45 「覚悟を決めて 後」
紅葉パス出し止めるってよ、とピッチ上で伝言ゲームが行われる。試合中ながら、皆が一様に紅葉のことをちらちらと見てくる。
紅葉が皆にお願いしたのは、パス出し止める、あと、パスいっぱいちょうだいね、という二つだ。
監督の東条が、浮足立ったチームメイトの様子に何事かとサイドラインぎりぎりまで出てくる。右サイドハーフの近藤が、監督へと紅葉の言葉を伝える。
皆の視線が紅葉から監督へ。監督は一度頭を振った後、近藤、そして全員に聞こえるよう大声で指示を出す。
好きにやらせろ! という監督の怒鳴り声に皆が、おお、と声を張る。紅葉のお願いは監督のお墨付きを得ることになった。
その間も試合は進行している。といっても、日本がバックラインでパス回しを繰り返すだけであったが。
中盤の左サイドに出されたボールが出し所を見つけられず最終ラインに戻される。
紅葉は前線を、敵6番と8番を従えながらフラフラ彷徨う。
(よし、それじゃあ勝負といきますか)
監督の激で、チームメイトは落ち着きを取り戻した。
膠着した試合を動かそう。紅葉は最前線から中盤へとポジションを変更しながら、センターバック横まで下がっている酒井に手を振る。酒井がこちらを見てくるのを確認してから、右前に張っている今泉へと一度視線を向ける。
酒井の視線が今泉へと向けられるのを一目見、踵を返し、前線、右ワイドへと走る。
ボールが紅葉を越えて前線の今泉へとピンポイントで送られる。今泉が胸トラップでボールをキープ。
お見事、と、紅葉はどんどん研ぎ澄まされていく酒井のキック精度に称賛を送る。
敵は紅葉に二人割いている為、本来の4バックではなく3バックになっている。シンプルに中央を厚くし、しっかり引きこもる守備態勢だ。数的不利を自覚し、守ることに集中している。そんな相手のゴールマウスをこじ開けるのは大変な仕事だ。
とりあえず、定石通り、手薄になっているワイドからのカットインを狙う。
今泉目掛けて敵サイドハーフが詰める。遅れて、右前に敵6番、左横に8番を引き連れて紅葉も右ワイドへ向かう。
(この二人を剥がさないとね)
敵の6番アメリアは小柄ながらアジリティの高い選手。8番エマは大柄でフィジカルの強い選手。どちらも紅葉にぴったりマークにつき、紅葉へのボールカット、それが叶わない場合は、紅葉がボールを持った瞬間に身体をぶつけてボール奪取を狙ってきている。
立て続けに失敗しているが、ワンタッチはさせてもらえている。が、ボールを持った次の瞬間には、完全に身体を寄せられ、潰されている。
ボールを持って己の間合いに、そして前を向いてドリブルをする。最後はシュートで終わりたい。
(さあ、勝負だ)
右ワイドで身体を使って敵サイドハーフからボールキープする今泉に、左側、ゴールを指差しながら叫ぶ。
「手と逆側ボール! あと、踏ん張って!」
そして、そのまま敵6番、8番もろとも今泉へと突っ込む。紅葉は今泉の腰に思いっきりぶつかって、そのまま右横へ上手に吹き飛ぶ。
(ナイス!)
衝撃で息が出来ない。だけど、ハイテンションすぎて痛みは感じない。試合終了後に痛くなるいつものパターン。吹き飛びながら、ボールの行方と敵の位置を確認し、内心でガッツポーズ。
ボールは紅葉の指示通り右へと出され、敵8番は今泉と敵サイドハーフを避ける形で左に膨らみ、紅葉から離れた。敵6番も……。
(って、やるな)
敵6番は今泉を右に避け、即座に急停止、身体のバランスを崩すことなく、すでに紅葉の目指す右前へ向かって一歩を踏み出していた。
素晴らしい反射神経と身のこなし。今の紅葉では到底勝ちえない身体能力だ。
(だけど、遅い)
紅葉はボールをしっかり右足で納め、吹き飛んだ勢いを殺さず、右前へとドリブルを開始する。
二歩で敵6番と並ぶ。敵6番が一歩右足を踏み込んだタイミングで、中へカットイン。敵6番をパスし、ゴール目指して進む。
敵8番が紅葉のコースを消すよう立ちはだかる。腰を落としてのディフェンス。目的はディレイだ。
真後ろには敵6番。
(あっ、これマズイ)
紅葉は悩む。止まらずに敵8番を抜かないと敵6番に身体を寄せられて詰む。この時点でちょっとハードルが高い。が、そこまでなら何とかなる。
問題はその先だ。どうしても敵8番をかわす時に、態勢は崩れるし、スピードも遅くなる。そこに勢いよく走り寄ってくる敵ボランチの13番とサイドハーフ11番の二人をかわすとなるとスピードは完全に死ぬ。
敵6番、8番がその間に追い付き、抜いた敵11番、13番と合わせて計四人に囲まれる未来が待っている。
ゴール右ペナ外すぐ。敵8番を抜けばペナ内に侵入出来るが、角度のない位置である。シュートコースは敵守備陣とキーパーにきっちり消されている。ペナ内に入ったところで囲まれる。
パスコースはいっぱいあるんだけどなぁ、と考え、その選択はないんだと慌てて思考をリセットする。
(ええぃ、ままよ!)
とにかく急いで皆抜く。紅葉は無策に敵8番目掛け突っ込む。
敵8番の屈んでもなお高い位置にある目を見つめ、その思考を読む。動きの逆を取る為、大きな身体全体をぼんやり捉える。
私は右に行きますよ、と身体、瞳、呼吸、間合い、すべてを使って相手に伝える。敵の援軍二人も左から来てることだし、当然それを避けて私は右に行きますよ、と一瞬、敵8番からその後ろへと視線をずらしてアピール。
接敵。紅葉は重心を右に傾ける。敵8番の重心の傾きと摺り足を瞬間で確認し、トドメとばかりに右へボールを蹴り、相手の足が飛び出したところを、即座に左へと切り返して相手の左を抜ける。
態勢を崩しながら、騙したなという、敵8番の見開かれた瞳に、当然です、と答える。けれど、敵8番の守備に手こずった紅葉はスピードを失った。
おかげで、敵6番に追いつかれてしまった。紅葉の腹に伸びてくる敵6番の左腕を先回りでブロックしつつ、敵6番の身体に身体ごとぶつかり、相手を後ろに抑え込んでから前へと進む。
そこに新たな敵二人がしっかり身体を落として、紅葉を通せんぼしてくる。
問題はここ。敵11番、13番、二人が待ち構える場所に突っ込む。すでに後ろには敵6番がぴったり付いて来ている。二人の先にはセンターバックにゴールキーパー。とにかく前の二人を素早く抜くか、ずらして、シュートコースを作る。
キックフェイントで敵二人の重心を左に。13番が足を上げるが、11番はまったく引っかからない。
ステップを右左左と踏み、上半身でさらに右左左と、左を印象付けてから、首振りで左にパスするぞと一呼吸。二人とも紅葉から視線を切りもしない。
(くぅ! 失敗!)
ならばと、紅葉は相手の間合いで、右足先を使いボールを無防備にバウンドさせる。敵の前でバウンドするボール。敵二人の視線がボールに合わせて一瞬上下する。
足を出してボールを奪うか躊躇した二人。とても大きな隙である。紅葉は動く。
ボールが落ちてくる前に身体を捩じり、落下直後のボールを引き込み、間髪を容れず左回りのマルセイユルーレットで右から二人同時にかわす。
(くぅ、ここまでかぁ~)
回転を終え、即座にシュートを打つ為に二歩足を踏み、三歩目で紅葉は上にジャンプする。直後、紅葉の横から敵6番のスライディングが飛んでくる。
時間をかけ過ぎた。右に抜こうが左に抜こうがどちらでも結果は一緒だった。
敵6番の足の甲が綺麗にボールを捉え、しっかりクリアされる。紅葉は敵の足をしっかりかわしながら、体勢を崩して倒れる。
受け身を取りつつ、芝生の上を転がり、意識を守備へと即座に切り替える。が、紅葉が立ち上がるより先に笛がなる。
どこかでファウルがあったらしい。試合の流れが切れたので、紅葉は立ち上がるのを止め、何がいけなかったのか考えることにする。
(……最後、囲まれる前にシュート打てたかなぁ。止まった時点で6番と8番が左右からボール狙ってたのは分かったわけだし、ずらしてラボーナとか……いや、違うな)
紅葉は自分が笑っていることに気が付く。
(そうか、そうだ)
試合で、こんなに呆れるほど、非効率的で無意味なドリブルをしたからこそ気付けた。
(私のドリブルは遅いんだ)
相手の逆を確実に突いて抜く。その駆け引きでどうしてもスピードは失われている。
ドリブルは相手を引き付け、ギャップを作り、自身、もしくは味方がフリーになるのに最も有効な手段のうちの一つだ。
一枚剥がす価値は計り知れない。だからこそ、紅葉のドリブルは強力無比な武器足りえる。
けれど、それで満足していたらダメだ。相手の組織された守備を崩すには足りない。抜いたところで、修復されてしまうのだから。
紅葉は不敵に呟く。
「ふふ、だったら修復する時間を与えなければいいだけだよ」
トップスピードを維持したまま、相手を抜く。前への推進力を保ち、相手の包囲網を食い破る。
その為に必要なのは。
――失敗を恐れないこと
そう、結局のところ、勝負とはメンタルだ。これまでは確実性を求めてきた。それはリスクとリターンを考慮した上で判断したもの。決して間違いではない選択だと思う。
でも、足りなかった。だったらもっとリスクを取ろう。
(私って全然成長してなかったんだなぁ……ボール取られるのはイヤだって気持ちが強すぎたんだ)
ボールを失うリスク。怪我をするリスク。カウンターを食らうリスク。
すべてのリスクを最大まで取ろう。
雪奈の怪我が脳裏にフラッシュバックする。
(うん、怖いよね。だけどさ、全力でやらない方がもっと怖いよね)
紅葉は笑う。恐怖に打ち勝つ為に。ぎこちない笑み。
――全神経をドリブルに
パスは捨てた。なら、シュートもゴールも捨てる。
――今出来る私の最高のドリブルを見せてやる!
ただただ、ドリブルだけ。
(シンプルイズベスト、だね)
紅葉は強がって嘯く。
(ふふ、楽しいぞ)
何か掴めそうな気がする。絶対その何かを掴んでみせる。
紅葉は早くドリブルがしたくて仕方なかった。
今度の笑みは自然に出てきた。
どうやら、ファウルは紅葉に対するスライディングに対して取られたものであったようだ。敵6番にイエローが提示され、PKが日本に与えられる。それに対して主審へオーストラリア代表のキャプテンが強く抗議している。
(それはそうだよね。ノーファウルだったもん)
さっさと試合を再開してドリブルがしたい紅葉は、主審のもとへと向かう。主審は多言語翻訳機を付けているので、日本語で声を掛ける。
「さっきのはノーファウルでしたよ。しっかりボールにいってましたから。早くオーストラリアボールで……」
(って、マズイ……やっちゃった)
紅葉は慌てて口を両手で塞ぐ。
主審への抗議はキャプテンだけが許されている。紅葉が抗議することはルール上許されていない。どうせ、VARで覆る判定なのだからと何も考えずに口を出してしまった。
(あれ、抗議ってイエローだっけ? 罰則規定どうだったかな?)
紅葉はおでこに手を当てて、自分のアホさ加減に頭をおさえる。
あちゃぁ、であった。
紅葉が、やっちゃったぁ、と頭を抱えて反省している。おそらく今の発言が審判への抗議と捉えられるかもと気付いたのだろう。
(抗議ではない気がするけれど、どっちにしても……)
オーストラリア代表のアメリアは紅葉の可愛い仕草にほっこりしながら、ニマニマする頬を引き締めるのに必死になっていた。
紅葉から視線を横にずらせば、紅葉をポカンとした表情で見つめる主審がいる。この主審の気持ちもよくわかる。
アメリアのスライディングがファウルじゃないと、その当事者に指摘され、さらに指摘途中に口を塞いだかと思えば、頭を抱えて反省し出すのだから。
この子は一体何を考えてるんだ、と唖然とするのは当然だろう。
さらにおかしいのは、そんな紅葉と主審の表情を交互に見つめて、キョトンとするキャプテンであるエマの顔だ。
アメリアと違って、エマは日本語がわからないので、当然事態の成り行きがわかっていない。わかっていないからこそ、一体紅葉と主審の間に何があったのかと、物凄い不思議そうな変顔になっている。
アメリアは三者三様のおとぼけ顔を間近で見せつけられ、もうどうしようもなかった。うつむいて、顔と口を手で覆い、せめて声だけは出すまいと一生懸命努力しながら、大爆笑する。
(私のミスでPK献上しといて、こんなに笑う日が来るとは! もう、今日は最高の一日だわ)
笑いすぎで酸欠になり、アメリアは大きく深呼吸をする。
アメリアはU-19女子オーストラリア代表のサイドバックであり、隠れ紅葉ファンである。
別に紅葉のファンだということを隠す必要はないのだけれど。
アメリアが紅葉を知ったきっかけ。それは自身のコンプレックスである身長が由来している。
今はもう受け入れているが、セカンダリースクールの時は、周りがどんどん大きくなっていくのに、まったく背が伸びないことにかなり焦っていた。
サッカーはやはり体格がモノをいうスポーツだ。自分一人身長が伸びず、周りから置いて行かれ、レギュラーでなくなった時は、もうサッカーを止めようとさえ思ったものだ。
その時サッカーを止めず、こうしてこの場に立っていられるのは、紅葉のおかげだ。
当時、悩んでいたアメリアは、ネットでその解決法を検索した。『サッカー』『女子』の後に、『小さい』『フィジカル不足』『スキル』『解決法』などの語句を入力すると、予測入力で『MOMIJI』と勝手に検索ワードが追加されるのだ。
MOMIJIって何? である。検索の一番上に出てきた紅葉ファンサイトにアクセス。
そして、アメリアは知ることになった。当時まだプライマリースクールに入って数年も経っていない小さな少女、紅葉を。
その時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。天使みたいに可愛らしい少女が、アメリアと同じくらいの大きさの少年少女を次々と抜き去り、ゴールを量産するシーン。
サッカーはフィジカルじゃない。紅葉のプレーを見れば誰だってそう思わずにいられない映像の数々。
アメリアの目指すべき方向性がこの時決まった。ちびであることを活かす為、アジリティを高める。紅葉のようなドリブルは出来ないので、かわりに豊富な運動量と切り替えの早さで勝負をする。
アメリアは紅葉ファンサイトに入り浸り、紅葉の動画を見続けた。そして、ファンサイトの掲示板の一つ、次の紅葉になるのは君だスレの住人となった。
そのスレは形式上、子供たちが質問をし、それに大人たちが回答する形で進行するものであった。
子供たちの質問は至って普通で素朴なものだ。
紅葉のようにドリブルが出来るようになるには。紅葉のように正確にパスが出来るようになるには。紅葉のように強くシュートが蹴れるようになるには。
そんな普通の質問を、大人たちは何というか物凄い熱意と情熱で回答というか、議論を繰り返していた。
3Dモデリングデータを駆使し、紅葉の動きをトレースし、それを簡易アニメーションで伝えようとするもの。AI学習で紅葉の動きを学習させ、紅葉の判断基準を言語化しようとするもの。他にも様々なアプローチで紅葉を研究し、紅葉を越える選手を育てようと皆が議論し、その方法を答えていく。
紅葉を越える為の流体力学? そういった回答は基本的によくわからないので、子供たちには不評であったが、議論の片手間で作成される、紅葉が行うお手本のような身体の動かし方、ボールの扱い方、視野の取り方などを、簡単に解説する動画は素晴らしい出来で、アメリアはその動画を見ることで本当に成長出来た。
そして子供たちがお互いに意見を交換し合う。国籍も年齢もバラバラ。ハンドルネームしか知らない間柄ながら、紅葉という共通項を持ったアメリアたちには不思議な連帯感が生まれていた。
サッカーの世界は常に進歩している。けれど、そのスピードは男女では、はっきりと違う。成熟しきった男子サッカーと違い、女子サッカーはまだまだ未熟なのだそうだ。
三十年前の女子プロがU-15男子に負けるレベルであったそうだ。それが二十年前にはU-17男子と対等に戦えるようになり、十年前にはU-17男子に勝ちこせるようになった。
技術と戦術、そしてフィジカル、すべての部分で女子サッカーは急速に成長し続けてきた。先駆者である男子サッカーが血の滲む思いで築き上げてきたものを模倣出来るのだから、そのスピードがどれだけ早くなるか想像出来るだろう。
ただ、男子サッカーは着実に成長している。成熟した女子サッカーの成長スピードは落ちた。
女子サッカーの停滞期。男子サッカーの模倣ではない独自の成長が必要になったのか。議論は多々あれ、そんな時に、大井紅葉という怪物が産まれたのだ。
女子サッカーは必ず新しい一歩を踏み出す。その一歩は男子サッカーにも影響を及ぼすほど大きなものだとスレの住民、皆が気付いている。気付かないのは常識と言う名の古い価値観にとらわれた大人たちだけだ。
アメリアが紅葉ファンであることを隠す理由は、紅葉の本当の凄さに気付いていない連中が気付くのはなんだか悔しいという、ちょっとした独占欲だろう。
そんなアメリアだ。予選を勝ち上がり、準決勝で日本と対戦することが決まった瞬間は死ぬほど嬉しかった。紅葉に自分の最高のパフォーマンスを見せたい。今の私があるのはあなたのおかげなんだと、伝える為に。
どうしても我慢出来ず、試合の最中なのに紅葉に話しかけてしまったし、紅葉のあっかんべーには声を出してサムズアップしてしまったが、それ以外では物凄く集中出来ている。
(だけど、まったく紅葉を止められない)
ずっと紅葉のことを見ているはずなのだが動き出しで紅葉に置いて行かれる。スピードならアメリアとエマの方が上だ。アジリティではアメリアが、フィジカルではエマが、圧倒的に勝っている。
だというのにアメリアとエマの二人掛かりでも、紅葉を止められない。
そもそも、ボールを紅葉に渡さないつもりで全力で行っているのだけれど、あっさり一点取られ、今も危うくやられかけてしまった。
アメリアは日本語が出来るので、紅葉がパスを止めてドリブルで来ると言う話を即座に盗み聞きし、こっそりとチームメイトに伝えて準備万端整えることが出来た。
そしてドリブルを開始した紅葉へと皆が群がるように集まることで、本当にぎりぎりのところで止めることが出来た。
――やっぱりあり得ないわ、この子
知っていても実際に体験すると呆れてしまうほどの突破力。
試合前、アメリアは紅葉相手に強くいけるか心配していた。ディフェンダーは相手フォワードに嫌われてこそのポジションだ。
紅葉に嫌われるようなことはしたくないなぁ、とちょっと思っていた。が、とんでもない。そんな余裕など試合が始まったら吹き飛んだ。もう死に物狂いである。
(それにしても本当にパスしなかった。やっぱり何か調子悪いのかな)
パスするコースとタイミングはいくらでもあった。そもそも、紅葉がパスを止めると言い出す前の二本のパスミス。あれが、普段の紅葉を知るアメリアには信じられない。
(いや、心配してる場合じゃない。こっちはパスがないってわかってるんだ。とにかく、紅葉にパスを通させない。通っちゃったら、前を向く前にファウル覚悟で潰す)
それでも前を向かれたら、ディレイして仲間たちにヘルプだ。とにかく人数を掛けて囲い込んでしまうしかない。
主審は紅葉の発言を、当事者の申告として聞き入れ、VARもなしにファウルなしと判定を変え、試合の途切れたところ、日本ボールのスローインでスタートと決めたようだ。
どうにも今日の主審はVARが極端に嫌いな性格らしい。流れを止めてしまうVARの負の側面を嫌い、VARの多用はしないという考えを持つ審判も一定数いる。
あくまでもVARは審判の補助的役割でしかない。もしも、その原則が崩れれば、審判などいらなくなってしまうし、誰も審判の言うことなど聞かなくなってしまう。
難しい問題だと思う。とはいえ、一選手としては、試合を壊しかねない判定にはしっかりVARをしてもらいたいと思うのは当然だ。
どちらにせよアメリアは助かったと胸をなでおろす。
紅葉が二人を抜きさり、ボールが紅葉から少し離れた瞬間に、ボールにしっかりいったつもりだったが、結果はほぼ同時。アメリアの方が若干早かったが、そのまま紅葉の足にアメリアの足がかかってしまった。
イエロー、もしくはレッドでもおかしくないなと、アメリアは覚悟していた。それぐらい際どいプレーだった。
(本当によかったぁ。紅葉との試合で退場なんかしたら……生きてけない。それにイエロー貰っちゃったら、強くいけなくなるとこだったし、本当に助かったぁ)
紅葉のフェアプレー精神に感謝しつつ、アメリアは気合を入れ直す。
アメリアがクリアした左サイドから日本ボールで試合が再開される。
オーストラリア対日本の試合は前半25分が過ぎ、1-1の同点。攻める日本と守るオーストラリアという状況。
アメリアはエマと一緒に紅葉のマークにつく。紅葉のズボン、その先っちょを右手で掴みながら、紅葉の隣を歩く。
紅葉が前線中央から少しずつポジションを下げていく。
ボールが相手陣地にあろうと、一瞬たりとも気は抜けない。ボールと紅葉の位置関係を把握し続け、紅葉が次、どう動いてくるか先読みし、紅葉の進行方向に身体を滑り込ませ、エマと一緒に牽制を続ける。
「リーリ! そっちはいいから前閉めて! 紅葉へのパスコース塞げ!」
動き回る紅葉のパスコースを皆で消す。
(絶対に気を抜くな)
残り二十五分間に自分のすべてを賭ける。
ハーフより前ではボールを持たせない。前を向いてボールを持たせない。最低でも後ろ向きでボールを持たせ、そこを即詰めて潰す。
(前を向かせてドリブルは絶対にさせない!)
「リーリ! そっち行くな!」
左へとポジションが流れるセントラルミッドフィルダーのリーリアへ、エマが叫ぶ。だが、敵の動きに合わせ、人とスペースのどちらも潰すにはリーリアは動かざるを得ない。
(あくまで紅葉か!)
アメリアはピッチを見回し、敵の作戦に気が付く。
日本の選手たちが左サイド、日本から見て右へ集まり、狭いスペースでパス回しを始める。自軍もそれに対応し、守備陣形が左にどんどん寄っていく。
そうなれば右サイドに広大なスペースが現れる。
そのスペースは何の為か。考えるまでもない。
アメリアは叫ぶ。
「リーリ! シア! 左行き過ぎるな!」
「無理! 人数かけないとやられるってば!」
返ってきた言葉は否定。これ以上数的不利な状態を作ったらやられる。その言葉は正しい。ポンポンパスを回して左奥まで攻め込まれている。
だけど、狙いはあくまで、
「っ――!? くるよ!!」
紅葉からボールへ視線を切った、その一瞬、紅葉は走り出していた。掴んでいた袖を引き剥がされてようやく気が付く。どうしても動き出しで一歩遅れる。エマに至っては二歩取り残される。
(大丈夫、こっちの方が速い!)
右へと紅葉を追って走る。左サイド前線の酒井からマイナスパスが右サイドへと飛んでくる。
(ふざけんな! そんなパス!)
低い軌道、高速で飛んでくるボール。それはキラーパスとかそんなものでは断じてない。トーキックで適当に思い切りシュートしたのが逸れたと言われた方が信じられるくらいの適当パス。
(絶対に届かない)
第一感はそれ。けれど、紅葉はボールを見ることなく、右ライン際へと斜めに走っていく。
届かないのだからボールカットは狙えない。
紅葉に追いつく。腕を腕でガードされる。エマが追い付く。紅葉から視線をボールへ。そこで紅葉が急停止、ボールを受け入れる為に身体をボール側に向ける。アメリアは慌てて止まり、エマと二人で紅葉を挟み込む。
――ボールは!?
三人の上を通過するボール。さすがに精度が悪かった。スローインだと思ったのはアメリアだけではないはず。
――紅葉がいない!?
ボールから紅葉に視線を戻せば、隣にいたはずの紅葉はすでに前方を走っていた。騙された! そう思っても遅い。紅葉が二メートル先で大ジャンプ。高々と上げた左足でボールをトラップ。ふわりと着地。
(この子は猫か!!)
身体全体を沈み込ませ、衝撃を吸収したのだろう。超前傾姿勢の紅葉と対峙することにな……ギラリと紅葉の眼光にアメリアは身震いし、悟る。
「――っ!!」
クラウチングスタートで即座に突っ込んでくる紅葉に、アメリアの身体は反応出来ない。エマとの間を抜けようとする紅葉に。
(くっ!)
左足を咄嗟に伸ばす。だが、紅葉はアメリアの足が伸びるのを想定していたのか。ボールをちょこんと浮かされ、足上を通される。
直後に衝撃。アメリアのすねに紅葉の後ろ足すねが引っかかる。
(え?)
レガース越しに物凄い衝撃。だが痛みより驚愕が先に来た。後ろを振り返れば紅葉が思い切り転がって、そして二回転して立ち上がってドリブルを開始しているのだから。
(おいおい、そりゃあ凄すぎだってば!)
慌ててアメリアは紅葉を追いかける。一歩踏み出した瞬間、ガクッと足が沈む。紅葉との接触で左足が痺れ言うことを聞かない。
足に活を入れ、エマと一緒に紅葉を追う。
(相変わらず、速い!)
紅葉のドリブルは普通に走っているのと変わらない。広大なスペースを紅葉が疾走する。それでも、スピード自体はアメリア達の方が速い。だから、必ず追いつけるし、チャンスはある。
大きく左サイドに寄ってしまった中盤と最終ラインが右、急いで紅葉の前に集まってくる。ペナルティーエリア前で、センターバック二人にミッドフィルダー一人の計三名が紅葉の足止めに接近。
一か月以上一緒に生活してきたのだ。視線と声掛けでそれぞれが役割を正確に把握する。
足止めして、囲んで、奪う。近くに紅葉の味方はいない。パスもワンツーもない。
始めにミッドフィルダーのリーリアが紅葉の隣に飛び込みコースとスピードを消す。同時にかわされることを前提にセンターバックのサマンサとノエルが紅葉の前に立ちふさがる。アメリアとエマは紅葉が減速するだろう瞬間を狙い、紅葉の斜め後ろから機を窺う。
(よし!)
ペナ外ぎりぎり。完璧に囲んだ。後はボールを奪うだけ。
そこからは一瞬であった。
まず、リーリアが紅葉に横からファウル覚悟のショルダーチャージ。紅葉が一瞬早く自身の身体をリーリアの身体の前に入れる。リーリアは意図せず紅葉の背中を押すことになり、態勢を崩し尻もちをつく。
紅葉は体勢を崩しながらも、ボールコントロールとスピードを失わない。立ちふさがるサマンサとノエルの前にトップスピードで突っ込んでいく。
紅葉がトップスピードのままシザーズ。ボールを二度跨ぎ、三度目に大きく右へとボールを直角に蹴り出す。カットインからのシュート。ノエルが足を投げ出し、シュートコースを消す。
が、紅葉はシュートを打たず、中央へとさらに一歩踏み出す。そこをぎりぎりで回り込むことに成功したアメリアが狙う。
すでにペナ内だ。本当ならファウルの危険を意識しなければならないが、紅葉相手にそれは出来ない。ファウル覚悟で、後ろから、紅葉の足から離れたボールにスライディング。
(もらったっ!)
アメリアの伸ばされたつま先が、ボールに触れ……ずに、紅葉の右足をかすめる。一瞬早く紅葉がボールを左へと切り返したのだ。
もはやアメリアは下から紅葉を見上げることしか出来ない。とはいえ、アメリアの身体があるので、紅葉はこれ以上中央へ切れ込むことも出来ない。
切り返してノエルと対峙する紅葉。切り返したボールを左足にぶつけ、そのままノエルの股下にボールを通し、ノエルの右、アメリアの左を通過していく。
(待って、行かないで!)
アメリアの叫びは通じない。
回り込んでいたサマンサとエマがボールを蹴り出そうとそれぞれ足を伸ばす。だが先にボールに触ったのは紅葉。エマはぎりぎりで足を引くが、左足でボールを右へ逃がす紅葉の足にサマンサの足がもろに入る。
左足を後ろにもっていかれ、紅葉はよろめくが踏みとどまる。倒れれば確実にPKであった。紅葉は右足でボールを前へ蹴り出す。
そして密集地帯から抜け出すボール。キーパーが飛び出してクリアしようとする。紅葉が態勢を立て直し走り込む。
距離はキーパー有利。だが、また半瞬の差。キーパーの足より先に紅葉の右つま先がボールに触れる。
(あっ!?)
アメリアはキーパーの足が紅葉の右足を思い切り蹴ったように見え、悲鳴を上げる。
けれど、それは錯覚であった。紅葉は右前へボールを蹴り出し、即座に右足を引っ込めていた。そのままキーパーの身体をミリ単位で左へ避けてみせる。そしてキーパーをパスし、ボールに追いつけば、後は紅葉と無人のゴール、その先に熱狂する大観衆がいるのみ。
紅葉が優しくゴールへボールをパスする後ろ姿をアメリアは笑いながら見つめる。
(……カッコよすぎるよ!)
あまりに泥臭く、あまりに強引で、あまりに際どい。いつも余裕綽々で優雅にドリブルする紅葉とはまったく別人のようなプレー。
アメリアは吹き出す大粒の汗をリストバンドで拭いながら、身震いする己の身体に戸惑う。
紅葉がボールを拾い、小走りでセンターサークルへと向かう様を、ピッチ内の全員が静かに見守る。
「さぁ、まだまだ、時間はいっぱいあるよ! どんどんパス回してね!」
弾ける紅葉の笑顔を見て、アメリアの頬は自然に引き攣っていた。
(まじかぁ~……嬉しいような嬉しくないような、複雑な気分だぁ)
今の紅葉はヤバい。アメリアはそう確信し、ハハッと力なく笑った。
『私はセビーアのSDを長年務めてきたが、これほどの選手は未だかつて見たことがない。
私はかつて十六人の部下たちとともに二千人ほどの選手をリストアップし、彼らをAからEまで厳格に評価して、監督の欲する選手を獲得してきた。
かつての私の手法は今や当たり前となった。サッカーのありとあらゆる事象が自動的に数値化され、データベース化され、それを分析し、項目別にリストアップされる。誰もがその情報にアクセスし、選手の特性から、将来性まで見ることが出来る。
二億五千万人ほどの競技者のうち、三千万人ほどが対象というのだがら、かつての私たちとのスケール差にため息が出るほどだ。
では、私の仕事がなくなったかと言うとそんなことはない。サッカーは人がやるのだ。そこにはデータではわからない部分があり、結果で大きな差となって現れる。
データを信じ、己の目を信じることが私とクラブを成功へと導いてきた。
そんな私のサッカー人生の中で、大井紅葉と言う選手との出会いはあまりに衝撃的であり、そして悲劇的であった。
私は男子サッカーが専門であり、女子サッカーは対象外である。率直に言って、女子サッカーは男子サッカーほど儲からないからだ。
ここ十年程でスペイン女子サッカー界は世界最高峰のリーグとなり、スポンサーもつき、収益化に成功した。女子クラシコでは七万人もの観客がスタジアムに足を運び、スポーツチャンネルでは誰もが全試合を視聴出来る。賭けの対象としても女子サッカーは大人気だ。
女子サッカーの発展は本当に喜ばしいことだと思うが、それでも動く金額が男子サッカーとは比べるべくもないのが実情だ。
セビーアにも素晴らしい女子チームがあるが、私はほとんど関与していない。求められ、いくらかの助言をする程度だ。
そんな私が紅葉を知ったのは十五歳以下で最も優秀な選手が彼女であったからだ。私は始め、そのデータを信じられなかった。
対象は十五歳以下の全選手だ。つまりデータには男子も含まれているのだ。
信じられるだろうか。セントロもエストレーモもインテリオールもメディアプンタもメディオセントロも、すべての攻撃的ポジションで一人の少女がナンバーワンだと言われることを。
ありとあらゆる数値が、紅葉こそ最も優れた攻撃的サッカー選手だと断言していた。それも他の選手たちを大きく引き離した異常とも言える数値でだ。
十五歳以下の数値は所属リーグや親善試合、国際大会の有無で大きく変動するとは言え、それでも、紅葉の数値は今まで見たことも聞いたこともないものであった。
私は困惑しながら、紅葉の動画を分析し、そして納得した。
紅葉はドリブルの天才でありパスの天才でありシュートの天才であり、そしてゲームメイクの天才であった。
サッカーインテリジェンスがずば抜けて高く、試合をどう動かせばいいのか知り尽くしており、トッププロと比べても遜色ないどころか、すでに勝っているほどであった。
私は紅葉を何としてもセビーア女子チームに招く為、韓国へと向かった。八月十二日のU-19日本女子対U-19オーストラリア女子戦を現地スカウトとともに観戦し、その後、紅葉の代理人たちと会談、紅葉本人とも話すことが出来た。
紅葉と何を話したかは、私と彼女だけの秘密だ。
移籍市場が最も加熱する時期に、SDである私が欧州を離れることなど、本来ならあり得ないことだ。だが、私は焦燥感に駆られるように、気が付いたら飛行機に飛び乗っていた。
さて、試合内容について、ここで論じる気はない。一言、前半はサッカーと呼べるものではなく、後半はインテンシティの高いとてもよい試合であったとだけ言っておく。
私は紅葉がどういったプレーをするかだけに集中していた。その紅葉のプレーは正直に言って予想したものとは全く違っていた。
パスをせず、無謀なドリブルを繰り返す。どんなに囲まれてもドリブルだけ。球離れの悪い典型的な、使えないドリブラーのようであった。
紅葉の最もよい部分が消え失せていることに、私は始め失望した。だが、それが間違いであったとすぐに気が付くことになった。
今日の紅葉にパスはないとオーストラリア側も気が付き、紅葉を全力で潰しにかかっていた。だが、オーストラリア代表は紅葉を止めることは出来なかった。
紅葉のドリブルは時間が経つにつれ、どんどん冴え渡っていき、最後までオーストラリア代表を破壊し続けた。
私は現実とは思えない紅葉のドリブルに戦慄した。明らかに異常だ。これまでの紅葉のドリブルより遥かに攻撃的で、鋭すぎる。そして紅葉が思い切り吹き飛ぶシーンを見て、私はその要因を推察することが出来た。
紅葉はこれまで一度も大きな怪我をしていない。身体が丈夫なことはサッカー選手にとってとても重要な資質だ。紅葉の場合は、身体が丈夫と言うことより、無理なプレーをせず、最も効率的なプレーをすることで、怪我をすることがなかったのだろう。それは言い換えれば、余裕を持ったプレーしかしてこなかったとは言えないだろうか。
今の紅葉はいつ大怪我をしてもおかしくない。何度も相手と接触し、弾き飛び、転がり、それでいて、ボールを取られない。
試合の最中に、紅葉は恐ろしい勢いで成長していく。まるで蛹から羽化して飛び立つ蝶のごとく。
私は奇跡の瞬間に立ち会った。早熟なだけの天才と、本物の天才との明確な差を、紅葉は私に教えてくれた。
データでは絶対にこの凄みは伝わらない。映像ではこの溢れんばかりの感動はなかった。
事実、スタジアムで日本チームにずっとブーイングを続けていた観客たちが、いつの間にか紅葉にボールが渡るだけで、大歓声を上げるようになっていた。
私は今、悲しみの中にいる。絶望していると言ってもいい。
紅葉はまさに世界最高の選手になれる素質を持っていた。だが、彼女は世界最高の選手には成れない。
紅葉は生まれてくる性別を誤った。男に生まれてさえいれば、地位も名誉も莫大な金銭も、サッカー選手としてあらゆるものを手に入れただろうに!
サッカーの神様は紅葉にすべてを与え、そしてたった一つだけ意地悪をしたのだ。
私はセクシストと言われ、非難されるだろう。私自身、紅葉に対してこのようなことを言うべきでないと思う。だが、それでも、サッカーに人生を捧げてきた一人として嘘はつけない。紅葉の才能の前に偽りは許されない。
大井紅葉が男であったなら。世界は至高のバロンドーラーを永遠に失った。 』
フットボールダイナミック10月号 特別寄稿 「世界で最も才能溢れる選手を見つめ」 セビーアSD ラマン・ロードリス・ベルッテ




