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36 「お兄ちゃんの長い一週間」


 大井和博おおいかずひろはこの春、浦和市立高校に入学した。浦和市立サッカー部は部員150名、公立高校ながら過去に選手権優勝も果たしたサッカー強豪校だ。


 和博の目標はレギュラーになり、選手権で国立の舞台に立つことだ。


 そして先週、四軍から二軍に抜擢され、一軍との練習試合に出場した。しかし、いいところなく交代させられてしまった。


 一軍のレベルはもとより、二軍でもまだ通用しない。高校サッカーのレベルの高さを実感した。


 残念だが、再来週から始まるインターハイ県予選は、観客席からの応援になるだろう。


 先日、妹の紅葉がなでしこリーグでデビューし、完璧なプレーをしてみせた。負けてられないな、と思うと同時に、自身の情けなさをすごく感じてしまった。


 妹の方がずっと先を走っている。一生懸命追いかけているのに、差が開いていくばかり。


 紅葉からはいつもたくさん元気を分けてもらっている。大切で大好きな妹だ。


 だからこそ、紅葉に頼ってもらえる誇れる兄になりたい。かつて、思ったその願いは遠ざかるばかりだ。 


 木曜日の午後三時半、和博は部活をサボって大急ぎで帰宅した。


 キッチンで水を一杯飲み、深呼吸をして息を整える。そして、リビングへ向かう。


 リビングのソファにはここ四日、まったく同じ姿勢で固まっている妹がいた。


 体育座りのまま、じぃっと考え込むように中空をぼんやり見つめる少女。眉を寄せ、瞳を潤ませた悲しげな表情。


 精緻に作られた美しき西洋人形が、数百年の時を経て生命を得た。その人形は主の命令を待っている。けれど、主はもはやこの世にはいない。その事実を知りながらも、永遠に待機する美しき西洋人形。


 紅葉の落ち込んだ顔を見ていたら、変なことを考えてしまった。 


 和博は紅葉にどう声をかけるか考える。 


(困った、今の紅葉には、声かけづらいな)


 和博はしばし躊躇う。


 約束の時間は刻一刻と迫っている。和博は紅葉、と呼びかける。けれど、紅葉からの反応はない。


 ひどく落ち込んだ状態だ。いろいろとネガティブな思考で頭の中がいっぱいになっているのだろう。無理もないな、と和博はやるせなさと怒りを覚える。


(なんで紅葉がこんなに憔悴しなくちゃいけないんだよ)


 この四日間、和博は何度もそう思い、ため息をついてきた。








 紅葉がこの時間に家にいるのは、クラブから一週間の練習参加禁止を言い渡された為である。


 その原因は当然というか、なんというか、なでしこリーグの試合でユニフォームを脱いだことだ。


 なでしこリーグ最年少出場記録が、あの大井紅葉によって更新される。


 紅葉の人気と相まって、マスコミが大勢押しかけている中での事件は、大変な衝撃を世間に与えた。


 まず動いたのは浦和レッジ広報。紅葉がユニフォームを脱いだ五分後に、各種SNSと公式ホームページを通じて、マスコミへ、紅葉の肌が露出した画像および映像の使用自粛要請がなされた。


 この要請を受けてか、試合終了直後にアップされた各社ネットニュースに使われた画像は、紅葉のガッツポーズシーンやシュートモーション中のものであった。


 ユニフォームを掲げている紅葉の写真で唯一あったのが、正面やや右からのアングルで、ちょうどユニフォームで紅葉の身体が隠れている写真であった。


 このユニフォームで身体が隠れている写真。露出部分は腕と肩のみだけだったのだが。


 逆に見えないことが想像の余地を残し、ありていに言ってなんかエロいね、と評判になってしまった。


 以降、この写真が各種ポータルサイトニュースのトップを飾り、続いてテレビの一般ニュースで取り上げられ、夜のスポーツニュースコーナーの紅葉特集番組でも使われることになった。


 この事態を受け、日曜深夜、レッジ広報から、再び紅葉の肌が露出した画像および映像の使用自粛願いが出された。


 同時にレッジ社長からは、世間を騒がせたことを理由として、紅葉に対する一週間クラブ練習参加禁止処分が発表された。


 紅葉からは、反省し、処分を真摯に受け入れるとの回答があったと、合わせて発表された。  

 

 この紅葉の言葉はお母さんが考えたもので、クラブ練習参加禁止もお母さんと広報で話し合って決めたそうだ。


 紅葉へ殺到する取材をかわす狙いと、罰した、罰されたという結果が欲しいだけの形式的なものであったそうだ。


 翌日のワイドショーでは全番組が紅葉特集を組み、昨日の一連の流れと紅葉の反省の言葉までをセットで放送した。


 どの番組も紅葉のことを非難する論調はなく、よくやってくれました、とスーパースター誕生と、特ダネに大喜びしている感じがありありと伝わってくる放送内容であった。


 放送では紅葉の生い立ち。交通事故で死んでしまった恩人のこと。今の家族に迎えられ、父親が監督をするチームでサッカーの才能を開花させるまで。


 すでに飛び級でU-19日本女子代表に選ばれていること。将来はなでしこジャパンを背負って立つ存在になるだろうと褒めちぎる。


 その後、妹の楓との仲の良さを取り上げ、そこから楓のピアノコンクール受賞歴と将来性について話を広げて報道する。


 ただ、一部のワイドショーは独自取材と称し、少女時代の紅葉の映像を垂れ流し、憶測だけで、将来紅葉が他国の代表となる可能性が高いと断言し不安を煽る。


 さらに、ネットから拾ってきたネタ、レッジジュニアユース監督との不適切な仲を、関係者の証言として取り上げたりとやりたい放題だ。


 そんなゴシップを司会とコメンテーターが茶化しながら真実の如く語る様は、和博を本当に不快にさせた。なによりお母さんを激怒させたことだろう。


 もともと紅葉は有名人であったが、今回の件でその名前と顔を日本中、津々浦々まで知らしめることになった。



 当の紅葉はというと、帰宅後に楓から叱られ、ごめんなさいと萎れていたが、でもお姉ちゃんすっごいかっこよかったよ、とあっさりひよった楓が紅葉を慰める側に回った為、あっという間に復活した。


 カエちゃんの応援のおかげだよ、ありがとうとお礼を言う紅葉。二人仲良くご飯を食べ、疲れが出たのかすぐに寝てしまった。


 そして翌日。紅葉は一週間の練習参加禁止を知り、めちゃくちゃ落ち込んだ。


 お母さんも紅葉が残念がるとは想定していただろうが、そこまで死にそうなほど凹むとまでは読めなかったようだ。


 ごめんね、と謝るお母さんに、私が悪いんだから仕方ないよと、か細い声で返事をするのが精いっぱいといった感じであった。


 そして月曜日の放課後。この日はもともとレッジの練習がオフの為、紅葉は親友の梔子姫花と水泳をしにフィットネスクラブへと向かったらしい。


 その時、和博は部活の真っ最中であった。


 紅葉のその後の顛末を和博は部活終わりすぐに、ネット動画で見ることになった。


 紅葉の予定をどこからか嗅ぎ付け、フィットネスクラブ前で待ち構える報道陣。報道陣に囲まれて困り顔の紅葉と、紅葉を庇おうとする姫花。


 紅葉が取材は広報の許可があるものしか受けられませんと何度も繰り返す。けれど、取材陣は、時間はとらせない。一言だけでいいので、と引き下がらない。


 十名弱の大人に囲まれ動けない紅葉に、姫花が大声でどいてくださいと叫びながら、紅葉の手を引いて逃げようとする。


 姫花の行くてを大柄の男が遮る。紅葉の手を引っ張り、急いでいた姫花は、その男と思いっきりぶつかり、弾き飛ばされてしまう。


 紅葉が姫花を抱き締めるように助け起こすところで、動画は暗転する。動画投稿者が撮影を止めて、混乱する中へ突っ込んでいったのだ。


 以降数分間、罵声が飛び交う現場の混乱具合が音声のみで伝えられる。


 和博はこの動画を練習終わりに、サッカー部の女子マネージャーに見せられた。これは、と和博は紅葉を心配して急いで帰宅した。


 リビングのソファーにじっと体育座りする紅葉がいた。和博が紅葉を何とか励まそうと声をかけようとするが、何と言っていいのか思い浮かばず、声が出てこない。リビングに沈黙が流れる。


 楓に思いっきり脛を蹴られる。無能野郎と一言。


 反論のしようもない、と楓の蹴りを甘んじて受け入れる。


 その後、お母さんと姫花が一緒に帰ってくる。紅葉が泣きそうな顔で姫花に駆け寄る。


 姫花の膝に巻かれた包帯を見た後、紅葉は姫花を見つめて静かに謝る。姫花は紅葉を励ますように答える。


「本当にごめんなさい」

「紅葉のせいじゃないでしょ! そんな顔しないの。それに、かすり傷だけだったんだから。ホントは病院だって行く必要なかったんだよ。おば様が、診断書は必要だってうるさくて、仕方なく行っただけなんだから。ね、だから、そんなに落ち込まないの」

「うん」


 紅葉が姫花の瞳をじっと見つめる。姫花が微笑みながら紅葉を見返す。


 紅葉が姫花の左手首を掴む。姫花が言葉にならない悲鳴を噛み殺し、顔をしかめる。


「湿布と包帯、お医者さんから貰ってきてるよね? 貸してくれるかな?」

「……バレた?」


 姫花が、悪戯を発見された子供のように、気まずそうな笑い顔で、バックから紙袋を取り出し、紅葉へ手渡す。


 紅葉は姫花の手首へ湿布を張り、慣れた手つきで包帯を巻いていく。


 無言の紅葉に姫花がおずおずと尋ねる。


「怒ってる?」

「うん」


 姫花が悲しそうに謝る。


「……ごめんなさい」


 紅葉が包帯を巻き終え、姫花を見つめて言う。


「ヒメに怒ってるんじゃないよ。私自身に怒ってるの。ヒメは私のこと想って怪我を隠してくれたんだよね。痛いのを我慢して。私はヒメのその気持ちがすっごく嬉しかったの。気付かないフリしようかなって思っちゃった。大切な人が私のせいで怪我して痛い思いしているのに最低だよね……」


 紅葉が右手で姫花の頬に触れながら伝える。


 ――ごめんなさい、ありがとう


「……私もごめんなさい、それとありがとう紅葉」 


 姫花が頬を染め、本当に嬉しそうに笑う。そして紅葉を元気づけるように、弾んだ声で紅葉に話しかける。


「あっ、今日はお泊りしていいってお母さんとおば様に許可もらってあるから。紅葉、一緒に夕飯作ろう!」

「……うん、ありがとう、ヒメ」

「どういたしまして」


 微笑する姫花を見て、和博は紅葉の親友が本当にいい子でよかったとホッとする。


(それにしても俺はまったく役立たずだなぁ。つうか、よく姫花ちゃんが手首怪我してたって気付いたな。俺はまったくわかんなかったや)


 和博は自身の不甲斐なさに苦笑し、楓も加わって楽しく会話する三人を見守る。


「なんでピーマンの肉詰めに野菜炒めなの!? あんなの料理でもなんでもないもん! お姉ちゃんもイヤだよね?」

「えっ、う~ん、そうだねぇ」

「頷かないの紅葉。それに諦めなさい楓。これはあんたへの罰でもあるんだから」

「……何のこと?」

「胸に手を当てて思い出してごらんなさい、『メープルレッド』さん」 

「な、何のことかしら?」

「いいのかなぁ~、大好きなお姉ちゃんにバラしちゃっても。ねぇ、紅葉~」

「待って! わかった! わかったからヤメテ!」


 女三人寄れば姦しいと言うが、静かな紅葉を置いてきぼりにして二人の少女が大はしゃぎしている。


(紅葉を励ます為に、かな? あの我がままで自己中な楓も、紅葉にだけは気遣いが出来るからなぁ)


 和博はそれにしても、と思う。


 ネット掲示板に紅葉の写真をアップしまくっていた『メープルレッド』なる人物が楓であると紅葉が知ったら、どうなるのだろうか、と。


(いや、紅葉のことだから笑って許すのかな? それどころか、これから確実に訪れるお母さんのお説教タイムから楓を救おうとしそうだな)


 和博はその時の光景、お母さんの困り顔がありありと思い浮かび、つい笑ってしまう。


 笑いながら、今夜の野菜たっぷりな夕食を楽しみにするのであった。



 紅葉の元気が急速になくなっていく。


 報道陣が姫花を突き飛ばし、怪我をさせた映像がネットで拡散し、月曜日のうちに炎上した。その場にいた記者たちの身元が特定され、各社への非難の声が上がる。


 レッジ広報から、姫花へのお詫びと、報道関係者各位へ取材ルール厳守が、改めて依頼される。


 姫花とお母さんは現段階では何も発表せず、静観することを選んだ。


 これ以上、マスコミ批判報道が加熱することは、紅葉の為にならないと判断したのだろう。


 切り札を温存する意味合いもあるのかもしれない。


 けれど、残念なことに、マスコミ批判とそれに付随して紅葉に対する様々な意見は、収まることなく、より激しくなる一方であった。 


 マスコミに対し、姫花に怪我を追わせたことを、日本水泳連盟、日本サッカー協会、放送協会から公式に非難声明がなされたことも火に油を注いでしまった。


 大多数はマスコミを批判している。けれど、少数ながら紅葉を批判するものも現れていた。


 ポータルサイトの記事コメントでは、この子はこれから芸能界に入るから、売名行為の為に脱いだのだ、と言う、適当なコメントに数万のイエスがついていた。


 紅葉が服を脱いだから今回の騒動は起きた。自業自得だという意見もあった。


 マスコミ批判、紅葉批判、そして紅葉への批判に対する批判。


 ネットは誰もが気軽に発言出来る場所だ。軽い気持ちでひどいことを言う人間もいる。


 紅葉のことなど何も知らないくせに、テレビや記事の情報だけで、したり顔になって紅葉を批判する。


 いったい何が彼ら彼女らをそこまで攻撃的にさせるのだろう。気に食わないという理由だけなのだろうか。 


 匿名掲示板では、別の裸の女性の写真に紅葉の顔を重ねて、衝撃写真と銘打ち投稿する者や、むかつくから死ねという、どうしようもない発言まであったそうだ。


 そして、そういった発言や投稿をした者は、別の者に叩かれ炎上する。


 昔からそう言った投稿はあった。そして、お母さんと弁護士の先生は、そう言った投稿を、名誉棄損罪やストーカー規制法、脅迫罪で容赦なく訴えてきた。


 儲からないし、調査費用で大幅な持ち出しであったそうだが、犯罪であると訴えることは、抑止力として効果があるのだそうだ。


 抑止力なので、効果のほどはわかりにくい。けれど、効果の一例としては、紅葉を拉致しようと画策していたストーカー男を、それ以前に訴えていたことから、犯行を起こす前に逮捕出来た事案があった。


 なので、昔からの紅葉ファンは、度を越えた紅葉への誹謗中傷をした者に、お前逮捕されるぞ、とため息交じりに警告するようになっていた。


 ただ、今回は全国規模での炎上であり、そのことを知らないご新規さんが大勢来てしまった為、抑止力はあまり働いていないようだ。


 とはいえ、これまでの紅葉であれば、そんな誹謗中傷など、気にしなかっただろう。


 紅葉はかなりの楽天家で、周りの評判など気にしない子だ。


 悪口を言われようと称賛されようと、気にせずマイペースに、サッカーに全身全霊を持って打ち込む。


 紅葉の素晴らしい長所だ。


 けれど、今回は違った。自分の不用意な行動が自身ではなく周りに迷惑をかけてしまった。


 それは紅葉にとって想定外であっただろう。しっかりしているようでどこか抜けている。大人びているのに子供っぽい紅葉。


 今回の出来事はそんな紅葉らしさが悪い方へ行ってしまった。


 紅葉は姫花に怪我を負わせてしまったのは自分のせいだと思いこんでいるのか、酷く神経質になっていた。


 これ以上皆の迷惑にならないようにと、思いつめてしまったのだろう。


 外出は学校に行く時だけ。登下校は車で行い、日課のジョギングもしなくなってしまった。


 紅葉の落ち込んでいる姿は見たくない。いつだって楽しそうに笑っていて欲しいのだ。


 リビングのソファーで一人無言で体育座りする紅葉の思い詰めた顔を見て、和博は自身の無力さを痛感した。


 あの妹の楓ですら、一生懸命に紅葉の為に行動し、紅葉を元気づけたというのに、自分は何も出来ないのか、と。


(自信を持って紅葉の兄だと言いたい、か)


 かつて誓った目標は、達成出来る気配すらない。それがとても悔しかった。


 兄として頼ってほしいといつも思っているが、頼ってもらえるほど、和博には頼りがいがないのだろうことは、和博自身が一番自覚している。


 けれど、嘆いていても何も変わらない。和博は紅葉の状況を、頼れる大先輩である立花雪奈へ相談した。


 何かいい手はないかと藁にも縋る思いで電話したのだが、相談は一瞬で終わり、何をするかあっという間に決まった。


 大慌てで準備。普通なら絶対無理なはずなのに、立花発案と紅葉の為であるという、それだけでトントン拍子で準備が整ってしまった。


 まったく二人の人望には呆れるしかない。 


 実行は明日木曜日、午後四時だ。







 和博は時刻を確認し、今度は紅葉の肩を叩いてから声をかける。


「紅葉、ちょっと出かけよう。あっ、サッカー用具一式持ってきてね」

「え? でも、和君、私……」

「お母さんの許可は取ってあるから大丈夫だよ。それにさ、最近忙しくて全然紅葉と練習出来てないからさ。紅葉とサッカーしたいんだ。ね、紅葉?」

「……うん、わかった!」


 どこでするの? という弾んだ紅葉の声に、和博は苦笑しながら伝える。浦和領家小学校、と。


 紅葉と一緒に走って小学校へ向かう。小学生のころ毎日通った道。昔は遠いと思った距離も、今では息が弾む前に着いてしまう。


 グラウンドの使用許可は事前に取ってある。使用することと、そのお礼を告げに職員室へ向かう。


 和博の知っている先生はずいぶん減ってしまったが、紅葉はついこの前まで通っていたので、ほぼ全員と面識がある。紅葉は先生たちに次から次へと声をかけられ、祝福と笑いながらのお叱りを受けている。


 一通り挨拶を終え、グラウンドへと向かう。


「小っちゃいね」


 昇降口からグラウンドを見つめ、紅葉が呟く。和博は紅葉の頭をポンポンと、軽く叩きながら言う。


「紅葉が大きくなったからそう見えるんだよ」 

「そうなのかな? まだ半年も経ってないのになぁ……変な気分、ふふ」


 紅葉がくすくすと笑うのにつられて、和博も笑う。ひとしきり一緒に笑った後、じゃあ、端っこでパス練習しよう、と言う紅葉に、和博はそれよりもっと楽しいことをしようと伝える。


 紅葉の手を引っ張ってサッカーコートへ向かう。


 目の良い紅葉はすぐに気が付き、びっくりした表情で和博を見上げてくる。和博は笑いながら、


「ダッシュだ、紅葉!」 

「……うん!!」


 一緒にサッカーコートへ走る。サッカーコートにいた面々が紅葉に気が付き、集まってくる。紅葉が人だかりの前に到着するとすぐに、先頭の女性から笑い混じりの叱責が飛ぶ。


「遅いわよ二人とも!」

「そうだぞ、お前らの為に来てやったってのに、お前らが遅れてきてどうするよ」

「雪お姉ちゃん! メガネ!」


 紅葉がサッカー少年団の先輩二人へ大きな声で返事を返す。昔のあだ名で呼び捨てにされたメガネこと八滝が切れる。


「だれが、メガネだ、ごらぁ!」


 紅葉と雪奈が八滝のツッコミを完全に無視して会話を続ける。


「みんな、どうしてここにいるの!?」

「ふふふふ、どうしてだと思う?」

「同窓会?」

「正解!」


 いえぇ~い、と手を打ち合わせる二人の少女に、周りが呆れ顔を浮かべている。和博の一つ上の先輩である吉田が、


「おい、和博。ちび、めっちゃ元気じゃんか。話と違うじゃねーか」

「いやいやそんなことは……」


 和博は困ったな、と思いつつ、嬉しそうに皆と会話する紅葉を見る。この場にいるのは浦和領家サッカー少年団の元団員と現団員たちだ。


 紅葉が一年生の時の先輩である大山や立花たち七名、そして紅葉の後輩である現浦和領家小学校の六年生たち。総勢二十名が立花の号令で集合していた。


 昔、太っていたことから、紅葉にデブとあだ名をつけられていた都築が、六つに割れた腹筋を紅葉に見せつけて、もうデブとは言わせないよ、とかっこつける。


 筋肉すごい! と紅葉が都築の腹筋をペタペタ触る。都築は至近距離から紅葉に見つめられながら腹を触られ、顔を真っ赤にして恥ずかしがる。


「はい、今日からお前のあだ名はエロ筋肉な」

「だな、いくら紅葉が美少女に成長したからって、腹筋触らせて喜ぶとかド変態だぜ」


 八滝と大山の言葉に皆が頷く。紅葉が都築の腹筋を無邪気に撫でて、追い打ちをかける。


「エロ筋肉かぁ、いいなぁ。私も欲しいなぁ」

「はい、紅葉ちゃん。離れましょうね。それといくら欲しいからって男の身体を撫でまわしちゃダメよ。男ってのは汚らわしい生き物なんだから。それと都築、武士の情けよ。あっちへ行ってなさい」


 都築が慌てて走り去り、紅葉が首をかしげて不思議そうな顔をする。一部始終を和博と一緒に見ていた吉田が、苦笑いを浮かべて言う。


「まったく変わってねーなぁ。先輩たちもお前らも」

「ですかね?」

「ああ。なんつうか、爺むさい言い方だけど、あの時が一番楽しかった。あの時以上のチームはもう二度と出来ねーんだろうなぁ」

「わかります」


 和博は即座に肯定する。それがまたおかしくて二人で笑う。そういえば、と吉田が痛いことを言ってくる。


「はは、つか、和博、お前まだレギュラー取れてないんだってな。何やってんだよ」

「いや、うち、選手層めっちゃ厚いんですよ」

「何腑抜けたこと言ってんだ。俺だって去年一年のうちにレギュラー取ってお前んとこ倒して全国行ったんだぞ。お前ならうちでも即戦力でレギュラーだっての。それが何やってんだ」


 吉田には一緒の高校でやろうと、中学三年生の時誘ってもらった。その申し出は本当に嬉しかったが、和博は文武両道を掲げる公立高校への進学を選んだ。


 サッカーだけではなく勉強も頑張りたかったのだ。とはいえ、吉田の言葉は嬉しかった。


「はは、頑張ります」

「しっかりやれよ。俺の誘いを断ったこと後悔させてやるからな」

「ははは、期待してます」


 吉田のツンデレ具合は筋金入りだな、と和博は内心で苦笑する。


「つか、立花先輩、午後の授業サボって新幹線で来たんだろ? ちゃんとお礼言っとけよ」

「はい、それはもちろん! 吉田先輩もありがとうございます!」

「俺は別に。立花先輩に会えるっていうから来ただけだしな」


 いまだに立花に告白出来ていない、このシャイな先輩を、心の中で真剣に応援する。


 当たって砕けろとは言えない。特別であった、そして今でも特別なチームの信頼関係を、壊したくないという吉田の気持ちは、痛いほどわかるから。


(先輩のことが好きだって、こうして言えるようになっただけでも大進歩だしね)


 これまで通り、生温く見守っていこう、と、和博はくすりと笑う。


 この場に来てくれた先輩たちは、全員サッカーを続けている。今、この場にいるということは、部活をサボって来てくれたということだ。


 吉田はツンデレって立花に会いに来ただけと豪語しているが、実際は紅葉のことを心配して来てくれたのは明白だし、他の先輩たちも全員紅葉を心配して集まってくれたのだ。


 本当にありがたい。和博は全員に感謝しながら、


「吉田先輩。久しぶりに勢ぞろいしたんですから、楽しみましょう!」

「だな!」


 二人は紅葉を中心に大騒ぎする輪の中に入っていった。



 このメンバーが集まったらすることはサッカー以外ありえない。


 OB対現役小学生でさっそく試合を開始。人数的には九人対十一人とOBの方が二人少ないので、ある程度試合になるかな、と思ったのだが。


「しゃあ! ハットトリックぅ! ナイスパスよ! 紅葉ちゃん!」

「うん!」

「もう一点取るわよ! みんな!」

「おお!」


 本当に大人げなく、全力プレーをする女子二名の大活躍で、OBチームが3-0と快勝中。小学生相手でも、手を抜かないのが二人らしい。



「うっわぁ、まじ生き生きしてら。それにしても、あいつらってサッカーバカだよな」

「本当になぁ……ツラだけならトップクラスなのに、もったいねー二人だよなぁ」


 すでに観戦モードの八滝と大山が言いたい放題言い、他のメンバーが黙って頷く。


「そこ! 聞こえてんのよ!」


 立花が思いっきり八滝の頭をはたく。アハハと大笑いのOBたちとはうって変わって、小学生チームはお通夜状態だ。


「紅葉キャプテンと一緒に試合出来るっていうから来たのにぃ!」

「そうだそうだ! 紅葉キャプを返せ! おっさんおばさん!」

「誰がおばさんだ!」


 立花はツッコミで忙しいようだ。とはいえ、ツッコミだけではない、頼れる女性である立花。なんだかんだと小学生たちの意見を聞いて、


「わかったわよ! 紅葉ちゃんはそっちにプレゼントするわよ! それでいいでしょう!」


 と、言う。大喜びの小学生たちに迎えられる紅葉。


 これで、試合は一気に小学生側が盛り返すことになる。紅葉が入っただけで、ちびっこたちのパスが回り出す。


「ほら、そっち空いてるでしょう。そこで引き付けてから、そう、いいね! ほら、数的優位を生かして、ボールを動かしていくには、ポジショニングだよ。フォローの位置、気を付ければロストしないから」


 紅葉が的確に指示を出し、味方を走らせる。一対一になれば、簡単にボールを奪えるのだが。網を張っても、するりと抜け出され、ポンポンボールを繋がれてゴールを決められてしまう。


「半端ねーな、こいつら。まじで、ボール取れねー」

「ですね、4人が連動してボックス作って、あそこまで引き付けてからパス回しされたら、絶対取れませんよ」

「確かに、これなら全国獲れるわな」


 中盤を担当している和博と吉田は、ボールをいいように動かされ、完全に無力化されてしまっていた。


「はぁぁ!? だったら、下がってこいや! 数的不利なんだがらガチガチに守ってカウンターだろ! ちったぁ、頭使え!」

「そうだぞ、このイケメンコンビが! サッカーは守備! 男は内面! わかったか!」

 

 ボランチの八滝とセンターバック大山が文句をつけてくる。


「うす!」

「はい!」


 負けず嫌いな先輩たちに、吉田と顔を見合わせ笑う。そう、どんな時だって全力でプレーする。それを浦和領家時代に和博は教えてもらったのだ。


「引いて、ドカウンターよ! おっさんお姉さんの力を見せつけるわよ! あんたたち!」

「おお!!」

「って、お前だけ、なにお姉さんに変えてんだよ。おばさんだろ!」

「はぁぁ? 誰がおばさんよ! ま、まぁ、別に子供の発言なんて気にしてないけどね、私は! それよりボール奪ったら一気にいくわよ。吉田、ボール持ち出したら、タメ作ってね。私は左に流れるから、和博は右よ、いいわね!」


 吉田と和博は笑いながら頷く。さあ、反撃だ。


 と、思ったものの、カウンターの前段階。ボールを引っ掛けて奪うことが出来ないでいた。引いたこちらの対応を見て、小学生たちは紅葉にボールを集め出す。


 そして紅葉がミドルを打ってくる。紅葉に美しいミドルで点を取られた時点で、和博が紅葉にマンマークすることになった。   

 

 試合は3-2とまだこちらが勝っているが、ペースは相手が掴んでいる。流れを切らないと、と和博は集中する。

 

 紅葉がボールを持つ。和博は紅葉と対峙する。


「こうやって、和君と試合するの久しぶりだね」

「ああ」


 紅葉が楽しそうに話しかけてくる。和博はおざなりに返事を返す。


 紅葉は仕掛けてくるつもりだ。油断したらやられる。


 ボールを無防備に和博の間合いへ侵入させてくる。右足のつま先でボールをちょんと右前へ動かし、即座に足裏でボールを後ろへ引く。そして、身体の後ろ側を通して左側にボールを移動させ……ずに、


「くっそ!」


 紅葉は自身の左足かかとにボールを当て、紅葉にとっての右、和博にとっての左へとボールと身体を持っていく。一瞬で並ばれてしまう。


 潰すべきだ。完璧に抜かれる前に身体を当て、手を使って紅葉を止めにかかる。


(この位置でのファウルはマズいけど、仕方ない! つうか、紅葉こんなに速かったか!?)


 明らかに紅葉の一歩が大きく速くなっている。一瞬でも手を出すのが遅れれば、そのまま置き去りにされていた。


 紅葉の身体を手で何とか押さえた。完全にファウル。この試合に審判はいない。セルフジャッジだ。怪我をさせないように紅葉を倒し、反則をもらおうと考える和博。


 だが、和博は反則すらさせてもらえなかった。紅葉が和博の伸ばした手と身体を支えに、クルリと身体を反転させる。高速でダッシュしている状態でのルーレット。


(そんなのありかよ!)


 和博は急制動についていけず、さらに時計回りに回る紅葉に体重を預けられた反動で、勢いよく地面を転がる。うぇっ、という変な声が出る。慌てて立ち上がるが、もう遅い。


 紅葉が、大山をまた抜きでかわしてゴール前へ。キーパー佐野が詰めてきた瞬間に横パス。それを押し込んだ小学生チームの男の子。紅葉を中心に小学生たちは大はしゃぎだ。


 吉田が盛大に倒れた和博を心配して話しかけてくる。


「和博、大丈夫か?」

「あ~、はい。すみません。俺のミスで」

「お前はミスなんて何もしてねーだろ」

「……やっぱ、そうですかね?」

「ああ、それにしてもチビ、また上手くなったな」

「ですね。どんどん上手くなってく。それに比べて俺は」


 落ち込む和博に立花が励ましの言葉をかける。


「なーに、落ち込んでんの。紅葉ちゃんの成長速度が異常なのよ。紅葉ちゃん、この前の代表合宿の時より、見てわかるぐらい成長してる。身体が出来上がってきたのもあるけど、だからってあれはないわ。あれと比べたら自信なんてあっという間になくなっちゃうわよ」

「ですね。でも、やっぱり悔しいなぁ」


 そう漏らす和博に紅葉が近寄ってきて声をかける。


「和君、怪我してない? 大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。紅葉はまた上手くなったね。凄くいいプレーだったよ」

「えへへ、ありがとう、和君!」


 ニコニコ笑顔の紅葉の顔が眩しい。それにしても特別上機嫌だ。この妹は素直なので、顔を見ればだいたいなにを考えているのかわかるのだが、一体どうしたのだろう。


 和博は笑いながら紅葉に尋ねる。


「紅葉、何かいいことあった?」 


 なんでわかるの!? と驚いた後、紅葉が嬉しそうに話す。


「私ね、サッカーから離れてたこの四日間でね、ずっと自分のプレーを頭の中で整理してたんだ。これまでの自分のプレーを思い出して、クラムジーになったスランプの時のプレーと、この前の絶好調の時のプレーの違いを比較して、何が違うか考えながら、絶好調の時のプレーが出来るようにイメトレしてたんだけど、それがうまくいったみたいなんだ! 身体の成長に絶好調時の感覚を合わせる作業のおかげだと思うんだけど、もうね、すっごく一気に成長出来たって実感があるの! 本当に最高だよ!」

「……そっかぁ、成長を実感出来るってそうはないもんね。嬉しいよね……紅葉さん、え~と、じゃあ、リビングのソファで丸くなってた時ってイメトレしてたのかなぁ、なんて?」

「うん! あそこが一番集中出来るからね!」

「そっかそっか。じゃあ、早朝にジョギングしてなかったのは?」

「えへへ、頭をいっぱい使ったからかな? 朝、起きられなくて。運動するより頭使う方が疲れるんだね」


(なるほど、そうかそうか。紅葉は落ち込んでなかったのか。うんうんよかったよかった)


 和博は冷や汗をかきながら、意味もなく何度も頷く。はい、全員集合、という声が立花から発せられる。そして、和博と紅葉を取り囲んで、立花が尋問を始める。


「ねぇ、紅葉ちゃん。この間の試合でユニ脱いだことで、結構バッシングされてたよね?」

「え? そうなの?」

「……ほら、お友達が取材のせいで怪我しちゃったんでしょ? 責任を感じて落ち込んでるんじゃないかなぁ、ってお姉さんは心配してたんだけど?」


 責任を感じて落ち込んでいると言ったのは和博だ。電話で立花に伝え助言を求めた。その結果が今である。


 和博は願った。とにかく願った。けれど、


「責任? え~と……なんで? 私も姫花も次からはもうちょっと気を付けて行動しないとってこと? それはうん、気を付けます」

「うんうん、気を付けようね。じゃあ、あれだ。紅葉ちゃん、世間から批判受けてたこと知らなかったし、落ち込んでもいなかったんだね?」

「批判されてたの? 知らなかったや。だから、落ち込んでもないよ。それに、批判なんてサッカー選手やってたら当たり前に受けるものだよ。気にしても仕方ないんじゃないかな。あと、ユニ脱いだくらいの批判なんて、批判のうちに入らないと思うよ? Jリーグの優勝がかかった試合で大ポカやったり、オリンピックの準決でPK外した時なんて、それはもうすっごい批判されたんだから。それに比べたらどうってことないよ」

「ん? 誰かの失敗談と比べてるの?」

「あっ……う、うん、ソウです。そういうミスをした人がいたら、すっごく批判されるだろうなぁというソウゾウです」


 紅葉が焦りながら頷く。立花が笑顔で何度も頷く。


「でも確かにそうよね。私たちはサッカーのプロ目指してるんだもんね。批判を多く受けるのは当たり前か。ねぇ、和博君?」

「だな、和博君。批判受けて当たり前だよな」

「紅葉ちゃんが落ち込んでなくてよかったよ、和博君」

「これはやっちゃったな、和博君」

「俺ら全員、部活サボって来たんだけど、和博君」

「っすね、あそこにいるカメラマンが今の状況をネットで配信してるだろうし。俺たちが部活サボったこと学校にバレちまったでしょうね。和博君」

「私なんて午後の授業ぶっちしてるんだけどね、和博君」


 ――本当にみなさん、すみませんでした!

 

 和博は全力で頭を下げる。一瞬の間があった後、大爆笑が起きる。


「まぁ、気にすんな、和博。久しぶりにみんなに会えて楽しかったしな」

「だな、こんなことでもねーと、みんなで会ってサッカーなんて出来ないもんなぁ」


 大山と八滝が笑いながら和博を慰める。立花が小学生たちに向かって話しかける。


「はい、じゃあ、もうちょっとサッカーした後は、ファミレスで私と紅葉ちゃんのU-19アジア選手権壮行会ね! もちろんおっさんたちのおごりで! みんな、今のうちに家に電話して夕飯いらないって親に伝えるのよ~!」

「やった! 紅葉キャプテンと一緒にご飯だ!」

「ありがとう! おっさんとお、姉さん!」

「うん、ぎりぎりセーフね、少年」


 ファミレスでは小学生軍団に話しかけられ続け、紅葉はドリンクも飲めていない。紅葉がどれだけ後輩たちから慕われているか知ることが出来、和博はなんだか嬉しくなった。


 和博はファミレス代と立花の新幹線代を払おうとしたが、どちらも必要ないと断られてしまった。それでは気が済まないので少しでも払わせて欲しいと言うと、じゃあ、出世払いね、とあっさりと言われる。


 その出世の意味はきっとサッカーのプロを目指せ、あんたなら出来るということなのだろう。自信はまったくない。それでも和博は、はい、と元気よく答えたのであった。




 夜、寝る前に和博が勉強をしていると、ドアがノックされる。どうぞ、と告げる。入ってきたのはパジャマ姿の紅葉であった。


 ベッドに腰かけた紅葉がお礼を言ってくる。


「和君、今日はありがとう」

「ん~、お礼なら立花先輩たちに言った方がいいかな」


 そう答えてから、椅子をクルリと回転させ、紅葉の方を向く。紅葉の美しい瞳と視線が合う。


「うん、雪お姉ちゃんたちにもお礼するよ。でも、一番は和君にお礼したくて。え~と、和君、私が落ち込んでるって思って、私を励ます為に、みんなに声をかけてくれたんだよね?」

「いや、まぁ、俺の勘違いだったみたいだけどね」

「ふふ、そうでもないよ。ねぇ、和君、世間から批判を受けたら、サッカー選手だって落ち込むよ。だけど、私は全然平気。それはね、私のことを大切に思ってくれる頼れる家族や親友がいるからなの。知らない人にどんなひどいことを言われたって、和君が私のことを心配してくれて、優しい言葉をかけてくれる方がずっと心に響くんだ。和君がいつも私とカエちゃんのこと見守ってくれてるから、批判なんてへっちゃらでいられるの。だからね、本当に、」


 ――いつもありがとう、お兄ちゃん。 


 そう言って紅葉が微笑む。それは紅葉が大切な人にしか見せない暖かい笑顔。


(この笑顔が見たかったんだ。そっか、俺は紅葉の役に立ってたのか。そっか、はは、すっげー嬉しいな)


「どういたしまして。俺は紅葉のお兄ちゃんだからね。どんどん頼ってね。紅葉と、あとまぁ、楓の迷惑なら喜んで引き受けるからさ。もう迷惑かけまくってくれていいんだから」

「うん! 和君大好き!」


 笑顔の紅葉に大好きと言われる破壊力は凄まじかった。俺はシスコンなのかもしれない、とドキドキする胸を押さえながら何度も深呼吸を繰り返す。


 終わりよければ、すべてよし。明日、部活で監督に怒られようがへっちゃらだ。嬉しすぎてニヤニヤが止まらず、その日和博はあまり眠れなかった。


 金曜日の放課後、部活をサボったことを謝る和博に、監督も先輩たちもまったく怒らなかった。むしろ慰められた。


 なぜだろうと思ったら、女子マネージャーがそっと、とあるネット動画を見せてくれた。


 そこには兄を華麗に抜き去る妹というタイトルで、ばっちりと和博が映っていた。この動画を見たものは、和博を侮るだろうか。侮られるなら、それはむしろラッキーではないか。そうポジティブに考えることにする。


 昔からの目標、紅葉の兄だと自信を持って言えるようになること。その自信はまだまだ足りないけれど。


 それでも、紅葉は和博を信頼し頼ってくれていた。


 ――もうちょっとな気がする!


 根拠のない自信がふつふつと身体の奥から湧いてくる。


 勝てないと思っていた先輩たちのプレーが遅く、雑に感じられる。紅葉の方が百倍上手く、計算されつくしたプレーをしているじゃないか。


 今なら負ける気がしない。この前までやられていた先輩たちから、ボールを奪いまくる。そして落ち着いてパスを捌いていく。


 心持ち一つでこうも変わるものか、と和博は驚く。


 吉田や他の先輩たちと戦う為に、まずはレギュラーに。そして、全国へ。和博は笑いながらプレーをする。


 

 翌、土曜日は、浦和市立高校の文化祭だ。サッカーをしたくてたまらない気分であったが、こればかりは仕方ない。クラスの屋台の手伝いをする。


 高校生たちの喧騒がひときわ大きくなる。何事だと皆が同じ方向を見る。


 そこには最近テレビやネットで話題の女の子がいた。そこらのアイドルより綺麗と評判のサッカーが上手い女の子と、ピアノが上手い女の子の二人。そう現実逃避する和博に手を振り振り近づいてくる大井姉妹の片割れ。


「迷惑かなぁって思ったんだけど、来ちゃった」


 そう言って、可愛らしく舌を出す妹に、和博は引きつり笑いを浮かべる。


「カエちゃんが吹奏楽部の演奏聞きたいんだって。和君、屋台終わったら一緒に行こう! あ、それまでお手伝いするよ」


 和博は紅葉の影に隠れている楓を見る。人込みにおびえ切っている楓は、和博の視線に気付き、にやりと邪悪に笑う。


 聞いてやがったな楓、と言う和博のツッコミは大歓声にかき消える。


 この後の騒動を和博は正直思い出したくない。


 その後について二つだけ。あれ以来、全校生徒及び教職員たちから和君と呼ばれるようになったことと、インターハイ県予選決勝で吉田と激突し、次は選手権で、と握手を交わしたこと。


 いいことも悪いことも、だいたい妹たち経由で来るんだな、と、しみじみ思う和博であった。


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