34 「梅雨空に歌い響け 楓の戦い」
音には命が宿る。消えては生まれ、生まれては消える儚い命。
この日、浦和西中学校吹奏楽部で生まれた命は、実にひどいものであった。
夏コンの課題曲、その初合奏。窓を閉め切った音楽室は、生徒三十名弱の熱気で、途中から冷房を入れなければならないほど暑くなっていた。
誰も顧問の手塚が振る指揮棒を見ない。見る余裕がない。手元、楽器と楽譜の往復で忙しいのだ。
よちよち歩きの子供のような、いつ転倒してもおかしくない変な疾走感を持った演奏は、あっという間に最後のフレーズへと転がり込む。
最後の一音までかみ合うことなく、手塚の左手が握り止めの形を作る。それから三秒遅れでフルートが停止する。
「う~ん」
どうにかこうにか初合奏を最後まで終えた手塚が、指揮棒をクルクル回しながら唸る。
(うぅ、もうミスとかいう以前の問題だなぁ。ダメダメな演奏だし、先生が怒るのも仕方ない)
大井楓はトランペットを膝に置き、痺れた唇をムニムニしながら、反省する。
(どうしようもなかった、よね? ファーストとセカンドが喧嘩しちゃって、どっちについていってもいいことなかったし、勝手に吹くしかなかったもん)
楓はトランペットパート全員の音を無視して、可能な限り、指揮棒に従って吹いた。果たしてそれは正しかったのだろうか。楓には分からない。
音楽室が静まり返る。皆が手塚を見つめている。
「う〜ん」
手塚が目を瞑りまた唸る。
楓は吹奏楽部に入部し、トランペットを選択した。そして基礎を先輩たちから習った。
だが、初心者の楓でも分かるほど先輩たちは実力不足であった。
このままだと変なクセがついてしまう。何事も基礎が大事だ、という紅葉の日頃の教えに従い、ピアノの先生である美穂の伝手を使って、音大でレッスンを受けることにした。
トランペットは唇を振動させて音を出す。最適なアンブシュアを身に着け、バジングの練習をし、正しいロングトーンやリップスラーを段階を踏んで練習していく。
ピアノを弾き、合間にトランペットを練習し、唇を休ませている間にまたピアノを弾く。そしてまたトランペットを吹き、基礎を固めていく。
――楽しかった
トランペットは笛だ。指を使わなくても弾ける曲が多くある。
指が重要なピアノとはまったく違う原理で音を出す楽器。それが楓には新鮮で面白かった。
音質もまったく異なる。オーケストラを独りで弾けると謳われるピアノには表現力では負けるかもしれないが、軍隊で信号を伝える為に使われたラッパをルーツに持つだけあって、その響きはどこまでも届くほど力強い。
唇が疲れて、感覚がなくなってしまうのはちょっと大変であったが、新品のトランペットを肌身離さず持ち歩くほどハマッていた。
まだまだ初心者ではあるが、吹奏楽部の中では一番上手くなっていた。
だけど、吹奏楽部のパート練習で先輩たちが楓に話しかけてこなくなってしまった。そして、それを見たからだろうか、同級生の子たちも楓を無視するようになっていた。
自分たちの指導を無視して他所で習っていること、そして自分たちよりあっという間に上手くなったことが、先輩たちのプライドを傷つけてしまったのではないか、と親友の姫花が教えてくれた。
どうすればいいか聞いたが、姫花は、もう諦めなさいと素っ気ない返事しか言わない。姫花は体験入部だけで、吹奏楽部には入らなかった。
姫花に言わせれば、こんなおしゃべりしかしない、お遊びの吹奏楽部なんて入る価値はないらしい。
どうすればよかったのだろうか。よくわからない。
先輩たちに教えてもらえばよかったのだろうか。
でも、それでは上手くなれない。上手くなっても、無視されてしまったらどうしようもない。
合奏なのだ。各パートの音を合わせ、その音を金管の音と合わせ、さらに木管の音と合わせ、そして指揮に合わせて初めて曲は完成する。
作曲者の意図を読み解き、曲の解釈をし、一音も外さず、一人完璧に吹いたところで、ハーモニーを乱す音であれば、それは雑音と変わらない。
楓がトランペットパートと合わせようとしても、相手がそれを拒否してくるのだ。どうしようもない。
楓は自問する。
――紅葉ならどうしただろうか?
どうやるか分からないけれど、紅葉なら絶対に嫌われないで上手くなって、そしてトランペットパートを引っ張る存在になっていたはずだ。今の楓のように嫌われ、一人で意味もなく吹いてはいないはずだ。
「う~ん……いいね! ちゃんと最後まで弾けたじゃないか! この調子なら今年は金賞間違いなしだよ!」
唸っていた手塚が、いきなり大声で皆を褒める。
(まぁ、褒めるとこなんてこんなにひどいのを最後までやり切ったことくらいしかないしね。というか、唸ってたのは褒めるところを探すのに苦労してたから?)
楓が手塚に疑念の視線を送る。だが、手塚はそんな楓の視線に気付くことなく、練習を終えにかかる。
「そうだね、じゃあ来週からは各パート練習をしっかりやって、また金曜日に合奏しよう。なぁに、焦ることはないから、頑張っていこう!」
教室に、はい、という皆の声が響く。楓はポカンと口を開けて、退出していく手塚を見送る。
(ウソだよね? もう課題だらけで、どこから突っ込んでいいか分かんないくらいヒドかったのに何も言わないの? コンセプトの共有をして、これからどう修正していくか指導しないんじゃ、合奏する意味なんてないよ?)
楓が茫然自失している間に、周りは楽器を片付け、帰り支度を始めていた。誰も何も思わないのか、明るい笑い声が教室に響く。
楓は暗澹たる気持ちになりながら、一人静かに席を立つ。
(バッカみたい)
気分は最悪であった。
楓は楽しくて仕方なかった。
最悪な気持ちで帰宅した楓はヘッドホンをし、無言でピアノを弾き始めた。いつもなら夕食の時間までほっといてくれるお母さんが楓の肩を叩いてくる。
露骨に嫌な顔をする楓にお母さんは苦笑しながら、紅葉に今日初潮が来たのだと教えてくれる。
楓の機嫌はあっという間に直った。
(これでまたお姉ちゃんと一緒だ)
大好きな紅葉とお揃いであるということは、楓にとっては何でも嬉しいことである。たとえ、それがイヤなことであってもだ。
それに、これからは紅葉と生理の苦痛を分かち合うことが出来るのだ。そう考えると、大嫌いな生理も苦にならない気がしてくる。
紅葉は楓より体格がよく、いつ生理が来てもおかしくなかった。というより、その体格の割に、生理が来るのがかなり遅かった。激しい運動をしているアスリートは生理が来ないことがあるらしい。
人それぞれ差があるとはいえ、お母さんは少し心配していた。なので、紅葉に生理が来て、これで一安心ね、と嬉し気に笑いながら、ご馳走を作っている。
楓は早く紅葉が帰ってこないかなぁととても上機嫌になっていた。普段絶対に手伝わない料理を手伝い、そして、最近は楓から話しかけなくなって久しい兄とお父さんにも楓から話しかけるほどに。
そして、ようやく紅葉がサッカーの練習から帰ってきた。お母さんが玄関に出迎えに行っている間に最後の確認をする。
「ほら、和博もお父さんもしっかり準備して!」
「はぁ、少し落ち着けって」
「お父さんは準備ばっちりだよ」
クラッカーを手に持ち、ダイニングの照明を消す。玄関でお母さんと紅葉が話している声が聞こえてくる。もうすぐだ。
「お姉ちゃんが入ってきたらお父さんが照明を付けて、すかさずクラッカー鳴らしてみんなでお祝いする。しっかりね!」
「分かってるって。でもさ、さすがにこれはやりすぎだって。止めようぜ」
「お父さんも和博の意見に賛成かなぁ。ほら、一緒に夕ご飯食べるだけで紅葉なら喜んでくれるし、十分お祝いになると思うよ?」
楓はリビングから差し込む薄明かりを頼りに、テーブルの上に所狭しと並んだご馳走を見、そしてそのテーブルをパンっと手で思いっきり叩く。
「分かった分かった。やるから、そんな怒んなって」
「手は大事にしなさいって先生に言われてるんじゃなかったのかい? お父さん、そういうことは感心しないな」
「父さん、来るよ。照明準備ね。今の楓に何言っても無駄だって。まったくこんなわがままに育てた親の顔が見てみたいよ」
「待って。楓をこんなわがまま娘にしたのは紅葉だと、お父さんは本気で抗議したいんだけど」
がちゃ、きぃ、と扉が開く音。廊下の明かりが差し込む。紅葉の影が伸びる。
「あれ?」
紅葉の声を確認し、お父さんが照明を付ける。続いて、クラッカーを紅葉に向けて発射。なんとも気の抜けた音が三つ鳴る。
「お姉ちゃん、おめでとう!」
「その、おめでとう」
「おめでとう、紅葉」
紅葉が大きな目をさらに大きく開けて、ポカンとした顔で固まっていた。数秒して、ようやく事態を飲み込んだらしく、ありがとう、と恥ずかし気にはにかみながらお礼を返してくる。
けれど、大好きな紅葉の笑顔を引き出せて嬉しいと思うことは楓には出来なかった。紅葉の顔が大泣きした後のそれであったから。
紅葉はちょくちょく泣く。けれど、こんなに目を充血させるほどは泣かない。少なくとも楓は今の紅葉の顔を見たことは数度しかない。
何か悪いことがあったのだろうか。どうしたのか、聞くのが怖くなって声が出ない。兄とお父さんも驚いた顔で固まっている。まったく使えない。
そんな困り顔の楓たちに、後からダイニングに入ってきたお母さんが、紅葉の頭を撫でながら、からかうように説明してくれる。
「ふふっ、紅葉ったら生理がきたせいでスランプになっちゃったんですって。それで大泣きしたって言うんだから、まだ子供ね~」
「うぅ、お母さん!」
紅葉は頬を染めてお母さんに抗議する。お父さんが紅葉に尋ねる。
「紅葉、スランプは精神的なものかな? それとも肉体的なものかな?」
「う~ん、どっちもかなぁ」
「そっか、どっちもか。相手が強くなったからってことじゃないんだよね?」
「うん、たぶん、クラムジーだと思う」
「うぅん、クラムジーかぁ……だとすると、そのうち自然と治るから、焦らないことが重要だね。難しいだろうけど、今は、平常心を心がけてプレーしてごらん」
元気よく紅葉がお礼を言い、それにお父さんが嬉しそうにうなずく。
「うん、ありがとう、お父さん!」
「どういたしまして。でも、紅葉が大泣きかぁ。紅葉は楓と違って大人びているから、すぐお嫁に行っちゃうんじゃないかってお父さん心配だったんだけど、なんだかちょっと安心したよ。紅葉もまだまだ子供なんだねぇ、うんうん」
「うぅぅぅ、お父さんまでぇ~」
紅葉が頬を真っ赤に染めてお父さんを睨みつけている。上目遣いの視線が可愛いなと楓はスマホで紅葉のことをこっそり激写する。兄がお父さんにツッコミを入れる。
「紅葉はまだ中一だよ、結婚なんてまだまだ先でしょうが」
「いやぁ、そうだねよねぇ、あはは」
「ふふふ、そうねー、まだまだ先よねー」
「うぅぅ〜」
ダイニングに家族の明るい笑いが響く。
(生理でスランプかぁ。そっかぁ、そういうこともあるのかぁ)
楓は紅葉がスランプになったということがどうにも信じられなかったが、それでも理由が分かり、少しホッとする。
そして気が付く。初潮のお祝いを盛大にしようと準備したけれど、今の紅葉にそれは不快なのではないだろうか、と。
(どうだろう? これくらいで怒らないだろうけど、でもお姉ちゃんがイヤな思いするなら、やらなきゃよかった。失敗だったなぁ)
楓はとりあえず兄に責任を全部押し付けることに決める。
「お姉ちゃんあのね」
紅葉が子首を傾げてどうしたのか聞いてくる。
「お姉ちゃん、きっとこーゆーこと恥ずかしがるから、私はやめようって言ったんだ。でも和博……お兄ちゃんが、どうしてもやろうって。止められなくて、ごめんね」
「そうだったんだぁ、カエちゃんありがとう」
「ううん、どういたしまして」
紅葉が頭を撫でてくれる。楓は嬉しくなって笑う。
「和君、お祝いしてもらえるのはすっごく嬉しいんだけどね、やっぱりちょっとデリカシーが足りないんじゃないかなって思うの……う~ん、でも和君は男の子だから仕方ないのかなぁ、そうだよなぁ、私も昔は……」
そういいながら、紅葉は何やら考えこんでしまう。兄が慌てて弁明を述べようとするも、紅葉には届かなかった。
「紅葉待って!」
「うん、やっぱり和君は悪くないね! ごめんね、和君! ちょっと恥ずかしくて八つ当たりしちゃいそうだったよ。和君は男の子だもんね、しかたないよねぇ。うんうん、それよりせっかくのご馳走が冷めちゃうよ! 食べよう!」
紅葉待ってくれ、という兄の叫びは全員にスルーされ、賑やかで楽しい食事が始まる。
父が浦和領家サッカー少年団の近況を話し、兄がサッカー部のことと来週の文化祭について話す。楓は聞かれた吹奏楽部のことをごまかすように話す。
久しぶりに家族全員揃った夕食は大盛り上がりで、あっという間に過ぎていく。この日ばかりは赤飯の小豆を全部紅葉の口に放り込んでも許されるほどお母さんも優しかった。
(楽しいなぁ~)
紅葉が今日レッジレディースであった顛末を困り顔で話す。
「じゃあ、そのキャプテンは本当に紅葉のファンだったんだ?」
「う~ん、分かんないかな。チームをまとめる為に言った可能性の方が高い気がするんだ。だって相手は日本代表選手だよ。それが私のファンってちょっとおかしいよねー」
「……いや、たぶん、本当に紅葉のファンだと俺は思うな」
兄のその発言に紅葉は本当かなぁ~、と半信半疑だ。お父さんが苦笑しながら、兄に同意し、お母さんは中立の立場で発言する。
「お父さんも和博の意見に一票かな~」
「ふふっ、まぁどっちでもいいじゃない。その源さんのおかげで、緊急ミーティングをすることになって、紅葉は先輩たちと打ち解けられたんでしょう? お礼しなくちゃね」
紅葉が元気よく頷く。
「うん、そうだね! 明日お礼するね!」
楓はそのキャプテンが紅葉のファンだというのは本当だろうと確信していた。紅葉のファンは物凄く多いのだ。
今も先ほど撮影した紅葉の上目遣いテレ顔を投稿したサイトには、恐ろしい数のコメントが寄せられている。紅葉の可愛さを絶賛するコメントの大反響ぶりをちらりと確認し、楓はうんうんと頷く。
(お姉ちゃんの良さを布教するのは妹の務めだもんね)
「カエちゃん、どうかしたの?」
「ううん、何でもない。それより、他にはどんなことがあったの、お姉ちゃん?」
テーブルの影に隠れてスマホをしていた楓の顔は緩みまくっていたらしい。紅葉に何でもないと答えながら、スマホをしまい、話題転換を図る。
食事を終え、紅葉とお風呂に入る。紅葉に髪の毛を洗ってもらう。紅葉がへたっぴな鼻歌を歌いながら優しい手つきで楓の髪の毛を梳く。
楓はこの時間が大好きであった。
慣れた手つきで手早く、けれど大切そうに楓の髪を丁寧に洗う紅葉。シャワーでトリートメントを綺麗にすすぎ、タオルを巻いてくれる。
楓が自身の身体を洗っている間に、紅葉は神速のスピードで髪と身体を洗い終えるので、湯舟に浸かるのは同時になる。
もうちょっと自分の髪も丁寧に扱って欲しい、と楓はいつも思う。けれど、あまり言うと、じゃあ短く切ると言い出すので楓は何も言わない。それに紅葉の髪の毛はぞんざいに扱っても美しいままなのでいいのかもしれない。
紅葉と向き合った状態で浸かり、お互いのひざをくっつけ合う。
タオルでブラウンの髪をまとめた紅葉は大人びて見える。真っ白な肌が火照り朱く染まるさまは色っぽい。腫れた目元も紅葉のような美少女だと痛々しさより、儚い美しさを醸し出して見える。
きらきら輝くヘーゼル色の大きな瞳が楓の視線を捉えて離さない。
(お姉ちゃん、綺麗だな)
紅葉の美しさに見惚れる。どうしたの? と小首をかしげて尋ねてくる紅葉。いつもの無邪気な笑顔のはずのそれは、とても大人びて見えて、楓を不安にさせる。
(……お姉ちゃんといつまで一緒にいられるんだろう)
紅葉に初潮が来た。そして明後日、紅葉は日本のトップリーグで試合をする。遠くない未来紅葉は海外へとそのフィールドを移すことだろう。
「お姉ちゃん、お腹痛かったりはしない? 大丈夫?」
「うん、へーきだよ。ありがとう、カエちゃん」
紅葉は妥協しない。少しでも上手くなる。その為にずっと努力してきたのを、傍でずっと見てきた。行かないで、など口が裂けても言えない。言えるわけがない。
それでも、離れたくないと思ってしまう。ポツリと楓の口から出た確認の言葉に紅葉が何の衒いもなく頷く。
「お姉ちゃんは将来、プロになるんだよね」
「うん、なるよ」
微笑む紅葉の顔に驕りや慢心はない。紅葉にとってプロになることは通過点でしかないのだろう。その先を紅葉の瞳は見つめている。
(私とは大違いだ)
楓は、自身がピアニストに向いていないことを、誰よりもよく理解していた。留学し、プロを目指そうなどとはまったく思っていない。
プロになれるのは、そう、紅葉のような人だ。
楓は紅葉とは違う。紅葉のような自信も強いメンタルも持ち合わせていない。
紅葉が優しく聞いてくる。
「カエちゃんも将来プロのピアニストになるんでしょう?」
「私には無理だよ」
「無理かどうか、じゃなくて、なりたいかどうか、が重要じゃないかな?」
なりたいんでしょう? と静かに聞かれる。なりたいのだろうか、と楓は考える。分からない。
考えがこんがらがり難しい顔になってしまった楓に向かって、紅葉が膝立ちの状態で手招きをする。楓も膝立ちに立ち上がり、紅葉に飛びつくように抱き着く。
バシャッとお湯が跳ねる。楓の身体が紅葉にふわりと受け止められる。紅葉の肩に顎を乗せて、全体重を紅葉に預ける。
お湯の中でクルリと反転し、紅葉にもたれかかるように座る。紅葉の柔らかなおっぱいが背中に当たる。
お湯の熱さとは違う紅葉の熱が、楓を優しく包み込み、とても安心する。
耳元で楓の大好きな声が響く。
「カエちゃんはプロに向いていると思うよ」
「……ホント?」
紅葉の主張は絶対に正しいと信じている楓ではあるが、さすがにその意見には頷けなかった。
「本当だよ。ほら、去年静岡であった国際大会にカエちゃん出場したでしょう?」
「うん」
楓としてはあまり思い出したくない話題であった。国際ピアノコンクールに楓は小学六年生で出場した。大人たちしか参加しておらず、しかもその多くが外国人という中、半月かけて三次予選まで行う長丁場。紅葉が毎回一緒に来てくれなければ、速攻でバックレていただろう。
ファイナリストとして六名の中に残った時、楓は死ぬほど泣いた。記念に参加しようと言い出した美穂を呪い、これが終われば帰れるんだから、精いっぱい頑張って、そしたら美味しい料理をいっぱい作るからね、と励ましてくれた紅葉を初めて恨んだ。
本選はオーケストラとの共演なのだ。そんなの出来るわけない。見ず知らずの大人たちがいる、その中心でピアノを弾くなど、どんな拷問であろうか。
だが、たまたまであろうと楓は勝ってしまった。大人たちが人生を賭けて挑んでいるのは、そのピアノの音から痛いほど伝わってきていた。そんな彼らを蹴落とし、勝ち上がった。辞退などすれば、それは彼らに対する最悪な裏切りだろう。
楓は泣きながら覚悟を決めた。
そして、本選。満員の観客の中、プロのオーケストラとショパンの第二を演奏した。
大きな衝撃だった。
生音の洪水の中でピアノを弾く。音の振動が楓を直撃する。
ピアノの旋律とオーケストラの旋律が混じり合い絡み合い溶けあう。
美しかった。
観客も舞台の明るさも指揮棒も何もかもが気にならなくなり、ただ白と黒の鍵盤だけの世界に没入する。音がかってに歌い出す。
もっと、もっとよくなるはずだ。合わせるのではなく、欲しい音をピアノを使って要求する。彼らのレベルなら出せるはずの音。それを求め、それに合うように弾く。
けれど、その音が奏でられることはなかった。
オーケストラがついてこない。ピアノの音が滑る。
なぜ、と怒りを覚え周囲を見回す。皆が楓を見つめていた。ここがコンクールの舞台であることを思い出してしまう。
プツリと集中が切れ、音に取り残される。指揮者が必死に楓を救い上げようとしているのが分かる。コンマスが落ち着かせようと努力している。
けれど、そこから楓は立ち直ることは出来なかった。涙で滲む鍵盤を己の指ではないかのように固く動かなくなった手で押し続ける。
楓は泣きながら、逃げるように舞台を後にした。
己のメンタルの弱さを痛感し、プロにはなれないと心底思った出来事だった。なのに紅葉はプロに向いていると言う。
「カエちゃんはあの時、悔しいってすっごい泣いたよね。もっといい演奏が出来たはずなのに、って」
「うん」
「それって本当にスゴイことなんだよ。カエちゃんにとって、コンクールは逆境だったはずなのに、覚悟を決めて、最高の演奏をしようとした。あの時、私はカエちゃんを尊敬したんだ」
「お姉ちゃんが私を!?」
楓はびっくりして首を思いっきり捻り、後ろを向く。そこには笑顔の紅葉の顔が至近距離に。見慣れたはずなのに、何度も見惚れてしまう美しい顔。
かぁっと、頬が朱く染まる。紅葉が楓の目を見て断言する。
「きっとカエちゃんは将来すっごいピアニストになれるよ。私が保証するから信じて」
「……うん!」
紅葉の言葉は魔法の言葉だ。言葉一つで楓を無敵にする。今ならなんだって出来る。そう思えた。
「私プロになる……なれるかな?」
でも、やっぱり自信はない。決意が尻すぼみに消えていく。紅葉が静かに話す。
「重要なことは、最高の演奏をしようとしたことと、それが出来なくて悔しいって思った気持ちなんだと思うんだ。プロとアマの境界線ってね、お金を貰うかどうかじゃないんだと思うの。好きなことを真剣にやるのは一緒。その先。本当に真剣にやってると、苦しくなる時がいっぱいあるんだ。もっと上手く出来るはずなのに、どうして出来ないの、って納得出来なくなる時がくる。他にもいっぱい辛いことがある。そこで、負けるもんか、って向上心を持ち続けられるのがプロなんだと思うんだ。ね、カエちゃんはもっとピアノが上手くなりたいでしょう?」
紅葉の優しい問いかけに楓は、素直に頷くことが出来た。
「うん」
「どんなに苦しくてもピアノを辞めようとは思わないでしょう?」
「うん」
「だったら、大丈夫だよ」
「うん! ありがとう、お姉ちゃん!」
紅葉がいるならきっとプロにだってなれる。紅葉からどれだけ勇気をもらったことだろう。
紅葉に寄りかかり、その熱を感じながら、楓はずっとこのまま紅葉と一緒にいたいと願う。
紅葉が少し笑いながら話しかけてくる。
「ちなみになんで演奏が失敗したか、分かってるかな?」
「私が自滅したから」
「それは結果だよね。自滅しちゃった理由はなんでだか分かる?」
「……私のメンタルが弱いから」
あの時の気持ちを思い出し泣きたくなる。紅葉がギュッと抱き締めてくれる。それだけで、落ち込んでしまった気持ちが復活する。紅葉の心音が心地よい。
「カエちゃん、本番でオーケストラに色々と要求したんだってね。演奏をもっとよくする為に。それがオーケストラの人たちを戸惑わせちゃったんだって。カエちゃん、事前リハはボロボロだったから、オーケストラはカエちゃんに合わせて弾こうって考えてたんだって。日本人で唯一、それも史上最年少の女の子が本選に出場してきたんだから、日本人のプロとしたら可能な限り手助けしたいって考えるのは当たり前だよね。オーケストラはカエちゃんの為に。カエちゃんは最高の演奏をする為に。お互いの意識がズレちゃったんだね。どこかで破綻するのは必然だったんだよ」
「それを立て直せなかったよ。やっぱりプロに向いてないのかな?」
「崩れたメンタルを立て直すのは難しいから仕方ないよ。私も今日それで失敗して泣いちゃったからね。今後の課題として、一緒に克服していこうね」
「……うん!」
紅葉が楓のほっぺを撫でてくれる。くすぐった気持ちいい。
(お姉ちゃんでも難しいんだもんね、私が出来なくても当たり前なのかも)
「吹奏楽部に入ったのだって、あの失敗があったからでしょう? オーケストラの気持ちを知る為に。カエちゃんは努力家だ」
「……お姉ちゃんは私のことならなんでも分かるんだね」
一度も口にしていないことを言い当てられ、楓は驚く。そして、分かってもらえていることがとても嬉しかった。
日曜日は生憎の曇り空であった。べたつくほど湿度が高く、試合をするのにあまりいいコンディションではないだろうと、楓は紅葉が心配になった。
駒場スタジアムはいつもより人が多く入っているらしく、メインスタンド中央に座った楓の周りはお客でいっぱいだ。右にお母さん、左に兄を座らせ、見ず知らずの他人から少しでも遠ざかることに成功する。
「父さんも一緒だったら、久しぶりに家族全員集合で紅葉の応援だったんだけどなぁ」
兄がお父さんがいるバックスタンド側を見ながら残念がる。お父さんはサッカー少年団の引率で別行動だ。お母さんが、そうねぇ、と微笑み、兄に話しかける。
「でも、和博今日よく来れたわねぇ。いつも練習で忙しいのに」
「ん~、まぁね。部活が来週の文化祭の準備で休みだったからさ。そしたら文化祭の準備は、俺たちがやっとくから、妹の応援行ってこいってクラスメイトが言ってくれてね」
「あら、いい友達ねぇ~」
楓を挟んで行われる会話。楓は我関せずと口を挟まず、スマートグラスを装着し、観戦アプリを起動させる。
「なのかなぁ。でも、あいつらみんな、紅葉のこと紹介しろってうるさいんだよ。まったくさぁ」
「あら、その様子だと、お兄ちゃんのお眼鏡に適う男の子はいなかったのかしら」
楽しそうなお母さんとヒートアップする兄。
「紅葉はまだ中一だよ? そんなのまだ絶対早いって!」
「あらあら」
楓はボソリとつぶやく。
「シスコン」
「楓にだけは言われたくないんだけど!」
その反論を無視し、手元のスマホで紅葉の情報を収集する。どこから漏れたのか、紅葉が生理で不調だということが話題になっていた。
(朝、お腹痛いって言ってたし、試合前にあんな不安そうな顔してるお姉ちゃん初めて見た。お姉ちゃん、大丈夫かなぁ)
「失礼します。私、埼玉東新聞の……」
「和博先輩、お久しぶりです!」
取材依頼や知り合いが次から次へと話しかけてくる。楓には誰も話しかけてこないが。それらを完璧に無視し、楓は目を瞑る。
足元に置かれたトランペットケースを一度触り、そして胸元で輝くペンダントをギュッと握り考える。
(お姉ちゃんの力になれるなら、私は……)
しばらくして、ピッチの上空に投影されたエアスクリーンで選手紹介が行われる。14番、大井紅葉という声とともに紅葉の上半身が3Dホログラムで現れると、会場は物凄い拍手と歓声に包まれる。
化粧をしてプロのカメラマンに撮ってもらったのだろう紅葉は、妖精のように美しかった。歓声が鳴りやまない。
今、紅葉はピッチにいないが、この歓声はスタジアムのどこにいようと耳に入るだろうほど大きい。それを聞いて紅葉はどう思うだろうか。プレッシャーに感じるだろうか。楓なら絶対に耐えられないが、紅葉なら平気なのだろうか。
「ほら、楓。紅葉たち出てきたぞ。拍手しよう」
「うん」
大きな歓声の中、審判に続いて選手たちがピッチへ歩いていく。紅葉の後ろ姿に一際大きな歓声が上がる。選手たちが記念撮影をし、円陣を組んだ後、ピッチに散らばっていく。
曇天の中、主審の笛の音とともに浦和レッジレディース対東テレ・ベレーザの試合は始まった。
試合は東テレが一方的に攻める展開になった。楓は試合内容はどうでもいいので、ただ紅葉の様子をスマートグラス越しに見守る。
前半、紅葉へボールが渡った回数は三回。そのうち一回は相手ディフェンダーを引き連れて左サイドを駆け上がり、中央にクロスを供給することに成功した。
残りの二回はボールを持った瞬間に敵二人に囲まれボールを奪われてしまった。
(お姉ちゃんの顔、辛そう。あんな顔でサッカーしてるお姉ちゃん初めて見た)
紅葉はいつも本当に楽しそうにサッカーをする。ボールさえあればどんな時でも笑顔なのが、紅葉という少女なのに。
楓は泣きたくなった。
前半はその後、立て続けに東テレに二点決められ、0-2とビハインドで終了した。紅葉が俯いたまま引き上げていくのを楓は見つめる。
紅葉がいなくなったピッチを楓は睨みつける。
後半は今、あそこでウォーミングアップしている選手の誰かが紅葉の代わりに出るのだろうか。このまま、紅葉のなでしこリーグ初戦は終わってしまうのだろうか。
――そんなの絶対ダメ!
(スランプなんか関係ない。お姉ちゃん、心の部分で負けちゃダメだよ)
楓はスマートグラスを外し、ケースからトランペットを取り出し、立ち上がる。
「んっ、トイレか?」
兄が楓が立った気配を感じて問いかけてくる。本当にデリカシーがないんだから、ちょっとは紅葉を見習えと心の中で罵倒してから、兄へ話しかける。
「和博、ちょっと来て」
「ん? 俺はトイレはいいや。てか、母さんが行くって言った時、一緒に行けばよかったんだよ。ほら、早く行かないと後半始まるぞ」
「トイレじゃないから!」
「うわっ、そんな大声出すなよ。じゃあ、どこ行くの? ……って、紅葉に会いたいって言っても会えないからな」
会えるものなら会いたい。けれど、そんなの無理だと楓だって分かっている。
「そんなの知ってるもん。ほら、あそこの女の人、あの人に話をつけに行くの!」
「ん? あの拡声器持ってる人? レッジレディースのコールリーダーだぞあれ……楓、おまえ何する気だ?」
「和博は私の言う通りに交渉すればいいの! ほら、時間がないから急いで!」
「いや、だったら楓がやれば「そんなの私にできるわけないでしょ!」、はぁ~、分かったから、でどうすんだ」
楓は兄に説明しながら、メインスタンド最前列へ向かう。兄がレッジのコールリーダーと、周辺メンバーへお願いしている間に楓は準備を整える。
「楓、オッケーだって!」
「よろしくね、楓ちゃん!」
兄とコールリーダーから声がかかる。楓は精いっぱいの大声で、よろしくお願いします、と叫ぶように返す。声が震えてしまったが、それでも返事が出来た。あとはやるだけだ。
大きく息を吸い込む。B♭管のドの音を力強く、思いを込めて。ドの連音。それからより唇に力を入れることでミの音を。さらにソを。まだドに戻ってくる。
かつては軍隊の食事を知らせる調べであり、今はお腹が痛い時に飲む薬の代名詞である有名な曲。
紅葉のお腹が痛いのが治れ。生理なんかに負けるな。いつものスゴイ紅葉じゃなくてもいい。ただ全力でプレーして欲しい。前向きに失敗すればいいじゃないか。後悔だけはしないで。
願いながら弾き終える。
誰でも一度は聞いたことのあるだろう独特で、それでいて単純なフレーズ。楓は間髪入れずに繰り返す。
その音に合わせ、コールリーダーが、兄が、パッパパパッパと大きな声で発声する。メンバーが、その後ろのコアなファンが続いて口ずさむ。
楓がミを吹くころにはメインスタンドの観客全員が歌い出す。
ハーフタイムが終わり、選手たちが出てくるころには、バックスタンド側も、出島のアウェーサポーターも、みんなが声を合わせて大合唱していた。
楓はトランペットを吹きながら紅葉を見つめる。紅葉の視線を感じる。
――繋がった
(ああ、よかったぁ)
紅葉の顔には笑顔が浮かんでいた。
雲間から差し込んだ陽光にトランペットが金色に輝く。
――これが音楽の可能性なんだ
満員のスタジアムに鳴り響く大合唱。そこには心の繋がりがあった。音楽の本質があった。
(まずは吹奏楽部の先輩たちに話しかけてみよう)
きっと、そこから始めるべきなんだ。
楓は笑った。
失敗しても、後悔だけはしない。楓と紅葉の今の気持ちはきっと一緒だ。