46 「無邪気であれ」
大井楓は切れていた。己自身の不甲斐無さに、世界の理不尽さに。
楓はIMMJ札幌記念サマーコンサートのソリストとして北海道にいる。
本来ならこんなところにいる予定ではなかった。
楓は忙しいのだ。姉である紅葉の応援をしなければならないし、ピアノの練習にラッパも吹きたい。
そしてなにより外は暑い。夏休みの間は美穂の家以外、一歩も家を出ない気構えでいた。
クーラーをガンガン効かせた部屋で毛布を被りアイスを食べる。最高の夏休みが待っているはずであった。
それがどうだ。なぜ、自分は北海道などに来ているのか。なぜ、指揮者のバガニールに散々ダメ出しを受けねばならないのか。なぜ、コンマスは楓を無視してオケを乱すのか。
楓は泣いた。それはもうブチ切れながら、ホテルの部屋の枕をぶん回して息が切れるまでベッドに叩きつけ続けた。
楓の精神は限界であった。姉である紅葉は韓国だ。美穂は生徒たちのコンクールが始まり、札幌を離れていった。追い討ちをかけるように雪奈が大怪我をした。すぐにでもお見舞いに行きたいのに叶わない。こんな最低な場所から逃げ出したい。
楓にだって、ピアニストの意地がある。中途半端な演奏のまま逃げ出すなど、大井紅葉の妹として絶対に出来ない。
それでも厳しいものは厳しい。
そもそもなぜこんなところに来てしまったのか。
IMMJとかいう企業から依頼が来た時は、速攻で断った。それが一年ほど前。それでその話は終わったはずであった。
すべてはバガニールとかいう指揮者が悪い。諸悪の根源だ。
日本に来日したバガニールは、ソリストは楓だと思っていたらしい。それが、別の人物であると知ると、出演を拒否すると言い出した。私は楓がソリストだからこの場に来たのだ。いいから楓を呼べ、と取り付く島もなかったらしい。
さらに最悪なことに、そのバガニールは美穂の欧州時代の師匠の、その兄弟子であった。バガニールは巨匠と呼ばれるほどの実力と名声を持っており、美穂の師匠はバガニールに頭が上がらない状態。
美穂の師匠が美穂経由で楓を説得しようと何度も美穂にお願いをしてきた。美穂は楓が行きたくないなら行かなくてもいいと言ってくれた。けれど、隠していても、美穂が恩師の頼みを断ることに苦悩しているのはよくわかった。美穂のそんな顔は見たくないと思ってしまった。
そもそもちゃんとソリストは決まっているし、札幌に行っているのに。
楓が最初にオファーを受けたのは一年ほど前。コンクール入賞を果たした後だ。そこで楓は断ったのだから、次のソリストにオファーが行くのは当然だ。
ピアニストなら初見視奏で、ほぼすべての曲を弾ける。楓も視奏は何百曲とやっている。美穂が言うには、子供のうちにより多くの曲に触れておけば、将来それらを弾く時に役立つのだそうだ。
だから、弾ければいいのなら時間はいらない。けれど、それはちゃんと弾けるという意味ではない。弾き込み、理解し、不純物を除去し、寝かせて、さらに弾き込んで、初めてその曲はちゃんと弾けるようになる。
今回のコンサートに選ばれたソリストは、依頼を受けた後、長い時間をかけて曲を仕上げてきたはずだ。
それが突然、お前は首だ。代わりは楓だとなったらどうなる? そのソリストから恨まれるに決まっている。
楓はその曲、ヴェートーベンのピアノ協奏曲第5番などまったく準備していない。
今更、ソリストの交代などよほどのアホじゃなければ引き受けない。
なのに! 楓は結局、札幌に行くことにした。なぜか、と問われても分からない、としか言えない。
そして、札幌に来たことを猛烈に後悔した。
IMMJ札幌記念サマーコンサートは、毎年世界の巨匠を招待し、その巨匠から日本中の音大から選抜された優秀な学生たちが指導を受ける。最終日に札幌IMMJ記念ホールで観客たちの前で成果を披露する。
楓はピアノ協奏曲のソリストとして、その練習に参加した。
コンサートは三曲。
チャイコフスキーの幻想序曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」。そして、楓の出番であるヴェートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」。最後に、チャイコフスキーの交響曲第2番「小ロシア」。
どのような意図でこの選曲がなされたのかなど楓は知らないし、興味もない。バガニールがどのような音楽的意図を持ってこのコンサートをコーディネートしようとしているのかはかなり重要なことだが、知ったことではないと楓は無視を決め込む。
今の楓はその前段階、オケと合わせるところすら上手く出来ていないのだ。さらに言えば、楓自身の曲の完成度すら覚束ない状況だ。出来ることからやっていくしかない。
一週間、朝から晩まで演奏を続け、ダメ出しされ続け、そして、予想通りゲネプロでも最悪の結果に終わった。
ただ、弾けているだけ。オケとの関係性は寒々しく、音に厚みがない。賑やかな音は、まとまりがないせいで空虚なだけ。
バガニールの苦々しい表情がすべてを物語っていた。
世界の巨匠は怒り、公演拒否すらするのではと思うほどの出来。けれど、バガニールは何も言わず、続けて三曲目を指揮し、無言でその場を後にする。
あぁ、見限られたか。
誰もがそう確信せずにはいられない事態であった。楓は舞台袖からバガニールが消えるさまを見届け、大きくため息を付くと、気持ちを入れ替える。
(ふんっ! もういいもん。私は十分頑張ったもん。そんなことより、お姉ちゃんの試合だ!)
楓は明日のコンサートのことを何も考えないことにした。そして、紅葉の試合を観るモードに移行する。
気持ちが一気に上向く。早く自室へ向かおうと、舞台袖から廊下に出たところで声を掛けられる。
「大井さん、あの!」
「……っ!」
楓は目の前にいる年上の女性、南原恵子の存在に気付き、速攻で視線を逸らす。
南原は楓が来たことでオケと共演出来なくなった元ソリストだ。楓としては一番会いたくない相手。一気に心が冷える。
楓の様子に南原は苦笑した後、性格なのだろうか、おっとりとした口調で告げる。
「そんなに怖がらないでくれると助かるかな。えと、大井さんに謝ろうと思って。コンマスの叶内さんが本当にごめんなさい。彼女、私の幼馴染なんだ。それで彼女、私がソリストから外れたことをあなたのせいだって逆恨みしてしまっているの。何度もそんなことない、曲に集中しなさいって説得したんだけど、ダメみたいでね。本当にごめんなさい」
頭を深々と下げ続ける南原に楓は困る。何か言わないといけないみたいじゃないか、と。
「……別に、気にしてないから」
か細い声でようやく出てきた言葉はそれだけ。南原が顔を上げ、にっこり微笑みながら、ありがとう、と再び言うのを聞く。
「それと、私は本当にあなたに対して怒ってないから。う~ん、信じてもらえないかな。えと、私も去年、浜松国際に出場したんだ。結果は二次までだったんだけどね。まぁ、私の話は置いておいて」
南原は大学生のお嬢様には似合わない仕草、鼻をポリポリ掻きながら、照れ笑いする。
「超難関の国際大会、そのファイナリストの中に小学生がいた。しかも日本人。それはもう話題はその小学生、大井楓さん一色になるのは当然だわ。皆が注目する中で弾かれたショパンの第二は、途中まで本当に素晴らしかった。あまりにも素晴らしすぎたあなたの演奏はプロのオケを飲み込んでしまった。あの時の衝撃は私の耳に今でも残ってる。きっと審査員だったバガニールにも。だからこそ、バガニールはあなたを指名したんだと思う」
南原は真剣な顔で楓の顔を見つめ言う。
「私はあなたの本当の演奏が聞きたい。さっきみたいなオーケストラに気を遣った偽物ではなく。私ではあなたの代わりは務まらないと誰もが納得するものを!」
(やっぱり恨んでるじゃんか)
楓の凍り付く心などお構いなしに南原は笑顔で言う。
「明日の本番、頑張ってね」
その言葉に楓は逃げ出した。
真っ暗の部屋、ベッドと壁の隙間に入り込み、体育座りをする。頭を膝にくっつけ、目を瞑る。
(私にそんな演奏出来るわけないじゃん)
誰かの期待ほど最悪なものはない。それは怨念と一緒だ。その重圧など考えただけで身動きが出来なくなる。
(いやだいやだいやだ)
なぜ誰かの思いを背負わねばならない。
(誰かを蹴落として、私がソリストに選ばれたから)
そんなことは分かってはいる。だけれど、分かっていても、正面からぶつけられたその重さは楓のキャパを一瞬で上回ってしまった。
夜とはいえ真夏の室内は暑い。汗が身体中から滴る。
暗闇の中で楓は己がどれほどプロのピアニストに向いていないか、改めて思い知る。
どれほど経っただろうか、ぐぅっとお腹がなる。
(お腹減った)
落ち込んでいても、変わらぬ生理現象に嫌気が指す。夕食を食堂で取る気にはとてもなれない。
(……ポテチ食べよう)
姉の試合を観ながら食べようと買っておいたお菓子を夕食にしようと思い、そこで気が付く。
「今何時!?」
明かりをつけ、楓は時刻を確認する。とっくに紅葉の試合が始まっていた。
「もう私のバカぁ!」
慌てて部屋の明かりとエアコン、そしてテレビを付ける。モニターに紅葉の顔がドアップで映し出される。
「お姉ちゃん!」
紅葉の視線と楓の視線が交錯する。楓のテンションが一気に復活する。
そして次の瞬間、満面の笑みを湛えた紅葉にあっかんべーされる。
「ふぇ? えぇ!?」
紅葉のヘーゼル色の細められた透き通る瞳に魅了される。紅潮した頬にはえくぼを浮かび、朱色の舌をべーと突き出してなお、その美貌はまったく崩れることはない。
ただひたすら可愛い。
楓は艶然とした美しさすら漂う紅葉のあっかんべーに見惚れつつ、一体紅葉は何を私に伝えたいのだろうか、と思い悩み、はたと気が付く。
(って、違う違う、これテレビだから! 私にあっかんべーしたんじゃないから! って、誰に向かってしてるの!? というか何であっかんべー?)
『いや~、大井選手の可愛らしいシーンに会場も大盛り上がりですね~、松本さん』
『これは! ……先ほどのパスミスといい、今のお茶目なシーンといい、もしかしたら、大井さん、ちょっと集中出来てないかもしれませんね!』
『と、いいますと?』
『こう、ね! やっぱりサッカーってのは、試合の流れ? が重要なんですよ! で、その流れに入れない時ってのが誰にでもあるわけですね!』
『なるほど~、ではどうしたらいいんでしょうか?』
『う~ん、ここは静かに応援しましょう!』
楓は黙ってテレビの音量をミュートする。
「解説者なら状況をしっかり説明してよ!」
テレビに向かって文句を言いながら、テレビ画面の右端に紅葉ファンクラブサイトを表示させる。そして、該当スレを開き、情報の収集にかかる。
※※※
『大井紅葉実況スレ』
1 名無しの紅葉ファン@日本
このスレは大井紅葉選手の試合実況応援スレです。
管理規約に抵触する行為、及び、それに類すると判断される行為はアカウント停止となりますのでご注意ください。
大井選手、対戦相手、チームメイト、審判、監督、スレ住人、その他あらゆる誹謗中傷は絶対にしないでください。
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このスレは某匿名掲示板とは異なり、発言はアカウントに紐づけされていることをくれぐれも忘れないでください。(紅葉への誹謗中傷は地獄の果てまで追います)
2 名無しの紅葉ファン@日本
保
3 名無しの紅葉ファン@カナダ
守
4 名無しの紅葉ファン@日本
も
5 名無しの紅葉ファン@日本
み
6 名無しの紅葉ファン@日本
も
7 名無しの紅葉ファン@カナダ
ま
8 名無しの紅葉ファン@日本
じ
9 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉めっちゃ可愛い!!
なにこの天使っぷり!
10 名無しの紅葉ファン@日本
うわぁぁぁぁぁぁぁ
11 名無しの紅葉ファン@アメリカ
とってもキュートだね!
うちではテヘペロって意味で子供が舌を出すけど、日本でも一緒の意味なのかな?
12 名無しの紅葉ファン@スイス
めっちゃ笑顔でめっちゃ楽しそうー!
だから紅葉の試合はいつだって目を離しちゃいけないんだ
13 名無しの紅葉ファン@トルコ
紅葉って絶対いい子だよね
見てるだけでわかるわ
14 名無しの紅葉ファン@韓国
これは相手を侮辱する行為だけど、紅葉みたいな美人がやると好意的に受け止められる
美人は本当に得だね
15 名無しの紅葉ファン@中国
紅葉の好きなタイプって知ってる?
立候補するにはどうすれば
16 名無しの紅葉ファン@コモロ
無邪気で可愛いね!
17 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉あざとカワイイ!
18 名無しの紅葉ファン@バーレーン
記念カキコ
19 名無しの紅葉ファン@メキシコ
お姫様から天使にグレードアップしたぜ
20 名無しの紅葉ファン@アメリカ
紅葉に直接あっかんべーされたい!
21 名無しの紅葉ファン@アメリカ
≫15 紅葉の好きなタイプって知ってる?
とりあえずサッカーやっとこう!
俺はアメフトからサッカーに転向したよ
22 名無しの紅葉ファン@日本
でも、突然どうしたんだろうね?
照れ隠しってわけでもないだろうし、ましてや挑発ってわけも絶対ないだろうし
23 名無しの紅葉ファン@日本
さっきのあっかんべー紅葉の3D壁紙作ったんで置いておきますね
:紅葉フォト置き場 ←ここから落としてください
24 名無しの紅葉ファン@ナイジェリア
≫14 これは相手を侮辱する行為だけど、紅葉みたいな美人がやると好意的に受け止められる
嘘つくな、少なくとも紅葉にそんな意図がないって、あの笑顔を見ればわかるでしょ?
本当に紅葉、可愛さが天元突破してるわ
俺のスマホの待ち受けが新しくなったぜ!
25 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉のあっかんべーの写真が日本のポータルサイトで掲載された
早すぎ定期
26 名無しの紅葉ファン@イタリア
≫14 これは相手を侮辱する行為だけど、紅葉みたいな美人がやると好意的に受け止められる
イタリアではそういう捉え方もあるけど、これは違うって誰でもわかるでしょ
27 名無しの紅葉ファン@日本
さっきまでのパスミスを心配する流れがあっかんべーに駆逐された
さすが紅葉ww
28 名無しの紅葉ファン@ブルキナファソ
まじでこの子可愛いよね
あと50歳若ければ本気で告白してた
29 名無しの紅葉ファン@ドイツ
今日の紅葉はちょっと変だね
あんなパスミス初めてみたよ
大丈夫かしら
30 名無しの紅葉ファン@ベリーズ
胸がドキドキする
これが恋か
31 名無しの紅葉ファン@ポルトガル
トイレから復帰
紅葉のあっかんべー見逃したぁぁぁ!!
あ、ダメだ、トイレ行ってきます
32 名無しの紅葉ファン@日本
≫23 さっきのあっかんべー紅葉の3D壁紙作ったんで置いておきますね
サンキューいつもの人!
33 名無しの紅葉ファン@コモロ
≫23 さっきのあっかんべー紅葉の3D壁紙作ったんで置いておきますね
最高の出来だね!
34 名無しの紅葉ファン@ブラジル
≫23 さっきのあっかんべー紅葉の3D壁紙作ったんで置いておきますね
サンクス!
楓ちゃんという最強の素材提供者がいなくなってから、久々の大ヒットだね!
35 名無しの紅葉ファン@オーストラリア
紅葉が右から攻めてきたぞ
気を付けろ、ヤングマチルダス!
36 名無しの紅葉ファン@中国
≫23 さっきのあっかんべー紅葉の3D壁紙作ったんで置いておきますね
ありがとう!
37 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉にボールが渡った! 頑張れ紅葉!
38 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉のあっかんべーまじカワイイ
心が和んだ
39 名無しの紅葉ファン@アメリカ
おおっ、どんなパス交換だよ!
味方にぶつかりながら、ボール受け取ったぞ
40 名無しの紅葉ファン@イタリア
すごっ、右サイド抉って中へ!
41 名無しの紅葉ファン@オーストラリア人
相変わらずの突破力、さぁ、ここからどうする?
42 名無しの紅葉ファン@日本
なんであんなに簡単にかわせるんだろうね。さすもみ
43 名無しの紅葉ファン@日本
≫34 楓ちゃんという最強の素材提供者がいなくなってから、久々の大ヒットだね!
楓ちゃん……本当に惜しい人を亡くしたよね
「死んでないし!」
楓は紅葉のあっかんべー3D壁紙を保存し終え、掲示板から視線を離す。
直近数百のコメントはすべて紅葉の可愛さを讃えるものばかりであり、楓を大いに満足させた。けれど、と楓は首を傾げて呟く。
「まったく状況が掴めないなぁ」
紅葉の調子が悪いのだろうか。紅葉がパスミス? そんなの本当にあり得るのか。とはいえ、1点取っているし。どうなのだろうか、と楓はドリブルを開始した紅葉を見つめる。
「お姉ちゃん、頑張れ!」
楓の応援に応えるように紅葉が敵陣を切り裂いていく。
(うん、いつものお姉ちゃんだ)
スルスルと相手をかわし、ゴール前まで行く様に不調の色は見られない。楓はホッとする。
「って、あれ?」
いつもの紅葉なら、敵陣深く切り込み、敵を十分に引き付けた段階でパスをするはずだ。それをしないで、ゴール前で囲まれ、それでも強引に突破し、最後はスライディングされ倒されてしまう。
判断があまりに悪すぎる。いつもの紅葉にはあり得ないプレーだ。
掲示板の流れが加速する。紅葉のドリブルを称賛していたコメントがガラリと変わり、一体どうしたんだと心配のコメントが溢れる。
「お姉ちゃん、大丈夫かな?」
オーストラリア6番のプレーが何度もリプレイされる。その映像には紅葉から僅かに離れたボールへ、しっかりスライディングにいっている様子が映っていた。
確かに際どいプレーだが、主審のPK判断は間違いだ。
オーストラリア側の抗議に首を振る主審にスレが荒れるも、それは紅葉が立ち上がるまで。
紅葉がファウルはなかったよ、と主審へ告げたのだ。
スレの流れがさらに加速する。先ほどまでのモヤモヤしていた空気はなくなり、紅葉の顔と仕草を観て、皆が和む。
「へぇ、キャプテン以外抗議しちゃいけないんだ」
楓はスレ住人の説明で、紅葉のやっちまったぁという仕草の理由を知り、くすくす笑う。
(お姉ちゃん、そそっかしいところあるからなぁ)
紅葉可愛いとスレがまた加速する。楓は3D壁紙職人がちょっぱやで作った新しい壁紙をダウンロードし満足する。
結局、ファウルは取り消され、日本ボールで試合が再開される。
今日の紅葉はどこかおかしい。スレの住人たちが口々に心配の声を上げる。楓も始めは心配したが、今はもう安心して紅葉を見ている。
(お姉ちゃんのあの笑顔を見れば、大丈夫だって分かるもん)
紅葉の瞳がキラキラとどんな宝石よりも美しく輝いていた。これからの紅葉は凄い。絶対に目を離してはいけない。
楓は経験でそのことを知っていた。ぐぅっとお腹の音を鳴らしながら、楓はじっと紅葉のみを見つめる。
503 名無しの紅葉ファン@日本
はい、4点目
504 名無しの紅葉ファン@フランス
何が起こってるのかまったく分からないわ
505 名無しの紅葉ファン@アメリカ
すっげぇとしか言えない
今度は何人抜いた?
506 名無しの紅葉ファン@トルコ
ほぇ~、これはもう言葉にならないよ
……1分前にもまったく同じ言葉を口にしたけれど
507 名無しの紅葉ファン@コモロ
4-1で試合は決まった
監督は紅葉を早く交代させるべきじゃないかな?
今の紅葉は危険に見える。いつ怪我してもおかしくないよ
508 名無しの紅葉ファン@日本
考察スレに上がってる紅葉視点の3点目動画見てたら、4点目が決まってた
早すぎワロタ
あと、紅葉視点がガチでヤバい
見えてないはずの足を躱しまくりなんだけど
どうなってんだよ
509 名無しの紅葉ファン@日本
≫392 ダメだ、またトイレ行ってきます、くっそぉ、スマホが壊れている日に腹も壊すとは
トイレマンまたトイレで紅葉の得点シーン見逃したのか
しかも4点全部
あいつがトイレに行くと紅葉が点を取る定期
510 名無しの紅葉ファン@オーストラリア
2点目も3点目も4点目も全員抜かれての得点だよ!
オーストラリアの必死の守備が紅葉一人に粉砕されてる
信じがたい光景だ!
オーストラリアはそんなに悪いのか?
511 名無しの紅葉ファン@イタリア
紅葉がボールをセンターサークルへ
紅葉はまだ満足していない模様
今、この場にいるのがイタリア代表じゃなくて俺はホッとしてるよ
そしてご愁傷様ですオーストラリア代表
512 名無しの紅葉ファン@ポルトガル
よく分からなかったんだけど、3人目躱した後ってラボーナでボール前に出したよね
それで何で一番早く抜け出せたんだ?
普通足がもつれるんじゃないのか?
513 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉がちょっと怖い
514 名無しの紅葉ファン@イングランド
紅葉が完璧に覚醒したね
さっきまで手こずってたオーストラリア6番をいとも簡単に躱してる
凄いね、明らかに試合中に上手くなってるよ
あと、紅葉の髪型って毎日違うけど、何でなのか知ってる人いる?
515 名無しの紅葉ファン@ナイジェリア
≫470 鳥肌が凄い、今日の紅葉は神がかってるね
紅葉のビューティフルゴールに観客もスレも大盛り上がりだ!
いやあ、スゴイものを観た!
そしてそれはまだ続く!
516 名無しの紅葉ファン@スイス
怪我だけが怖いね
オーストラリアは正当なチャージをしてるけど、かなり紅葉は削られてる
ドリブルだけだから、いつ怪我してもおかしくない状態だ
517 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉、本当に楽しそう
ちょっと相手に同情してしまう
518 名無しの紅葉ファン@日本
それにしても何であんな簡単に抜けるんでしょうか?
紅葉の行く道が勝手に開いていくように見えます
519 名無しの紅葉ファン@日本
すっごいなぁ、凄すぎて正直実感が
520 名無しの紅葉ファン@スペイン
紅葉ファイト! オーストラリアファイト!
521 名無しの紅葉ファン@カナダ
小学生時代の紅葉が帰ってきたみたい
紅葉は昔もこんな風にドリブルしてたよ
いつの間にかパス重視になってたけど
やっぱり怪我が怖いな、もっと見てたいけど、交代した方がいい気もする
522 名無しの紅葉ファン@フランス
日本は紅葉の為に巧みにスペースを作ってる
オーストラリア側は厳しいね
各個撃破されないようにしたいけど、それはさせてもらえないし
523 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉無双すぎる
紅葉のゴール後の小さいガッツポーズが可愛すぎるなぁ
524 名無しの紅葉ファン@アメリカ
これは私の知ってるスポーツじゃないわ
525 名無しの紅葉ファン@プエルトリコ
切り返しで3人躱したよ
もうあり得ないほど凄いね
オーストラリアも必死にやってて心が折れてない
どっちも頑張れ!
526 名無しの紅葉ファン@日本
≫508 考察スレに上がってる紅葉視点の3点目動画見てたら、4点目が決まってた
考察スレが阿鼻叫喚で笑う
紅葉の視線を何度確認しても、絶対に見えてない敵をミリ単位で躱してるってさ
予測してるにしてもあり得ない精度と確率らしい
あと、スピードは変わってないってさ
絶対に速くなってるように見えるのに不思議だ
527 名無しの紅葉ファン@ブラジル
確かに、紅葉交代した方がいいかも
このままだと壊れるよ
528 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉視点、これスゴイね
視線が半端なく移動しまくって一瞬で酔った
相手の鬼気迫る顔が次々流れて消えていくのが怖い
529 名無しの紅葉ファン@日本
≫505 今度は何人抜いた?
7人抜いてる
純粋に抜いた回数は11回(追いつかれて再び抜いてる)
530 名無しの紅葉ファン@イタリア
ふぁぁ!?
おいおい、正気か?
531 名無しの紅葉ファン@日本
えぇぇ
532 名無しの紅葉ファン@日本
オーストラリア6番がゴール!
4-2
533 名無しの紅葉ファン@コモロ
いやそれはないって(笑)
534 名無しの紅葉ファン@オーストラリア
オッケー!
ナイス得点!
紅葉へのパスをカット、そのままゴール!
オーストラリアは紅葉に3人へばりついて絶対にボールを持たせないつもりだ
頑張れ、ヤングマチルダス!
535 名無しの紅葉ファン@ノルウェー
酷い物を見た(笑)
どんまい紅葉!
次だ! 次!
536 名無しの紅葉ファン@日本
これには解説の松本も大笑い
なーに、やってんでしょうかねぇ、と実に嬉しそう
ただの飲み屋にいるおっちゃんの感想で笑う
あ、いつものことか(笑)
537 名無しの紅葉ファン@日本
バカ試合になってまいりました
頑張れ紅葉!
538 名無しの紅葉ファン@日本
日本ゴールキーパー前まで下がった紅葉に鬼寄せる敵3人
そこに当然の如く最前線から紅葉目掛けてロングバックパス
パスカットされてそのままゴール
コントかな?
539 名無しの紅葉ファン@ベルギー
紅葉はもうボールをもらえるならどこでもいいんだろうな
ボールさえ来れば後は全員抜く気だ
540 名無しの紅葉ファン@日本
どんまいどんまい
落ち着いて冷静にプレーしよう
それにしても、自陣最奥でパスを要求する紅葉も、それにパスを通そうとする酒井もどっちも凄い自信だ
541 名無しの紅葉ファン@イスラエル
4-2
2点差は危険なスコアだぞ
紅葉は前半で交代だろうし、まだ追いつけるぞ、オーストラリア!
542 名無しの紅葉ファン@アメリカ
≫508 考察スレに上がってる紅葉視点の3点目動画見てたら、4点目が決まってた
見てきた
紅葉視点スゴイね
前後左右敵しかいないのに、なぜ突破出来るんだよ(笑)
補足説明もあって、分かりやすかった
不可能なプレーって結論でFAだと理解したよ
それとこれは確実に酔うね、そこだけは注意
543 名無しの紅葉ファン@日本
に、日本、お、お、お、落ち着け
ま、まだあわわわわわわわわっ
この1点で分からなくなったかも
紅葉いなくなったら防戦一方だろうし、ちょっとヤバいか
544 名無しの紅葉ファン@日本
前半で4点取る紅葉本当に凄い
前半で2点逆起点する紅葉もある意味凄い
545 名無しの紅葉ファン@アメリカ
キーパー成田に頬をつねられる紅葉がマジ可愛い
しっかり反省しなさいね
546 名無しの紅葉ファン@日本
ごめんなふぁいって頬をつねられながら謝る紅葉
酒井は大鳥から叱られ、味方からフルボッコ中
仲良いチームで見てて楽しい
547 名無しの紅葉ファン@ブルキナファソ
紅葉の頬つねられ画像だぞ、ほら早く仕事しろ3D壁紙職人!
お願いします、まじ欲しいので!
548 名無しの紅葉ファン@イタリア
疲労からの判断ミスもあるだろうし、紅葉は交代すべきだ
紅葉の抜けた日本は堅い守備を誇る
きっちり試合をコントロールして逃げ切ろう
549 名無しの紅葉ファン@ウルグアイ
頬つねられて涙目の紅葉も天使だ
可愛い!
550 名無しの紅葉ファン@イラン
オーストラリア6番に敬意を
何度やられても諦めない姿勢が得点に繋がった
まだ分からないぞ、頑張れオーストラリア!
551 名無しの紅葉ファン@ニカラグア
おいおい、まだ前半だぞ
こんなに楽しいバカ試合は滅多にないね
どちらも真剣だからこその試合展開だ
批判はすべきじゃない
552 名無しの紅葉ファン@日本
≫514 あと、紅葉の髪型って毎日違うけど、何でなのか知ってる人いる?
紅葉は妹ちゃんのヘアスタイリングが趣味らしい
その練習を自分の髪でやってたのが習慣になって、毎日髪型変えるようになったんだって
色んな意味で妹ちゃんのおかげで、紅葉フォルダが潤って幸せ
今は亡き妹ちゃんに圧倒的感謝
553 名無しの紅葉ファン@日本
みんな楽しそうだな、頑張れ紅葉、頑張れ日本!
554 名無しの紅葉ファン@トルコ
紅葉のプレーがあまりに凄すぎる
日本はこの子がいれば絶対世界一位奪還出来るよ
だから、将来の為にも早く交代させるべきだ
555 名無しの紅葉ファン@イタリア
≫510 オーストラリアはそんなに悪いのか?
アンダー代表としてけっして悪くないよ
世界トップ10前後の実力だ
このオーストラリア代表なら全員なでしこリーグでレギュラー張れるレベルだと思う
紅葉がちょっと狂ってるだけだから、自信を失わないで!
556 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉のプレーに攻略スレも考察スレも次君スレも画像スレも大発狂中
そしてなぜかほぼ無風の実況スレ(笑)
557 名無しの紅葉ファン@日本
おっと、今度は紅葉も含めて全員右サイドから攻撃だ
558 名無しの紅葉ファン@日本
試合再開、右サイドが混戦
559 名無しの紅葉ファン@ポルトガル
そう来たか、日本は作戦変更だね
密集地帯を作って、そこで紅葉にボールを渡す気だ
560 名無しの紅葉ファン@日本
酒井へのファウル
オーストラリアのいい判断
紅葉にボールが渡る1個前で潰せた
561 名無しの紅葉ファン@日本
全員が右サイドに集まってるな、どういうことだ
562 名無しの紅葉ファン@コートジボワール
酒井の素早いリスタート!
ボールが紅葉へ渡った!
行け! 紅葉!
563 名無しの紅葉ファン@ドイツ
酒井は素晴らしい選手だ
ぜひ、紅葉と一緒にブンデスへ来て欲しい
564 名無しの紅葉ファン@ガーナ
一瞬の隙を突いて紅葉にボールが渡ってしまった
とはいえ、大混戦の右サイドだ
紅葉はそれでもドリブルで行くのか!?
565 名無しの紅葉ファン@日本
ナイス酒井!
566 名無しの紅葉ファン@日本
うわぁ、ダブルタッチであっさり二人抜き
567 名無しの紅葉ファン@日本
はや!
568 名無しの紅葉ファン@カナダ
ファウル! 審判流した!
569 名無しの紅葉ファン@日本
今のはほぼ正面衝突でしょ!?
紅葉大丈夫なの!?
570 名無しの紅葉ファン@ベルギー
めっちゃごっつんって音したぞ
やっぱり紅葉交代させた方がいいよ
571 名無しの紅葉ファン@ブラジル
ドリブラーは常に怪我と隣り合わせだ
けれど、紅葉はもう少しずる賢くやらなきゃ
怪我しちゃうよ
572 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉ちゃん、いっけぇぇえええ!
573 名無しの紅葉ファン@マレーシア
あっという間にバイタルへ!
凄い、本当に止まらない
574 名無しの紅葉ファン@日本
5人抜き!
575 名無しの紅葉ファン@イラク
囲まれた!
パスすれば1点取れるんだよ紅葉!?
576 名無しの紅葉ファン@イタリア
柳瀬とワンツー、と見せかけてのドリブル突破
まったく惑わせてないはずなのになぜ抜けるんだよ!
577 名無しの紅葉ファン@日本
わらた
578 名無しの紅葉ファン@アメリカ
うへぇぇ、まじかよ
579 名無しの紅葉ファン@ルーマニア
いやぁ、そりゃないって
580 名無しの紅葉ファン@日本
30センチ以上デカい相手を吹き飛ばすってどういうこと!?
581 名無しの紅葉ファン@日本
二人の隙間を抜けて体勢が崩れたところをショルダーチャージされたのに、逆に相手が吹き飛ぶって
あり得ないでしょ
582 名無しの紅葉ファン@フランス
身体の使い方なんだろうけど、これは奇跡だ
583 名無しの紅葉ファン@日本
すっご
584 名無しの紅葉ファン@日本
ゴール! いや、半端ないわ
585 名無しの紅葉ファン@イタリア
信じられない
586 名無しの紅葉ファン@スペイン
最後もダブルタッチ
確かにフェイントで一番スピードが落ちないのがダブルタッチだけど
なぜそんなにあっさり抜けるのか
587 名無しの紅葉ファン@スコットランド
5-2!
あと1点でダブルハットトリック!
ちなみに5点取っても特別な言い方がないのは不思議だよね
588 名無しの紅葉ファン@アメリカ
もう言葉がない×5回
589 名無しの紅葉ファン@オーストラリア
ヤングマチルダスはよく頑張ってるわ
今だって顔を下に向けてない
私は彼女たちを誇りに思うよ
590 名無しの紅葉ファン@日本
今のはまじで凄かった
やっべー
591 名無しの紅葉ファン@インド
これはオーストラリアにちょっと同情するわ
彼女たちのトラウマにならないことを祈る
592 名無しの紅葉ファン@日本
何が起こったのか本気で分からなかった
593 名無しの紅葉ファン@日本
ボールが足に吸い付いてるって比喩じゃないんだね
紅葉怖いわ
594 名無しの紅葉ファン@日本
すっごいゴール!
とにかくすっごかった!(語彙力)
595 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉起き上がらないけど、大丈夫?
596 名無しの紅葉ファン@日本
右サイドでほぼ全員抜いたよね?
やばば
597 名無しの紅葉ファン@日本
解説の松本さんが失神した(笑)
598 名無しの紅葉ファン@日本
松本ぉ!
599 名無しの紅葉ファン@チュニジア
あれ、紅葉立ち上がらないよ
選手たちも集まってきてる
600 名無しの紅葉ファン@アメリカ
本当に凄いゴールだ
本当に彼女が日本代表であることが羨ましい
今後20年は日本の時代だろうね
アメリカ代表は紅葉相手にどう戦うか、今から考えないとマズイね
601 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉?
602 名無しの紅葉ファン@日本
紅葉怪我?
603 名無しの紅葉ファン@ポルトガル
トイレから復活!
って、5-2? 紅葉が何で倒れてるの? え? え?
楓は仰向けに倒れ、目を開けない紅葉を静かに見つめる。汗と土で汚れても色あせることのない美貌が照明の光に照らされ浮かび上がる。
蒼白な顔は死を連想させ、その美しさもあいまって、まるで戦いに敗れ地上に堕ちたヴァルキュリアのようだ、と想像し楓は背筋が寒くなる。
(ううん、これは違う)
楓は強張った顔を無理やり歪めて笑う。
(大丈夫、怪我はしてるかもだけど、死んでなんかない。いつものお姉ちゃんなら気絶するように寝てるだけ)
限界まで遊んで、限界が来たから、コテンと倒れたように寝てしまう。楓は紅葉のそんなお子様っぷりを身に染みるほど知っている。
(ふふ、お姉ちゃんはいつまで経っても子供なんだから)
楓は紅葉が担架で運ばれる様を見て、再び笑う。ここまで大勢の人に迷惑と心配をかけても、起き上がった紅葉はきっといつものように、そっかぁ、ごめんごめんと笑うだけなのだ。
自分のしたいことを無邪気に、そしてとことん追求する。しがらみも束縛も何もない。
当たり前のことを当たり前に出来る紅葉が羨ましい。
(ううん、私だって!)
紅葉に怪我はなく、ただ気絶という名の睡眠をしているだけだと分かり、スレに安堵のため息が溢れる。楓もホッと一息つき、それからテレビを消す。
そして部屋を出て、ホテルの地下にある小ホールへ。誘導灯の明かりだけを頼りに楓の前任者の為に調律されたピアノに座る。
ふぅぅと大きく息を吐き、ゆっくりと吸う。呼吸を整え、一音を、一小節を己が心のままに弾く。
――ああ、何て下手くそなんだ
雑味が混じる。拍子がずれている。汚い。
いつからこんなに無駄なものが心に入ってしまったのか。紅葉のように余分なものは全部捨てろ。
皇帝? はは、笑わせるな。これは偏屈爺が作った曲だ。曲調は勇壮なのに常に脅えが付きまとう。カデンツァをさせないのはそのせい。鬱屈した気持ちを捨てるに捨てられなかったのだ。
醜い。だからこそ、どこまでも優雅に荘厳に弾こうではないか。偽りの皇帝たらんと欲し、仮面を被り、怯えを誰にも悟らせぬように。
――さぁ、さぁ、さぁ
本物の皇帝である紅葉を思い描き、楓は音に命を吹き込む。無邪気で、自信満々で、誰よりも気高く、それでいて愛嬌のある美しき女帝だ。
楓はなぜバガニールが皇帝を選曲したのか理解した。そして音の洪水に身を委ねる。
「見事だ」
楓を現実に引き戻したのは初老に差し掛かった一人の外国人。大きな身体を小さな観客席に押し込め、腕を組んでじっと楓を見つめていた。
楓はいつの間にか照明が付いていることに驚き、男、バガニールがいることにもっと驚く。
「その年でそれほどまでの曲が弾ける。楓、君は天才だ」
「……どこが? 全然下手、です」
喉がからからに乾いていることに気が付く。ぐぅっと大きな音が鳴る。
「ははは、腹も空くだろう。君は6時間ずっと弾き続けていたんだからな。多くの者がここで君の演奏を聴いていたのに、君はまったく気付かなかった。大した集中力だ」
誰かに聴かれていた。それを告げられても楓は動揺しなかった。己の下手さはもう十分に受け入れたから。
「どうすれば自分の納得いく音が出せますか?」
楓は勇気を極限まで振り絞って尋ねる。世界的指揮者にして、ピアニストである男へ。
バガニールは楓の質問に笑い、そして答える。
「永遠に君は君の納得する音を出せないよ」
ショックはなかった。ただ聞く。
「それは私に才能がないから?」
「いや、才能は関係ない。どこまでを求めるか、その深さが問題だ。私や君みたいな人間は、どんなに素晴らしい演奏が出来たところで、その時は満足するだろうが、ふと、もっといい音が出せるはずだと思ってしまうんだ。そこに終わりはない。良いかどうかは私にも分からない。けれど、その終わりがないからこそ、続けられるんだ」
なるほど、と楓は納得し頷く。確かに私は納得しないだろうな、と。姉である紅葉が納得せず、がむしゃらに没頭する気持ちと同じものだ。
(私とお姉ちゃんは一緒だ)
楓はピアノを。紅葉はサッカーを。楓は嬉しかった。大好きな紅葉が傍にいるように感じられた。自然と笑顔になる。
バガニールは楓の笑みを見て誘う。
「だが、私なら君のその才能を限界まで鍛え、最大限納得のいく音を出させてやることが出来る。楓、私と一緒に世界に行こう」
楓は一つ頷き、考える。そしてあっさりと結論を下す。
「私には最高の先生がもういるから!」
それから紅葉の真似をして、べーと思い切り舌を出してやる。バガニールはキョトンとした顔をした後、盛大に吹き出す。
バガニールはひとしきり笑った後、
「そうか、なら仕方ない。それでは、明日の演奏楽しみにしているよ。君の思うままに弾けばいい。例えオケが潰れても私が何とかしよう」
はい、と楓は頷く。この男が何とかすると言うなら何とかするのだろう。勝手に弾いてやると決める。
「もっとも、コンマスはもう君に逆らえまいがね。ほら、もう遅い。早く何か食べて早く寝なさい」
「はい」
ふわぁっと盛大に出そうになる欠伸を噛み殺し、楓はぐっと身体を反らす。
(お姉ちゃんより私の方が大人だね。だって、私は倒れないもの)
楓はクスクス笑いながら席を立った。
きっとコンサートは成功する。頼りないながら確かな自信が楓に宿っていた。