41 「意地と意地」
センターフォワードの立花が、敵サイドバック高にスライディングされ、倒れる。
「あぁっ」
バックラインから前線を見つめていた大鳥梓は思わず呻き声を漏らす。梓は急いで立花のもとへ走り寄る。
主審が笛を吹き試合を止める。迷いなくレッドカードを取り出し、高に提示し、続いてペナルティーキックを日本に与える。
立花がピッチに倒れ込んだまま、泣き叫ぶ。
主審が担架を要請しながら、集まってきた梓たち、そして朝鮮統一チームの選手たちにこれ以上近づくなと指示を出す。
梓は立花の怪我を直視出来なかった。すすり泣く立花を、紅葉が一生懸命に励ましているのを呆然と見つめる。
騒然とする会場。高が頭を抱え、泣いていた。そして仲間たちに連れ添われるようにピッチを後にする。
立花が運び出されていくのをただ見送る。
先ほどまでの高揚感など微塵もなくなり、何も考えられなくなってしまった。
(ダメだ、落ち着かなくちゃ)
そう言い聞かせ、周りの選手たちに声をかけて回る。立花の代わりに長身フォワードの今泉が呼ばれ、監督の指示を受けているのを確認し、梓たちは話し合う。
「今泉を立花の代わりに入れて、フォメはいじらない感じかな。前半はこのままの方が混乱しないだろうし。みんな、気持ちの糸を切っちゃダメだよ!」
「そんなのわかってるわよ!」
「あぁ、もうまじ最低だろ! あいつら! 絶対許さねぇ」
「立花大丈夫かなぁ」
「PK誰蹴る? 紅葉ちゃんは無理だよね」
「システム変えないとして、攻めるの? 守るの?」
皆が動揺し、様々な感情に振り回されながら、疑問を口にする。大鳥はキャプテンとして何とか皆を落ち着かせようとする。それに、酒井がことさら明るく同意し、それにつられるように周りもようやく不安そうな顔から、立ち直っていく。
「今泉が監督から指示受けてるから、今泉からの指示待ちだね。それとPKは私が蹴るから。とにかく皆落ち着こう」
「立花はきっと大丈夫だ! 昔と違って、骨折なんてすぐ治せるようになったんだから! キャプの言う通り落ち着こうぜ!」
「あ、ああ。そうよね。落ち着こう」
「立花と一緒に、来年のU-20ワールドカップに出る為にも、今は試合に集中しよう!」
そんな中であった。主審がVARを宣言したのは。
梓たちは何に対する確認かすらわからなかった。ただ、ピッチ中空に映し出されるエアモニターを主審と一緒に見上げるばかり。
映し出されたのはレッドで退場した高のスライディングシーン。
高の視点からの映像。紅葉が立花の後ろを通り抜けると見せかけて、立花の右を抜けようとする。それを確認した高が紅葉目掛けてスライディングを開始する。
紅葉が視界から消える。その先に突然立花が現れる。高が勢い余って立花とぶつかる。
画面が分割され、別視点の映像が流れる。高が立花とぶつかる直前に驚愕の表情を浮かべ、身体をひねって衝突を回避しようとしているように見える映像。
それから、もう一画面では、紅葉が、高のスライディングに当たっていないのに、身体を捻り、地面に転倒する様子が繰り返し流される。
エアモニターに流れるのはこの三種類のみ。他の視点や、3Dモデリング映像は一切流れない。
(おいおい)
梓は恣意的な映像に呆れて苦笑いを浮かべてしまう。
今、この場に流れている映像だけを見れば、ボールを持った紅葉にスライディングをした高が、不運にも立花と激突し、紅葉は高のスライディングに当たってもいないのに倒れてPKを獲得したように見える。
「もしかして、故意じゃないって言いたいの?」
「バカ、んなの関係なくレッドだろ」
「だよね」
「それで、紅葉ちゃんのがシミュレーションってか? 焦点はそこじゃないじゃない!」
「紅葉ちゃんへスパイクの裏見せてスライディングしてたでしょ! なんで、そこ映さないの!」
あまりに意図的な映像だけが延々と流される。それを見つめる観客たちが、一人、また一人とブーイングを始める。
やがて、スタジアムに詰めかけた観衆全員が抗議の声を上げる。その矛先は、シミュレーションをした紅葉であり、高へ退場を宣告した主審であり、そして梓たち日本代表であった。
その段階になって、画面がさらに分割され、下半分に、今度は真上からの映像、ボールと選手たちの移動線が表示される。
ボールが蹴り出される直前に紅葉が前方へ、同時に高がスライディング、紅葉とボールはエリア内であったが、高と立花はエリアのすぐ後ろだとわかる映像が流される。
「PKじゃなくてフリーキックってこと?」
「つうか、なんなの、さっきとまったく雰囲気が変わっちゃったよ」
「怖いなぁ」
PKではないじゃないか、と観客たちが猛抗議しているのが言葉がわからなくとも伝わってくる。
梓たちに押し寄せる憎悪の籠った音の洪水。ガラリと変わったスタジアムの雰囲気に恐怖を覚える。
主審が動く。PKを取り消し、フリーキックをジェスチャーで指示する。そして、タッチライン際にいた、高へ走り寄り、レッドを取り消してイエローカードを提示する。
一連の流れが映し出され、主審の英断を褒め称えるかのように観客たちが拍手を送る。
「は?」
「いやいや、何バカなことやってるのよ!」
「ありえねー」
皆が呆然と事の成り行きを見守る。見守ることしか出来なかった。
東条が第四審判へ詰め寄り抗議する。梓もキャプテンとしてタイ人主審のもとへ向かい、拙い英語で確認を取る。
「Why did you change it? Can you tell me why?」
「It was unintentional.Then, there was a simulation」
「Wait! The issue is dangerous sliding!」
梓は自身よりも小柄な主審の瞳を見つめて、強く言う。けれど、主審は苦い顔で、首を振るだけであった。
(この主審もおかしいって思ってるんだ。でも、規則通りに裁くって決めちゃってる)
梓は主審の判定が変わらないことを確信し、頭を抱える。その様子を見て、梓の抗議が通じなかったことがわかったのだろう、集まっていた選手たちが暗い表情になる。
「意味わかんない」
柳瀬の呟きに、酒井が吐き捨てるように言う。
「開催国の初戦だからって、忖度したんでしょ! VARの映像を取捨選択されたら、それ見て判断する審判だって、判定変えるしかないじゃん! ばっかじゃないの!」
今井が泣きそうな声で疑問を口にする。
「でもこんなの、開催国有利とかそんな問題じゃないでしょ?」
柳瀬が恐る恐るといった口調で尋ねる。
「……不正ってこと?」
その問いの答えは誰も返せない。そんなことがあり得るのかと皆が困惑し、そして怒っていた。
「どうなんだろうね、流す映像選んでる時点で少なくとも公平じゃないけど」
「つうか、ここの連中はあんなまやかしの映像を本気で信じてるの? おかしいとかって思わないわけ?」
「観客が自国に有利な判定を要求するのはおかしくないっしょ。問題はインチキVARする運営側だよ」
「もうやってらんないな」
「立花にあんなことしておいて、こんなの酷いよ」
――ボイコットする?
全員が思い詰めた顔で互いの顔を見合う。大切な仲間を傷つけられ、それを正当に裁いてもらえない。
絶対に許せない。信用出来ない大会主催者のもとで、サッカーを続ければ、また同じことが起こるのは明白だ。
皆が逡巡しながらも頷く。梓もこのどうしようもない憤りに、思わず頷いてしまう。それから、慌てて否定する。
「とにかく、落ち着こう。抗議は後でいっぱいすればいいじゃない! 今はこれからどうするかだよ!」
「……そうだね」
「監督の指示は相手が10人で、PK貰った前提だったからね。攻めるか守るか、フォメはどうするか、聞きにいってくるよ」
そう、梓が言ったところで、紅葉が戻ってくる。紅葉が抑揚のない、いつもと違った口調で皆に話しかけてくる。
「監督から指示を聞いてきました。このまま前半は攻め続けるそうです。ただし、無理はせずにラインは5メートル下げろと。中盤の飛び出しも極力なしだそうです。相手がツートップにしてきたら、予定通りにとのことです」
「あ、ああ。わかった! その、紅葉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫です。それより、審判が早く再開しろって言ってますから、行きましょう」
(全然大丈夫じゃないな)
紅葉の顔は青ざめて、大きな瞳は焦点があっておらず、どこを見ているのかもわからない。
皆も、紅葉の痛々しい表情にどう声をかけていいのかわからないようで、口を開いては閉じ、そして何も言えずに、配置についていく。
紅葉がボールをセットする。紅葉に向けて大ブーイングが巻き起こる。紅葉はそんな観客たちのことなど眼中にないとばかりに壁とゴールを静かに見つめている。
梓は、すんなりと敵の壁の間、キーパーの視線を遮る絶好の位置へ入ることに成功する。ふと、視線を横に向ければ、敵サイドバック高の青ざめた顔があった。
(そうだよな。こいつは自分が何やったか一番よく理解してるんだもんな)
開催国として、初戦で日本と戦う。日本にだけは負けられない。負けることを国民が絶対に許さない。国の代表として、どれほどのプレッシャーにさらされていたのか。
たかが、U-19、それも女子の試合にこれほどまで観客が入ることがそもそも普通ではない。対戦相手が日本であり、紅葉という有名人がいたからこその集客だろう。
注目を集める中、最初から追い詰められていただろうことは容易に想像出来る。
そして二点取られたことでブーイングが自分たちに向く。これ以上はやられるわけにはいかない。
焦りが募り、思いが空回りし暴発してしまったのだろう。
そして立花に大怪我を負わせてしまった。退場だと本人が一番納得しているだろうに、なぜかそれが取り消される。
(悪夢だな)
憎い敵ながら、同情してしまう。結局のところ、こいつも被害者なのかな、と埒のないことを考える。
選手はメンタル次第でそのプレーが大きく変わる。負ければ戦犯のように叩かれる。どんな手を使ってでも勝とうと思うのは選手の責任だろうか。
追い詰められた選手たちが、ラフプレーをしてでも勝ちを目指そうとするのは当然ではないのか。まして、勝てばすべてが許され、ラフプレーを非難しないのならなおさらだろう。
マスコミが、国民が、選手にそうプレーするよう仕向けているに過ぎないのではないか。
つらつらとそんなことを考えている梓に、紅葉の声が響く。現実に引き戻される。
「みんなぁ! しゃがんでねぇ!!」
(え?)
紅葉が大声で指示をした後、ボールからものすごい離れる。
(待って! なんでこんな至近距離なのにそんなに助走距離とるの! え? しゃがめって!?)
紅葉が走り出す。そして身体を斜めに傾かせ、右足を鞭のようにしならせ、身体全体でボールを蹴る。理想的なフォームだ。目の前の紅葉のシュートフォームに見惚れる。
(って、マズイ!!)
梓は慌てて屈む。直後、ボールが梓目掛けてまっすぐ飛んでくる。
(当たる!)
ボールが視界いっぱいに広がる。ぶわっと風が軋み、梓の顔を打つ。痛みを覚悟するが、来ない。
(私死んだ? ……上にホップしたの?)
梓の顔面直撃コースであったボールがその軌道を上に変更して、通り抜けていったのだ。
へなへなと倒れ込みながら、梓は紅葉のことを見る。しゃがめと命じたということは、狙い通りのプレーであったのだろう。
だが、それは本当に可能なのか? 壁の間に味方選手を立たせるのは、キーパーの視線を遮る為である。
それから、今回のようにしゃがむことで、壁に隙間を作ったり、壁を低くする意味もある。
だが、それを狙うのはコントロールキックで、である。断じてあんな全力キックでは狙わない。というか、狙えない。
(凄すぎだわ、あの子……あはは、おしっこちびったかと思った)
ぶるりと震えながら、梓は引き攣り笑いをする。
後ろを振り返ってボールの行方を確認するまでもない。あれほど紅葉にブーイングを浴びせていた観客が静まり返っているのだから。
3-0で一人退場して10人になるところが、2-0で11人のままだと観客は思っていただろう。まだ追いつける。逆転出来ると。
その希望を紅葉は実力でねじ伏せたのだ。
今更ながらに気が付く。このフリーキックを外していれば、どれほどこの後、厳しい戦いを強いられることになっていたのか。観客の大声援に後押しされた敵を、紅葉も立花も抜きに守り抜くのはあまりに厳しい。
(情けないな、私は。何がボイコットだよ。そんなの負けを認めるようなもんじゃないか)
紅葉の強烈なシュートで、目が覚めた。やはり、この後輩は凄すぎる。改めて紅葉の凄さに梓は感服する。
(だけど! とりあえず、死ぬかと思ったんだからね!)
梓は、紅葉にお礼と祝福をする前に抗議をすることを誓う。
紅葉の周りに集まる皆の顔に、先ほどまでの暗さはなかった。
ボロボロと泣く紅葉の前で、後ろ向きになっていた自分を恥じる。この年下の少女がこれほど頑張っているのに、私たちは何をしているのだ、と皆が思ったに違いない。
紅葉を少しでも元気付ける為に皆が大はしゃぎする。梓は仲間の大切さを改めて思い知る。
(だからって、言っていいことと悪いことがあるんだぞ!)
梓は半ば本気で制裁を加える為に仲間を追いかけまわす。
大鳥梓はU-19女子日本代表のキャプテンを務めている。U-16の時から代表に選ばれてきたし、なぜかそのたびにキャプテンを務めてきた。
別に梓にリーダーシップがあるから、というわけではない。むしろ梓は意見を言うのが苦手な引っ込み思案な性格だ。争いごとも苦手である。
体格がいいから目立っていた。協調性があったから、といったような理由でキャプテンに任命されたのだと思う。
U-16、U-17と梓がキャプテンを務めた日本女子代表は本当に弱かった。谷間の世代と揶揄され続けてきた。
そして、それはU-19になっても変わらなかった。アメリカ遠征で各国と練習試合をし、全敗したことで、監督が首になり、東条が新監督として就任した。
東条が新しい選手を呼び、チームを刷新しようと頑張っているのはよくわかった。だが、崩壊したチームはそう簡単には再生しない。
東条が呼んだ選手と元からいたメンバー間の不和。連戦連敗で士気はどん底まで落ちていた。
東条もアジア選手権が迫っていなければ、一から作り直す道を選んだだろう。それぐらいチームは混乱していた。
そんな時に現れたのが大井紅葉だ。紅葉は飛び級でU-16日本女子に召集が決まっていた。中学生になったばかり、十二歳の選手がU-16に呼ばれるなど信じられない快挙だ。
U-16でも信じられないことなのに、その上の、U-19に十二歳の選手を呼ぶ。それは暴挙以外の何物でもない。U-19の選手たちは、私たちをバカにするな、と物凄い憤っていた。
梓も驚いた。他の選手たちのように怒りが沸くことはなかったが、紅葉のことが心配になった。いくら天才少女でも、無茶すぎる。
何も出来ないまま、無駄な時間を過ごさせるのは紅葉の為にならない。
キャプテンとして、東条になぜ紅葉を呼んだのかと問うた。紅葉が可哀そうだと言った梓に、東条は以前より痩せた顔に苦笑を浮かべながら、こう言った。
「あなたはセンターバックでしょう。大井と対峙してみればわかるわ」
「それはどういう意味ですか?」
梓は東条のその言葉に納得出来ずに聞き返した。
対峙すれば、わかる。何がわかるのか。言われるまでもなく、実力が、わかるのだろうが、十二歳の少女の実力がわかったところで、どうだというのだ。
梓の聞く口調は強いものになっていたと思う。
「そうね、ねえ、大鳥。大鳥はこのままでチームがよくなると思う? アジア選手権に勝てると思う? 無理だと思わない?」
それは監督が選手に聞いていい質問では絶対になかった。選手に不信感を与え、ボイコットされても仕方のないほど、危険な質問。
梓は困惑しながら、黙る。なんと言っていいのか、わからなかったのだ。東条が苦笑を強める。
「私もね、最初は大井を呼ぶつもりなんてなかったのよ。大井は劇薬だからね。使い方を間違えたら、あなたたちはきっとサッカーが嫌いになっちゃうから」
「あの、意味がわからないんですけど」
「でしょうね。まぁ、とにかくあなたの心配は杞憂よ。むしろ、心配すべきは対戦相手であり、あなたたちであり、そして私なんだから」
後で知ったことだが、東条は新チームの立て直しで忙殺される中、紅葉の召集で協会と揉めに揉めて、疲れ切っていたそうだ。
夜遅くに怖い顔をして、監督の部屋へ訪れた梓はさぞや迷惑な客であったろう。
「大井のこと、面倒みてやってね。キャプテン」
そう言って、東条は部屋の扉を閉めた。
対峙すればわかる。その言葉の意味は日本代表合宿で対峙し、すぐに理解することが出来た。というか、容赦ないほど抜かれまくって、対峙しちゃダメなやつだ、と梓は骨身にしみて理解した。
サッカーは年齢ではない。フィジカルでもない。
自身よりも遥かに小さく若い少女に抜かれまくって梓はショックを受けつつ、悟った。
その後の紅葉の活躍と叱咤で、チームがあっという間に一つにまとまった。それは奇跡であった。監督が紅葉を評して劇薬と言った理由が少しわかった気がした。
技術だけではない、紅葉のひたむきな姿勢に皆が感化され、チームがどんどん進化していく。皆が楽しそうにサッカーに取り組むようになっていた。
なでしこリーグで紅葉との対戦が決まった時は、どうするんだ、と頭を抱えてしまった。監督や先輩たちにとにかく紅葉を抑えないことには勝ちはないと、同じくU-19代表の六本木と紅葉の危険性を訴えたのだが、あまり真剣に取り合ってもらえなかった。
人は自分の物差しでしか、物事を図ることが出来ない。
紅葉という規格外の化け物がいることを理解するには一度痛い目を見ないと無理なのだろう。紅葉の動画やスタッツ、各種データを見ても、それをそのまま受け入れられず、紅葉が凄いのではなく、対戦相手が弱いと判断してしまう。
なるほど、確かに大した新人だ。だが、自分たちなら問題ない。子供だからと油断せず、しっかり戦おう、と実に型通りの反応が返ってきた。
そして紅葉にぼっこぼこにやられて、やっとそこで、なんだあいつはと驚愕する。いやいや、何度も言ったよね、と突っ込みたい気持ちを堪えて、チームが浮足立つ中、紅葉に向かい合う。
もちろん、それで止められれば何の苦労もない。梓も一緒になって紅葉にやられて、ジエンドであった。
今の朝鮮統一チームもまさに、この前の梓たちと一緒であろう。
紅葉に対して守備に定評のある選手を配置し、対策をしたと思い込む。だが、その対策が何の効果もなく、二点あっという間に取られてしまう。
そして慌て、これ以上は絶対にやらせないと、強引に止めに行き自滅する。退場者を出すことこそ免れたが、さらに紅葉に決定的な一点を取られてしまう。
結局、朝鮮統一チームは紅葉という選手を見誤ったのだ。その結果が前半で0-3というビハインドを生んだ。
ついこの前、同じ状況を味わったばかりなので、彼女たちの気持ちが想像出来てしまう。
(あれは反則だろう、って皆で苦笑いしてるんだろうなぁ)
梓は少しだけ、朝鮮統一チームに同情した。
ハーフタイム、ロッカールームで東条が激を飛ばす。
「向こうは死に物狂いで点取りに来るわよ! あんたたち、点やるんじゃないわよ!」
「はい!」
「二点までは取られてもいいわ! むしろ、二点くらいくれてやる気持ちでやれ! だけど、三点目取られてみなさい! 全員坊主にして、額に落書きだからね!」
「はい!」
「ええっ~」
「それはやだなぁ」
二点取られてもいいと言えるのが東条の凄さだろう。余裕を持たせつつ、引き締めるところは引き締める。
後半は4-1-4-1のフォーメーションで、守備をしっかりし、カウンター狙いの戦術をとる。紅葉の代わりに君塚が入り、ワントップに今泉を据える。
柳瀬と君塚をインサイドハーフに下げ、上がってくるだろう敵サイドバックをチェックさせる。自分たちのボールになったら両インサイドハーフが相手サイドバックの裏を取り、ワントップの今泉にクロスを放る。
ポゼッションを相手に許す代わりにゴール前を固める。ボールを持ったら、カウンターか、もしくは丁寧に繋ぐかを選択する。
積極的に前には出ない。リードを生かして、リスクを取らない戦術だ。
大型タブレットに互いのフォーメーションを映し、基本的な動きを再確認する。
「相手は4-4-2に変わってるわ。両センターバックと酒井の三人でフォワード二人をチェック。敵左サイドバックも14番から20番に変えて、攻めてくるでしょうから、それは君塚がチェックするのよ。右サイドバックは柳瀬。二列目はとにかく厳しく寄せること。10番の金には特に厳しくいくこと。敵がスリートップになっても慌てるな! 抜かれても諦めずに追いかけなさい!」
「はい!」
時間いっぱい事前に確認してある敵の攻撃パターンの対処方法を再確認し、最後に、大井! と東条が紅葉を呼ぶ。紅葉がはい、と小首を傾げながら答える。
「あなたから、最後に皆に気合を入れてやりなさい」
「はい! ……え~、くれぐれも雪お姉ちゃんの敵をとろうだとか、審判の笛を信じないだとか、観客を見返そうだとかは思わないこと。サッカーにはいろんなアクシデントがあるよね。一人じゃどうしようもない。だけど、チームでならどんなことだって乗り越えられるんだ。だから、皆、いつも通りサッカーを楽しんで!」
紅葉が微笑みながら梓たちに話しかける。
梓たちは言葉を発することが出来なかった。
紅葉の言葉は梓の気持ちを完全に見透かしていた。立花の敵を取りたい。審判の笛なんて信じられない。ブーイングを浴びせてくる観客たちを見返したい。
理不尽な目にあったのだ。意趣返しをしたいと思って当然だ。それに、それが負の気持ちであろうと、強い気持ちはパワーになる。気合いという意味では悪いわけではない。
だけど、紅葉はそれをすべて否定する。紅葉こそが一番悔しい思い、悲しい思いをしただろうに。
梓は、紅葉の前に行き、手を上げる。紅葉が笑いながら手を出してくる。パンっと手のひらを合わせる。そしてロッカールームを後にする。
皆が梓に続く。手のひらを合わせる音がロッカールームに何度も響いた。
「突っ込め、今井!」
「わかってるよ!」
「潰せ潰せ!」
「パス警戒!」
ゴール前30メートル。敵10番の金がワンツーで中央突破を仕掛けてくる。酒井がディレイし、今井が金に身体を寄せる。ファールギリギリの体当たりにも、金は倒れることなく、左ワイドへスルーパスを出す。
「ちぃ!」
「フィジカル強えぇーな!」
「何やってんだ! しっかりしろ! 中央しぼれ!」
全員の大声がピッチに響く中、ボールがオーバーラップを仕掛ける敵右サイドバックの宋へ向かう。そこに左サイドハーフの柳瀬がスライディングで先にボールに触り、転がりながら、ボールを外に蹴り出す。
「ナイス柳瀬!」
「よく戻った!」
「ほら早く立て! 次来るぞ柳瀬!」
「うっさい、わかってるわ!」
即座に敵スローインで再開される。ボールをサイドバック宋とサイドハーフ呉がパス交換し、ワイドを抉ってくる。
柳瀬と田岡、剣崎の三人がプレスに行く。
「絶対にクロス上げさせんな!」
「走れ田岡!」
「中央、マーク確認しろ!」
「増渕! 李の前!」
「大鳥も趙のマークしっかりしろよ!」
クロスボールが田岡の足に当たってコーナーキックになる。敵はキーパーの崔まで上がってくる。
「マークいいか!?」
「柳瀬! ニアはいいから、16番マークしろ!」
「絶対に食らいつけよ!」
「ファール気を付けろ!」
「ブロックプレー対策忘れんな!」
「大丈夫!」
「来るぞ! セーフティだぞ!」
声を枯らして互いに確認し合い、皆が自身のマークする選手の動きに合わせてゴール前になだれ込む。李の前、増渕がヘディングでボールをクリアする。そのボールが梓の前に転がってくる。
趙がシュートモーションに入る。梓はためらうことなく趙の前に身体を投げ出す。ボールが太ももに当たり跳ね返る。
それを柳瀬が懸命にクリアする。梓はすかさず立ち上がり大声で指示を出す。
「ライン上げろ!」
「あんたが最終よ! ほら走れ!」
「おお!」
梓が走り出したところで、笛の音が三度鳴り響く。それを聞き、22人全員がピッチに倒れ込む。
(あぁ、めっちゃ全身が痛いや。さっきまで何ともなかったのに)
全身青あざばかりだ。朝鮮統一チームの猛攻を身体を張って止めた勲章だ。痛みを感じながら梓はやり切った満足感に浸る。
3-0のまま試合を終わらせることが出来た。敵は残り時間が少なくなっても、攻撃の手を緩めることはなかった。逆転の目がなくなっても、がむしゃらに攻めてきた。
梓たちも全力で走り、身体を投げ打ってゴールを守り続けた。逆転されないとわかっていても、足が攣っても、全力を出し切った。
グループリーグの得失点を気にしたのではない。むしろ、こんなにアホのように走りまわって、三日後の試合に疲れを残す方が悪手である。そのことをこのピッチに立つ全員が自覚していただろう。
だが、だれも最後まで止まらなかった。これはプライドの問題だ。いや、そんな恰好いいものではない。
女の意地である。
一点絶対取る。一点もやらん。敵の気持ちがよくわかった。それ以上に味方の気持ちがわかった。だから、お互いにムキになって走り続けた。
「ああ! 最高だな!」
こんなにすべてを出し切ったと思えたのは初めてだ。何かを掴んだ。漠然とした感覚なのに、確実に一皮剥けたと実感する。
チームとして成長したのか、梓が成長したのかはわからない。わからないが、とても気持ちが良かった。
負の感情を捨てて、ひたむきにボールを追いかけ続けたからだろう。怒りや不信感などどこかへ吹っ飛んでしまった。
酒井がふらふらした足取りで梓の前に来る。そして梓に手を差し出す。梓は酒井の手を握って立ち上がる。
立ち上がるだけで、痛みが全身を駆け巡る。
「痛っ、たいなぁ~」
「私も全身ズタボロだよ」
「でも、いい顔してるわよ」
「マゾだからな。キャプこそいい顔してるよ」
「私もマゾだったのか」
そして、我慢出来ないとばかりに笑い合う。何笑ってるの! と皆が集まってくる。
「こんなに攻められまくったのに楽しかったなぁって思ってさ。私たちマゾだなって」
「あはは、確かに攻められたよねぇ。金めっちゃ上手かったし、あれは次当たった時どうするか考えないとだね」
「うん、本当に楽しかった。あんなに攻められっぱなしだったのになぁ。こんなに楽しかったの久しぶりだわ。ホント不思議だ」
それに全員が頷く。梓は笑いながら呟く。
「紅葉ジャパン改め、マゾジャパンだな、これじゃ」
この日一番の笑い声がピッチに響いた。
朝鮮統一チームの選手たちと健闘をたたえ合い、握手を交わす。全員が立花に怪我を負わせたことを謝ってくる。それに梓たちは気にするなと答える。
当事者である高も日本ベンチ前で、紅葉や監督たちに謝罪をしていた。
立花の怪我の具合は心配だ。一緒に戦えないのは無念だ。
色々なことがあった。ありすぎた。後味の悪い試合になるはずだったのに。
梓は充足感を感じている自分に笑う。
かつて、東条は紅葉のことを劇薬だと言った。確かに、劇薬だ。紅葉は梓のサッカー観をすべて吹っ飛ばしてしまった。いや、梓だけだはないだろう。味方全員、そしてあるいは敵も。
――サッカーってこんなに楽しいものだったんだ
梓は紅葉に感謝した。
※※※※※
『U-19サッカー女子アジア選手権で不正か。AFC調査委員会設置へ』
8月3日より韓国で開催されているU-19サッカー女子アジア選手権で不正疑惑が提起されている。問題とされているプレーは、日本対朝鮮統一チーム(以下朝鮮)戦の前半三十分に起こった。
日本の立花選手に対して朝鮮の高選手がスライディングタックルをした。高選手のタックルは足裏を見せた危険なものであり、サッカー競技規則12条の゛過剰な力で犯した場合゛に該当し、退場処分が科せられることになっている。
主審は高選手に退場処分を科したが、VAR(ビデオアシスタントレフリー)の助言によりこれを撤回した。
VARではあらゆる角度からプレーを見ることが出来る3Dモデリング技術が導入されている。VAR担当者は主審の判断が誤っている可能性がある場合に介入を行う。
高選手への退場処分に対し、VAR担当者は介入を実施。エアモニターに該当シーンを流し、主審へ再判断を促した。
この一連の手続きに不備はない。問題はエアモニターに流された映像だ。
VAR担当者によって、作為的に映像が選択された可能性があると指摘が上がっている。具体的には、該当シーンを悪質性が少ないように見える角度からの映像のみで構成した疑いがもたれている。
主審はその映像をもって、高選手の退場処分を取り消した。不正疑惑が事実であれば、VARを信任した主審を騙したことになる。
VARは「最小限の干渉で、最大限の利益を」という哲学のもと、主審のサポートを行い、誤審を減らしてきた。
もし今回の件で不正があったなら、VARという制度の根幹を揺るがすものとなる。AFC(アジアサッカー連盟)は直ちに調査し、不正の有無を発表すると宣言した。
AIによるレフリングを導入すべきか、議論がなされている中で起こった今回の不正疑惑は、大きな一石を投じることになるかもしれない。
8/6 追記
AFC調査委員会は今回の件に不正はなかったことを確認したと一次報告書で発表した。
不正疑惑の原因は、VAR担当者の指示を受けた設備担当者(エアモニターに映像を投影する担当者)が、VAR機器の習熟不足により操作を誤り、すべての映像を流さなかったことによる、意図せぬものであったことが確認された。
VAR担当者はPKの判定についての再判断を求めていたが、予期せぬトラブルにより、高選手への判定が変更されてしまったことになる。
KFAは大会運営責任者として謝罪し、設備担当者の交代を実施し、U-19女子アジア選手権を円滑に進行することを確約した。
速やかな調査協力、運営改善を行ったKFAにAFCは感謝し、最終報告書を一か月以内に公表すると合わせて発表した。
なお、今回の判定についての変更や取り消しは行わないことをAFCはすでに発表している。
※※※※※
『大井紅葉 涙のハットトリック』
大井紅葉がまた見せた!
U-19サッカー女子アジア選手権に飛び級で参加している大井が、グループリーグ初戦でハットトリックを達成した。
相手は強豪朝鮮統一チームであったが、大井には関係なかった。日本中が注目する中、大井は前半5分、20分と、立て続けにゴールを奪ってみせる。
とくに前半20分のゴールは、味方キーパーからのボールをヒールでトラップするという離れ業の後、独走するという圧巻のプレーであった。
だが、悲劇はその10分後に起こる。大井をマークしていた敵ディフェンダーが、大井目掛けてスライディングをしたのだ。そのスライディングが大井の隣にいたフォワードの立花に直撃してしまい、立花は大怪我を負ってしまう。
立花と大井は埼玉県にある浦和領家サッカー少年団出身であり、大井は立花のことを姉のように慕っていた。
大井は立花が怪我の痛みで苦しむのを励まし続けた。担架で運ばれる立花を見送った大井の心中は、穏やかではなかっただろう。
しかし、その直後、大井はフリーキックを叩き込みハットトリックを達成したのだ。
ゴール後、大井の流した涙は、決して嬉し涙ではなかっただろう。それでも、決めてみせる大井のメンタルの強さに脱帽せずにはいられない。
後半、朝鮮統一チームに攻められ続ける苦しい展開になったが、守備陣が奮起し、一点も与えずに試合を終わらせた紅葉ジャパン。
3-0という快勝であったが、大井の笑顔にはやはり影があった。
その大井の顔が晴れたのは一本の連絡であった。ソウル大学総合病院から、立花の症状が伝えられたのだ。
立花の怪我は腓骨開放骨折という重いものであったが、無事、ソウル大学総合病院での応急処置は終わった。
遠隔ロボットで立花の手術に参加した東京高度最先端医療病院の百道医師が、培養骨置換術及びガンマデルタT細胞活性化治療により、立花の早期完全快癒が可能であると診断した。
立花はこの後すぐに東京高度最先端医療病院へ運ばれ、感染症対策と培養骨作成の準備に入ることになった。
全身麻酔から目覚めた立花から、結構早く良くなるみたい、と元気な声で伝えられた大井は、本当に嬉しそうに泣きながら笑っていた。
大井は大会最年少出場、最年少得点と記録を更新し続けている。大井の素敵な笑顔を見て、最年少得点王、そしてMVPに輝くのを確信した。
紅葉ジャパンの今後に目が離せない。次戦は8月6日のベトナム戦だ。大井の活躍に期待したい。