42 「監督の差」
U-19アジア選手権グループAの初戦の結果、日本が朝鮮統一チームに勝利し、勝ち点3を得た。同グループもう一試合、ベトナム対タイは引き分けで、それぞれ勝ち点1を分け合う形となった。
紅葉は東京の病院に入院している雪奈とスマホ越しに会話する。ビデオ通話で雪奈の元気な顔が見れ、紅葉は嬉しくてまた泣きそうになる。
雪奈が自身の病状を話し終えると、次の話題は自然とサッカー、大会のことになる。離脱したが、雪奈も日本チームのメンバーだ。気になるのだろう。
「いい展開ね。やっぱり初戦に勝つって本当に有利になるわよね」
「だね! 明日のベトナム戦に勝てば予選突破が決まるし、引き分けでもOKだからね」
「相手は予選突破の為に攻めてくるでしょうし。もちろんうちも攻めるんでしょう?」
「うん、もちろん!」
ベトナムはサッカー人気に後押しされ、近年急速に力をつけてきた。差は縮まっただろうが、それでもまだ日本の方が地力は上だ。
格上の日本に対して、本来なら、守備的に戦いたいだろうベトナムだが、それはないだろうと予想される。
グループAは、優勝候補の朝鮮統一チームと、それに続く形で日本の二強と言われている。
タイと引き分けたベトナムは現在勝ち点1。
日本に勝てば、勝ち点4、引き分けで勝ち点2、負けると勝ち点1で、最終戦の朝鮮統一チームとの試合を迎えることになる。
朝鮮統一チームはタイに勝ってくるだろうから、勝ち点3で、最終戦を迎えるだろう。
ベトナムは日本戦に勝った場合のみ、最終戦の朝鮮統一チーム戦、引き分け以上でグループリーグ突破が決まることになる。
日本戦で引き分けても、負けても、条件は一緒、朝鮮統一チームに勝たなければならない。
なので、ベトナムは日本戦で勝てば、最終戦に有利になり、負けても引き分でもほぼ条件は変わらない。
となれば、当然だがベトナムは勝つ為、攻めてくる。初戦のタイ戦で採用した4-1-4-1で、果敢に攻めてくると想定し、日本は準備をする。
勝ちに来る格下相手だ。引いてカウンターが定石だが、そこは東条監督だ。4-3-3でガチンコ勝負を挑むと宣言している。
(それにもしかしたら、前半は守ってくるかもって話だしね)
紅葉は自室のベッドに寝転がりながら、スマホに映る雪奈に笑いかける。雪奈も笑い返してくれる。
「紅葉ちゃん、ベトナム戦は先発?」
「うん、先発。でも、私以外は全員入れ替えだよ」
「全員? それは思い切ったわねぇ。大丈夫なの?」
日本代表は二十三名。そこから雪奈が離脱し、二十二名。うち、キーパーが三名。フィールドプレーヤーが十九名で、初戦に先発したフィールドプレーヤー十人を引くと九名。その九名と紅葉がベトナム戦の先発予定である。
本当に紅葉以外全員先発入れ替えだ。雪奈が驚き心配するのも無理はない。紅葉も若干不安はあるが、笑って請け負う。
「うん、平気だよ。みんな、すっごい気合い入ってるからね」
「……紅葉ちゃん、控え組のこと煽ったでしょう?」
「あはは、そんなことないよ。もともと気合い入ってたよ。まぁ、ちょっとだけ、打倒レギュラー組だとは言ったけどね」
「あはは、めっちゃ、煽ってるじゃない。でも、紅葉ちゃんは大丈夫なの? あの暑い中での試合は疲労が残るからねぇ。身体疲れてない?」
「うん、全然平気。私は前半で交代してるからね。それに、監督酷いんだよ!」
つい、強い口調になってしまう。雪奈が驚いた顔で聞いてくる。
「何かあったの?」
「予選は、三十分出場か二点取ったら交代だって言うんだ! 横暴だよね!」
雪奈がなんだそんなことか、と笑う。
「いや、まぁ、いいんじゃない。どれだけコンディションを落とさないかが、夏の大会だと重要だからね」
「でもなぁ、出場時間少なくなるし、早く交代したらチームメイトに迷惑かけちゃうよ」
「仲間だからこそ、迷惑はかけていいのよ。それに少ないくらいが、今の紅葉ちゃんにはちょうどいいって。今やってるインハイなんて、男子は一週間で六試合もやるのよ。女子は五日で四試合だから、まだましなんだけどね。それでも去年、最後はホントに足が動かなくなったもの。気持ちがあっても、身体は正直なのよねぇ。だから、休める時に休んでおくのって本当に重要だよ」
「インハイってそんなに過酷なんだ。う~ん、休む重要性はわかるけど。やっぱりもっといっぱい試合したいなぁ。そういえば、女子が終わったら男子なんだよね。和君に応援の連絡しなくちゃ」
「紅葉ちゃんに応援されたら、和博は頑張るだろうねぇ。そういえば、吉田がすっごい悔しそうにしてたよ。インハイ予選で和博に負けたこと」
「そうなの?」
「うん、吉田がね、私の怪我を心配してメッセいっぱい送ってきてたから、さっき電話で大丈夫だって伝えたんだけどね。その時に、今年は和博! に負けて夏休み暇なんで、どこか行きませんかって。それで、私が退院したら、水族館行くことになったんだよ。あ、そうだ、紅葉ちゃんも一緒に行かない?」
雪奈が笑顔で紅葉を誘ってくる。紅葉はナイス吉田! と吉田を褒め讃える。
雪奈は夏休みの間、入院生活を送ると聞いている。退院後もリハビリ生活が待っている。
吉田はそんな雪奈を元気づけようと水族館に誘ったのだろう。
(さすがイケメン! 気遣いの出来るいい男だね)
紅葉は笑顔で誘いに乗る。
「もちろん行くよ! あ、カエちゃんも誘っていいかな?」
「悪いわけないでしょう。よーし、皆で水族館だ! また一つ楽しみが出来たわ」
「うん、私も!」
「長電話しちゃったわね。それじゃ、紅葉ちゃん、頑張ってね! 応援してるからね!」
「……うん! 頑張るね!」
紅葉は電話を切り、スマホをベッドサイドに置く。ふわぁとあくびを一つし、そのまま夢の中へ旅立つ。
ベトナム戦は先日と同じソウルワールドカップスタジアム、二十時キックオフ。初戦とは異なり、スタジアムはガラガラだ。韓国の観客はほとんどいない。
それでも日本サポーター数千人、ベトナムサポーター数百人が集まり、開始前から自国を応援している。
紅葉は4-3-3の右ウィングだ。日本ボールで始まった試合は、すぐに異様なものとなる。
サポーターたちのどよめきがスタジアムに響く。
ベトナムのフォーメーションは4-1-4-1。だが、両サイドハーフがバックラインまで下がり、6バックを形成し、中盤三枚がその前に並ぶ。
ゴール前を完全にふさぐ6-3-1の超ドン引き守備だ。
(監督の予想当たった。びっくりだなぁ)
紅葉は、ミドルサード、ピッチを横に三分割した真ん中へ、まったくプレスにこない敵をしばし見てから動き出す。
敵はゴール前の危険な場所、バイタルエリアだけでなく、6バックにすることで、両ワイドのスペースまで潰している。
紅葉はいつもの右ワイドから、少し下がり目のポジションに移行する。いつもの位置では、敵のサイドバック3番とサイドハーフ11番に囲まれてしまう。
敵が作る六枚の壁の前、二列目三人の横へ移動し、右サイドハーフの秩父からボールを受け取る。
紅葉は前を向き、ドリブルを開始する。目指すは大混戦のゴール前。
敵二列目からサイドハーフ17番が紅葉へ突っ込んでくる。6バックの一番ワイドにいたサイドハーフ11番もそれに続いて走り寄ってくる。
まっすぐ、右サイドをドリブルしても意味はない。密集度は変わらないのだから。
紅葉は二列目の選手17番と身体を入れ替え、中央の密集地帯目掛けて斜めに走り出す。
敵左サイドバック3番、サイドハーフ11番が右から、センターバック6番が中央から、計三人が紅葉の前をふさぐ。
後ろには先ほど身体を入れ替えて躱したばかりのサイドハーフ17番。四人が紅葉を包囲しようとしている。
紅葉は大外をオーバーラップする秩父へ視線を向けることで、敵サイドハーフ11番とサイドバック3番の二人の足を一瞬止めさせる。敵サイドハーフ11番が秩父をケアしに走り去る。
その間により中央へ。敵サイドバック3番が先に、続いてセンターバック6番が紅葉の前に立ちはだかる。
後ろには敵サイドハーフ17番も来ている。時間をかけたら、即座に囲まれてボールを失う。
パスしかない。
(そう、思ってるよね? ダメだよ。もっと思い切りよく寄せて、身体をぶつけに来ないと)
紅葉は急ストップして、左足でボールを右、逆側へ大きく切り返す。そのボールを右足つま先ですくい上げ、一気に前方、前の二人の間へ身体を滑り込ませる。
右にいるサイドバック3番の伸びる足を飛び越え、続いてセンターバック6番のタックルをルーレットで躱し切る。態勢を崩すが、即座に立て直してドリブルする。
密集を抜ければ、後は誰もいないスペースが待っている。後ろに先ほど躱した三人を引き連れ、ペナルティーエリアに侵入する。
キーパーと一対一。分厚い守りを抜かれると想定していなかったのだろうか、キーパーの飛び出すタイミングが遅い。
左右どちらにもコースが空いている。紅葉は右上を狙おうとして、シュートモーションに入る。
(あっと……)
左側から紅葉に詰めてくる敵ディフェンダーとゴール前へ一生懸命戻る敵ディフェンダーを確認する。敵のキーパーは、左は味方に任せて右を潰そうと考えるだろうか?
(うん、じゃあ真ん中)
一瞬の思考とも言えない思考。第六感のようなもの。紅葉は己の感覚を信じてキーパーの左肩上を狙う。
ボールがゴールへ突き刺さる。キーパーは紅葉の読み通り思い切り右へ飛んで倒れていた。
高々と右手を上げながら、紅葉はニコリと笑顔を浮かべる。そして、少し口角が上がって偉そうな笑いになっているのを自覚し、いけないいけないと両手で顔をパンパンと叩く。
(ドヤ顔になってた! 恥ずかしい!)
キーパーとの一対一なら圧倒的に攻める側が有利なのだ。
(……読み勝ちしたからって、勝ち誇るのはダメだよ。でもやっぱり気持ちいいね!)
次々に仲間たちが紅葉に抱き着き、祝福してくるのに応えながら、紅葉は笑顔を浮かべる。
1-0の日本リードになったことで、ベトナムは6バックを止めて、本来の4-1-4-1に戻して、攻めてくる。
この試合、日本は紅葉以外全員が控え組である為、連携に不安がある。もちろん、スタメンも控えも関係なく練習し、全員でチームを作ってきた。
それでも、守備の要であるキャプテン大鳥、攻守のキーマン酒井、そして、攻撃の軸であった立花がいないのは大きすぎる。
ボールを前までスムーズに運べず、ショートカウンターを何度も受ける。そしてベトナムに何度も決定機を作られる。
中盤の組み立てに参加しようと下がった紅葉に、ピッチ脇から、東条の怒鳴り声が響く。
「大井は前線に張ってなさい! 久地! バックラインまで下がって起点になれ!」
紅葉はすぐ横からの大音声に、はい、と答えて前線に戻る。左サイドハーフの久地がセンターバックの隣まで下がって、ボールをバックラインで散らす役割を担う。
「それから、前三枚! もっとボールを引き出す動き!」
スタジアムにいる日本応援団が、東条の指示出しに気が付いて応援を止めた為、その声はピッチによく響いた。
「立花の分まで走れ! 立花の分まで考えろ! 立花の分まで得点しろ! それがチームだろ!」
静かなスタジアムに十一人分の返事が響く。
ボールが回り出す。それは、当然だろう。全員がスペースへ動き、ボールを呼び込むのだから。
ボールを走らせろ、ボールは疲れない、とよく言われるが、それは嘘だ。ボールを回すには相手のいないところを見つけ、そこに走り、相手のマークが来る前にボールを貰わないといけない。
パスの出し手と受け手以外も皆が考え、走る必要がある。次に誰が貰うのか、その位置は。さらに、ロストした時に、カウンターを受けないように相手の位置を確認し、自分の位置を変更する。
ボールを走らせる為にはまず人が走らないといけない。疲れないわけがない。
もちろん、その走り回る人とボールを、強制的に追いかけなくてはならない守備側は、攻撃側の何倍も疲れるのだが。
日本は相手よりも多く走り、ボールを次々に繋げていく。ミスでボールを失っても、即座にプレスに行き、ボールを奪い返す。
明らかにハイペースだ。しかし、それでいい。悪い流れを断ち切り、こちらの流れにもってこれたのだから。
(ここで絶対に決める! 私が雪お姉ちゃんの代わりに得点するんだ!)
紅葉は執拗にマークしてくる敵サイドバックを振り切り、ワイドへ抜け出す動きをする。その紅葉の斜め走りに反応して中盤からスルーパスが出される。
(ナイス! でも、ちょっと長いかな)
紅葉はボールを必死に追いかけ、コーナーフラッグ手前でボールに追いつく。端の端で、敵サイドバック3番と一対一になる。
紅葉の場所からは敵味方全員が見渡せた。ゴール前で紅葉のクロスに備えるセンターフォワードの今泉、それを阻止しようと敵センターバックが今泉の身体を引っ張っている。
敵バックラインがスライドし、紅葉側に移動する。さらに敵センターハーフ11番が大急ぎでこちらに向かってくる。けれど、それはまだ遠い。
(うん、それじゃあ、行こうか)
ボールを自身の前に少し出し、そして左足アウトサイドで左へ押し出し、上半身を左、自陣側へ大きく傾ける。左から抜きますよ、と提示。そして即座にインサイドでボールを斜め右、敵の股を抜いて、ゴールライン際へ送る。
敵が左側に態勢を崩したのを確認しながら、ゴールライン際でボールを右足で受け止め、ライン上をドリブルする。
ペナルティーエリア内に侵入する直前で、敵センターバック6番が走り寄ってくる。紅葉は斜め左に進路を変え、ゴールへのシュート角度を確保する。
敵センターバック6番の目の前で左足を大きく振りかぶる。足を伸ばす敵センターバック。シュートを打たずにさらに斜め左側へと流れる。
視界は開けた。ペナルティーエリア内右から、キーパーが固めるニア上を抜くか、巻いてファーを狙うか。
(うん、ニア上!)
身体を思い切り捻り、紅葉はシュートモーションに入る。
(って、これ決めたら交代なんだっけ!? でも、絶対にゴールは決めないといけないし!)
紅葉は慌てて狙いを変える。ファー側にいる今泉がニアに飛び出す動きでボールを要求していたのを思い出す。
そこにパスだ!
紅葉はシュートモーション中に狙いを今泉へのパスへ変更する。
しかし、とっさに変更したため、コースは変えられたが、威力は変えられなかった。
全力シュートなパスが今泉の顔面目掛けて飛んでいく。狙い違わず今泉の額にヒットしたボールがゴールへと吸い込まれる。
(やった! ってか、やっちゃった!?)
ゴールを決めた今泉がぶっ倒れていた。パスにはあまりに強いボールであった。紅葉は罪悪感に苛まれながら今泉へ駆け寄る。
(脳震盪かな? あぁ、私は何やってるんだ! 最低だ! 交代したくないからって味方に怪我させるなんて)
紅葉が今泉を助け起こそうとする直前に、今泉が勢いよく立ち上がり、吼える。
「くぅぅ、よっしゃー!! 初得点だ!」
「大丈夫? 怪我してない?」
「何言ってんだ! これくらい何ともないよ! それより、ナイスアシスト紅葉ちゃん!」
「う、うん、そのごめんなさい、それとナイスゴール!」
チームメイトが駆け寄って今泉を祝福する。
「ナイス今泉! それから紅葉ちゃんも!」
「私には大井さんがシュート打ったように見えたよ! さすが大井さん!」
「シュートと見せかけてのパス! うん、さすが」
「いや、私にもシュートに見えたけどね……てか、二得点目で交代したくないから、とっさに今泉に狙い変えたように見えたんだけど」
「ま、まぁ、結果オーライじゃん。今泉もあんなに喜んでることだしさ」
「紅葉ちゃんはめっちゃ落ち込んでるけどね」
「完全にやってしまったって顔だよね。わかりやすいなぁ」
皆には完全にバレているようだ。ということはあの聡明な監督なら……。
紅葉は覚悟を決めてベンチを見る。酒井がビブスを脱ぎ、監督から指示を受けていた。
「ああ、残念。監督にもバレバレだったみたいだね」
「さて、紅葉ちゃんがいなくなっちゃうけど、気を引き締めて戦うとしますかね」
「だね」
開始15分、無情にも紅葉の交代が告げられた。
「やほー! ヒヨリ! 昨日ぶり!」
「本当に来たの?」
「ええっ! 行くっていったじゃん!」
「ほら、ちょっと声の音量落として! はぁ、まあ、もう試合も終わったし、いいのかな。いらっしゃいキャシー」
源日和はかつての同僚であるキャサリン・クラークをホテルの自室へ招き入れる。
「おお、しっかり準備してあるね! さすが、ヒヨリ!」
キャシーが笑顔でソファーにダイブしながら、早速とばかりにテーブルの上に置かれたクラッカーを食べ始める。
日和は日本代表としてアメリカ遠征に来ていた。そして、昨日、アメリカ代表と戦い1-2で敗戦した。
その後のロッカールームで、友人であり、同好の士であるキャシーに、明日のU-19日本対ベトナム戦を一緒に観戦しようと誘われたのだ。
シアトルの今の時刻は、朝の三時五十分。紅葉の試合は現地時間二十時からなので、後10分で始まる。日和は昨夜、紅葉の試合が観られる環境を作ってから、速攻で寝た。
そして、強烈な眠気を振り払い、起きたところに、紅葉の大ファンであるキャシーが訪ねてきたのだ。
キャシーはふんふんと英語の歌を口ずさみ上機嫌だ。キャシーの英語は訛りがないので、とても聞きとりやすい。
「でも、あんた、なんでそんなおしゃれなワンピなのよ。こんな時間に」
「ええぇ、せっかくヒヨリと会うんだからって、キメてきたのに。その言い方はないよぉ!」
ねぇ、似合う? としつこく聞いてくるキャシーに、似合う似合う、と適当に返事をする。実際、キャシーはスラリとした白人女性でとても美人だ。認めたくはないが白のワンピースはキャシーにとてもよく似合っていた。
「ヒヨリもジャージ姿とってもカッコいいよ。ヒヨリはいつも男前だからね」
「うっさい!」
日和はキャシーの隣に座り、ミネラルウォーターをごくごく飲む。
「ふぅ、美味しい」
「あ、私にも頂戴!」
「はい」
飲みかけのペットボトルをキャシーに手渡す。キャシーが美味しそうに水を飲み干し、ペットボトルをゴミ箱に投げ捨てる。
見事にペットボトルはゴミ箱の横に転がる。
「ちゃんと捨てなさいよ」
「はいはい。あ~あ、でも本当に残念だなぁ。なんで、モミジがフル代表じゃなくてアンダーなの? ふざけてるよね!」
「それはもう耳にタコができるぐらい聞いたわよ」
「ヒヨリが聞き飽きても私は何度だって言うわ! モミジカモーン! ……でもさ、あなたはクラブチームで一緒にサッカーしてるからいいけど、こっちは本当に楽しみにしてたんだよ! それは文句の一つも言うでしょ!」
「一つって……もう、ずぅっとグチグチ言ってるじゃないの。まぁ、気持ちはわかるけどね」
「くぅぅ、ヒヨリが羨ましすぎる! というか、憎い! 代わって!」
「絶対にヤダ!」
ちくしょう、とキャシーが日和の頬をつねってくる。キャシーの青い瞳にブラウンの髪が、一瞬紅葉と被って見えてドキリとする。
「痛いってば、あ、始まるよ」
「本当だ!」
画面は二分割されており、紅葉だけを映す左側と全体を映す右側に設定されている。紅葉の姿が大映しで流れ、日和とキャシーはそれを食い入るように見入る。
「綺麗」
「うん」
「今日は三つ編みお団子かぁ。私も真似しよ」
キャシーが髪の毛を弄りながら羨ましそうにつぶやく。日和はそれを苦笑しながら窘める。
「止めときなさい。あれはあなたには似合わないから」
「そう? じゃあ、止めとく」
試合開始のホイッスルが鳴る。ベトナムのフォーメーションを確認し、キャシーが楽しそうに笑う。
「これ、モミジ対策だね」
「どういうこと?」
「モミジって前半か、長くても後半頭で交代でしょう? モミジがいなくなるまで守り切って、それから勝負ってことだよ」
「ああ、そういうこと。でも、紅葉ちゃんたち動揺してないわね。そう来るかもって予想してたのかな」
「だね。でも、わかってたんなら、後半から投入でもよかったんじゃないかしら?」
キャシーが小首を傾げる。けれど、すぐになぞは解けたとばかりに、日和のことを見てくる。日和もキャシーと同じ結論に達し、一緒にニヤリと笑う。
「そんな小細工必要なし!」
「だね!」
「ほら、紅葉ちゃんにボールが渡った。どうする」
「もちろん、突っ込むでしょ」
紅葉がゴール目指してドリブルを開始する。
「いけぇ!」
一人躱し、前から三人、後ろから一人走り寄ってくる。一人がワイドへのパスを警戒して消え、前には二人、後ろに一人となる。
完全に囲まれる。その直前、紅葉がスルリと包囲網を抜け出してしまう。
「あはは、すっげー!」
「うん、すごすぎ!」
呆気に取られてしまう。紅葉がキーパーとの一対一を完全に制し、ゴールを決める。
「う~ん、今のはちょっと守備がよくなかったかなぁ」
「ゾーンで守ってると、どちらが行くか一瞬迷う時があるからね。6バックは紅葉ちゃん対策の付け焼刃だろうし、彼女たちに完璧を求めるのは酷だけどね」
「うん、まぁ、どっちにしろ、私にはあの大混雑した中央を抜こうなんて思えないし、絶対に抜けないよ。モミジのスキルがあってこそだね」
「守備を固める敵にはドリブルが有効か。さすが、紅葉ちゃん」
「あ~、モミジ対策は引いてカウンターだと思ってたけど、それも微妙な気がしてきた。どうすればいいんだぁ!」
ベトナムが攻勢に出る中、キャシーが頭を抱えて、うんうん唸っている。アメリカ代表として、紅葉とどう戦うのか考えているのだろう。
女子サッカーナンバーワンはアメリカだ。男子顔負けのフィジカルを有し、それでいて上手い選手が揃っている。
そんなアメリカ女子がシンプルにプレーしてくると、本当に強い。日本はフィジカルで負けている分をパス回しや連携した守備で補っているが、アメリカには勝てない。
キャシーは身長172センチとアメリカ代表の平均ながら、抜群の身体能力と緩急をつけたドリブルを武器に、アメリカ代表のゴールゲッターになっている。
(キャシーが入ることで、アメリカは単調な攻めから脱却していた。それで、昨日はやられちゃったけど、私たちには紅葉ちゃんがいる。アメリカにだってきっと勝てるわ)
キャシーが考えるのを止めたのか、日和に話しかけてくる。
「そういえばさぁ、なんで日本はもっと抗議しないの?」
「なんのこと?」
「開幕戦のモミジへのスライディング! モミジは平気だったけど、仲間が大怪我しちゃったじゃない!」
「ああ、あれね。てか、ちょっと声小さくして、隣が起きちゃうから」
「あ、ごめん」
「う~ん、AFCが調査するってすぐ宣言しちゃったからねぇ。JFAも抗議しづらいんじゃないかな」
「それは、VARの不正についてでしょ? ファウルについては別じゃない」
「ああ、そこは考え方の違いがあるかな。VARの不正って、悪質ファウルが根源にあるでしょう? そうすると、VAR不正調査=悪質ファウル調査ってことじゃない。調査するって言ってる横で、ファウルのことを抗議するのって相手のことを信頼してないみたいで、失礼って、JFAは考えてるんだと思うの」
「なるほどなぁ、ヒヨリたちもそれに同意なんだよね。うん、考え方の違いだわ。私たちならUSSFが抗議しなかったら職務怠慢だって怒るもの」
「もちろん、私だって納得してないよ。今は結果待ち。抗議はそれからね」
「日本人っていうか、ヒヨリは我慢強いわ。それでいて強かだし。まぁ、そんなヒヨリのことが私は好きだけどね」
「はいはい、ありがとう。ほら、日本の攻撃がよくなってきたわよ」
試合の流れがベトナムから日本へ移る。パスが回り出し、リズムが生まれる。
「さて、こうなった時にモミジを抑えられるか。ベトナムは初志貫徹で6バックを維持すべきだったんじゃない?」
「そうね、おっと、ボールが紅葉ちゃんのところに行ったわよ」
スルーパスに反応した紅葉が右ワイドで抜け出し、ボールを受け取る。
「ほら、人数足りてない。一人でモミジに対峙したら」
「あっさり抜かれるわよね」
「エラシコでオシャレに股抜きかぁ。でも、スゴイのはそこじゃないわ」
十分凄すぎるけど、と日和は思ったが、キャシーが注目している点が気になり、日和は尋ねる。
「ラインぎりぎりでもしっかりボールを扱う技術じゃないわよね? 何が凄いの?」
「それもスゴイけど、そうじゃなくて! ほら、モミジは今のプレー中ずっとルックアップしたままでしょう?」
「ええ、紅葉ちゃんはほとんど足元見ないからね」
「そう! ずっと相手を見たままでプレーしてる。じゃあ、今のプレーで相手がエラシコに引っかからなかったら、どうなってたと思う?」
「う~ん、紅葉ちゃんなら、違うフェイントで抜きに行くわね」
紅葉がセンターバックをキックフェイント一つで躱し、ゴールへ近づいていく。食い入るように紅葉を見つめながら、キャシーが話す。
「そう、そこよ。普通なら、エラシコ失敗したらボールロストでしょ? でも、モミジはロストしないの! エラシコの最中に相手の動きを確認して、無理だって判断したら、止めちゃうの! ほら! 今のパスもオカシイもの! シュートモーションはフェイク? いいえ、最初は打つつもりだったのを、途中でパスに変更したんだわ」
「なるほどね。今のはわかりやすかったわね。ニアへのシュートを、直前で無理やりパスに変えたのがわかったわ」
キャシーの言いたいことが、ようやくわかった。紅葉の凄いところ。それは、紅葉が自身のプレーを、相手の反応を見てから変更出来てしまうことだ。
日和は紅葉マニアなので、そのことは前から知っていた。が、改めて見てみると、想像以上に凄いと驚かされるものがある。
普通の人間は打つと決めてシュートモーションに入ったら、そのまま狙ったところに打つしかない。失敗する確率は増えるが、直前でコースを変えることや、動作を止めることは出来る。
だが、紅葉はシュートモーション中でも、状況に合わせて、パスに変更してしまう。
それは紅葉が事前にパスも想定しているから出来るのだろう。シュートを打つと決めつつ、左右どちらに打つか、パスにするか、あるいはキックフェイントにするか、すべてを予め想定して、そしてルックアップで得た視覚情報を元に最適な選択をする。
そして、紅葉はその選択可能な時間が人の何倍も長い。長いと言ってもそれは十分の一秒、いや百分の一秒にも満たない、まさに刹那の時間であろう。
けれど、その瞬き一つ分の差こそが、相手の動きを見てから、自分の動きを変えるという、後出しじゃんけんを可能にしているのだ。
対人戦において駆け引きは非常に重要な要素である。駆け引きに勝てれば、フィジカル差など意味をなさない。逆に駆け引きに負け、自身の読みを外されれば、一点ピンチに陥る。
紅葉はその駆け引きにおいて誰よりも大きなアドバンテージを持っているのだ。
(そりゃあ、ボールロストしないし、誰も止められないわけだわ)
日和は半ば呆れながら、紅葉の凄さを噛み締める。
そして、でも、と疑問が浮かぶ。すでに身体が動いている中で、動作を変更すればフォームは崩れる。フォームが崩れれば、正確なプレーは出来ない。それは紅葉であっても変わらないはずだ。
だが、紅葉はフォームを崩しながらも正確なプレーをして見せる。では、紅葉はどうやって正確なプレーをしているのか。
「フォームが崩れた分は、足のインパクトで調整してるのかな?」
日和は悩んだ挙句、崩れたフォームを蹴り足で微調整しているのだろうと推測する。正解はわからない。キャシーが断定は出来ないけれど、と前置きしてから同意する。
「たぶんそうでしょうね。モミジは足先の感覚だけで、常に完璧にボールを扱えるんだわ。ねえ、それって反則よね。刹那の判断力も足の感覚も絶対に真似出来ないもの」
キャシーの声が少し暗く聞こえた。日和は挑発するようにキャシーへ問う。
「絶望した?」
キャシーが笑ってそれを否定する。
「アハ、まさか! 今更、それくらいで絶望するわけないでしょう! 確かに紅葉はスゴイ! 人間じゃないわ! うん、私だけじゃ絶対にモミジには勝てないわね。でも、サッカーはチームスポーツだわ! アメリカ代表が、日本代表に勝てばいいのよ!」
「そうね、サッカーはチームスポーツだものね。ふふ、来年のワールドカップで紅葉ちゃんと私たちが、あなたたちを粉砕してあげるわ」
キャシーと視線が交差する。火花が散った。
(ワールドカップでこいつを抑えるのが私の役目だわ。なんだか良きライバルって感じでちょっと変な感じ)
日和はキャシーを睨みつける。キャシーも日和を睨みつけてくる。
キャシーが立ち上がり、帰り支度をしながら言う。日和はなぜかキャシーを引き留めてしまう。
「よし、モミジは交代しちゃったし、この試合の結果も決まっちゃったし、もう一眠りするかな」
「前半20分経ってないよ。2-0ならまだわからないわよ?」
「アハハ、2-0は危険なスコアだからね。選手たちは緊張感を持って戦える。日本の監督がモミジを下げたのはサブに経験を積ませる為だよ。もちろん、勝ち切るつもりだろうから、いろいろと手を考えてるわね。この試合は監督の差で、勝負ありだわ」
「……そうね」
日和の頬に軽くキスをした後、キャシーが別れの言葉を告げる。
「じゃ、また来年会いましょうね、ヒヨリ」
それは来年のワールドカップが終わるまで、仲良く話すことはもうないという決別の言葉。
日和はそれに悲しみと、沸々と湧き上がる高揚感を覚える。不敵に笑って告げる。
「ええ、来年、ピッチで! ふわぁ、私も少し仮眠するわ。おやすみ、キャシー」
「おやすみ、ヒヨリ」
そして、キャシーがベッドにダイブする。
「って、こら、なんで帰んないのよ! そこ私のベッドでしょう!」
「帰ってたら時間なくなっちゃうでしょ。ほら、一緒に寝よ、ヒヨリ」
「寝るか!」
ちっとも締まらないライバルに日和は苦笑いを浮かべるのであった。
「おーい、源! どうしたぁ。大丈夫かぁ?」
日和はドアを叩く音で目が覚める。ソファーから起き上がり、時計を見れば十時二十分。
とっくに練習開始時刻は過ぎていた。
――しまった!
「んんっ、うるさいなぁ。何ぃ?」
ベッドで寝ていたキャシーが起きる。
――終わったぁ
日和はかつてない危機の中にいることを自覚し、絶望した。