくポツンとインハイの見出しが上がる。
「お、あったあった、お兄ちゃんの記事」
『大井紅葉の兄が妹たちの応援を受けインハイ決勝進出! 妹の期待に応えたいと抱負』
その内容を読んで三人とも苦笑する。
「うわぁ、あんないっぱい取材されて、結局使われた内容が、妹たちに負けないように頑張ります! だけかよ。後は全部、妹ちゃんたちのことしか書かれてねー」
「ははは、しかもコメントがひどっ! あれ、大井姉妹じゃ……お兄ちゃんいたんだww にグッドがめっちゃ付いてるよ」
「いやまぁ、こんなもんですよ。俺への注目度なんて」
「まぁ、ある意味幸せだよな。普通全国決勝まで行くってなったら親とか友達とかめっちゃ期待してくるけど、お前の親なんて応援にすら来てないんだろ? 気楽に出来るってことでポジティブに行こうや」
「ですね」
「でも、和博のおかげで、インハイとしては十年ぶりにいつもより注目されてるって話だよ」
「そうなん?」
「ああ、ほら十年前に問題あったじゃん。開催地が東京オリンピックと被ってインハイの予算取れなくなったって奴。覚えてない?」
「そんな昔のこと覚えてねーよ。十年前って七歳とか八歳くらいの時ってことだろ? で、何があったん?」
田中の新しい話題に、御代川はあまり興味がないようだ。それでもしっかり聞き返すあたりが御代川のいいところだろう。田中は苦笑いで話し出す。
「インハイって各都道府県が持ち回りでやってて予算の八割は開催地が出すんだ。で、2020年は関東でやる予定だったわけ。でも、オリンピックの開催が決まっちゃったから、さあ大変。関東じゃ出来ない分は、全国で分散開催することになったんだけど、そうすると分散開催分は予算が出ないから、お金が足りないってなっちゃったんだ。それで、寄付やらクラウドファンディングやらで皆でお金を集めて、皆の大会だって盛り上がったんだ」
「はぁ? 意味わからん。オリンピックと被ったなら次の県に変更すりゃいいだけじゃん」
「お役所仕事でそんなことは出来なかったんじゃない? インハイは十年先まで開催地が決まってるしね」
「んじゃ、オリンピック予算から少し分けてもらえば? オリンピックってめっちゃ儲かってるんだろ?」
「そんな他団体にオリンピックがお金出すわけないでしょ」
「じゃあ、分散開催する県が金出せばいいじゃねーか! 分散なんだから、いつもよりすっげー少なく済むだろ!」
「国も自治体も前例がないとお金なんて出せないんだよ」
「かぁぁ!! これだから平成世代は! もうちょっと柔軟に対応すりゃ何も問題ない話じゃねーか!」
東京オリンピックの年ならもう令和だと思ったが、和博は別のことを聞く。
「田中先輩、ずいぶん詳しいんですね?」
「ん、実は年の離れた兄貴がその年、インハイ出ててな。サッカーは群馬でやったんだけど、それ観に行って、燃えたわけよ。俺がサッカー本気でやり始めたきっかけだな」
「なるほど、インハイは田中先輩の目標だったんですね」
「ああ、そゆこと。だから、和博には本当に感謝してるんだ。最後の大会でインハイ出れて、しかも決勝だからな。ありがとな!」
「かぁ! 感謝は早えーだろ! 俺らは優勝すんだから!」
「……そうだな! 優勝してからだな! よっしゃ、明日は絶対勝とうな!」
「はい!」
やってやるぞ、と思っていると枕元のスマホが鳴動する。お祝い連絡が半端なく来るため、家族と親しい友人以外は振動しない設定になっているので、慌ててスマホを手に取る。紅葉からかな、と期待したが父からであった。
御代川が紅葉のクリップ映像を再生させる。
「しっかし、何度見ても紅葉のこのドリブルまじでえげつねーよな」
「間合い関係なしで一瞬で抜いてくからね。御代川ならどうする?」
「もうチャージしかないけど、それもかわしてるからなぁ。これは止められないっしょ」
両手を高々と上げて、お手上げだと言う御代川に和博は笑う。そしてスマホをちらりと見る。父からの、お盆休みなのに一人で寂しい。明日、楓が帰ってくるから、楓と一緒に応援行くよ! との内容に和博は一言返信する。楓が奈良まで来るわけないでしょ、と。
「てかさ、このプレーどういうこと? 俺よりデカいのにぶつかってるよな。なのに相手が吹っ飛んじまうとかさ」
「ね! 一応ぶつかる瞬間、斜めにずれて当たってて、それで衝撃を逃がしてるらしいけどね。って言っても、吹き飛ばしてるもんなぁ。まぁその後、紅葉ちゃん気絶しちゃったけどさ」
父から返事が返ってくる。じゃあ、楓を一人に出来ないから、行くのは止める。頑張れよ。
和博は頑張るよ、と返事をし、スマホから目を離し、テレビに視線を。紅葉がゴールし、そのまま気絶するシーン。
「おうふ! 何度見ても鳥肌もんだわ! 視線で釣って逆取って、そこに来るの見越して、さらに逆に行って、そこでスピード緩めずダブルタッチだもんな。駆け引きをこんなスピードでやられたらディフェ側はたまったもんじゃねーって」
「正直化け物だよね。絶対紅葉ちゃんとは対戦したくないな……てかさ、次当たる西九州の丹原もドリブル凄いけど、ここまでじゃないよな」
「まぁ、映像見た限りスピード以外は紅葉より全部下だな。キレもフェイントも何もかも比べるのもバカバカしいほどだわな」
「うん。でさ、俺ら、紅葉ちゃんは抑えられないって思うけど、丹原ならまぁ平気だなぁって思ってるわけじゃん」
「そりゃあ、紅葉と比較するのが悪いだろ」
「でも、あいつってJ内定組なんだよ」
「はははは」
「もう笑うしかないよな」
二人が乾いた笑いを漏らす。和博も苦笑する。
父からまた返事が来る。今度のはパッと見ただけでウザい顔文字が無数に並んでおり、完璧に嫌がらせだと一目でわかる。
そう言えばさっき紅葉から連絡来たよ(*ノωノ) いいでしょ(*´з`) 楽しくお話いっぱいしたよ('◇')ゞ さすが自慢の娘(#^^#) 和博にも連絡するって言ってたけど、もう遅いので今日は止めとけって言っておいた(*^^)v そうだね、だって(*^▽^*) 紅葉が素直に育ってくれてお父さん嬉しいよ(=^・^=) なんで楓はああなっちゃったんだろうね(>_<) じゃあ、おやすみー('ω')ノ
「あのクソオヤジ!」
父の嫌がらせに悪態を付き、和博はスマホを持って立ち上がる。
「ちょっとトイレ行ってきます」
「おう、いってら」
「って、何で部屋出るんだ? おーい、和博ー、トイレならここにも……」
先輩たちの声を聴こえないフリで無視し、急いで電話の出来る静かな場所を探す。時刻は九時十二分、紅葉の方が寝てしまう時間だ。
ホテルの奥にある階段を上がり、十二階と十三階の踊り場まで来る。階段を上るだけで全身が痛む。こんな状態で明日決勝戦なのだから笑えない。
階段に腰を降ろし、紅葉に電話する。すぐに繋がり、紅葉の綺麗な声が聴こえてくる。
「あっ、和君! こんばんは」
「こんばんは、紅葉。今、電話大丈夫?」
「うん、もちろん! というか、私から和君に電話しようって思ってたとこだったんだよ!」
「そうなの? じゃあ、よかった。紅葉、怪我は大丈夫?」
一番心配なことを聞く。紅葉が元気に大丈夫だと答えてくれるのにホッとする。
「もうすっごい元気だよ。あっ、でもクールダウンしないで寝ちゃったからすっごい筋肉痛になっちゃった」
「そっか、実は俺も筋肉痛だよ」
「ふふ、一緒だね! それにお互い決勝戦も一緒だよ! 和君、ここまで来たら絶対優勝だからね!」
紅葉の気合の入った声を聞き、和博は少し笑う。
(紅葉はサッカーにだけは死ぬほど負けず嫌いだからなぁ。負けたら泣くし、俺も勝たないとなぁ)
「だな! 絶対優勝しよう」
「うん! それでね、今日の和君の試合観させてもらったけど、すっごい上手くなったね! とってもよかったよ」
「ありがとう、紅葉!」
和博はもうどうしようもないほどニヤニヤしてしまう。忙しいはずなのに試合を観てくれ、さらに褒めてもらえるなんて。
とはいえ、とニヤニヤを頑張って引き締める。それだけで紅葉は終わらないのだから。
「ただね、今の和君ならもっと出来るんじゃないかなぁって部分があったの」
ほら来た、と和博は笑って尋ねる。
「どこの部分かな?」
「前半24分のとこと、後半13分のとこの攻撃中に、守備のこと考えてポジショニングしてたでしょ。実際カウンターされた時、あそこにいれば攻撃を遅らせることが出来るいいポジショニングだったと思う。ボランチは二手先まで読んで、相手攻撃の芽を摘むっていう基本だよね。あれは監督の指示じゃないよね?」
「うん、俺の判断だよ」
「そっか、とってもいい判断だと思う。でもね、カウンターされても後ろ三枚で問題ないって私には見えたの。カウンターは怖いし、その芽は摘むべきだけど、それ以上に和君があの場面で前線に入れば、絶対にゴールチャンスが増えたと思う。バランス感覚の問題だから一概には言えたことじゃないんだけどね。少なくともあの二回は確実に前に行っていいシーンかなぁって」
和博は夕方の試合を思い出すまでもなく、紅葉の言葉に同意する。準決勝の一発勝負。失点を恐れ守備的になっていた自覚はある。
紅葉の指摘した二シーンは特にだが、それ以外にも前線に上がるべきか迷ったシーンはあった。それでも、上がらなかったのは守備を優先したからか。
(そうじゃないんだろうなぁ。くっそぉ、いつの間に臆病になってたんだよ)
和博は息を吐き出し、一緒に弱気を排出する。
「ありがとう、紅葉。目が覚めたよ」
「ううん。でも本当に和君上手くなったね。すっごいよ!」
「いや、紅葉の方が凄いと思うけどなぁ。昨日の試合、紅葉絶好調だったよね」
「あはは、絶好調だったんだけどね。でも、さっき、お父さんと電話でお話したら、すっごい怒られちゃった。あんなプレーしてたら身体がいくつあっても足りないぞって。お父さんって凄いよね。私が小一の頃から、私のこと考えて怪我をしないプレーを教えてくれてたんだもん。怒られながら、改めてお父さんのこと尊敬しちゃったよ!」
「そっか、ははは、そうだね」
(あのオヤジめ! 紅葉にめっちゃいい恰好して、それで満足してあんなの送ってきやがったな!)
紅葉が父のことを和博との電話で褒めるのを読んだ確信犯的犯行。父のドヤ顔が目に浮かび、腹が立つも、すぐに苦笑いが浮かぶ。
あの父が紅葉に尊敬されて嬉しさのあまり浮かれまくっているのが簡単に想像出来たから。
(俺も一緒だしな)
今回のことは許そうと一息付く。話題が韓国に来ているお母さんのことと、楓の活躍にシフトし、しばし楽しい時間を過ごす。
そして紅葉の声がだんだんとろんとしてくる。睡魔に負ける寸前なのだろう。
(はぁぁぁ、言わなきゃなぁ)
吉田から散々、それはもうめちゃくちゃ恨み言を言われ、そして何とかならないかと頼まれ続けている案件。和博はとりあえず探りを入れてみる。
「あのさ、立花先輩と水族館行くんだよね?」
「うん! あっ、和君も誘われたんだ!?」
紅葉の声が弾む。とても楽しそうに聞かれ、和博は口ごもる。
「ええと、その……」
「イケメンって本当にいい子だよね! 雪お姉ちゃんを元気付ける為に、皆で水族館行こうって声掛けてくれてさ。和君も来てくれたら雪お姉ちゃん絶対喜ぶよ!」
(うん、これはもう無理……すみません、吉田先輩)
「だね、吉田先輩は本当にいい人だよ。え~と、水族館楽しみだね」
「うん! カエちゃんに和君とイケメンに私か。あとは誰誘おっか?」
「いや、紅葉、誘いすぎもよくないかなって思うんだ」
せめてものリカバリーとして、あまり大人数だと立花に負担が掛かるから、これ以上は誘わない方がいいかもね、と告げてみる。
そうだね、さすが和君、気が利くね! と褒められてしまい、なんやかんやで和博も水族館に行くメンバーに入ってしまった。
(この結果をどうやって吉田先輩に伝えりゃいいんだ)
一世一代の決心で立花を水族館に誘い終えた直後の電話で、俺、立花先輩に告白するんだ! と言っていた吉田の言葉が和博を苛む。
紅葉とお互い頑張ろうともう一度言い、そしてお休みの挨拶をする。
「じゃあ、紅葉お休み」
「お休み、和君」
眠そうな紅葉の挨拶を聞き、和博は微笑みながら通話を切る。
「嬉しそうにしちゃってまぁ、本当にシスコンなのね」
突然、上から掛かる女性の呆れ声に、和博はびっくりする。
「うわっ!? 三好先輩! いつからいたんですか?」
三好が上階から降りてきて、和博の隣に座りながら答える。
「いつからと言われれば、結構前からね」
「……で、盗み聞きしてたと?」
「ええ」
何も悪びれることなく笑いながら頷き、和博のことを見つめてくる。そう言われてしまえば、和博は苦笑いするしかない。
「……和博君は女慣れしてるよね。私がじぃっと見つめると大抵の男って視線を逸らすんだけど。このすけこましめ」
「何言ってんすか。妹がいるから慣れてるだけですよ」
そう言い返すものの、意識してしまえば、恥ずかしくなってしまう。妹と違って適度に日焼けした褐色の綺麗な肌に、シャープな顔立ち、リップの塗られた形のよい唇が艶めかしい。
風呂上がりなのだろう、ショートの黒髪からいい匂いが漂ってくる。クリッとした黒瞳に吸い込まれ、慌てて視線をずらす。
すると紺色のジャージと黒髪の隙間から覗くうなじが目に入り、余計に変な気持ちになり、ため息一つ付いて上を見上げる。
暖色系の明かりはやや薄暗く、天井の汚れが良く見える。三好にクスクス笑われる。
「で、なんでこんなところにいるんですか?」
「その質問は、どうしてここが分かったのか、かな? それとも、なぜここに来たのか、かしら?」
「どっちもです」
「田中先輩からタレコミがあってね。和博君に異変があったら教えてくださいってお願いしておいた成果ね。それで、スマホを持って出て行ったって聞いて、人気のない場所で電話するんじゃないかなぁって思って探したらビンゴだったってわけ」
戦友にあっさり裏切られたことを知り、和博は内心で嘆く。上を見たまま聞く。
「なぜの方は?」
「それも聞いちゃうの? うわぁ、和博君って無粋だなぁ。もちろん好きな男の子と一緒にいたいっていう女の子の健気な行動じゃない」
「はいはい、ありがとうございます」
和博の投げやりな礼に三好が、えぇ!? と非難の声を上げる。そしてつまらなそうに和博を褒める。
「……あなたって本当に自己評価低いわよね。容姿端麗、頭脳明晰、リーダーシップもあって、女の子に紳士的で、男たちにも受けがいい。おまけに一年で名門サッカー部のレギュラーになって、うちがインハイ決勝まで来れた立役者。女の子たちにすっごいモテてるのに、当の本人は妹ちゃんのことしか目に入ってないのかしら?」
和博は多分にとげのある称賛に苦笑する。そして考える。
(自己評価ねぇ、そんなのに価値はあるんだろうか。いや、紅葉なら自信はプレーに直結するって力説しそうだな)
結局、三好の言う通り妹のことを思い出してしまったことに苦笑を深め、和博はどうなんだろうかと考えながら、思いを言葉にしてゆく。
「うちの妹たちなんですけどね、二人とも努力するのが当たり前だと思ってるんですよ。いや、というか俺らが努力だと思ってしてることを当然と思ってるのかな。好き嫌いじゃなくて、もう息をするようにサッカーとピアノのことばかりしてるんですから。紅葉に至っては勉強も家事も他のこともいつだって全力だし、見習うことばかりなんですよ」
そう、紅葉は本当に凄い。いつだってどんなことにだって全力だ。その生きる姿勢に和博は魅了されてしまったのだ。
「俺も負けないぞって一生懸命努力してるつもりなんですけどね。でもやっぱり自分には甘くなっちゃう。お前は毎日全力で頑張ってるか、って自分に問いかけたら、あの二人ほどは頑張れてないってのが事実ですからね。そりゃあ、評価は辛くなりますよ」
「ふふっ、意識高い系の人たちに聞かせたい言葉ね。でもさ、誰だってそんなにいつも頑張れるものじゃないと思うわよ。妹ちゃんたちがちょっとおかしいんであって、あなたも十分凄いレベルなのは自覚した方がいいと思う」
「そうですかね? ええと、ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」
和博は視線を上から隣に戻し、三好を正面から見つめ、礼をする。そして、これまで気になっていたことを聞くのに、今は丁度いいのかもしれないと気付く。
(うん、聞いてみるか)
和博は軽い口調で三好に話しかける。
「話は変わるんですけどね、うちの妹には特技みたいのがあるんですよ。あ、ピアノしてる方の妹、楓です。楓って一瞬で対峙した相手が何を思ってるのか分かっちゃうんですよ。雰囲気とか目の動きとか口調とかで判断してるんでしょうね。しかも思い込みも激しい性格だから大変。人の気持ちを悪い方に曲解して捉えまくるから、もう極度の人間不信で人見知りの出来上がりです。本当だったら生活するのも困難な子になってたんじゃないかな。でももう一人の妹は、楓のその性格は感受性が豊かで洞察力が優れている素晴らしいものだって言うんです。決して治療するようなものじゃないって。それでずっと楓に付き添って、楓のことを助けてきたんですよ。きっと紅葉がいなかったら今の楓はいなかっただろうなって家族でいつも話すんです」
「紅葉ちゃんが楓ちゃんの感受性や洞察力を否定しないで育んできたからこそ、楓ちゃんはあんな凄い演奏が出来るようになったのね。いい話ね」
三好が感心したように頷く。和博はいたずらっぽく頬をつりあげ、三好の瞳を覗き込みながら告げる。
「まぁ、おかげで、死ぬほど我が儘娘になっちゃったんですけどね……それでなんですけどね。俺も楓と一緒で、洞察力はそこそこある方なんですよ。楓みたいな感受性はからきしですけどね。誰かの笑顔とかに含まれた悪意とかは分かりやすいんですよねー」
お前の気持ちは見抜いてるぞー、と三好の凍り付いた笑顔とにらめっこする。三好が視線を逸らし顔に手を当て、まじかー、と一言呟いた後、ゆっくりと確認してくる。
「……私があなたに負の感情を抱いていたってのは最初からバレてたわけ?」
「はい。なんとなく、嫌われてるんだろうなぁとは気付いてました」
三好がごめんなさい、と深々と頭を下げる。和博は笑い、どうしてですか、と嫌われている理由を問う。三好が頭を一度左右に振った後、話し始める。
「私もね、昔はサッカーやってたんだ。すっごく弱いサッカーチームだったけど、皆でワイワイと、ほんとうーに、すっごぉ~く! サッカー楽しんでたの。でもね、浦和領家少年団の元監督ってのがうちの監督になってからはもう最悪。毎日怒鳴られて、元浦和領家の子供たちまでうちに移籍してきて、監督はその子たちばかり試合で使って、私たちは試合に出れなくなっちゃった」
和博は父である康夫の前々任者が酷い監督だったと言う話を思い出す。
「いつの間にかサッカーが嫌いになってた。クラブも辞めちゃった。そしたら浦和領家少年団が全少で優勝したって聞いてね。調べてみれば、大井監督の息子さんと娘さん、和博君と紅葉ちゃんが大活躍しましたってさ。最悪な監督を追い出して、自分たちはお父さんの指導を受けて、笑顔でサッカー楽しんでるんだもん。そんなのズルいってすっごく思ったんだ」
100パー逆恨みだね、と三好は笑う。それから感情って不思議だよね、と困り顔で続きを話す。
「中学はバスケやったんだけど、何か違うなぁって。やっぱり私はサッカーが好きなんだなぁって気付いたの。ブランクあるから選手は無理でも何かしらサッカーにかかわりたいって思って、高校では女子マネすることにしたんだ。そしたら、まさか和博君がうちに入ってくるもんだからさ。にっくき大井ファミリーの長男はどんな奴だろうってね。嫌な奴なら部を追い出してやるって悪意満載で君に近づいたわけです、はい」
――本当にごめんなさい!
再び三好が謝る。和博は三好との奇縁に驚いていた。そして理由が分かってスッキリする。
(一度も顔合わせたことない相手に恨まれることもあるのか……それにしてもいい先輩だなぁ)
三好は悪意満載と言ったが、何も嫌がらせなどされていない。むしろ、自信のなかった入部当時はかなり励ましてもらったし、色々とお世話になりっぱなしであった。
「頭を上げてください。全然先輩が謝る必要はないですから。むしろ感謝しかないんですよ。先輩のサポートがあったから、キツイ練習も耐えられたんですから」
「……ありがとう」
ありがとう、と三好が上目遣いで和博を見つめながら微笑んでくる様は、かなりの破壊力であり、たいていの男ならいちころな可愛らしさだ。
計算され尽くした笑顔。自身の魅力と相手からどう見えるかを正確に理解し、それを的確に使っているのだと分かっていても見惚れてしまう。
すると、赤面する和博の顔を見ながら、ニコリではなく、ニヤリと笑って三好が聞いてくる。
「でもさ、洞察力が優れてるなら今の私の気持ちも分かってるんだよね?」
「……え? あ……」
和博は己の敗北を察する。どうするか考えるが、頭がパニクって、何も考えられない。何か、何か答えねばと焦り、ふと思い浮かんだ言葉を口にする。
「とりあえず、水族館行きますか? 日本代表の立花さんや妹たちも一緒になっちゃいますけど」
「わぁ、楽しそう! ぜひ!」
三好の心からの笑み。そっちの方が三好には似合うし、素敵だなと思った。