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04 「最高の友達」

 



 紅葉は生前サッカー選手になるほどサッカー好きであった。当然生まれ変わってもサッカー好きは変わっていない。今度の人生ももちろんサッカーをいっぱいするつもりだし、目標はサッカーのプロ、Jリーガーだ。紅葉は死ぬ直前のJリーグで大きな大きな失敗をしている。それを払拭するためにもJリーガーに絶対なりたいと思っている。


 とはいえ、紅葉は女の子だ。Jリーガーになった女の子は未だいない。それは、サッカーで基本とされるフィジカルが男女間で致命的なまでに開きがある為であろう。よく言われることだが、女子代表レベルは男子の高校サッカーレベルしかないという。


 これは、男子は高校生の段階で身体能力がほぼほぼ大人と変わらないくらいに成長する為だ。フィジカルで勝てなくなる=そのレベルという図式なのだろう。サッカーにおいてフィジカルは大前提なのだ。筋力がないからボールを強く蹴れない。脚力がないから抜けず、抜かれる。ではフィジカルがないとサッカーは出来ないのだろうか。


 肉体的な強さ、身体能力の高さ、サッカーにおいてはこんなところでフィジカルという言葉は使われている。サッカーに必要なフィジカルの具体的なものはなんであろうか。まずはスピードと持久力。一瞬の瞬発力がなければ守備も攻撃も相手に負けてしまうだろう。持久力は90分サッカーをする上で当然必須であろう。


 次は体幹。激しく敵に当たられても転ばずにボールをキープ出来る必要がある。体を寄せられただけで倒れていたら話にならないし、厳しい態勢でボールを受けようとした時に身体を支えられないといけない。後は体格。小柄であればゴール前の競り合いなどで簡単に負けてしまうだろう。細ければ吹っ飛ばされ、すぐに怪我をしてしまうだろう。


 スピード、持久力、体幹、体格。男と女ではサッカーの基本となるこれらでどうしようもないほど差がついてしまう。ある一つだけ、スピードだけなら男子に負けないといったことではダメなのだ。全てにおいて一定以上の水準にないとJリーガーにはなれない。


 確かに一定以上のフィジカルは必要だろう。だけど、実際のJリーガーでも小柄な選手はいっぱいいる。競り合いに弱い選手はいっぱいいる。スピードの遅い選手はまぁそれなりにいる。持久力のない選手だってちょっとはいる。そんな選手たちでもJリーガーになり、活躍出来ている理由は、足りない部分以外ですごい能力を持っているからである。

 

 小柄で競り合いに弱くても瞬発力がすごいFW。スピードも持久力もないが物凄いパスセンスと空間認識能力を持っているCMF。スピードは遅いが先読みと強いフィジカルコンタクトでボール奪取するCB。


 つまりは他が足りなくても、それを補って余りある武器たりえる一芸を持っていればいいのだ。フィジカル面で致命的な差のある女の子である紅葉は一芸に秀でる必要があるだろう。その一芸は圧倒的に不足するフィジカルを補い得る、強力な武器でなくてはならない。


 紅葉はどういった武器を持った選手になるべきか考えた。赤ちゃんの身で一生懸命考えたせいか、知恵熱が出て死にそうになり入院することになって、お母さんにめちゃくちゃ心配をかけたが、おかげで大体決まった。


 まずはドリブル。身体がちっちゃくて、スピードがなくてもボールコントロールを磨けば問題ない。ファウルをもらっても怪我をしないような身体の入れ方も重要になってくるはずだが、これは前世でも得意だったから何とかなるはずだ。


 次にパス。これは前世ではあんまり得意じゃなかったので要練習だが、フィジカルで劣る女の子には必須であろう。空間認識能力を伸ばす必要がある。どんな練習が必要であろうか、今から考えて実行しなければ。


 そして、フリーキック! フィジカルがまったく関係なく、それでいて正確無比なプレースキックが蹴れれば強力な武器になる。超絶苦手意識はあるが、今から練習すればきっと上手くなるだろう。


 ――フリーキックでリベンジだぁ!!


(早速練習だ、と言いたいとこだけど、まだ自力で立てないし今は柔軟体操をしよう。身体の柔らかさは怪我を防ぐのに大切だからね。筋トレは背が伸びなくなるから厳禁。子供のうちは体幹を鍛えるだけでいい。ふっ、さすが元プロ! よっしゃ、やったるぞー!)


 大井紅葉生後六ヵ月、気合十分に吠える。ダイニングに置かれたベッドの上でちんまりと座り、両腕をぐりぐり振り回して柔軟体操もどきを開始する。


(つーか、あれだね、元プロが二十四時時間三百六十五日付きっきりで指導するわけでしょ。上手くならないわけないね! 勝ったな、これは!)


 隣で楓が不思議そうに紅葉のことを見つめているのに笑顔を返し、絶好調に腕を振る紅葉。ゴールデンレトリバーのジョンも紅葉の仕草に興味を覚えたのか近寄ってくる。二人(うち一匹)の観客を得て、俄然やる気が湧いてくる。勢い良く腕をグリンと回す。

 

 グルンと腕が曲がってはいけない方向へと曲がる。そして腕を天に突きあげた状態で腕振りが止まる。腕が垂直にダランと重力に従って下にいき、そこからピクリとも動かなくなる。


(んっ? あれ、ん?)


 腕に力を入れるとちょっと痛いだけでまったく動かない。上半身を揺するとプラプラと腕が動く。


(あれ、これマズくね? えっ、もしかして、脱臼してね? えっ、嘘)


 脂汗を流し固まる紅葉を見かねたのか、ジョンが鳴いてお母さんを呼んだ後、どうしたのとばかりに近寄って鼻をスンスンと紅葉に擦り付けてくる。楓がジョンの鳴き声に驚き、泣き始める。キッチンで食器洗いをしていたお母さんが二人(うち一匹)の泣き声を聞き、ダイニングに来る。


 お母さんが楓を抱きかかえあやしながら、座ったまま動かない紅葉を見る。紅葉はびくっとお母さんの視線に身体を震わせる。その震えに合わせて、不自然に紅葉の腕が揺れる。お母さんの視線が紅葉の腕で止まる。ぷらりと動いてはいけない角度へ紅葉の腕がもう一度動く。


「きゃぁっ!!」


 お母さんの悲鳴に楓がより一層激しく泣き出す。


(いや、その大丈夫だから、本当。たいしたことないんだからね。安心して。痛くないし。ほら、動くよ?)


 テンパった紅葉が上半身を左右に振って、腕をブンブンと振る。腕がペシペシとジョンの身体にヒットする。ジョンが目を丸くして驚いている。


(あっ、痛てっ! いまブチってなった。これヤバいかも。急に痛くなってきた。くわぁっ、死ぬほど痛いっ!!)


 痛みに反応して紅葉の身体が勝手に泣き出す。その声に呼応して楓がさらに激しく泣く。ジョンもクゥンと鳴く。お母さんが紅葉の腕をそっと触り、状況を確認する。結局お母さんに抱きかかえられ、病院に直行することになった。

 

 病院であっという間に関節をはめてもらい復活した紅葉は深く反省した。何よりお母さんを心配させてしまったことに罪悪感を覚えた。病院の先生が治療し、紅葉が元気になったことを確認した後、緊張の糸が切れたのか、はらりと涙を流したお母さんの姿が紅葉の目に焼き付いて離れない。紅葉は心の中で何度もお母さんに謝罪した。


(もう絶対に怪我しないから、ごめんなさいお母さん)


 この身体を大事にしよう。身体は赤ちゃんとはいえ精神は元二十歳なのだ。お母さんに迷惑をかけないようにしなければ、血のつながっていないであろう紅葉をここまで大事に育ててくれるお母さんに申し訳がたたない。身体を大事にサッカーの練習をするぞと紅葉は治った腕をそっとくるくると回すのであった。


 この一月後、はいはいで高速移動出来るようになった紅葉は空間認識能力を鍛えようと目を瞑って移動中、ベビーゲートに猛スピードで突っ込み、おでこを陥没させるのであった。


 さらにその一月後、つかまり立ち出来るようになった紅葉は果敢にも綿ボールを蹴ろうとして倒れ、腕を骨折した。


 さらにその後も紅葉は大騒動を巻き起こし、家族を心配させ続けるのであった。






 ジョンは大井家の序列で最下位の地位にある。群れの序列一番はママさんだ。餌をくれ、散歩にも付き合ってくれるジョンの最も大切な家族である。二番はパパさん。群れにいる時間は少ないがジョンのことを撫でて抱きしめてくれるよい家族だ。いつもは狩りに向かっているのであろうか。


 そして、三番目から五番目までは順不同だ。ママさんパパさんの子供たちである。この新参者の三人はジョンにとって本来なら格下に当たる(群れへの加入時期、強さにおいて)のだが、ママさんパパさんの大切な子供であるという一点で持って、ジョンよりも群れでの地位は高くなるのである。


 最近新たに増えた二人の赤子の世話は実に大変なことになる、と一人目の子供、和博で既に子育てを経験済みのジョンにはわかっていた。和博の例に照らせば、初めのうちは静かに傍にいるだけでよい。泣いたらママさんに連絡するのが仕事だ。大変なのは夜泣きで寝不足になってしまうくらいだ。


 ジョンの仕事が大変になるのは赤子が歩き始めるくらいに成長した時だ。ヨチヨチ歩きで転がりそうになる赤子を支えられるように横に寄り添う必要がある。パンチや引っ張り攻撃を受けても、びっくりして急動作をしてはいけない。もしもジョンが勢い良く立ち上がったら赤子が倒れてしまう可能性がある。走り回れるようになってからも大変だ。今度はとにかくどこに行くかわからない怖さがあるのだ。後ろについていって、守らないといけない。


 和博の子育ては本当に大変だった。とはいえ和博を幼稚園なる場所に、働きに出るまで育てきった時はジョンも嬉しかった。そう一安心してまったりしていたのだが、ママさんがお腹を膨らませるのを見て、また産まれるのかとジョンは悟った。来るべきその時まで英気を養おうとジョンは餌をいつもより多く食べた。


 しかし、まさか二人同時とは。初めに我が家にやってきた赤子、紅葉を経験則通り見守っていたのだが、すぐにもう一人、楓がやってきた時は驚いた。紅葉が来た時、ママさんのお腹が膨れたままで不思議には思っていたのだ。まさか、人は時間差で子供を産むとまではジョンも知らなかった。とはいえ、ジョンとて歴戦のベビーシッター。動じることなく二人の子供を育てきってみせるとニヒルに笑う余裕さえ、その時はあった。


 甘かった。まさか、赤子の行動がそれぞれこんなにも違うとは思ってもみなかった。後からやってきた楓は至って普通の赤子で、まぁ、それなりに手のかかる子ではあったが、こちらの予想の範囲内であった。問題は先に来た子、紅葉だ。


 しょっちゅう熱を出して寝込む。まぁ、赤子は脆弱で病気になりやすい生き物だ。仕方ないのかもしれないが、紅葉が苦しそうにしているのを見るのは辛かった。ママさんが必死に看病しているのを応援しつつ、別室に隔離された楓の面倒を見る。


 変な踊りをして怪我をする。これは本当にびっくりした。一体何がこの子供に起こったのか。ジョンは今でもあの時の光景を夢で見るたび、びくっと身体が震える。紅葉が腕を振り回し始めたと思ったら、腕がいきなり曲がってはいけない角度、後ろ側にぐるりと回転したのだ。


 状況を理解していないのだろう、キョトンとしている紅葉にこれはマズいとジョンはママさんを呼んだ。やがて腕からの痛みで泣き出す紅葉にジョンはなぜ早く止めなかったのかと後悔の念に駆られた。


 目を閉じたまま、はいはいで移動し、いろいろな物に頭をぶつけ出す。紅葉という赤子はとにかくよく動く。ママさんも基本的には付きっきりで二人の子供を見守っているのだが、トイレや家事でわずかな時間、目を離す時がある。そんな時に限って紅葉はやらかすのだ。


 ダイニングのカーペットの上で楓と一緒に積み木をして遊んでいた紅葉はママさんがいなくなるや積み木を放り出し、じっと部屋を伺いだす。何をするのかと楓は目をぱちくりさせている。ジョンはまたかと臨戦態勢に移行する。紅葉がはいはいで動き出す。


 ジョンは急いで紅葉の後ろにつく。紅葉がダイニングのソファを迂回し、リビングに移動する。リビングのテーブル目がけて突進し、椅子に頭をぶつける直前にジョンが紅葉の服を銜え、紅葉を止める。


 紅葉が目を開け、ジョンのことを確認し、笑顔を浮かべながら、鼻の頭を小さな手で撫でてくれる。ありがとう、と言っているのであろう。ジョンは紅葉を離す。もう危ないことはするなよと一回ほっぺを舐める。くすぐったそうに笑う紅葉。と、また紅葉が辺りをじっと見つめたと思ったら、目を瞑って、はいはいを始める。そしてリビングのテーブルを一周しダイニングへ戻り、楓の隣で停止する。そこで目を開けて紅葉は両手をばちばちと叩いて喜ぶ。


 そう、紅葉は目を瞑ったまま、はいはいをするのだ。当然、テーブルや椅子、壁やベビーゲートなどの障害物に突っ込むことになる。ママさんも角という角にスポンジ製のコーナーガードを設置してはいるが、危険であることには変わらない。それでも、紅葉は目を瞑ってはいはいをする。続けてやってきた成果か、最近は障害物に当たらなくなってきた。


 ジョン自身なぜ紅葉がこんなことをするのかわからず、やってみれば何かわかるかと紅葉と同じことをしてみた。周囲を観察し、目を瞑る。頭の中で配置を思い出しながら、移動する。思いっきりテーブルの脚に鼻を打つ結果になった。だけど、やってみて何となくだが、紅葉の行動理由がわかった気がした。


 紅葉のこの奇行は狩りをする上でのトレーニングなのではとジョンは思い当たったのだ。仲間たちと一緒に狩りをする時、目標を捕捉し、逃がさない為には地形判断を即座にする必要がある。一匹でも囲いを緩めれば、そこから獲物は逃げてしまう。囲いを崩さない為には、仲間がどう動くか、獲物がどう動くか、地形はどうなっているか、頭の中で思い浮かべながら動く必要がある。


 周囲をじっと見て、目を瞑って移動するというのは地形と自身がどこに移動しているのか頭の中で思い浮かべる必要がある。紅葉が意図してやっているのか不明ではあるが、この子は着実に空間把握の実力を付けてきている。もしや、この子は凄腕のハンターになるのではという期待から、最近のジョンは紅葉のこの奇行を黙認し、物にぶつかる直前になるまで止めないようにしているのだ。


 それが、仇となった。紅葉は、はいはいのスピードを上げていき、目を瞑っていても部屋を難なく一周出来るようになっていた。和博がジョンに抱きついて、じゃれてきたほんのわずかな時間、ジョンは紅葉から目を離してしまった。


 ガッシャンっと凄まじい音が部屋に響き、何事かと視線を音の発生源に向ける。キッチンへ侵入しないように設けられたベビーゲートが倒れていた。そして、その前には紅葉が頭を押さえて蹲っていたのだ。呆然とするジョンたちを後目に、ママさんが泣きじゃくる紅葉を抱えて部屋を出ていく。その後、頭に包帯をぐるぐる巻いた紅葉を見て、ジョンはこの赤子から目を絶対に離してはいけないと悟ったのであった。


 とにかくジョンは紅葉にくっついて離れないようにした。紅葉がつかまり立ちしたのもジョンの身体を掴んでであったほど、ずっと傍にくっついていた。そのまま、転がっていたボールを蹴ろうとして、片足を上げて転び、怪我をするとは思いもしなかったが。


 普通に考えて両足でまともに立てないのに片足になればどうなるかわかりそうなものだが……いや、この子はおバカなのだ。常に最悪を想定して備えていなかったジョンが悪い。次はないとジョンは背水の覚悟を持ってこの子の面倒を見ることを決意した。


 紅葉が立って歩けるようになった時は喜びと恐怖が同時に沸いてきた。今まででさえ、手を焼いてきた難敵がさらに手ごわくなってしまったのだ。そう思っていたのだが、それはある意味杞憂に終わった。紅葉はボール遊びに夢中になったのだ。


 初めは小さな綿ボール、次に拳ほどのウレタンボール、それから顔くらいのゴムボール。成長と同じく蹴るボールは大きくなっていったが、ボール遊びをしている紅葉は転げるくらいで、ほとんど怪我をしなくなったのだ。ジョンはそのことを素直に喜び、積極的に紅葉の遊びに付き合うことにした。


 紅葉とのボール遊びには種類があった。一番多く遊んだのはボール争奪戦だ。これはジョンが紅葉からボールを奪えば勝ちというシンプルなルールの遊びだ。紅葉は身体と足を使ってジョンからボールを庇う。ジョンは紅葉の周りをぐるぐる回って隙あらばボールに飛びつく。


 初めのうちはジョンの連勝であった。紅葉はボールを取られると、涙目になりながらジョンの頭を撫でてくる。あまりにその表情が悔しげで、可哀そうになり、手加減したらすごい怒られた。ジョンの頬をむにっと掴まれて目を合わせて泣かれたのには困った。


 それからはジョンも常に本気で挑み続けているが、少しだけ負けるようになった。身体を使ってジョンのダイブを止める。ボールをすばやく足でジョンのいない方に蹴り出す。ボールを守り切った紅葉の笑顔と、紅葉の身体能力が向上していくのを実感してジョンは嬉しくて仕方なかった。


 だが、ジョンも王者としてフェイントに磨きをかけ、ターンの歩幅をより小さく早くすることで成長した紅葉のブロックをかいくぐり、勝利をものにしていく。戦いはどんどんハイレベルになり、目の動きからしっぽの振りまで使って相手を騙し、時間差に相手の視線の範囲外からのタックルまで使って、駆け引きするようになった。そのころには勝負は五分五分となり、大体はジョンと紅葉が折り重なって倒れ、じゃれ合って終了するようになっていた。


 次に多く遊んだのはボールキャッチだ。ジョンは好きなところに行って紅葉のボールを待つ。紅葉が蹴るボールをジョンが空中でキャッチする。そのボールを紅葉に返して再び好きな位置に移動する。この遊びには勝ち負けなどない。いかに紅葉が正確にボールを蹴れるか、いかにジョンがボールをしっかりキャッチできるかだけだ。


 でも、そこは紅葉だ。距離をどんどん離していくことで難易度を上げていったのだ。最初は室内でやっていたこの遊びは庭に、次は家の前の道路へ。さらに大きな空間を求めて公園へと移っていった。初めのうちは変な方向へ飛んでいくボールをジョンがフォローして一生懸命に追っていた。段々と精度を上げていく紅葉のボールは狙い通りにジョンのところへ来るようになる。


 すると今度はジョンの取れるギリギリの場所にボールを蹴ってくるようになる。ボールが取れなければ、紅葉のキックとジョンのキャッチ両方が悪かったとお互いに反省し合った。紅葉が幼稚園に行く頃には、紅葉のキック精度もジョンのキャッチ範囲も素晴らしく成長していた。この遊びでなら世界を狙えるとジョンは自画自賛していた。


 ジョンの人生、いや、犬生において紅葉と過ごした時間は濃密でかけがえのないものであった。幼稚園児になった紅葉と初めて二人だけで散歩して迷子になった時の紅葉の顔。紅葉がジョンとばかり遊ぶものだから、大好きなお姉ちゃんを盗られたと泣く楓と困った表情の紅葉の顔。海に家族全員で行って、厳戒態勢を敷いていたはずなのに、やっぱり溺れかけた後の紅葉の顔。夕立の時、雷が鳴ると必ずジョンの元に来て抱きしめてくれる紅葉の顔。


 泣いて笑って、困って笑って、恥ずかしそうに笑って、暖かく笑って。紅葉の笑顔が走馬灯のように駆けていく。視界はぼやけるし、顔を上げるのももう億劫だ。上からジョンの顔に温かい涙が零れてくる。


 今の紅葉がどんな顔か見ないでもわかる。くしゃくしゃに顔を歪めて大泣きしているのだろう。紅葉に、家族たち、全員がジョンのことを見送ってくれているのがわかる。嬉しい。こんなにも暖かな家族と最後を過ごせることに感謝の気持ちしか湧かない。悔いなく逝ける。心残りは何もない。


 最後に紅葉の顔が見たくて、気力を振り絞って上を向く。紅葉がいた。クゥンと一鳴きする。紅葉がジョンの視線に気付き、目を大きく開く。笑って欲しいと瞳で伝える。紅葉がそんなの無理だよと赤く充血した瞳で訴えてくる。ずっと一緒にいたのだ。この子のことなら何でもわかる。最後のお願いだと伝える。紅葉はボロボロと溢れる涙を手で払い除ける。また溢れてくる涙を流したまま、にっこりと笑顔を浮かべてくれる。


 ――ああ、やっぱり紅葉は笑顔が一番だよ。


 ジョンは満足して目を閉じた。本当はこのお転婆娘の将来がすごく心配だったけれど。もっともっとずっと一緒にいたかったけれど。後は家族に、特にしっかり者の楓に頼むことにして眠りにつく。いつまでもいつまでも頭を優しく撫で続けてくれる紅葉の手の温もりを感じながら。







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[一言] “もう絶対に怪我しないから” ひでえフラグだ
[一言] 何度読んでも泣ける…
[良い点] じょおおおおん(泣)
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