表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/51

39  「痛みと決意と 前」


 今回のU-19サッカー女子アジア選手権は韓国で開催される。日本代表は仁川を拠点に事前キャンプを張り、初戦の朝鮮統一チーム戦へ向けて最終調整に入っていた。


 日本代表は4-3-3のフォーメーションと4-1-4-1のフォーメーションの二つを使い分けて戦う予定だ。


 これは、4-3-3の右セカンドトップに入る紅葉が、体力不足から後半頭で交代する為である。


 右セカンドトップの紅葉が抜け、左ウィングの柳瀬が一列下がる。フォワードの立花がトップに残り、4-1-4-1へと移行し、中盤を厚くする守備寄りの陣形に変えるのだ。


 紅葉に点を取れ。前半に勝負を決めてこいという、東条監督の強い意志が感じられるフォーメーション移行だ。


(相手が強敵でも、撃ち合ってやろうっていうのがいいよね。それにしても、東条監督は名監督だよ。こんなにワクワクするチームが出来あがるなんて!)


 このひと月で、日本代表チー厶はまったく別のチームと言っていいほど完璧に仕上がった。東条の手腕に、紅葉は尊敬するばかりだ。


(監督は人の適性を見抜く力が凄いんだね。雪お姉ちゃんの偽9番があんなにハマるなんて思わなかったよ)


 立花とは長い付き合いだ。立花は得点感覚の優れたワンタッチゴーラーだと思っていた。


 そんな立花に、東条は偽9番の役割を与えた。


 偽9番というのは、センターフォワードをゴール前から下がらせ、ゴール奪取以外の仕事も担わせる作戦だ。


 偽9番の利点として、センターフォワードがゴール前から離れることで敵センターバックのマークから外れやすい点があげられる。


 もし、敵バックラインが偽9番、立花のマークをする為に、ラインを上げたなら、そのギャップを両サイドの紅葉と柳瀬が狙うことになる。


 両サイドを警戒しなくてはいけない為、敵センターバックはラインを上げられず、立花にマークしづらくなる。


 立花は敵センターバックとボランチの間で動くことでマークを受けずに、ゴール前に走り込みゴールを狙うことが出来る。


 さらに、立花が下がることで中盤に厚みが生まれ、よりパスが回るようになる。


 他にも、立花はデコイランで敵をサイドに誘導し、その空いたスペースに紅葉たちを走らせたり、ドリブルでボールをキープし、紅葉たちにスルーパスを出したりすることになる。


 ゴール前から離れ、ドリブル、オフザボールの動きの質、連携のアイデアなどで相手ディフェンダーを翻弄するのが、偽9番の役割と言える。


 上手くいけば偽9番はチームに素晴らしいメリットをもたらす作戦だ。けれど、偽9番であったり、ゼロトップといった作戦は現代サッカーでは減少傾向にある。 


 理由はいろいろある。


 一つ目として、ゴールを狙いつつ、それ以外のタスクも担う負担面が上げられる。


 ゴールを取るのが難しいサッカーにおいて、ゴールを奪う専門職であるセンターフォワードに、余計なタスクを与える。それはゴールの可能性を下げる。


 現代サッカーにおいてセンターフォワードは、ゴール奪取以外にも守備のタスクが割り振られている。さらにゴールを奪えるエリアから離れて、ボール回しやドリブルをさせれば、ゴールを奪う可能性は下がるだろう。


 中途半端になる可能性があるのなら、センターフォワードにはゴール前でゴール奪取に集中させた方がよいし、ドリブルやパスはトップ下の選手に任せてしまった方がよい。当たり前だが、合理的な判断であろう。


 次に適性の問題もある。偽9番は決定力、プラスアルファの能力が求められる。決定力がある選手がそもそも貴重であるのに、さらにドリブルだったり、パスだったり、飛び出しだったりと、他の能力も優れた選手は数が少ない。


 そして、出来る選手がいても、その選手に偽9番をさせるかは監督の選択となる。


 最後に、どんな戦術でもそうだが、偽9番に対する対策が出来上がってしまったということもあげられる。


 一時でも流行った戦術というのは対策が考案される。それは偽9番も例外ではない。


 ラインをある程度下げて、ボランチに偽9番のマークを任せる。偽9番に惑わされることなく、しっかりとした守備ラインを構築していれば、偽9番も、両ウィングの攻撃も不発に終わる。


 他にも5バックにしたりと、対抗策はいろいろある。


 デメリットのない戦術などないし、対策のない戦術もない。自分たちの長所が生きる戦術を選び、相手の長所をいなし、抑えながら勝ちを目指す。


 もしくは、自分たちの長所など考えず、相手の長所を消し、短所を攻める。


 チーム戦術の選択は、対戦相手との駆け引きであり、心理戦だ。立花が偽9番であり、紅葉と柳瀬が裏に抜け出してくる、というのは対戦相手もリサーチし、対策をしてくるだろう。


 明日、紅葉の相対する敵左サイドバックの14番、()はセンターバックもこなす守備のエキスパートだそうだ。フィジカルで紅葉を潰しにくるのだろう。

 

 だが、それがどうした。紅葉は不敵に笑う。


(今の私たちなら、どんな相手だって止められない。対策されたら、その上をいくまでだよ)


 紅葉は偽9番の立花との相性が抜群に良いと自信を持って言える。中央へ切り込みながら、立花とのパス交換、ポジションチェンジでゴールを奪う形。


 立花がサイドに流れて空いたスペースをドリブル突破し、シュートやクロスを上げる形。


 前線で流動的に動きながら、立花と絡むプレーは本当に気持ちがいいほど上手くいくのだ。


 どんな守備でも粉砕出来るほど、自分たちのサッカーの完成度は高い。


 偽9番を与えられた立花は、日本代表の攻撃を牽引する存在になっている。紅葉はそんな立花と一緒に攻撃するのが楽しくて仕方なかった。


(雪お姉ちゃんは私が何をしたいかわかってくれてるんだよね。本当に最高だよ)


 順調すぎて怖いほど紅葉たち日本代表は攻守の連携を高めていた。


 アウェーの洗礼も思ったほどない。初めてのドーピング検査には、恥ずかしさで若干涙目になってしまったが、それも無事終わった。


(う~ん、私もすっごい絶好調だし、逆に何か落とし穴的なことが起こる気が)


「あ! カエちゃんのお土産買わなくちゃ! 危なかったぁ~、死ぬほど深い落とし穴にハマるとこだったよ」


 紅葉はふぅと安堵する。そこに東条が話しかけてくる。


「ほら、大井さん、準備はいい? 記者会見行くわよ」

「あ、はい。いえ、よくないです。緊急事態が」

「どうしたの。何かあった?」


 慌てる紅葉に東条が深刻な顔で聞き返してくる。紅葉は意を決して東条に聞く。


「監督、韓国のお土産って何が有名ですか?」

「は?」


 ポカンとした顔になる東条。


 事情を説明したら、東条に頬をむにーん、とつねられてしまった。


 これが落とし穴であったか、と紅葉は涙目になった。 




 

 ホテルの食堂にU-19日本女子代表が次から次へと集まってくる。


「お、みんな揃ってるじゃん」

「まぁ、部屋で一人で見てもねー」


 ボランチの酒井に雪奈が答えると、周りも揃って頷く。東条監督と紅葉の試合前日会見がこれから始まる。


 雪奈はそれを誰かと一緒に見ようと食堂に来たら、皆も同じ考えであったらしく、結局全員が集まってしまった。


 酒井が雪奈の隣に座りながら、センターバックの大鳥をからかう。


「あれれ~、おかしいぞ~? なんでキャプテンがこんなところにぃ? これから、選手代表として会見に出るんじゃなかったっけ?」

「おまえなぁ、失礼だぞ。それに全然似てないからな、そのキャラ物まね!」


 苦笑しながら叱る大鳥に、酒井が舌を出して謝る。


「あはは、いやぁ、キャプテンなのに会見出るのが大井だからさ、気にしてるかと思ったけど、全然気にしてないみたいだね」

「そりゃ、ね。むしろ私が会見に出るってなったら、それこそヤバいだろ」


 大鳥がデカい図体を縮めて怖がる仕草をする。皆が笑う。右サイドハーフの今井が笑いながら大鳥に同意する。 


「まぁ、ヤバいだろうね。なんせ、あたしたちは紅葉ジャパンだからねぇ。紅葉ちゃんじゃなくてあんたが出たら批判殺到だろうね」

「選手の名前が冠されるチーム名。監督まじ可哀そう」

「あははは、だね。普通なら東条ジャパンだもんなぁ」


 雪奈も笑いながら、監督どんまいです、と一言。


「おっ、始まった」

「うっわぁ、すっげーフラッシュ」

「紅葉ちゃん、韓国でもすっごい人気あるんだってさ」

「というか、この前の服脱ぎ事件で世界中から注目受けてるらしいよ」

「あれ、紅葉ちゃん、頬がちょっと赤い? やっぱり緊張してるのかな」


 テレビを観ながら皆が口々に喋る。


「……ほんっっとおに! 私が出なくてよかったぁ~」


 そして、大鳥がほっとした表情で心の底からよかったと言うものだから、周りから笑いが零れる。


 やっぱりキャプテンが出た方が面白かったな、と酒井が大鳥を弄り、それに大鳥が、勘弁してくれぇ、と情けない声を出し、また笑いを誘う。


 食堂に皆の笑いが響く。


(本当に仲のいいチームになったなぁ。全部紅葉ちゃんのおかげだ)


 雪奈は画面の中で、いつも通りの笑顔を浮かべている、美しい少女を見ながら思う。




 立花雪奈(たちばなゆきな)は仙台にある常盤台学園高等学校の三年生だ。常盤台は女子サッカーの名門校だ。


 部員数60名弱、今はなでしこ3部に相当するチャレンジリーグで大学生チームやクラブチームとも対戦している。


 雪奈はその常盤台でキャプテンを任されている。8月1日から始まったインターハイにも常盤台は宮城県代表として出場している。


 雪奈はU-19アジア選手権の日本代表として韓国に来ている為、インターハイには参加出来ない。残念ではあるが、仕方ない。


 顔に出ていたのか、サッカー選手にはよくあることだよ、と紅葉に慰められてしまった。


(紅葉ちゃんと違って私は初めてだけど)


 心の中でそう苦笑する。


 雪奈にとって、このひと月は本当に夢のような時間であった。


 日本代表に選ばれること自体、正直に言えば未だに信じられないのに、さらにその代表でスタメンを張っているのだから!


 周りは雪奈より上手い選手ばかりで、刺激を受けることばかり。厳しく濃密な練習で自身の成長を確かに感じられる。


 皆で意見をぶつけ合わせ、チームを作っていく過程は得るものばかりだ。


 今、雪奈は、サッカー選手なら誰もが羨む時間を過ごしている。


(本当に信じられない。幸せすぎるわ。もう紅葉ちゃんに感謝だわ)


 雪奈はこれまで代表など無縁であった。今回呼ばれたのは、レッジレディース下部組織時代に指導を受けていた東条が、日本代表監督になったことが大きいだろう。


 その東条が紅葉を中心にチーム作りをする際に、紅葉と親しい雪奈に声をかけたのでは、と雪奈は睨んでいる。


 中学一年生の紅葉が高校、大学、社会人の女子たちの中で浮かないよう、雪奈を架け橋にする為、呼んだのではと思っている。


(もっとも、すぐに紅葉ちゃん、皆と打ち解けちゃったけどね)


 雪奈の実力も少しは評価して呼んでくれたとは思うが、紅葉のおかげかなぁと、やっぱり思ってしまうのだ。


 とはいえ、呼ばれた理由やきっかけがなんであったにしろ、呼ばれたからには全力でやるだけだ。そう思い、全力でプレーしてきた。


 そして、自身の実力不足を、あまりに痛烈に感じさせられてしまった。


 周りの選手たちは確かに上手い。それでも、敵わないとは思わない。


 だが、紅葉は違った。紅葉には一生かかっても敵わないと心から降伏してしまった。


 紅葉は天才だ。中学一年生だが、その実力はすでに日本女子のトップクラスであると、なでしこリーグでの活躍で証明してみせた。


 U-19アジア選手権でも大活躍は間違いないだろう。


 紅葉を中心に戦う。それが勝利への一番の近道だ。雪奈だけでなく、一緒に練習している選手全員がそう確信し、依存してしまうほど、紅葉はずば抜けていた。


 自然と紅葉にボールが集中する。すべての攻撃が紅葉経由で行われるようになるのはすぐであった。


 それに、監督の東条が切れた。紅葉を潰されたら、あんたたちはどうするのか。あんたたちが紅葉へパスを集中させることは、対戦相手に紅葉を潰せと言ってるのと同じなんだぞ、と。


 紅葉を潰せば勝てるのなら、対戦相手は紅葉を徹底マークし、ファールギリギリのプレーでもって紅葉を削ってくるだろう。


 そう、雪奈たちは安易な考えとプレーで、紅葉を潰すところだったのだ。


 そんなことすら気付けなかった。本当に恥ずかしいことである。


 紅葉がいれば勝てると、皆が浮かれていたのだろう。


 その出来事があってからだ。東条にアドバイスをもらいながら、皆で真剣に話し合うようになったのは。


 時には喧嘩になりながら、紅葉のいないところで、どうすればいいかを意見し合う。幸い紅葉は早寝なので、午後九時からのミーティングが日課になった。


 紅葉のいないところで話し合ったのは、ちっぽけなプライドが邪魔をしたから。自分たちより遥かに年下の女の子を頼ろうとした恥ずかしさ。年上として、紅葉に頼られるようになりたいというプライド。


 最も、紅葉の取材をしている池田に、ばっちり撮影されているので、後で紅葉にもその他の人にも、ミーティングは公開されてしまう。


 今だけでも紅葉と対等な関係になりたいと、皆が願ったのだと思う。


 攻撃の組み立てから紅葉を外す。センターフォワードの雪奈がその代わりに下がってきて、中盤のパス回しに加わる。


 紅葉に敵ディフェンダーが集中しないよう、紅葉の逆サイドにいる柳瀬を積極的に使う。


 酒井たち中盤は積極的に前に上がり、ボール回しに加わる。


 バックラインを思い切り上げて、中盤をコンパクトにする。サイドバックは上がりを自重し、バランスを取る。


 雪奈と柳瀬が紅葉の逆、左サイドに抜ける動きをする。ボールと人を左に集めてから、右の紅葉へ振る。


 皆で話し合った結果、雪奈は偽9番の役割をすることになった。


 紅葉には守備を免除し、攻撃も自由にやらせる。紅葉に依存しない形を作ったわけだが、これが思わぬ効果をもたらすことになった。


 自由を与えられた紅葉が、恐ろしいことになってしまったのだ。




 東条が挨拶と目標を話している横で、紅葉が目を閉じて微動だにしなくなり、皆が慌てる。動かない紅葉は西洋人形のように美しかったが、今はそれどころではない。


「おい、起きろ紅葉ちゃん!」

「なぜそんなとこで寝れるんだ、おバカ!」


 皆の思いが通じたのか、東条がさりげなく紅葉の脇腹を突いて紅葉を起こす。紅葉がふわぁ、と小さくあくびをして寝ぼけた顔を左右に振る。


 状況に気付いたのだろう、あっと紅葉から声が漏れ、頬が赤くなる。


「カワイイなぁ」

「うん、めっちゃ可愛い」


 皆が起きた紅葉に安堵しつつ、笑う。気分はそそっかしい妹を見守る姉だ。


 そして話は昨夜のことへ移行する。 


「でも、ほんとムカつくよね。昨日夜遅くにドーピング検査あったんでしょ? 大井さんたたき起こして寝不足にするとかさぁ、やることが汚いよ」

「本当にね、しかも検査、紅葉ちゃんだけってのがさぁ。余計許せないんだけど!」


 その意見に雪奈は同意する。紅葉への深夜のドーピング検査は、紅葉のコンディションを落とす為にやったとしか雪奈にも思えなかった。


「そもそもさ、ドーピング検査のあのやり方ってどうなの? 紅葉ちゃん涙目になってたって聞いたよ」

「ホントね、女性の人権がどうとか、LGBTがどうとかうるさく言ってる癖に、うちらの人権は? って話だよね」

「ドーピング検査がイヤなら出なければいいとかさ、何それだよなぁ。こっちは人生かけてるんだぞ。そう言われたら我慢するしかないじゃんか」


 紅葉の話題からそれて、愚痴大会が開催される。雪奈は大鳥から渡されたお茶とチョコを食べながら、大鳥と静かに東条の会見を聞く。


 とはいえ、音量はテレビの音より目の前の女子たちの方が遥かに大きい。耳に入ってくるのは愚痴ばかりだ。


「ホントなんなんだろね。酷い芝の練習場使わせたり、送迎バス来なくて、暑い中待たされたりさぁ。もう頭来るよね」

「ホスト国の初戦の相手だからって許されるのかね? 紅葉ちゃんはよくあることって笑ってたけどさぁ」

「そもそも、大井さん、これが初代表だよね。よくあることって言ったのは、私たちを落ち着かせる為に言ったんじゃないの」

「あ、そっか、そういうことか。怒っても仕方ないよってことか」

「でも、しんきなぁーもんはしんきなぁーもんねぇ」

「田岡ってどこ出身だっけ? めっちゃ方言出てるよ」

「あれ、ほんと? そげんこつないやろう?」

「あはは、うちの方だとね!」


 会見そっちのけでお互いの出身地の方言を言い合い出す周りに雪奈は苦笑する。方言をBGMに、耳をテレビに集中させる。


 紅葉が何の緊張もなく抱負を述べ、その後の質問に当たり障りなく答えていく。時折、際どい質問や意地悪な質問も飛ぶが、紅葉は笑いながらユーモアを交えて返答していく。


 その様子に大鳥が感心しきりで呟き、酒井が同意する。


「この子は本当に心臓に毛が生えてるわ」

「まぁ、頼もしい限りじゃないか」


 本当に頼もしい限りだと雪奈は明日の試合に胸を躍らせる。




 日本代表として、ブルーのユニフォームを着て、胸に手を当て、国家を歌う。それはサッカー選手なら誰しもが夢見る光景だろう。雪奈にとっても夢であった。


 だが、その夢が叶った瞬間にいるというのに、雪奈の心は恐怖しかなかった。


 十九時。夏のねっとりとまとわりつく熱気の中、朝鮮統一チームのユニフォームで真っ赤に染まったソウルワールドカップスタジアム。四万人以上詰めかけた観客が立ち上がり、雪奈たちへブーイングを浴びせてくる。


 全方位から雪奈たちへ罵倒の声が降ってくる。まるで地鳴りが起こったかのよう。攻撃的な音の圧迫感に、雪奈の心は押し潰される。


 心が冷えて身体がグラグラ揺れる。涙が出てくる。


 これまで感じたことのない重圧に心臓が早鐘を打つ。どうしていいのかわからなくなってしまう。


 このままではマズイとは頭でわかっているが、心がついてこない。


 試合開始前、監督やコーチ陣、選手全員で円陣を組む。監督が紅葉に気合を入れろと無茶ぶりする。紅葉がえ~、と悲鳴を上げる。皆がそれに笑う。


 大歓声に負けない声量で紅葉が宣言する。


「ここにいるのは相手のサポばっかりだけど! あっちの隅っこには日本サポもいるよ! それに、テレビで応援しているサポもいっぱいいる! 私たちは日本代表だ! 最終選考で落ちちゃった仲間の為にも、応援してくれるサポの為にも頑張ろう!」

「おお!!」


 紅葉の激励に皆が闘志を剥き出しに叫ぶ。紅葉はそれを聞き、一拍置いてから、


「っていう考えは、忘れよう! サポの応援? そんなの関係ない! サッカーっていうのは楽しいものです! 誰に何と言われようと楽しんだ方が勝ちなんだ! ここにいるメンバーで最高に楽しもう!」

「えぇ~」

「なにソレぇ~」

「私のやる気を返せぇ!」


 選手たちが、拍子抜けした顔になって口々に紅葉へ文句を言う。紅葉は満面の笑顔を浮かべて皆を見回す。


 そして、楽しそうに掛け声をかける。


「うん、それじゃあ、楽しむついでに私たちの力を見せつけてやろう! みんなぁ! ファイトぉ!」

「えっ?」

「ファイト!」

「おい待て!」

「いきなりすぎるだろ!」

「紅葉ちゃん、そーゆーのは一言言ってからしよ?」

「つか、立花はなに、自分だけ合わせて満足気に笑ってるんよ!」


 雪奈以外全員が紅葉の掛け声に合わせられずに、口々に紅葉と雪奈へ文句を言ってくる。


(あははは、さっきまであんなに怖かったのが、嘘みたいだ。皆の緊張もきれいさっぱりなくなってるし! さすが、紅葉ちゃん!)


 皆がぐちぐち文句を言いながらピッチへ散っていく。その足取りはいつも通りに戻っていた。


 雪奈はセンターサークルに入る。そして観客席を見上げる。先ほどまで感じていた恐怖はどこにもなかった。


 スターティングメンバーは、キーパー成田。バックラインは左から田岡、大鳥、増渕、近藤。中盤はフラット気味に左から、剣崎、酒井、今井が並ぶ。前線は左から柳瀬、雪奈、紅葉が並んだ。


 ピッという短い笛の音で試合が始まる。ボールを紅葉へ。紅葉がボランチの酒井へボールを戻して前へと走っていく。


(さあ、ボールを繋げよう)


 雪奈は一度、最前線へ行き、敵センターバックの脇を抜けゴール前へ。ラインを押し上げてから反転。後ろを向く。


 キーパーまで戻ったボールが、センターバックの大鳥へ。


 朝鮮統一チームは4―2-3-1のフォーメーションを維持して、バックラインまではプレスに来ない。敵のワントップ9番()が中盤へのパスを切る動きをするだけだ。


 それを確認し、大鳥がゆっくりとボールを前へと運ぶ。()が大鳥へプレスにいく。大鳥は右センターバック増渕とのパス交換でそれをいなし、ハーフウェイラインまで持ち上がる。


 中盤まで来ると一気にプレスが激しくなる。パスコースを切りながらの厳しいチェイシングが始まる。


 大鳥からボランチ酒井へ。酒井が隣の剣崎へ。剣崎が左サイドバック田岡に戻す。


 細かくパス交換しながら、相手のプレスをいなす。


 ボール保持者へ素早く厳しくプレスに来る。敵ながら見事な守備だ。全員がさぼらない連動した守備をしている。


 左サイドバック田岡から前の剣崎、そこから横の酒井へ。酒井が前を向きドリブルする。


 すぐに囲まれる酒井。ボールの出し所を見つけられず大鳥へボールを戻す。ボールの位置が、再び振り出しのハーフウェイライン手前まで戻った。 


(このタイミングだ!)


 守備が上手くいったと相手全員が一瞬気を緩めたのを雪奈は確かに感じた。一気に斜め前方、左ワイドへと走り込む。敵センターバック二人が慌てて雪奈の隣を並走してくる。


 大鳥からロングボールが来れば、雪奈の飛び出しは成功し、ビックチャンスを作れただろう。けれど、ボールは来なかった。雪奈はオフサイドポジションまで来て動きを止める。


 ボールが来なかったことに失望はない。その逆だ。完璧なタイミングで飛び出したからこそ、敵は泡を食って追いかけてきたのだ。敵の目を全員雪奈に向けさせることに成功した。


 雪奈はボールの行方を確認する。そして心の中でガッツポーズをする。


(完璧!)


 ボールは大鳥から、右に飛び出した紅葉へと繋がっていた。右のペナルティーエリア内には、相手サイドバックと紅葉の二人だけ。


 ラインを思いっきり上げ、中盤をコンパクトにする。雪奈がデコイで左に走り、右を開ける。それから紅葉へパスを通す。狙い通りの展開だ。


 雪奈は柳瀬とともに左のワイドでポジションを変えながら、紅葉を見つめる。


 紅葉が横、縦、横と深い切り返しで敵サイドバック()を揺さぶり、次の瞬間、()の開いた股の下にボールを通し、()を抜く。


 ()の守備がまったくディレイにならなかった為、敵は誰も紅葉に追いつけない。


(うん、あれは止められないわ)


 尻もちをついた()を後目に紅葉が中へ切り込み、キーパーと一対一になる。ゴール右斜めから、左足でシュートモーションに入る紅葉。


 雪奈はゴール目掛けて走り込む。クロスに合わせる為と、零れ球を押し込む為、キーパーにクロスかもしれないと思わせる為、きちんとポジションを取る。


 紅葉は低い弾道で、ニアをケアしたキーパーの右わき腹横を抜いてみせた。万が一弾かれても雪奈が詰めることを想定した弾道だろう。ボールが左サイドネットに突き刺さる。


(まぁ、そんな強烈なのをピンポイントでそんなとこに蹴られたらどんなキーパーも触れないと思うけどね)


 ゴール前に駆け込んだ雪奈は、目の前で芝を叩いて悔しがる相手キーパーに少し同情する。それから、踵を返して紅葉のもとへ走り寄る。


 大ブーイングの中、右拳を上げている紅葉へ正面から抱き着く。


「ナイッシュゥ!! 紅葉ちゃん!!」

「雪お姉ちゃんもナイス無駄走り!!」

「えへん! いい飛び出しだったでしょう!」

「うん!」


 紅葉の天真爛漫な笑顔に迎えられ、雪奈は浮かれる。紅葉の熱い体温を感じ、安らぐ。今、この瞬間だけ、紅葉は雪奈だけのものだ。ふと、そんなことを思う。


「ナイッゴ! 大井!」

「最高だったよ、紅葉ちゃん!」


 次から次へと紅葉目掛けて走り込んでくる仲間たちに、紅葉ごと、雪奈はもみくちゃにされる。そして、なぜが雪奈の尻を皆が叩いていく。


「痛い! 痛いから! なんで私のお尻を叩くのよ!」

「あははは、紅葉ちゃんを叩くと、後で怖いからさ! ちょうどいいところに叩きやすいのがあったもんで!」

「なによそれはぁ! こら、待て酒井!」


 雪奈の抗議の声はチームメイトの笑い声と観客席からの大ブーイングに消える。 

 


 開始5分で1-0とリードした日本に朝鮮統一チームが猛攻を仕掛けてくる。サイドからどんどんクロスを放ってくるのを、ゴール前でしっかりと相手の身体に身体をぶつけて、零れたところをクリアしていく。


 セカンドボールを拾われるたびに大歓声が巻き起こる中、全員で冷静に守備する。下がった雪奈の前に来たボールをコーナーに蹴り出す。


 コーナーキックからの流れで生まれるゴールは、10パーセントほどと統計データでは言われている。なので可能ならばコーナーを与えてはいけない。


 本来なら味方の声を頼りにどうするか判断するのだが、歓声でまったく指示が聞こえない。自身の後ろに敵がいるかわからないならセーフティーに行くしかない。雪奈はそう判断しボールを蹴り出した。


(その点、相手は可哀そうよね)


 雪奈は相手8番をマークしながら、前線に一人残る紅葉を見る。


 紅葉のクロス精度はずば抜けている。コーナーキックで30パーセント、フリーキックは位置にもよるが、60パーセントの確率で紅葉はゴールを奪うと少ないデータながら示されている。


 セットプレーは日本代表にとってのとっておきだ。同じデータを見ているであろう対戦国は、ファウルもコーナーキックも安易に与えたくないと考えるだろう。それはディフェンダーにとって実にやっかいこの上ないに違いない。


 ボールをキーパーの成田がガッチリキャッチする。そして、ハーフウェイライン手前にいる紅葉の前方目掛けて蹴り出す。


 紅葉のマークは二人、ボランチの16番(ちゃん)と左サイドバックの()だ。紅葉を挟み込み、ボールを紅葉に通させないポジショニングだ。


 紅葉がボールを一度見た後、前だけを見て走る。(ちゃん)()はボールを見、さらに紅葉を見ながら走っている。それでもスピードは互角だ。紅葉より如何にフィジカルで優っているかわかる。


 雪奈は走りながらその様子を見つめる。


(速攻する局面じゃなかったでしょ! 成田! さすがに紅葉ちゃんでもボールを納めるのは難しいか。クリアされたとこを奪いたい)


 セカンドボールを奪って、全体を押し上げる。そう雪奈が判断したところで、紅葉がいきなりストップする。(ちゃん)()が慌てて止まる。


 紅葉がすぐさま走り出す。(ちゃん)()が半歩紅葉から遅れる。


 ボールが(ちゃん)()のジャンプした頭の上を僅かに越えて落下する。紅葉がキーパーからのボールをダイレクトで、後ろを見ずにヒールでトラップする。


 ふわりとボールが紅葉の頭を越え、前方に転がる。


 紅葉がそのまま減速することなくドリブルを開始する。


 (ちゃん)()は態勢を崩し、紅葉から離される。如何にフィジカルで優っていようと、追いつけない距離が開く。


 無人の相手陣内を紅葉が風を切って進む。


(は? はは、なにソレ……)


 どれだけ完璧に落下地点を予測していたのか。しかも、その落下地点に入るタイミングを計算して、敵ディフェンダーを罠にかけ、さらに真後ろから飛んでくるボールをヒールでコントロールする。それも全力疾走しながら、ボールを見ずに。


 雪奈は思わず立ち止まってしまった。独走する紅葉の背中、揺れるツインテールを凝視する。


(わかってるつもりだったけど、これは……)


 飛び出してきた相手キーパーの頭の上をふわりとループシュートで抜き、いとも簡単にゴールを奪ってしまう紅葉。


 気が付けば、怒号のようなブーイングは跡形もなく消えていた。


 しわぶきひとつない静寂の中、パサリというネットにボールが包まれる音だけがスタジアムに響いた。


 対戦相手と観客の心をまとめてへし折ってしまった紅葉のプレーに雪奈は身震いする。


――私はこの子に決して追いつけない


 すべての観客からスタンディングオベーションを受ける紅葉を見つめながら、雪奈は大きく深呼吸を繰り返す。冷たくなった胸にぬるま湯のような夏の空気が入ってくる。


「ずっと紅葉ちゃんと一緒にサッカーしてたいだけなのになぁ」


 雪奈の呟きは、ピッチの中で揺蕩い、儚く消えた。


   

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ