31 「過去と未来の間に 後」
相田茜は今年の一月から浦和レッジ広報に転職した。激務の為、人の出入りが激しい、と聞いていたが予想以上に仕事は大変であった。クラブ職員の大多数が転職組だ。一ヶ月で即戦力と見なされ、独り立ちであった。
茜は広報部に席を置いているが、業務の垣根はあまりない。というか、人が少ないのでお互いに協力しないと業務が回らないのだ。イベントの企画から始まり、週末に試合があれば会場設営から売り子までこなす。ノルマはなかったが、新グッズの企画書まで書かされた時はちょっと笑ってしまった。
それでも、レッジはまだましなのだそうだ。熱狂的なサポーターや地元企業に支えられるレッジは黒字企業だ。赤字体質な他クラブはまずクラブ職員から削っていくらしい。柏なんて一時期、十一人でクラブを回していたそうだ。
柏には控え選手がいないのか、が笑い話の定番ネタになっている。そう考えるとレッジは四十名弱なので、まだましなのであろう。
そして、茜はそれら日常業務より、優先すべき業務を持っている。それがこの春からレッジ下部に加入した大井紅葉のマネジメントだ。
紅葉がU-19日本代表に選ばれた為、茜は紅葉と一緒に静岡県に来た。移動の電車、新幹線、バスの車内で、紅葉は食い入るようにU-19日本代表の、過去の試合を早送りで見続けていた。
時々、ピクリと足のつま先が動く以外は微動だにせず、茜が降りますよ、と言わなければ九州まで行ってしまいそうな集中力であった。
この集中力こそ、この子の武器なんだ、と茜は感心しつつ、同時に過去を思い出し懐かしくなった。
J-STAP到着後、紅葉と別れ、茜は協会の事務方と話をする。その場で再度、許可のない取材は禁止であることを確認する。たとえそれが試合後のミックスゾーンであろうと例外ではないことを念押しした。
あとは、ひっきりなしにくる取材依頼を断る以外に仕事はない。記者たちとの攻防に最近は寝不足気味だ。
あくびをかみ殺し、スタンドの隅から紅葉のことを見つめる。紅葉は二試合目から出場予定であった。
一試合目、日本代表は男子高校生たちにボコボコにされていた。あまりサッカーに詳しくない茜の目から見ても、実力差がはっきり分かる試合であった。
(スピードが違いすぎるわね。体格も大きいし、あんなゴリラみたいのと試合なんて……紅葉ちゃん大丈夫かしら)
そう心配していたところで、紅葉の出番が来る。試合のホイッスルが鳴った次の瞬間であった。
紅葉が横からきたボールを、大きく踏み込んで弾むように蹴った。ふわりと身体が浮き、紺色のシャツの裾が少し捲れ、遅れてポニーテールにしている後ろ髪が宙を泳ぐ。
茜は紅葉の一連の動きに見惚れ、綺麗だと感じた。それはなぜかと考える。
(流麗っていうのかな、よどみがないからかな?)
そう考えたところで、周囲で大声が上がる。そこでやっと気が付く。紅葉の蹴ったボールがゴールしていることに。
右手を上げる紅葉の周囲に、女の子たちが集まり出す。ざわざわと一気にうるさくなった記者たちの声から、これが凄いゴールであると理解する。
笑顔になった紅葉の顔を見て、茜も喜び、紅葉を祝福する。そんな茜に声がかかる。
「こんにちは! ご一緒してもいいですか?」
「は?」
「ふふ、相田さんってサッカーのことはあまり詳しくないって、皐月おば様からうかがったので、もしよろしければ、紅葉ちゃんのプレーをご説明しますよ」
フリージャーナリストの池田はそう言うと、童顔な顔をニコニコさせながら、あっという間に茜の隣に座ってしまう。
茜は少し迷ったが、提案が魅力的なこと。そして紅葉の母、皐月の名前が出たことから、受け入れることにした。
(それに、この記者は紅葉ちゃんと仲がよいから、あんまり邪険には出来ないしね)
そう考え、業務用の笑顔を作り、池田に頼む。
「よろしくお願いします、池田さん」
「はい、任されました」
池田は本当にサッカーと紅葉が好きなのだろう。嬉しそうに、そして止まらない勢いで紅葉のプレーが如何に凄いか解説し出す。
「ほら、見ました? 今のヒールリフト! ドリブルしてたボールを追い越して、そのボールをヒールで蹴り上げる間、紅葉ちゃん、一度もボールを見てなかったんですよ! ずっと周囲をキョロキョロ確認してたでしょ? あっ! 今のパスも! ノールックでした! というか、ペナ内に侵入してから、一度も後ろを見てなかった。なのに後ろから突っ込んできたフリーの酒井さんへパスをする! それも酒井さんの利き足である右足にドンピシャですよ! もうっ! 凄すぎですよ!」
たった今、紅葉のアシストで、酒井が得点したシーンについて熱弁を振るう。
「いいですか! サッカー選手の中には、俯瞰でピッチが見えるって人がいるんです! そういう選手って周辺視野や動体視力、深視力が優れているんです。目から人より多くの情報を得られるんですね」
池田が手を使って、目を大きく見開いてみせる。ユーモラスなその仕草に茜は笑う。池田が手を元に戻し、微笑みながら続ける。
「でも、俯瞰は、それだけじゃダメなんですよ。その情報を使ってイメージすることが一番重要なんだそうです。ピッチでは刻一刻とボールも人も動きます。一秒前にはここにいたから、今はここにいるだろう。相手の守備がこう動くから、それを避ける為に三秒後にはこっちへ移動しているだろう。仲間や敵の思考を読む。そんな未来予知めいたイメージ力こそ俯瞰の正体なんです。紅葉ちゃんはそれがずば抜けてるんですよ! ドリブルセンスやパスセンス、シュートの精度と紅葉ちゃんの武器はたくさんありますが、俯瞰の力こそ、一番彼女の凄いとこなんです!」
茜は相槌を打ちながら、それは違うんじゃないかな、と思った。
『さあ、逆転しよ!!』
紅葉の大声がピッチに響き渡る。その声に周りの選手たちが、呼応するように声をあげる。ピッチ上の彼女たちの顔には自信が漲っていた。
茜はサッカーに詳しくないので、池田の意見に反論は出来ない。でも、分かることもある。
紅葉がやる曲芸じみたスーパープレーはいつも本当に凄い。紅葉を長年会場で応援してきた茜たち観客は、紅葉のスーパープレーをいつも楽しんできた。でも、紅葉の本当に凄いところは、他にあるのだ。
(いつの間にか皆が本気になってサッカーをしてるんだ。味方選手だけじゃない。相手選手も、そして私たち観客まで!)
紅葉の皆を巻き込む力。皆をやる気にさせる力。それこそ神様がいるのなら、神様が紅葉に与えた力なんだと、茜は目の前の光景を見ながら思う。
試合がどんどん白熱していく。先ほどまで紅葉の美少女っぷりに接触プレーを遠慮していたサイドバックの男子が、今や、本気で紅葉へぶつかっていく。
紅葉に自由にやらせるな、と富士枝高校の監督が物凄い大声で守備陣へ指示を出している。
観客、今この場にいるのはほとんどが取材陣だが、彼ら彼女らの盛り上がりも凄い。紅葉のプレーを見逃すまいとする、その熱量が伝わってくる。
そして、それ以上に紅葉たちU-19女子日本代表選手の動きが、勢いを増していく。今や男子を圧倒し、試合を支配するほどだ。
「ふふっ、どうも、私の悪い癖が出ちゃったみたいですね」
「えっ?」
そこで、初めて池田が、茜のことをじっと見ていることに気が付く。池田は微苦笑を浮かべながら、茜に謝ってくる。
「紅葉ちゃんのこと説明します、なんて偉そうなこと言っちゃって。相田さんの方が紅葉ちゃんのことよく分かってるみたいです」
「そんなことは」
「いえ、相田さんの顔見てれば分かりますよ。私の紅葉がこの雰囲気を作り出したんだぞぉ! どうだ凄いだろうって顔ですもん」
「私の紅葉って何ですか、それにそんな顔してないですよ!」
「ふふっ、そうですか? でも、周囲を引き込む魅力こそ、紅葉ちゃんの一番の武器だって顔はしてましたよ? あ、勘違いしないでくださいよ。私も紅葉ちゃんの一番凄いとこはそこだって思ってるんですよ。さっき、言ったのは純粋に技術面についてですからね」
池田が笑いながら、簡単に茜の本心を見抜いてきたことに驚く。しかし、この女性は子供っぽい外見に反して、恐ろしいほど優秀な記者なのだと思い出す。
池田は高校生の時に紅葉ファンサイトを作り、あっという間に月間二千万PVを達成するほどの人気サイトにしてしまった。それから会社を立ち上げ、今では一番勢いのあるサッカーの総合サイトを運営する社長なのだ。
「私なんて紅葉ちゃんのトリコになって、今、こんな仕事してるんですからね。もう影響されまくりですよね~」
「確か、池田さんは大井姉妹ライブ演奏事件の時に現場にいたんでしたよね?」
「ええ! よくご存じですね! もう、あれが私の原点ですからねー! あの夏の日に私は紅葉病に感染したんですよ。魔性の女、紅葉ちゃん! なんて恐ろしい!」
カラカラと笑う池田の顔につられて、茜も自然と笑ってしまっていた。
「本当に羨ましいです。私もその現場に居たかったです」
「いや~、あれはいいものでしたけど、しばらく現実に復帰できなくなっちゃいましたからね~」
「でも、それがその後の取材活動に繋がったんですよね?」
「ふふっ、そんな高尚なものじゃないんですよ。お恥ずかしい。何も知らない小娘が取材なんて出来るわけないですからね。いろいろと勢いだけで、突き進んでいって、紅葉ちゃんのところにたどり着いて、そこで皐月おば様にお叱りを受けちゃいましてね。皐月おば様にはいろいろと迷惑ばっかりかけちゃいましたけど、実の娘みたいに可愛がってもらって。いろいろと教えてもらったなぁ。ふふっ、そうして今も勢いだけで、こんなところにいるんですから、人生って不思議ですよね」
池田の顔は終始笑顔だが、過去を思い出しているのだろう、時折、その笑顔に苦笑が混じる。
(いろいろ、か。苦労したんでしょうね、いろいろと)
「そうですね」
茜はしみじみと、池田の意見に同意しながら答える。
(本当に人生って不思議だわ)
試合はいつの間にか二試合目が終わっていた。紅葉を起点に攻め続けたU-19日本代表が五点、富士枝高校が一点取ってトータル5-6と一点差まで詰め寄っていた。
三試合目に向かう、そのインターバル中に、池田が話題転換とばかりに話しかけてくる。
「ところで、私って、紅葉ちゃんの周囲にいる人たちについても、取材しているんです。相田さん、あなたのことも取材させてくれませんか?」
「私はただの広報ですよ?」
茜は即座に、拒絶のニュアンスを含めて答える。けれど、池田は、笑ってそれを無視してくる。
「もう、そんな冷たいこと言わないでください。一応、私だって記者の端くれですからね。あなたの経歴等々いろいろとチェック済みなんですよ。あっ、もちろん、皐月おば様から聞いたりしてないんで、そこは誤解しないでくださいね」
「……どこまで調べたんですか?」
「え~と、前職は市ノ川法律事務所で働いてらっしゃいましたね。働きながら司法試験に受かられたそうですね。市ノ川先生もその勤勉さと優秀さに感心しきりでしたよ」
「先生のところまで行かれたんですか」
「はい、あっ、と言っても、もともとは別件だったんですけどね。ほらうちのサイトにも紅葉ちゃんのストーカーが出没するんで、その対策を先生にお願いしてるじゃないですか。そのついでにちょこっと聞いたんです」
「なるほど」
市ノ川は紅葉の顧問弁護士だ。紅葉の、というのは語弊があるかもしれない。もともとは紅葉が大井夫婦の娘となるきっかけとなった事件で、大井夫婦が頼ったのが市ノ川だったのだ。
それから、大井家と市ノ川の間に付き合いが出来た。紅葉が目立つようになってからは、ストーカー対策やマスコミ対策を市ノ川が協力するようになったのだ。
「紅葉ちゃんって本当に不思議な子なんですよ。知れば知るほどに。そうするともっと知りたくなるんですよね。お恥ずかしい限りなんですけどね。もちろん、記事にしようとかまったく思ってないんですよ。これは私のライフワークみたいなものなので」
「秋奈さんのことはどれだけ調べたんですか?」
「それはもう、大学時代の親友から会社の同僚や上司までいろいろとお話を伺っていますよ」
「皆さんどうおっしゃってましたか?」
「とてもいい人だった、と。美人で聡明な方だったそうですね。皆さんが彼女の死を嘆いていました」
「そうですか……ええ、本当にいい人だったんですよ、秋奈さん」
茜は過去を池田に話すことに決めた。誰かに話すのはこれが初めてだ。なぜ、話す気になったのか。それを考えながら、ゆっくりと話す。
「私が紅葉ちゃんのもう一人のお母さん、秋奈さんと出会ったのは、中学一年の春でした。そっか、今の紅葉ちゃんと同い年なんですね。歳を取るわけだわ」
ベンチにいる紅葉の姿を見つめながら、茜は苦笑してしまう。十二歳の私は紅葉みたいにしっかりしてなかったなぁ、と茜はしみじみと思ったのだ。
「行く場所がなくて公園で座りこんでいた私を、秋奈さんが保護してくれたんです。秋奈さん、私のこと、拾ってきた猫みたいに、ご飯食べさせてくれて、お風呂入れさせてくれて、お布団貸してくれて。一緒にテレビ見て、おしゃべりして。でも、何も聞いてこなくて。本当に居心地がよかったんです。秋奈さんは社会人になり立てで忙しそうにしてたけど、私は部屋でぬくぬくと、本当に猫になっちゃったみたいに、久しぶりにゆっくり出来たんですよ」
当時を思い出し、思わず笑顔になる。あんなに居心地のよい空間はなかった。
「でも、それが秋奈さんの作戦だったんですね。私が気を許すのを待ってたんですよ。私が親から虐待を受けてるって秋奈さんに告白したら、それからはあっという間でしたからね。体中にあざがあるのを見られてたから、準備をしてたんでしょうね。親から親権がおばあちゃんに移るの、二か月もかからなかったんですよ」
「凄いですね」
「ええ、本当に。秋奈さんの親もどうしようもない人だったみたいで、許せなかったんでしょうね。でも、あの時の気持ちは一生忘れられないです。暴力を受けて、学校にも行けなくて、もう死ぬしかないって思ってたのに。気が付いたら、そんなことなかったみたいに、学校へ行く当たり前の生活に戻ってたんですから。それからは、もう猫みたいに秋奈さんに懐いちゃいましてね。秋奈さん、それからすぐ海外に転勤になっちゃったんですけど、私の家の近くにマンションの部屋を買っていったんですよ。そのマンションのカギを私にくれて、親がまたちょっかいかけてくるようなら、逃げ込みなさい、って言うんです。この人はアホなのかなって思っちゃいましたよ。もったいないから、貸し出しなって言っても、必要ないって言うばかりで、結局、私がその部屋の管理をしてたんですよ。あの当時は無駄な出費を、って思ってたんですけど、いつでも逃げる場所があるんだって私に安心感を持たせる為だったんだろうなぁって、大人になってから気付きました」
茜にとって秋奈は、美人で格好良くて、そしてどこまでもお人よしな人であった。
「離れ離れになってかなりショックでしたけど、ちょくちょく電話をしてくれたんですよ。勉強しっかりしろっていつも言うんです。大学にもちゃんと行けってうるさくて、でもそう言ってもらえるのが本当に嬉しかったなぁ。それから秋奈さんが日本に帰ってきた時は、必ず会ってました」
平凡な日常は秋奈がくれたものだと思うと、毎日が本当に楽しかった。秋奈から連絡が来るかもと考えるだけでウキウキしていた。
「私が高校三年生の時、秋奈さんが産休で日本に帰ってきたんです。私は心配して身の回りのお世話をしたかったんですけど、勉強しろってあんまり会ってくれなくて、それでそのまま……」
あの当時のことは今もあまり思い出せない。ただただショックで、すべてが夢であったかのように、うすぼんやりとしてしまっている。
「秋奈さんの死が信じられなくて、私は秋奈さんの部屋でずっと秋奈さんの帰りを待ってたんです。もちろん帰ってこなかった。来たのは秋奈さんのお姉さんと弁護士の先生でした。私も池田さんと一緒なんですよ。皐月さんにはそれはもういろいろと迷惑をかけてしまって。皐月さんにあの時、秋奈さんの言葉を教えてもらえてなかったら、私はきっと立ち直れてなかったと思います」
――お姉ちゃん、私にも妹が出来たんだよ! 妹って可愛いね!
「だから、私は秋奈さんの代わりに、紅葉ちゃんのことを見守ろうって決めたんです。市ノ川先生が紅葉ちゃんを守ってるのを見て、私も弁護士になろうって強く思えたし、紅葉ちゃんが浦和レッジに加入するって聞いて、広報として紅葉ちゃんのプライバシーをしっかり守ってあげたいと思ったんです」
どうですか、私の話は面白かったですか? 嫌味ではなく、笑いながら池田に聞く。池田も笑顔で答えてくれる。
「なるほど。本当にありがとうございました。辛いご記憶を思い出させてしまって、申し訳ありませんでした。失礼な感想ですけど、大変面白かったです」
「いえ、そう言ってもらえたなら、話してよかったです。私も話せてスッキリしました」
二人とも無言になり、静かに紅葉たちの試合を観戦する。なるほど、と茜は内心で笑う。池田は茜を傷付けたと反省しているらしい。無理に笑顔を作っているが、しょぼんとしているのが伝わってくる。
(マスコミ嫌いの皐月さんが気に入るわけね。素直な子だわ)
「池田さん、よろしければ、紅葉ちゃんの解説の続きをお願い出来ますか? せっかく敏腕記者さんが隣にいるんですから、記者さん視点で紅葉ちゃんのことを知りたいんですけど」
「はい! 任せてください!」
三試合目は互角の攻防が繰り広げられていた。池田によると富士枝高校はベストメンバーの、本気モードであるとのこと。紅葉をマンマークしているサイドバックの柱岡は、攻守における運動量とフィジカルが持ち味の注目株だそうだ。
富士枝高校の攻撃をゴール前でキーパーの成田が防ぐ。成田がボールを思いっきり放る。そのボールが、右サイドの低い位置まで下がって守備をしていた紅葉に渡る。
サイドバック柱岡とサイドハーフ猪狩が、紅葉へプレスに行く。紅葉が反転し、前を向いた瞬間に逆サイドへ早く低い弾道のパスを送る。
そのボールが逆サイドを駆け上がっていた左ウィングの柳瀬へと通る。柳瀬がサイドをドリブルしていく。
「今のも凄いプレーなんですよ! 柱岡君は攻撃している時でも、紅葉ちゃんのことを警戒して、紅葉ちゃんの傍にポジションをとってるんです。紅葉ちゃんにボールが渡ったら、即座に潰すつもりなんですね。でも、紅葉ちゃんは柱岡君が詰めるより早くボールをさばいちゃってる。それも、凄く有効なパスで!」
柳瀬がマイナスクロスをあげるが、フォワードの津村には合わず、相手キーパーにキャッチされる。
「右ウィングの紅葉ちゃんが下がり目に位置取りすることで、変則的な4-4-2になっているんです。監督が紅葉ちゃんに司令塔のタスクを与えたんでしょうね。そして、驚くべきことに、紅葉ちゃんにボールが渡るって分かった瞬間、皆がフリーになる動きを始めるんですよ! それは紅葉ちゃんなら必ずいいパスをくれるって、皆が信頼している証なんです。代表に選ばれてまだ二日も経っていない選手が、あっという間にチームメイトの信頼を勝ち取ってしまったんです! そして、その期待を一度も裏切らない素晴らしいパスを供給し続けている。俯瞰ってイメージだって言ったじゃないですか? イメージにはチームメイトがどう動くか、っていう情報が必要なはずなんです。でも、紅葉ちゃんにはその情報がないはず。どうして、ああも完璧なパスが出来るのか私には分かりません。やっぱり周辺視野がずば抜けてるの? でも、振り向きざまにパスを通しているし見る時間なんか……」
茜にはただの一本のパスにしか見えなかったが、そのパスは凄いことであったらしい。ぶつぶつと考察を初めてしまった池田に、茜は笑う。茜にはその情報に心当たりがあったのだ。
「たぶんなんですけど、紅葉ちゃん、ここに来る最中、ずっとU-19日本代表の試合を観てたんです。すっごい集中してたんで、そこでチームメイトの情報を得たんじゃないですか? ときどき、足がピクって動いてたんで、パスのイメトレもバッチリだったということですかね」
「へっ?」
池田が変な声を出した後、ポカンとした表情で茜を見たまま固まる。
(んっ? 見当違いのこと言っちゃったかな)
そう心配する茜に、池田が驚きを顔に張り付けたまま問うてくる。
「ビデオで観た?」
「はい」
「そのイメトレで完璧?」
「ええ、いや、そうじゃないかなぁ、と素人ながらに思っただけですけれど」
「……あり得ないでしょ」
「やっぱりそうなんですか。すみませ『違います! 紅葉ちゃんがあり得ないんです!』……そうなんですか?」
池田は一体何が信じられないのだろうか、頭を掻きむしって実にオーバーなリアクションで見悶えている。その様子がちょっと面白くて笑いながら見ていると、立ち直ったのか、興奮した口調で茜に話しかけてくる。
「紅葉ちゃんって一月前まで小学生だったんですよ! 小学生は8人制サッカーなんです。それにボールだって今のより一回り小さいのを使ってたんです。それが11人制サッカーになって、ピッチは一気に倍、ボールのフィーリングだってまったく変わるわけです。これって物凄い変化なんですよ。冬の全少で優勝した紅葉ちゃんは、一月から11人制サッカーへ移行してますけど、そう簡単に適応出来るものじゃないはずなんです。その中でも特にパスって難しいんです。ピッチが広くなってますからね。選手間の距離が全く違ってるんです。紅葉ちゃんにはまったく関係ないみたいですけどね!」
「そうですね。あ、またいいパスしましたよ紅葉ちゃん!」
キックフェイントを一つ入れて、相手ディフェンダー二人の足を上げさせた紅葉が、二人をあっさりとかわし、ドリブルで駆け上がる、かと思った瞬間に逆サイドに早いボールでパスを出す。
全体が紅葉のドリブルを警戒し、右へ寄ってきた瞬間のサイドチェンジだ。左の柳瀬がポッカリと空いた左サイドを駆け上がる。
「ええ、そうですね! まぁ、紅葉ちゃんは簡単に適応出来たんでしょうね! あんなに簡単にパスを通すんですから! だからって、いきなりU-19日本代表の司令塔ですか! おかしいでしょう!」
左ウィングの柳瀬とセントラルミッドフィルダーの奥がパス交換をして左サイドを完璧に崩す。柳瀬のクロスが、途中交代で出場したばかりの立花に送られる。
しかし、そのボールは立花たちの頭上を越え、右サイドで紅葉をマークしていた柱岡のところまでくる。
柱岡がジャンプ一番ボールに触れる。が、触るので精一杯であった。柱岡の頭を掠め、そのままラインを割る。そう、誰もが思った瞬間に、紅葉の左足がそのボールを捉える。
柳瀬の蹴ったボールを見た瞬間に、紅葉は柱岡の隣からゴール右側へ移動していた。ボールは柱岡のブラインドになり見えていなかったはずだが、タイミングを合わせて飛ぶ。
そして直前で軌道の変わったボールを、ギリギリ左足のつま先で捉え、逆サイドネットに突き刺したのだ。
早口で超高難度オーバーヘッドの解説をする池田に、茜はなるほど、と感心し一生懸命拍手を送る。
「難しいシュートだったんですね! 同点ゴールがオーバーヘッドなんて紅葉ちゃん凄い!」
そう、池田に告げると、
「そんなのどうでもいいんです! 紅葉ちゃんのいつもの変態プレーよりもパスについての方が重要なことなんです!」
「……えぇ~」
一体茜の発言の何が、池田の琴線に触れたのか、一蹴されてしまう。
「どうしたんですか? 本当に。紅葉ちゃんのことで何かあるなら教えてください」
茜の質問に池田は少し逡巡した後、口を開く。
「さっきまで、言う気はまったくなかったんですけど、もう言っちゃいます。私が紅葉ちゃんの知り合いにインタビューする大きな理由には、紅葉ちゃんのプレースタイルについてどう思うか知りたいからということがあるんです。なんだか、物凄く重いお話を聞くことになってしまって、本当に申し訳なかったんですけど」
先に謝っておきます、お気を悪くしたらすみません、そう言い茜の顔を見てくる。茜は何を言われても気にしないと一つ頷く。それを確認し、池田が話を続ける。
「紅葉ちゃんが小学一年生で公式戦に出てきた当初、多くの方たちが、彼女のことを牧村太一の再来だ、と言ったんです」
「……それは」
「はい、紅葉ちゃんを助けて亡くなられたサッカー選手です。特に牧村選手と親しかった方たちは皆が口を揃えて言っていました。紅葉ちゃんと牧村選手との因縁なんて知らないのにです。小学一年生の小さな子を評して皆が牧村選手とそっくりだと言う。それほど、紅葉ちゃんは凄かった。誰にも教えを受けてこなかった子供が、すでに完成された技術を持っている。しかも、恩人とまったく一緒の技術を、です」
不思議ですよね、そう茜に笑いかける。
「けれど、紅葉ちゃんの学年が上がるにつれて、その声は消えていきました。有名サッカー選手とプレースタイルが似ていると、すぐに、再来、ポスト、二世、和製、なんていう枕詞がつきます。紅葉ちゃんの場合は、牧村二世ではなく天才美少女って枕詞に落ち着いたわけですが」
天才美少女の部分を少し苦笑しながら言った後、ゆっくりと続きを語るように話す。
「牧村選手の再来だ、って言ってた牧村選手の知り合いたちは、成長する紅葉ちゃんを見て、こう言うんです。あれは牧村選手ではない。牧村選手よりもっとスケールの大きな、そう、理想のサッカー選手だ、と。言い方は皆さん、ちょっとずつ違いましたけどね。でも、皆さん一緒なんですよ。その成長スピードと理想的な成長の仕方に驚き、いえ、恐れを抱いていました。私も今、やっと彼らの気持ちが少し分かりました。ビデオを観ただけであんな完璧なパスを出すことが出来るようになる、その成長力、吸収力とは一体どれほどなんでしょうか?」
指を一つずつ折りながら呟く。
「フリーキックの名手、天才的なパサー、誰にも止められないドリブラー、献身的で頼れるキャプテン」
最後の一本、小指を折り、
――見る者を魅了するカリスマ
紅葉のスルーパスがフォワードの立花に通る。立花がゴール左隅へボールを流し込む。逆転し、爆発する選手と会場をしり目に、静かに池田が問う。
――彼女は一体どこまで行くんでしょうか?
池田の目には恐怖があった。怪物を見る目。今の話を聞き、その気持ちが少し分かる気がした。けれど、茜は笑った。
「どこまでも」
朗らかに断言する。
――紅葉ちゃんの行く手を阻む障害物は、私がどかしますからね!
池田が茜の顔をまじまじと見てくる。そして、気の抜けたように笑う。
「そうですか……ええ、そうですね。私も微力ながらお手伝いします」
茜にとっては、秋奈の娘が幸せになってくれれば満足だった。でも、今の話を聞くと、この先、紅葉には数多くの試練が待ち構えているように思えてならない。というか、紅葉本人があえて、難しい選択ばかり選びそうに思える。
(ふぅ、まだしばらく、手がかかるみたいね。本当に困ったもんだわ)
茜は満面の笑みを浮かべながら、やれやれと肩をすくめた。