37 「朝陽に照らされて」
紅葉は一週間のお勤めを無事に終え、浦和レッジレディースの練習に復帰した。なでしこリーグは中断期間に入ったが、なでしこカップがまだ4試合ほど残っており、7月中旬までレッジレディースでの試合は続く。
翌週のなでしこカップ戦で、先発出場を果たした紅葉は、前半だけでハットトリックを達成した。
国内トップリーグで、十分通用するという手ごたえを掴んだ。
ただ、課題も明確になった。それは、体力が足りないということ。
小学生は二十分、中学で三十分、高校で四十分、そしてそれ以上では四十五分ハーフと、学年によって段階的に、試合時間は伸びていく。
紅葉の場合、ついこの間まで二十分ハーフだったのが、いきなり倍以上の四十五分ハーフになったわけで、九十分、一試合を通して試合をこなす体力がまだ出来ていなかった。
前半の四十五分でほぼ体力を使い果たして、へろへろになってしまう。言い方は悪いが、手を抜くタイミングの見極めが必要なのだろう。無駄な動きをなくし、いくところといかないところを見極め、動きにメリハリをつける。
言うは易し、である。オフザボールの動きに、連動した守備の為のポジショニング、とサボっていい時間などほとんどない。
そして何よりやっかいなのが、今の紅葉が絶好調だということだ。動きが前より滑らかに、各段に速くなった。それは、歩幅を広げたこと、そしてなにより最適な身体の動かし方を掴んだことが大きい。
まさしく成長した証なのだが、そのせいで、体力をより多く使ってしまうようだ。以前よりガス欠が早くなってしまった。いつもより速く多く走れば、より疲れるのは当然といえば当然なのだろう。
サッカーでは交代枠が三人まで認められている。けれど、監督が積極的に切れる交代カードは二人目までだ。交代枠を使い切った後に、アクシデントがあったら数的不利になってしまう。それを避ける為に、一枠は終盤まで取っておくのが一般的だ。
交代枠の一枠はなるべく温存したい。二枠のうち一つを紅葉が必ず使う。それも、早い時間帯で。
今の紅葉を使えば、監督は一名しか選手交代が出来なくなってしまう。監督から選択肢を奪い、戦術の幅を狭める。
ハッキリ言って、今の紅葉は監督からしたらとても使いづらい存在だろう。得点という結果を残しているから、先発起用されているが、いつサブに回されてもおかしくない。
とはいえ、そう簡単に体力不足を解消出来るかと言えば、ノーだ。
紅葉は成長期が終わるまでは高強度のトレーニングをしないと決めている。怪我をしないことが第一、怪我になりにくい身体を作ることが第二と、フィジコとも相談し、トレーニングメニューを考えている。
インターバルトレーニングやフィジカルトレーニングなど、今はまだしない。間欠性持久力は、試合や、試合形式の練習で徐々に増やしていく計画だ。
(焦っても仕方ない。というか、焦っちゃダメだ。じっくり行こう)
そう、はやる気持ちを抑える。体力不足という短所はこれから先しばらく解消しない。だったら、短所の分まで、長所を伸ばしていくしかない。
(体力の配分は考える。でも、絶対サボったりはしない。全力でやる。お父さんも走れる選手になりなさいって、いつも言ってるもんね。オフザボールの時、いままで以上に動いてやる。それで、疲れる前に得点を取るんだ)
ろうそくの炎がごうごうと音を立てて燃え盛る。その熱でろうそくはあっという間に燃え尽きる。明るいだろうが、そのろうそくは欠陥品である。
長く安定的に、具体的には九十分間、燃え続けて初めて完成品と言える。とはいえ、九十分持たないものは、どうしたって持たないのだ。
紅葉はこれまで以上に早く燃え尽きてもいいから、より激しく燃えてやろうと決める。
(うん、仕方ないよね。中途半端に燃える方がよくないもんね)
「真っ白に燃え尽きるぞぉ!」
「紅葉、真っ白に燃え尽きちゃダメなんじゃないかしら?」
「あっ、声出てた?」
「ええ、ばっちりと」
お母さんに突っ込まれてしまった。独り言を聞かれた恥ずかしさを、えへへ、と笑って誤魔化す。
今は長野で行われるU-19代表合宿に向かう車の中だ。レッジ広報の相田が運転手を務めている時点で、なんで? と不思議なのに、お母さんまで一緒に行くという、さらに不思議な状況だったりする。
何でお母さんも行くの、と始めに聞いたのだが、聞いても笑うばかりで教えてくれない。とはいえ、来られて困ることはない。それより、この合宿をどう過ごそうかと考えていたのである。
結論は真っ白に燃え尽きるというものであったが。
(たしかに、燃え尽きちゃダメな気がしてきたぞ……う~ん)
そこで、ふと気が付く。
「そういえば、お母さんと私が家を空けちゃってるけど、カエちゃんたち、ご飯どうするんだろ?」
「今夜はピザにするんですって。紅葉がいない時じゃないと食べられないからね。楓がはしゃいでたわよ」
「え? なにそれ?」
普段料理を作るお母さんと紅葉が揃っていなくなるので、楓たちが困っていないか、と質問したのだが。なんで、喜ぶのだと紅葉は不思議に思う。
お母さんが苦笑しながら、教えてくれる。
「楓と和博ね、紅葉がサッカーの合宿で家にいない時はね、油っこいものだったり、健康に悪そうなものだったりを食べたがるの。紅葉が食事に気を使ってるのを知ってるから、紅葉がいない時じゃないと食べづらいんでしょうね」
「……知らなかった」
紅葉は衝撃の事実に、ものすごいショックを受ける。
(私に気を使って、食べたいもの食べられてなかったのか。二人に悪いことしてたんだ)
「ほらほら、そんなに深刻に受け止めないの。あの子たちが、紅葉の作る料理を大好きなのは本当なんだから。ただ、ジャンクフードってたまに食べたくなるものなのよ」
「そうなの?」
「そうなの。まぁ、年取ってくるとまた違うんだけどね」
「そうなんだぁ……あれ、じゃあお父さん平気なの?」
「夕食に冷めたピザ。そうね、会社帰りに何か買って帰るように連絡しといた方がいいわね」
「うん!」
お母さんがスマホを取り出し、お父さんへメールをしているのを見ながら、紅葉は、今の話は聞かなかったことにしようと決める。
(ピザかぁ、私もこの前作ったんだけどな。でも、私が作ったピザじゃ物足りなかったのかぁ。まぁ、仕方ないか。もっと栄養学の勉強して、もっともっとバランスの取れた食事をって思ってたけど、ほどほどにしておこう)
何事も楽しく出来る範囲でやるに限る。楓たちに無理をさせてまで、すべきことではないと紅葉は少し反省する。
四時間弱で目的地のホテルへ着く。ホテル裏手に広々とした芝生のピッチがあり、合宿にはうってつけのロケーションだ。
そして、高原の練習場はとても涼しかった。7月の一週目の土日で行われるこの合宿で、来月8月3から始まるU-19アジア選手権の最終メンバーが決定する。現行の28名から5名が落選してしまう厳しい最終選考の場だ。
紅葉にとっても生き残りをかけた重要な合宿だ。直近の試合で結果を出せたのは大きいはずだ。かなりの好印象を監督に残していると信じたい。
とはいっても、油断はまったく出来ない。というか、マズいかもしれない。早速始まった練習で紅葉一人だけ、完全についていけないでいた。
「紅葉ちゃん大丈夫?」
「ほら、スポドリ」
Yo-Yoテストでぶっちぎりの最低記録をたたき出し、ぐったりと芝生に倒れる紅葉に、皆が心配そうに声をかける。
「ありがとう、平気……です」
そう、死にそうな声と表情で答えてから立ち上がる。監督の東条が、笑いながら紅葉へ言葉をかけてから、全体へ次のメニューを指示する。
「大井は少し休んでなさい。それじゃあ、次はミニゴールを四つ使ったミニゲームよ。七人で四チーム作るからね」
「よし! 張り切っていこう、みんな!」
一番に紅葉が元気いっぱい弾んだ声を返す。周りの選手たちが大笑いで紅葉の頭をはたいてから、準備に取り掛かる。
東条も苦笑しながら、無理はするんじゃないわよ、と紅葉に声をかける。
ボールを使った練習なら、紅葉の独壇場だ。狭いスペースなど物ともせずドリブルとパスを織り交ぜて、相手を翻弄する。
大声で皆がポジションを指示し合い、紅葉を封殺しようとしてくる。こっちも負けるか、と皆がボールを引き出すポジションに移動し、お互いにそっちだ、あっちだと、攻守の連携を深めていく。
ラスト一分に紅葉が一メートル四方の小さなゴールへ、オーバーヘッドキックでシュートを決める。受け身をしっかりとって落下したものの、それでも衝撃は来る。
ぐへぇ、と変な声を出す紅葉に、喝采と笑い、そしてコーチからのお叱りが同時にくる。
和気あいあいとしたよい雰囲気で土曜日の練習は終わった。
夕食を食べながら、アジア選手権初戦の相手である開催国、朝鮮統一チームの試合を皆で観戦する。
ストロングポイントはやはり、その男子顔負けのフィジカルだ。4-4-2と4-2-3-1のフォーメーションを使い分けてくるが、やっているサッカーは縦に早いカウンターサッカーであることは変わらない。
どれだけ、フィジカルで負けずに、相手のキープレーヤーである、10番キムを抑えられるか、どう守るかを皆で話し合う。
じゃあ、ウィークポイントは? と皆で、どこから攻めるか、を積極的に言い合う。そこでは紅葉をどう使うかが焦点になった。
監督が、紅葉のルートを潰された場合のことも考えなさいと、軌道修正を入れてくるほどであった。
サッカーの国際大会はだいたい1年前には出場国が出揃い、半年前には組み合わせが決まる。組み合わせが決まった段階、もしくはその前から監督やコーチ陣は対戦相手や出場国を徹底的に調べ上げる。
なので、今流れている試合も監督たちは何度も観て、あらゆる角度から検討をしているはずだ。けれど、監督たちはほとんど口を挟まないで、選手たちに発言させる。
選手たち自ら考えることで、理解度を高め、活発な意見交換でチームワークを深める狙いがあるのだろう。
それに、いざ試合が始まれば、対応するのは選手たちだ。監督の指示など待っていられない状況が頻繁に起こるのだから、思考力や対応力を高めることは、とても重要だ。
皆が積極的に発言する。その熱気に紅葉は微笑む。とてもいいチームが出来上がりそうだ。
午後九時、部屋に戻った紅葉は、監督から呼び出されることになった。会議室Aと書かれたプレートのぶら下がった部屋へ、監督の後に続いて入室する。
長方形に並べられた長テーブル。そこには見知った顔、見知らぬ顔、すでに六名の大人が座っていた。
紅葉は監督の横に座るよう指示される。向かって右側にお母さんと相田が座っている。左側には知らないスーツ姿の人たち。目の前にはこれまたスーツ姿のおじさんたち。
目の前に座ったスーツ姿のおじさんに声をかけられ、紅葉は思わず吹き出しそうになるのをこらえながら返事をする。
「すまないね、こんな時間に呼び出して」
「いえ、大丈夫です」
(あのグンさんが、スーツ着てる! いっつも着古したジャージばっか着てたのに)
馬子にも衣装だね! と、昔、お世話になった人に出会い、ハイテンションになる紅葉。
そんな失礼なことを考えている紅葉とは裏腹に、おじさん、郡司がこの場にいる全員の紹介を始める。
「そうかい。それじゃあ、簡単に自己紹介をさせてもらおうかな。私はサッカー協会技術委員長をやらせてもらっている郡司です。それで、こちらが同じく技術委員の遠藤君」
「遠藤です。よろしくお願いしますね、大井さん」
よろしくお願いします、と頭を下げながら、びっくりする。かつて、日本代表監督であった郡司が、技術委員長になっているとは。大出世だろう。紅葉は嬉しくなって顔がほころぶ。
「次に私の右手に座られているのが、田報堂の水上さんと大礒さん」
「株式会社田報堂営業3局の水上です。隣にいるのが弊社スポーツ局の大磯です。よろしくお願い致します」
立ち上がり、丁寧に頭を下げてくる二人に、紅葉もよろしくお願いしますと頭を下げる。
「あと、こちらが、大井さんのお母様と浦和レッジレディース広報の相田さん。改めまして、お二方とも、本日はお越しいただきありがとうございます」
いえ、と言葉すくなに返事を返すお母さんと、頭を下げる相田。それでは、と郡司が紅葉へ話しかけてくる。
「さっそくなんだけど、君は今回のメンバー23名の中に選ばれました。おめでとう、大井さん」
「ありがとうございます!」
紅葉は食い気味に笑顔で答える。驚かそうと思っていただろう郡司が、紅葉の反応の良さに、逆に驚いた顔をする。
(してやったり! 相変わらずサプライズ好きだなぁ、グンさんは。でも、びっくりしたぁ。フライングで教えるのってありなのかな?)
紅葉は小首を傾げる。郡司が苦笑しながら続ける。
「ははは、さすが、大井さんと言ったところかな。あ~、こうして発表前に選手選考を教えることは本来なら、ありえないことなんだけどね。そこんとこわかってる?」
「はい、それはもちろん!」
嘘偽りなく紅葉は頷く。きちんと説明して、と郡司を見つめる。郡司は一度笑い、魅力的な提案をしてくる。
「そう、え~、それでも、こうして君に伝えたのはね、君に提案があるからなんだ。フル代表が7月末からアメリカ遠征に行くのに君も参加しては、って意見が出ていてね。参加したいかい?」
「はい! ぜひ!」
「それはよかった。ただ、困ったことにフル代表の親善試合が、U-19の大会日程とかぶってるんだ。フル代表はアメリカ、カナダ、ブラジルと試合をするんだけど。そっちに出ると、アジア選手権のグループリーグ、朝鮮統一チーム、ベトナム、タイとの試合に出られなくなっちゃうんだ」
「そうなんですか」
(残念だけど、諦めるしかないか。でも、おしかったなぁ)
はぁ、と紅葉はため息を一つ付く。それで、浮ついた気持ちを一掃する。U-19女子日本代表で活躍すれば、フル代表も見えてくるんだ、と目標が一つ増えたことに微笑む。そんな紅葉に郡司が変なことを言ってくる。
「どちらが今の君にとって、より有意義か。来年、ワールドカップがある。今からフル代表に参加する意義は大きい。とはいえ、U-19もこの大会を勝って、来年のU-20ワールドカップの切符を手にする意義は大きい。君がいなくなったら、厳しいと監督の東条君からも聞いている。だが、今の上向いた状態なら君が抜けても三位以内に入れると私たちは確信している。ただ、君にとっても、U-19代表で、国の威信をかけた本気の戦いを経験する意義は大きいだろう。フル代表かU-19か。どちらが、君にとってよりプライオリティが高いか。我々にはどちらも重要に思えてね。そこで、大井さん、フル代表のアメリカ、カナダ戦に参加し、その後、フル代表を離脱、そのまま韓国入りして、アジア選手権の決勝トーナメントに出場するというのはどうだろう。どうだい、君にとって最善の案ではないかな?」
「あの、それ、本気で言ってるんですか? グン、ジさんも納得してるんですか?」
「ああ、もちろんだよ」
紅葉は危なくかつての呼び名で呼びそうになるほど驚く。紅葉を特例扱いした提案だ。紅葉にとっては素晴らしいだろう。
だが、それぞれのチームではどうだろうか。フル代表の方は親善試合ということなので、問題はあまりないはずだ。紅葉が選ばれることで、一名メンバーが落選してしまうことくらいか。
けれど、U-19代表の方は様々な問題が生まれる。まず、大会直前の一週間ちょっとある合宿期間に参加出来なくなる。この期間はチームの出来に直結するほど大事な時間だ。不参加などあり得ない。
グループリーグの試合に参加出来ないことも同じである。試合を通してチームは急激に成長し、出来上がるのだ。
次に本選から出場というが、それにも問題がある。グループリーグは格上の朝鮮以外のチーム、ベトナムとタイなら勝てるという計算をしているのだろう。予選二位通過で、もう一つのブロック、一位通過のおそらく中国との対戦を想定しているはずだ。
本選まで行ければ、4チーム中3チームがU-20ワールドカップに出場出来る。
日本対中国、統一朝鮮対オーストラリア。そこで勝てればよし。負けても三位決定戦に勝てばよい。
郡司たちはオーストラリアに勝って、三位でのU-20ワールドカップ出場を想定している。だからこそ、紅葉が予選に出なくてもいいと考えたのだ。
中国、朝鮮統一チームと日本とに実力差があるのは事実だ。けれど、U-20ワールドカップ制覇を目標にしている以上、勝たなければいけない相手なのだ。
グループリーグを一位で抜け、優勝を狙う。郡司たちはそんなことまったく考えていなかった。
(U-20ワールドカップ制覇を目標に私たちはチーム作りをしてるんだ。それは協会にいるグンさんなら聞いてるよね? 私たちが三位通過でいいなんて絶対に思ってないことグンさんならわかってくれると思ってたのに)
紅葉は郡司に裏切られた気持ちになってしまった。
前世でU-16日本代表に呼ばれた時の監督が郡司であった。郡司からは色々なことを学んだ。
ドリブラーであった当時の太一は、お前は何のためにドリブルをするのかと聞かれたことがあった。
それが武器だから、と答えたら、よしわかった、お前のドリブルは代表チームの武器だ。どんな相手にも通用するように徹底的に鍛えてやると背中をバシバシ叩かれた。
それから、郡司には様々なことを教えてもらった。自分が気持ちよくドリブルしている時は、相手に気持ちよくドリブルさせられている時がほとんどだから止めろと言われた。
一枚相手を剥がすだけで、相手のマークはズレるから、抜いた直後こそパスを出すんだと実践で指導された。
そのパスを見せておけば、次はシュートを打つチャンスが出来るんだと教えられ、試合でシュートまでいけるようになった。
何より一番郡司から教えてもらったことは心構えの部分であった。
上手い奴が代表に呼ばれる。だが、チームの為に戦えない奴は代表にはいらないんだ。サッカーは一人では出来ないんだから、と常に聞かされてきた。
郡司の元で太一たちは各年代で好成績を残した。オリンピックで銅メダルを獲得するまでチームの成熟度を高めることが出来たのは、郡司のおかげだ。
ただのドリブルバカであった太一をサッカー選手にしてくれたのは郡司なのだ。太一は郡司のことを本当に尊敬していた。
だから、チームの為に、と言い続けていた郡司が、紅葉を特別扱いして、チームをないがしろにする提案をしてきたことがショックであった。
紅葉は郡司を静かに見つめて、断りの言葉を紡ぐ。
「……そうですか。せっかくのご提案ですが、お断りします。私はU-19日本代表としてグループリーグから戦います」
「そうか、わかった。なぜか、聞いてもいいかい?」
「サッカーは一人でするものじゃないって、私は教わりました。チームの一人一人がベストをつくして、その先に本当のチームが生まれる。私はチームの一員として、そんな中途半端なことをする選手がいたら軽蔑します」
かつての恩師に、教えてもらった言葉をそのまま返す。郡司が目を見開く。紅葉は視線を逸らす。
「そうか……そうだな。わかった。君がU-19代表として活躍することを願っているよ」
「ありがとうございます」
紅葉は一礼して部屋を後にする。
ひどく悲しい気持ちになった。
東条絵里はU-19女子日本代表監督である。今は、来月に迫ったU-19アジア選手権の、最終メンバー選考がかかった重要な合宿中だ。
だというのに、協会のお偉方とJリーグのスポンサーが来て、言うことは紅葉をフル代表によこせ、だ。
紅葉が出場する試合を放送したい、出来ればフル代表がよいというスポンサー様に協会上層部は屈したらしい。
どん底のチームを引き継ぎ、立て直すことが出来た。さあ、これからだというところで、また横やりだ。
チームが立ち直ったのは絵里の手腕ではない。一から十まで紅葉の力だ。
協会の反対を押し切り、その不当圧力をリークしてまで紅葉をU-19代表に呼んだ絵里の手腕は、一部では評価されているらしい。
が、実際は、浦和レッジ監督の国木に唆された暴挙でしかない。もう二度とあんな危ない橋は渡らないと絵里は誓っている。
(ふざけんな)
だからと言って、紅葉を引き抜かれたら、現チームは崩壊する。紅葉は攻撃の要であると同時にチームのムードメーカーなのだ。
絵里が呼んだ選手と昔からの選手たちの間にある溝が、紅葉を通して徐々になくなってきた。
最終選考で五人落選する。普通に考えると、昔からいる選手たちは自分たちが落選すると思うだろう。もちろん、絵里は実力のみで評価するが、そう思うのは人として当然だというのもわかる。
チームが緊張感のあるギスギスしたものになるかと思ったが、そうはならなかった。チームの全員が笑い合い、楽しく練習出来ている。その中心にはいつも紅葉がいる。
紅葉は天才だ。絵里は紅葉を小学一年生のころから見てきたのでよく知っている。紅葉の天才性は技術だけではない。サッカーに対する姿勢も素晴らしいのだ。
普通、あそこまで上手いと天狗になって、独善的なプレーをしがちだが、紅葉は違う。紅葉はチームの為に何が出来るかを常に考えている。それが、伝わってくるから、他の選手たちは紅葉を信頼し、紅葉と一緒にプレーしたいと願うのだろう。
このチームはこれから本当によくなる。そう絵里が確信していた矢先なだけに、本当にふざけんな、である。
日中はJリーグスポンサー様が、協会の技術委員長様を味方にして、紅葉との契約を取り付ける為、その母親を説得するとのことだ。紅葉と契約したいからと、協会幹部まで使うとは、さすが日本一の広告代理店様だ。
絵里にも手伝えとプレッシャーがかかっていたが、忙しいと完璧に断った。
絵里は、勝手に送られてきたプレゼン資料に目を通したが、特例のオンパレードに笑ってしまった。今後、日本女子代表の10番を10年間保証するだの、監督も紅葉の推薦があれば交代させるだの、めちゃくちゃなものが並んでいた。
紅葉とその母親が金銭や知名度などでは靡かないと理解したからこその、サッカー面でのサポートを全面に出しての交渉戦術なのだろうが。
結局、すべての交渉は決裂したらしいが、そこは抜け目のないスポンサー殿。紅葉に恩を売りつつ、視聴率アップを目指す作戦に出たのだ。
ばかばかしくて関わる気にもなれなかったが、そうも言ってもいられなくなってしまった。
今回のU-19アジア選手権グループリーグを免除し、なでしこジャパンに参加するのはどうか、と。フル代表への参加経験、世界の強豪国との対戦経験は紅葉の為になる。U-19も決勝トーナメントから出れば問題ないと、そう言いやがる。
(本当にふざけんな)
そう思ったが、なんとか自制した。紅葉が望むならという母親の消極的賛同を得たことで、紅葉が呼ばれることになった。ため息をついて、絵里が紅葉を呼びにいく。
それから先に起こったことは実に痛快であった。
サッカー協会技術委員長相手にチームの何たるかを説く。よくぞ言ってくれた。絵里は、内心で紅葉へ拍手喝采を送る。
(私には絶対に言えないわ。それに、大井さんの心構えは本当に素晴らしいわね。見習わないとだわ)
紅葉が退出する。少し気落ちしているように見えたのが気がかりであった。あとで、紅葉と今日の件について話し合おうと決める。
しかし、これで心置きなくU-19アジア選手権へ望めると絵里が喜んでいると、スポンサー殿が神妙な面持ちで発言をする。
「残念ですが、仕方ありませんね。テレビではU-19アジア選手権を放送することにします。それと、大井さん。大井さんからご提案いただいたプランを私共は採用させていただきます。改めましてよろしくお願い致します」
「こちらこそ、ご無理を言ってすみません。よろしくお願いします」
互いに頭を下げ合うスポンサー殿と大井母。いったい何が決まったのかと絵里は気が気でなくなる。
またふざけたことを企んでいるのかと、若干の怒りを込めて問う。郡司の隣に座っている遠藤が説明する。
「いったい、何が決まったのですか?」
「ああ、東条監督も知っておいてもらわないとね。大井紅葉さんの密着ドキュメンタリーを撮って、それを田報堂さんが主体になって放送しようという話なんだ。大井さんと親しいカメラマンさんが大会中、出入りすることになるから、よろしくお願いするよ、東条監督」
「はぁ、それは、わかりました」
「なに、東条監督にとっても悪い話ではないよ。その見返りに田報堂さんが大井さんに関する一切の不利益報道を締め付けてくれることになっているんだ。これで大井さんも周囲の雑音を気にせず試合に集中出来ることになる。君も安心だろう」
「はい、ありがとうございます」
(さすが、大井さんのお母さん。相変わらずの辣腕ぶりだわ。これで、大井さんの報道も少しはましになるのか。よかったわ)
紅葉がユニフォームを脱いだ事件を収束させる為に、大手広告代理店を使うとは凄すぎる、と絵里は苦笑いを浮かべる。
(っていっても結局、大人同士の汚い取引よね。まったく。利権だの権力だのには、つくづく関わり合いになりたくないわ)
絵里はどっと疲れを感じ、深々とため息をついた。
翌朝、絵里は眠気を振り払い五時半に起床する。ベッドに寝転んだままタブレットを見る。
今日の練習試合では全選手を出場させる。スタメンや変えていく順番なども今回はすべて事前に決めてあるが、もう一度その確認をする。
すべての選手に最後のアピールをしっかりしてもらいたい。選手同士の組み合わせや、適正ポジションに配置出来ているか、入念にチェックする。
(誰も落としたくないって思うほど活躍するのよ)
そう切実に願う。コーヒーが飲みたくなり、起き上がる。タブレットを持ったまま、ポットのお湯を注ぎ、コーヒーを作る。
一口啜る。カーテンの隙間から朝日が顔に当たる。
今日の天気は、とカーテンを一気に開けて外を見る。大量の光に目が一瞬白む。
「ん~、いい天気! って、何やってんのあの二人」
二階の窓からはピッチがよく見える。ピッチの端っこでジャージ姿のおじさんと女の子が、ボールを蹴り合っていた。
郡司と紅葉だ。
紅葉が何かを言ったのか、郡司が腹を抱えて大笑している。昨日あんなにやりあった二人なのに、と気になる。
スリッパを突っ掛け、部屋を出ようとするが、その前に顔を洗ってもいないことに気が付く。寝ぐせも酷い。
身支度を整えてから、絵里はピッチへ向かう。
正面入口を出て、ぐるりと回って遊歩道を歩く。その途中で、郡司と鉢合わせする。紅葉との遊びはもう終わってしまったらしい。
「おはよう。いい朝だね」
「おはようございます。そうですね」
晴れ晴れとした顔の郡司に挨拶され、絵里は怪訝になりながらも、笑顔で挨拶を返す。
「早起きは三文の徳というが、まったくその通りだ。……昔、私も君と同じU-19を指揮していたことがあってね。合宿の度に教え子の一人が早朝自主練をしていたんだ。そいつに感化されたのか、いつの間にか合宿をすると、皆が早朝自主練をするようになっていたよ。私もそれに付き合って合宿の時は早起きになってしまった」
「そうなんですか」
「ああ、だが、君の古巣にいる渡谷だけは参加してなかったな。あいつは昔からけしからん奴だったな」
楽しそうに笑う郡司に、絵里は紅葉と何を話していたのか、聞いてもいいものか悩む。郡司はそんな絵里のことなどお構いなしとばかりに、楽しそうに昔のことを話してくる。
「牧村太一。彼のことを知っているかい?」
「それは、もちろん。牧村さんは私にとって憧れの存在でしたから。先ほど言っていた教え子というのは牧村さんのことなんですか?」
「ああ、そうだ。まったくなぁ、これからって時におっ死んじまいやがって」
「そうですね、とても惜しい方を亡くしました」
「本当になぁ。私はあいつが十四の時から指導してきた。一緒にフル代表まで上がって、さあ、いっちょこれからだって時だよ。あいつとならワールドカップでいい夢が見れると思ってたんだ」
郡司が当時を思い出し楽しそうに笑う。その顔を絵里は複雑な思いで見つめる。
紅葉という世界と戦える選手を得た絵里には、その時の郡司の気持ちが痛いほどわかった。そして、その無念も。
「……それは無念でしたね」
「ああ、本当に無念だった。ショックで代表監督を引退するぐらい無念だった。そうしてサッカーから離れていたら、協会が不祥事に成績不振で人材が枯渇したとかなんとか言いだしてね。私は呼び戻されて、今では技術委員長なんて、柄にもないことをやっている。今回、私の実力不足のせいで、君にはいろいろと迷惑をかけた。すまなかった」
郡司が深々と頭を下げる。絵里も慌てて頭を下げる。
「いえ、そんなことありません。これからもご指導ご鞭撻のほどをお願いします」
「ははは、君は大人だ。それに引き換え、大井さんはまだまだ子供だな。さっきも、いろいろと言われてしまったよ」
「それは、どんなことを?」
「慣れないことをしているから、白髪が増えたんじゃないかとか。運動不足で太ったんじゃないかとか。交渉なんか出来ないんだから監督に復帰した方がいいだとか。実に生意気に言われてしまったよ」
「あの子がそんなことを? それは、後で叱っておきます」
あの紅葉がそんな失礼なことを言ったとは、にわかには信じられなかったが、絵里はそう伝える。けれど、郡司は首を振り、何と言ったらいいのだろうか。笑っているのに、泣いている。いや、喜んでいるのだろうか、複雑な顔をして、絵里に伝える。
「ああ、いいんだ。むしろ、嬉しかったんだ。今は偉くなったせいで、イエスマンばかりになってしまったがね。昔はよく選手たちからそうやって意見されてたんだ。特に太一とはボールを蹴りながらいろいろ会話をしてたんだ。朝日の中で大井さんとボールを蹴っていたら、あの子が太一に見えてね。思わず泣きそうになってしまったよ」
それに、と、本当に嬉しそうに郡司が笑みを浮かべ、紅葉から言われた言葉を絵里に告げる。郡司が楽しみにしていると告げ、その場を後にする。
絵里はピッチへと歩を進める。いつの間にか紅葉だけでなく、他の選手たちも集まって練習をしていた。皆が早朝の光の中、笑顔でボールを蹴っていた。
「最高のチームを見せてあげるから、楽しみにしてて、か。言ってくれるじゃない、大井さん」
――ええ、見せてやろうじゃない!
絵里は高原の冷えた空気を思いっきり吸い込み、吐き出す。けれど、ふつふつと腹の底から湧き上がる熱を持った何かを冷やすことは出来なかった。
スリッパを脱ぎ、走る。そして大声を出す。
「あんたたち! 私も混ぜなさい!」
監督まで来たと女の子たちの笑い声がピッチに響く。後から後から皆が集まってきて、いつの間にか全員でサッカーをしていた。
ぐぅっとお腹の虫がなる。大笑いされる。
ああ、きっとここから日本女子サッカーは発展する。絵里の夢はきっと叶う。
朝日を浴びて金色に輝く紅葉の綺麗な髪を見ながら、絵里は束の間、心の底からサッカーを楽しんだ。




