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44 「覚悟を決めて 前」


 8月12日20時、日が暮れ、ぬるい風がピッチを吹き抜ける中、U-19女子アジア選手権準決勝、ヤングなでしこ対ヤングマチルダスの戦いは始まった。


 オーストラリアボールのキックオフ。紅葉は笛が鳴った瞬間、一目散に相手陣地、ゴール前右ワイドに走る。


 オーストラリアのフォーメーションは4-2-3-1、そのうちの左サイドバック6番と左ボランチ8番がすぐさま紅葉によってくる。この二人が紅葉のマークを担当するようだ。前後の動きで二人を振り切ろうとするが、二人ともぴったりと付いてくる。


 二人との攻防をしつつ、オーストラリアがボールをバックラインに戻し、ポゼッションするのを紅葉は見つめる。オーストラリアは現状3-1-3-1の形となっていた。


 対する日本は4-3-3。ゴールキーパー成田。バックラインは左から田岡、大鳥、増渕、近藤。中盤に剣崎、酒井、秩父が並び、トップに柳瀬、紅葉、今泉の布陣で挑む。


 オーストラリアは紅葉のいる右にはボールを振らず、中央に吸収された左サイドバックとセンターバックがパス交換し、前へボールを運んでいく。


 そしてオーストラリアバック陣がラインを押し上げ、紅葉と紅葉をマークする敵二人がポツリと右ワイドに取り残される。


 紅葉は動きを止める。オフサイドポジションで微動だにせず、じぃっと自陣を見つめる。そして敵二人が紅葉のことを見ているのを確認してから、腰に手を当て、はぁっと大きなため息を付く。


(ちょっとわざとらしいかな?)


 敵がどうマークしてくるかの確認。それと、私のポジションはここですよ、と敵に思わせる為の演技である。


 そんな紅葉に敵サイドバック6番が声をかけてくる。


「Momiji,what’s the matter? Why not move?」

「Thank you for caring about me. It's a boss's order」


 トラッシュトークではなく、純粋に心配されてしまった。紅葉は微笑みながら監督の命令だと嘘をつく。幼い顔立ちをした敵6番が、そうなの、大変ね、と困ったように眉を寄せて頷く。


(う~ん、いい子だ。え~と、名前はアメリアだったかな。身体は小さいけどとにかく動きがいいんだよね、この子。でも試合中に相手の心配なんてしてたらダメだよ? って、私もか。集中集中)


 百六十二センチの紅葉より少し背の低い、オーストラリア選手の中では一番小柄な相手選手に微笑んでから、紅葉はピッチ全体の動きを観察し、そして目を閉じる。


 ふぅと、静かに深呼吸を繰り返し、選手たちの動きを頭の中で想像する。オーストラリアが右サイドからクロス。センターバック増渕が敵9番と競り、こぼれたボールをセンターバック大鳥が拾う。


 紅葉は目を開ける。敵6番の青い綺麗な瞳と視線がぶつかる。6番のさらなる問いかけを無視し、6番の肩越し、自陣で大鳥がボールを拾っているのを確認、自然と笑みが浮かぶ。


(ああ、今日は冴えてるかも……じゃあ、次の展開は……)


 紅葉は唐突に右ワイドから一気に中央、ゴール前へと走り込む。


(OK)


 突然動き出した紅葉に驚いた表情を浮かべながら、敵サイドバック6番、ボランチ8番がついてくる。


 大鳥が右サイドバック近藤へ冷静にパスを繋げる。


 近藤が先ほどまで紅葉たちがいたスペース、今は誰もいない右前へとボールを蹴り出す。


(予定通り)


 右ウィングの今泉が猛然と走り込み、ボールを拾うのを確認し、紅葉は次の動作に入る。


(ゴール真正面、ここで切り返す) 


 紅葉と、紅葉をマークする二人、それから戻ってきたセンターバック二人がゴール前に集まっている。その中で急ストップ。右に一歩。相手6番が即座に食い下がってくる。遅れて8番が切り返す。


 紅葉はニアへ三歩走り、また切り返す。直後、敵6番と8番二人に左右を挟まれる。前へ。敵センターバック目掛けて走る。


 中には紅葉一人、敵は四人。紅葉が手を上げる。敵味方の視線が紅葉と今泉の二点に限定される。


(うん、この後は……)


 今泉がマイナスクロスを上げる為に足を振り上げる。


 色の消えた白黒の世界。ノイズが途絶えた静かなスタジアム。紅葉の頭の中で再現されたそのピッチ上で、コマ送りにボールの行方が映る。


(ああ、ダメだ)


 一瞬の白昼夢。色彩と音が戻った瞬間に紅葉は動く。ボールウォッチャーになっている敵6番と8番、センターバック二人を横目に右へ。


 ――間に合え!

 

 紅葉はがむしゃらにゴール右へ。


 今泉がクロスを上げる。相手センターバックとボランチの間に上がったボール目掛け、柳瀬、酒井、剣崎、秩父が敵と共になだれ込む。


 最もニア側で半歩抜け出した秩父へボールが通る。秩父が迷わずダイレクトでシュート。


 直後、ボールに敵の伸ばされた足が当たり、ボールの軌道が変わる。右、枠に行くか行かないかギリギリのコース。皆がボールの行方を見守る中、


「はっ」


 紅葉は一生懸命スライディングし、思い切り足を伸ばす。


 伸ばした右足つま先にボールが勢いよく当たる。


 ボールが真上に上がる。紅葉は転んだままの姿勢で、落ちてくるボールをちょこんとゴール右端へと押し込む。


 ボールがコロコロと転がり、目を見開いて紅葉のことを見つめるキーパーの横を通り、そしてゆっくりとゴールラインを割り、ネットに触れることなく止まる。


 紅葉は大の字に寝転がる。芝生の匂いが心地よい。照明が少し眩しい。大きく息を付く。


(はふぅ、完璧な立ち上がりだね)


 笛の音が遅れて鳴り響く。


 紅葉は一連の攻撃に手ごたえを感じる。紅葉が外で張り、ゴール前へと走る。そしてその空いたスペースに今泉が走る。紅葉はゴール前で敵を引き付け、空いた二列目に全員が飛び込み、ゴールを決める。


 作戦通りに一点取ることが出来た。この一点の意味はとても大きい。敵は一点ビハインドになり、攻めざるを得なくなった。これで、後ろからのパスがやりやすくなる。紅葉は内心でガッツポーズをする。


 そして、そのまま寝転がり続ける。


(あれ? なんで、みんな来ないんだろ?)


 寝転がっている選手に皆が次々と折り重なるゴールセレブレーションを期待していたのだが、そもそも誰一人紅葉のところに来てくれない。  


 一人敵ゴール横で寝転がり続ける。


 気まずい。


(……えぇ? ……どうしよう。今から何事もなく立ち上がるのって……いやいや、このまま寝転んでたら、それこそタイミングを逸する、立つんだ私!)


 紅葉は意を決してがばりと立ち上がる。それからすぐに、


「あれ? みんな、どうしたの?」


 こちらを呆然と見つめるチームメイトと敵の視線に遭遇し、紅葉は首を傾げる。


「紅葉ちゃんって未来が見えてるの?」


 大鳥に変なことを聞かれ、紅葉は笑って否定する。そんなことが出来る人間はいない、と。




 

   

 この試合において、紅葉のポジションはフォワードの真ん中、偽9番だ。とはいえ、監督から守備を免除され、好きにやれと言われている。


 なので、今自分が取りうる最善を考える。といっても、事前にどうするかは皆と話し合ってちゃんと決めてある。今、一番どんなプレーが求められているか。それは時と場合による、としか言えない。状況次第で好手も悪手に変わるのだから。


 今の紅葉に求められるプレーは? 紅葉は即断する。


(うん、私が点を取るのは捨てよう)


 敵が日本陣内へ攻める様子をちょうどセンターサークルの位置で、紅葉のマーク担当二人と、センターバック二人の四人に囲まれながら見守る。


 敵6番と8番はまったく攻撃に参加せず紅葉の傍から離れない。


 もしも紅葉につくマークが一人なら、ゴール前で得点も狙おうと思っていた。けれど現実は二人。紅葉一人に敵二人。それも、固定でだ。


 一人を密着マークさせ、もう一人は紅葉の近くにいる選手が付く一般的な方法ではなく、敵二人は紅葉の守備専門でずっとマークしてくるのだろう。


 紅葉が後ろに下がれば、敵二人をゴール前から引き剥がすことが出来る。


(このギャップは狙わないとね)


 攻撃の組み立てをより後ろで行う。それだけで、敵は数的不利になる。狙わない手はない。


(といっても、引きこもられたらダメだけど……その心配はなさそうかな)


 敵は0-1で負けている。攻めずに守備だけする選択肢はなかなか取りにくい状況だ。先ほどより前掛かりになって日本陣内へと攻め込んでいる。


(うん、大丈夫だ)


 それにしても、と紅葉は思う。


 日本の守備はかなりよい。絞るべきところをしっかり絞り、敵をフリーにさせず、スペースも与えない。


 紅葉にマークをつけることで数的不利になっているオーストラリアでは、今の日本から点を取るのは中々難しいだろう。


 オーストラリアが遠目から強引にシュートを打つ。威力のないボールをキーパーが、がっちりキャッチする。


(さあ、もう一点だ)


 まだ前半の頭だ。守備がいいからといって一点を守り切る、というわけにはいかない。攻撃は最大の防御なのだ。追加点を狙う姿勢がなければ、相手に攻め続けられることになる。 


 それに何より、サッカーは攻撃の方が楽しいからね。


 紅葉は微笑みながら、センターサークルに立ち、敵味方の動きを何度も首を振って確認していく。


 ボールがバックラインでゆっくり回されている間に敵が守備陣形を整える。味方も両ワイドの選手が高い位置へ移動し、中盤の選手も紅葉より前へと移動していく。


 酒井が中盤底で、バックラインからのパスを紅葉に繋げる準備をしているのがわかる。


(そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。しずかちゃんなら出来るから)


 酒井へ心の中でアドバイスしながら、前線を確認。味方選手がどんなパスが欲しいのか、おおよそ理解し、どこに出すか逡巡する。


(ああ、今日は本当に調子がいいな)


 いつもより皆の動きが良く見える。どんなパスだって出せそうだ。どんどん集中力が高まっているのを感じる。


 紅葉の前に大柄な敵8番が立ち、後ろにくっつくように6番がマークしてくる。6番は腕を、8番は袖を掴んで、完全に紅葉にボールを渡さないつもりのようだ。


 二人を引き連れ紅葉は左へゆっくり移動する。そして、タイミングを見計らって二人を振りほどき、前へ。即座に停止し、自陣へと切り返す。一瞬だけフリーになる。


 そこへ酒井からのボールが届けられる。


(ナイスしずかちゃん!)


 ゴールを背にした状態ながら紅葉の前にボールが転がってくる。紅葉はボールへ走りよりながら、ダイレクトで味方へパスをする準備に入る。


 先ほどまで見ていた前線の情報を頭の中に思い描き、それを再生させる。酒井にボールが入った時点でサイドバックを含め、全員が走り出している。誰に出すか、ボールを蹴る最後の瞬間まで考え続ける。


(柳瀬の飛び出しはオフ。今泉と剣崎はマークを振り切れてない。ああ、近藤の上がりで秩父がフリー、シュートまでいける)


 右サイドバックの近藤がデコイでワイドを走ることで、中盤の秩父の前に選手がいなくなる。秩父は今の飛び出しで相手ボランチより一歩前に先んじている。


 秩父の前にスルーパスを出せば秩父がシュートまでいける。


 紅葉の頭の中で流れた未来予想。己の感性を信じ、紅葉は目の前まで迫ったボールの、右前方に左足を強く踏み出し、全体重を左足にかけた状態で、身体を思い切り捻って、右足で秩父が走り込んでいるであろう敵右サイドへとボールを蹴……。


(あっ)


 紅葉の頭の中に流れる白黒の映像が更新される。ドリブルする秩父に後ろからスライディングする敵。倒れ込み、泣き叫ぶ秩父。


 紅葉の身体が硬直する。


 振り上げていた右足が宙をさまよう。そのままボールを蹴ることなく紅葉は遠心力に従って、地面に転がる。


 ボールは紅葉を素通りし、紅葉の後ろにいた敵8番へと渡る。敵8番が慌てながらも前線に一人残っていた味方9番へとパスを送る。 

 

 日本は全員が前掛かりになっていた。敵9番がスルリと大鳥から逃げるように斜めに切れ込み、ゴールにシュートを突き刺す。

 

 紅葉はボールがゴールに吸い込まれる様をピッチに転がったまま見つめ、ふぅっと息を吐きだす。そんな紅葉を心配したのか、敵6番が大丈夫か、と心配そうに声を掛け、手を差し伸べてくれる。


 その手を掴み立ち上がり、紅葉はありがとうと、お礼を言う。それから、自陣に戻り、全員にごめんなさいと大きな声で謝る。


 どんまいという声がチームメイトから返ってくるのにもう一度頭を下げて謝り、そして申し訳ないという気持ちを完全にリセットする。


 考えるべきはなぜ失敗したのかであって、うじうじ失敗を引き摺ることではない。


(ちょっとマズイかもしれないな)


 紅葉はさきほどのミスの原因、己の観察眼とそれに基づく行動予測に狂いが生じている可能性を考え、焦りを覚える。


(って、いけないいけない。メンタルメンタル)


 大きく息を吸ってゆっくり吐き出す。


(集中力を切らすな。試合は続いてるんだぞ)


 日本ボールでキックオフしたボールは一旦センターバックの大鳥まで戻される。日本はディフェンス陣でパス回しをしつつラインを押し上げる。紅葉は一度最前線まで走り、後ろに戻るタイミングを待つ。


 前線で敵との駆け引きをしながら、攻撃のスイッチをいつ入れるか窺う。


 紅葉はここだと言うところで、最前線からハーフウェイラインまで一気に戻る。敵二人が紅葉の斜め後ろから追いすがってくる。


 ハーフウェイライン上にいた酒井の横を一旦素通りし、それから急停止、酒井目掛けてダッシュする。敵二人に左右から挟まれ、両手をそれぞれ掴まれる。


(おっけー)


 掴ませた両手で左右の二人を抑え込むことに成功する。酒井から完璧なスルーパス。紅葉の前方にボールが転がってくる。


 手を掴まれていても足は動く。今度は前を向いた万全の状態だ。紅葉には味方全員の動きとパスコースが視える。最も確実にゴールに繋がるプランは? と最後の瞬間まで選択肢を複数持ち続ける。


 柳瀬へのスルーパスを選択。紅葉はパスを出す為、右足を小さく後ろへ引く。


 柳瀬が敵を振り切る。紅葉は柳瀬がそのままカットイン出来るように、柳瀬の右前4メートルのところへバックスピンをかけてボールを蹴ろうとして、


「っ!!」


 そして硬直する。


 左右から手を引っ張られていた身体は一瞬でバランスを崩し、紅葉はそのまま後ろへとひっくり返る。 


 敵6番が紅葉の後ろから紅葉のことを受け止めてくれる。ピッと笛が鳴り、敵6番のファウルとなる。


 敵6番が謝ってくる。それに上の空で返事をし、紅葉は息を吐く。


(あぁ、そういうことか)


 柳瀬へパスをする直前、紅葉の頭の中には敵が柳瀬へスライディングし、柳瀬が怪我をするシーンがはっきりと見えた。


(これって、雪お姉ちゃんの怪我のことが頭の中に残ってるからだよね。ちょっとトラウマっぽくなってる? うん、それもある。でも、それだけじゃない)


 紅葉は皆の動きを予測しパスを出す。試合の流れ、敵味方の動きを予測してプレーするのはサッカー選手なら当たり前のことだ。


 ただ、紅葉のそれは、他の選手よりも精度が高い。紅葉にとって大きな武器だ。


 紅葉は前世の時から目が良かった。相手の動き、僅かな瞳の揺れ、身体の震え、言葉では言い表せない雰囲気、それらを感じ取って(みて)、その逆を突き、持ち前の身体能力で相手をぶっちぎるのが、紅葉の十八番であった。


 生まれ変わった紅葉は、当然その目をさらに鍛えようとした。ジョンという一匹の犬と一緒に。


 ボールをジョンから死守出来たら勝ちという簡単なルールでの戦い。読み合いは紅葉が圧倒的に有利であった。尻尾を見れば、何を考え、どう動くかすぐわかるから。犬故の致命的弱点である。


 けれど身体能力では圧倒的にジョンが上であった。子供の紅葉と野生の本能を若干忘れた(けもの)。勝負はジョンの連戦連勝であった。


 素早い身のこなし、尻尾を使った方向転換に紅葉は苦しめられたが、徐々にジョンの動きに対応出来るようになっていった。


 そうすると今度はジョンがフェイントを交えるようになった。尻尾で左に行くと見せかけて、右へ。同時に瞳の視線で右に行くと見せかけて左へ。


 どっちだ、と迷わされた瞬間に紅葉の負けが確定する。一か八かで左をブロックするが見事に逆を突かれる。


 紅葉は悔しさを飲み込んでジョンを讃える。ふさふさの毛をぐしゃぐしゃに撫でてやるとジョンが嬉しそうに勝ち誇ってくる。


 ぶんぶん尻尾を振りながら紅葉の頬を舐めてくるジョンを見つめながら紅葉はもう一回と再戦を強請る。


 ジョンは望むところだと再び配置につく。そうしてお母さんに止められるまで、紅葉はジョンとの勝負に明け暮れたのであった。


 打倒ジョン対策に犬のことを調べてわかったことは、犬は人とは見えている世界がまったく違うということ。


 犬は視力があまりよくない。人と違いモノクロで世界を捉え、視力より嗅覚と聴覚の方が重要なのだそうだ。


 ただ、動体視力はとてもいい。


 ジョンの見ている世界とはどんなものであろうか。紅葉にはわからない。色の代わりに多彩な匂いが世界を彩っているのであろうか。


 ジョン(いぬ)にはジョン(いぬ)の強みがある。では、紅葉(ひと)の強みとはなんであろうか。


 人はサッカーをする過程で情報の取得を、ほぼすべて視力に頼っている。


 その中に無駄はないだろうか。

 

 視力の中で、色というのはサッカーに必要か。いや、いらないだろう。他には? 聴、嗅、触、味、すべていらないのではないか。


 不必要な情報を全部そぎ落とすことで、敵味方の動きを完璧に把握し続けることは出来ないだろうか。


 人の強みである視力を極限まで活用する。ジョンのように世界を捉えることは出来ないけれど、紅葉は紅葉の世界を構築する。


 集中するということは、いらないものをすべて捨てるということだ。紅葉はジョンとのトレーニングで少しずつ五感をカスタマイズしていった。


 色彩はなくなり、ゆっくりとコマ送りに進む世界。空気が消え真空になったように、どこまでも音のない空間が眼前に広がる。


 今の動きから未来の動きを完璧に予想しえるほど紅葉の瞳は世界を精確に捉え出す。けれど、それは人として壊れる寸前であったのかもしれないと、紅葉はかつてのことを思い出す。

 

 ボールと己がポツリといる空間に突然一匹の犬が、それから一人の少女が分け入ってくる。


 ジョンに抱き着かれ、その心音を聴き、温かな毛に包まれ、頬を舐められ、犬特有の優しい匂いを嗅ぐ。


 紅葉とジョンのじゃれ合いに楓が泣きながら突進してくる。一匹と二人が一塊になってぐるぐる回る。


 五感が鮮やかに蘇る。


 ジョンが尻尾をバタバタ振り、楓がきゃっきゃと笑う。


 紅葉も笑う。


 ああ、この世界は捨てていい世界ではない。無駄な感覚など一つもない。


 紅葉は方針を転換した。これまでと真逆のアプローチ。前世からの継続性を捨て去り、一から再出発する決意をした。 

  

 五感をフルに使って情報を取得する。そしてどんな些細な情報も拾い続ける。そして、その溜め込み続けた情報をもとに、世界を再構築する。


 入力を絞るのではなく、出力を絞るのだ。


 今、紅葉がたどり着いた世界は、かつてと同じモノクロな世界であった。だが、頭の中に描かれる世界はより立体的で多面的なものになっていた。


 情報の蓄積が進めば進むほど世界はよりクリアになる。日々の練習で、そして試合の中で成長していく。


 紅葉の予測はどんどん精確になっていく。この大会でも多くのことを紅葉は感じ取り、その血肉とすることが出来た。


 雪奈の怪我を至近距離で見た。そのことが鮮明に記憶に焼き付き、味方へパスをする際に、その時の恐怖が蘇り、誤作動を起こしている。


 だけど、それだって一つの成長の証だ。これまで見えなかった未来(もの)が見えるようになったのだから。


(今は裏目に出ちゃってる。けど、う~ん、絶好調ってことだよね、今の私) 


 限界まで集中出来ているからこそ、予選最終戦や練習では見えなかった未来が見えるようになったのだ。悪いことではない。むしろ、


 ――チャンスだ


 実感出来るほどの絶好調、それも成長出来るほどの瞬間など、そうあるものではない。


 出来なかったことが、一回成功し、それから、稀に出来るようになり、そしてその成功率をコツコツ引き上げていく。長いスパンをかけて、当たり前に出来るようになって、いつの間にか成長してたんだと思える。


 その切っ掛け。上振れ。今この瞬間こそが成長するチャンスなのだ。


(絶対ものにしてやる)


 何をものに出来るのかなど、想像も出来ない。けれど、何かをものにしてみせる。誰よりも上手くなるそのチャンスは一つだって逃がしてなどやらない。      


(ふぅ、落ち着こう。集中力を途切れさすな私……現状は私がパスを出せない時点で、事前の作戦は無理だ。どうする?)


 酒井にパス役を任せ、紅葉は自身のマーク二人をゴール前から徹底的に遠ざけることだけを考える。プラスでその他の選手をオフザボールで混乱させる。


 そうすれば、数的優位に立った日本と、今の酒井なら、最適なパスを前線に供給出来るだろうから、それだけでも勝てる気がする。


 チームのことを考えるなら、それがベター。


 だけど、だ。


 ――そんなベターなど絶対に選ばない!


 これは紅葉のエゴだ。チームの為に、という考え方に則れば許されない。


(ベターじゃない、だけど)


 日本代表というのはとても重い。選ばれなかった選手たちの分まで勝たなくてはならない。次の舞台である世界への切符を彼女らへと届けることは選ばれた者としての義務だ。


 応援してくれる観客や、お金を出してもらっているからではなく、成長出来る舞台へと続く階段を次へと繋げることこそ、紅葉にとっての代表の重みである。


 勝てば世界。絶対に勝ちに徹しなければならない試合。


 紅葉は笑う。


(批判は甘んじて受けよう)


 負けたくはない。けれど、負けた時はその責任を監督と一緒に取ろう。


(好きにやれって言われてるからね。監督が批判されるのは仕方ないね。先に謝っておきます。ごめんなさい、監督)


 好きにやれとは言われているが、紅葉のルートが潰れた場合は、右ウィングに張った今泉にシンプルに当てようと話し合っていた。その他にも監督の東条からは様々なプランを言われている。


 が、それは全部忘れることにする。


(本当に監督って大変だ。選手が勝手にやったことまで責任を取らなくちゃいけないんだから。私には、監督は無理だな)


 そしてチームメイト、それから雪奈へと謝罪をする。裏切ることになるかもしれないと。  


 この試合に勝てば、来年のU-20ワールドカップに出場出来る。この一戦で成長し、来年、雪奈たちと一緒にワールドカップに出たい。


(だけど、出れないかもしれない。ごめんなさい)


 よし、と声を出し、紅葉は決意する。


(私は私の限界を知りたい。そしてその限界を越えたい。ううん、越えるんだ)


 ――勝ち負けなんか知ったことか! 


 身体から力が抜けてゆく。日本代表という重圧も、勝たねばという決意も、すべてを飲み込んで、最後に残ったのはサッカーと向き合うというシンプルな想いだけ。


 込み上げてくる大きな不安と、それ以上のワクワク感。


(あは、やっぱりサッカーはこうでなくちゃね)


 ちょうど投影スクリーンに映っていた己の顔に向かって、紅葉はベーと大きく舌を出す。


 映像の中の己が、あっかんべーしながら、無邪気に笑ってくる。


 お前には負けないぞ!


 紅葉はそう紅葉に宣戦布告した。


  

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