29 「サッカー好きの女の子たち②」
紅葉が中学生になって一月が過ぎた。クラスメイトたちとの関係は良好で、楽しい学生生活を送っている。
そんな紅葉の目下の課題は二つだ。一つ目が勉強について。紅葉は優等生だ。これは前世の知識があるからではない。前世では残念ながら、超サッカーバカであった為、勉強方面のアドバンテージはゼロだ。生まれ変わってから、コツコツ毎日しっかり勉強してきたおかげである。
これからもしっかり勉強を続けてサッカーバカにはならないと決めている紅葉だが、どう考えても時間が足りない。
平日はレッジの練習が十七時から二十一時まで。休日は大会や練習試合で埋まっている。毎週月曜がオフ日であるが、月曜は隔週でピアノとスイミングスクールに通うことになった。
忙しいが、ここまでなら、何とかやっていけると紅葉は考えていた。授業をしっかり聞きつつ、授業中に予習復習、宿題を並行してやり、隙間時間には英語を勉強する予定でいた。
だが昨日、十月に行われるU-16アジア選手権の日程が発表された。決勝まで進むとほぼ一月、学校に行けないことが分かった。前世でも代表に召集されていた紅葉だが、そのことをすっかり忘れていた。
(う~ん、前世の時は学校に行かないでサッカーだけ出来るって喜んでたけど、これはマズいよなぁ)
それに、代表合宿やレッジでの海外遠征もあり、学校をかなり休むことになる。遅れた分を取り戻す必要があるが、補習や塾に行く時間はない。
(どうしたもんかなぁ)
大好きなサッカーをいっぱい出来るというのに、悩む必要が出てくるなんて! と紅葉にとって驚愕する事態であった。
お昼休みになり、手洗い場で腰に手を当て歯磨きしている紅葉に、次から次へと声がかかる。
「紅葉、先行ってるぞ」
「紅葉ちゃん、早くねー」
紅葉は歯ブラシを銜えたまま、頷き、手を振ってそれに応える。紅葉に声を掛けているのはサッカー部の面々がほとんどだ。そのうちの何人かは浦和領家サッカー少年団出身者である。お昼休みに皆でサッカーをするのだ。
歯磨きを終え、紅葉はブレザーを脱ぎ、赤いリボンを外すと、シャツとスカートの上に青ジャージを重ね着し、校庭へダッシュしようとする。が、直前で、隣のクラスを覗いてからにしようと思い直す。隣のクラスには妹の楓がいる。
(う~ん、やっぱり、カエちゃん一人かぁ)
楓は頭にヘッドフォンを付け、手元の楽譜をじぃっと見つめている。楓から発せられる絶対に何人も寄せ付けぬ、という雰囲気に恐れをなしたのか、楓の周囲には誰もいない。
楓に友達が出来ないこと。これこそ、二つ目の課題である。楓自身も本当は友達が欲しいのだ。けれど、どうやって友達を作ればいいのか分からないのだ。
(ここはやっぱり、私が!)
紅葉が楓の友達作りを手伝おうと、教室内へ入ろうとしたところで、声が掛かり、止められる。
「こら、大井さん! 何しようとしてるのかな?」
「えっ、あ、ちーちゃん! べ、別に何もしようとしてないよ?」
「ちーちゃん、言うな! それに嘘つかない! ほら、ちょっとこっち来なさい」
紅葉はちーちゃんこと青井千景に引っ張られ、人気の少ないLL教室の前まで連れてこられる。先ほどまでの澄ました態度を即座に捨て、千景が問い詰めてくる。
「紅葉、あんたまた楓のとこ行って、まわりの奴らに話しかけようとしたでしょ? それ止めなさいってこの前も! 言ったわよね? 逆効果になるって説明忘れたとは言わせないわよ」
「うっ、ごめんなさい……つい」
「はぁ、まったくこのシスコンは」
千景とは小学六年生からの友達である。千景は今時の女の子で、メイクバッチリ、髪の毛もチョイ明るく染めているギャル系であり、紅葉とはまったくと言っていいほど接点のない子であった。
きっかけは千景の好きな男子に紅葉がちょっかいをかけたことであった。もちろん、紅葉にそんな気はまったくなかったし、その男子とは昼休み、一緒にサッカーをやるだけの関係であった。千景の完璧な邪推だ。
千景グループから嫌がらせや無視、何をするにも笑われる、といった女の子的イジメを受けた紅葉はかなり困ってしまった。何か悪いことをしたか聞いても鼻で笑われ、教えてくれない。原因が分からないから対処のしようもない。
紅葉が手をこまねいている間に、結局事態は最悪の方向にいってしまった。姫花たちにバレたのだ。姫花は学校中にこの件を伝え、紅葉の味方を集めてしまった。紅葉はサッカー少年団のキャプテンであるし、仲のよい子は多い。
あっという間に千景は孤立してしまった。千景と一緒に紅葉をイジメていたグループの子たちすら千景を無視する有様であった。
思春期に入りかけの子供たちは繊細だ。紅葉がしっかり対処していれば千景を傷つけずに済んだはずだ。
姫花は紅葉の為に行動してくれた。そして紅葉に味方してくれた子たちもそれは同じだ。
けれど、優しさや正義感から紅葉を応援してくれた彼らの行動は、一人の少女を追い詰め孤立させた。大人数が一人を追い詰めること、それはイジメと何が違うのだろうか。
紅葉は泣きたくなった。紅葉にはこうなる可能性が分かっていた。分かっていたからこそ、先生や友達に相談は出来ないと思い、一人で事態の解決を目指したのだ。
でも、それが間違いであった。紅葉の胸のうちをしっかり先生や姫花たちに伝えていれば、こうはならなかっただろう。穏便に済ませる為の協力を求めればよかったのだから。
紅葉は帰りのホームルームで千景に謝った。当然、千景はブチ切れた。泣きながら、バカにするな、と紅葉に食って掛かってきた。紅葉は暴れる千景を思い切り抱き締め、千景の涙が溢れる目を見つめてお願いをした。
友達になって、と。
その時は首を縦に振ってもらえなかったが、それから毎日千景に話しかけることで、なし崩し的に千景と友達になることが出来た。
喉元すぎれば、ではないけれど、いい思い出である。あの時紅葉は、イジメはどんな理由があろうと、イジメる側が悪い、ということを学んだ。
些細なすれ違いや誤解、優越感を得る為、あるいは正義感から、簡単にイジメは起きてしまう。イジメているつもりすらなくてもイジメは起こってしまうのだ。イジメはきっとなくならないのだろう。
だから、起こった後、それをどう対処するか、考えるべきはそこなのだと紅葉は千景のメークバッチリ顔を見て改めて思うのだ。
(あの件があったから、ちーちゃんと友達になれたんだよね。そーじゃなかったら、きっとこんな仲良くお話出来てないんだろうなぁ)
「な、何よ? 突然、私の顔見つめて……」
「ん~ん、ねぇ、ちーちゃん、ちーちゃんがカエちゃんの友達になってあげてよ」
頬を紅く染めた千景に紅葉がお願いをする。千景は困った顔になり否定の言葉を返してくる。
「だから、何度も言ってるけど、無理に決まってんでしょ! 私、あの子に死ぬほど嫌われてるんだから。理由は知ってるでしょ」
「う~ん、ちーちゃんはこんなにいい子なのに、カエちゃん頑固だから無理かぁ~。どうすればいいですかね? ちーちゃん先生」
「いい子とか言うなし! それに先生って……はぁ。まぁ、私に任せなさい。今、新しいクラスでグループのリーダーになる戦いをしてるから、それに勝てば、あのクラスは私の思いのままよ。それからあの子の友達を増やす。だから、それまで待ちなさい。だいたい、紅葉は女の子の気持ちがゼンッゼン! 分かんないダメな子なんだからね、ちゃんと自覚してる?」
「う~、してる、かな?」
「なら、よろしい」
女心が分からないと言われれば、それを否定することなど紅葉には出来ない。この十三年で、だいぶ女らしくなったと紅葉的には思っているが、まわりから紅葉は男らしい、とよく言われるので、まだ男らしさが残っているのであろう。
(まぁ、私は私だしね。元男で、今女だとか意識してもいいことないし、考えない考えない)
それよりも一体どんな戦いを繰り広げているのかと、千景の話に興味を持ち、千景に問いかける。千景がよくぞ聞いてくれました、と答える。
「そもそも戦いって何してるのちーちゃん?」
「ん~、紅葉には色々と教えてあげたでしょう? そうね、信長はなんで光秀に裏切られたんだっけ?」
「……光秀と連れションに行かなかったから?」
「正解。敵はいつ裏切るか分かんないから一緒にトイレに行く。常識破りの信長はその常識破り故に謀反にあったのよ。だから、私は一瞬もスキを見せないようにグループ内で戦ってるわけよ。じゃあ、次、風林火山の本当の意味は?」
千景は歴史、特に戦国時代が好きな女の子である。けれど、そのことをまわりには恥ずかしいからと隠している。
紅葉は千景と腹を割って話し合ったパジャマパーティーでそのことを打ち明けられた。それ以来、何かと千景は歴史関係の蘊蓄を紅葉に振ってくるのだ。
「え~と、噂は風のように早く林のようにざわざわと、火を噴いたが最後、山の形が変わるまで止まらない、だっけ?」
「うん、ちょっと違うけどいいでしょう。つまり、噂を立てられたら終わりなの。七十日で消えるわけないっしょ? こちらの噂は立てられないように、敵の噂は操作する。女の子なら常識よ。分かった?」
「うん、まったく分かんないや」
「はぁ、だから紅葉なのよ、女はグループを作んないと生きていけないの。三成が狸に負けたのはグループ作りに失敗して、あいつウザくねって思われたせいなの。あ、今のもちゃんと覚えておきなさいよ! ……だいたい、あいつら、紅葉の陰口言ってたのよ! もう頭にくるったらないわ! 女の嫉妬ってなんであんなに見苦しいのかな。その後、私と紅葉が友達だって分かった時のあの慌てよう! まじムカつくけど、きっちり利用してやるんだから! あっ……な、なによ! そのニヤニヤ顔は!」
「ん~ん、ちーちゃんが私の為にすっごい怒ってくれてるんだなぁ、って思ったら嬉しくなっちゃっただけ」
ちーちゃんの顔真っ赤だよ、と紅葉は笑顔で千景のほっぺたをちょんちょんする。千景の頬がさらに朱く染まるのを見て、可愛いなぁと思いつつ、紅葉はいい友達を持ったことに感謝する。
「うぅ! バカ紅葉! 早くサッカーしに行きなさいよ! 昼休み終わっちゃうわよ!」
千景の言葉はつっけんどんであったが、伸ばされた紅葉の手を払いのけようとせずに、上目遣いの上気した顔で紅葉を見つめてくるその顔はすごく色っぽく、紅葉はドキッとしてしまった。
「うん、サッカー行ってくるね! またね、ちーちゃん!」
「またね、紅葉!」
(友達ってこんなにいいものなんだよ、カエちゃん)
紅葉は急いで校庭へ向かいながら、楓に早く友達が出来ることを願った。
校庭は生徒たちで溢れかえっていた。サッカーをしている集団は四十人くらいだろうか。その集団が半分ずつに分かれてピッチに散らばり、三つのボールを追いかけている。
紅葉が行くと、皆が次々と声を掛けてくる。それに手を振って今日は参加しないことを詫びつつ、紅葉は目的の場所へ向かう。ディフェンスをしていた大柄な男子、黒田昭利が紅葉に声を掛けてくる。
「紅葉、遅いぞ!」
「うん、ごめんなさい! じゃあ、今日もお願いします!」
「おう!」
ディフェンスラインから抜け、昭利が紅葉の前に来る。紅葉は持ってきた赤いボールを地面に落とし、昭利の隣に並ぶ。
「じゃあ、今日も思いっきりお願いね、昭利! じゃなくて黒田先輩!」
「いや、昭利でいいぞ、紅葉。てか、黒田先輩とか紅葉に呼ばれると違和感バリバリだからさ、昔からの呼び方で頼むっていつも言ってるだろ」
「う~ん、でも一応先輩だからなぁ、昭利は」
「一応言うな! そっちの方がひでぇだろが」
二人揃って笑いあい、それから真剣な表情になり、紅葉はドリブルを開始する。昭利がその隣を並走する。
昭利は紅葉の二つ年上の中学三年生、サッカー部のキャプテンだ。紅葉とは浦和領家サッカー少年団からの付き合いの為、お互いのことはよく知っている。
(よく知ってるけど、中学生になってこんなに大きくなるんだもんなぁ、羨ましいなぁ)
昭利の身長は百八十センチちょっとあり、今なお成長中らしい。実に羨ましいことだ、と紅葉は思いつつ、集中力を高める。
全力ではない、七割くらいのスピードでドリブルする。紅葉にとってストップ、ターン、キック、シュートと無理なく変更出来る最適のスピードだ。
並走している昭利が手を紅葉の腹の前に入れた後、腰を基点に圧力を掛けてくる。それだけで、紅葉は吹っ飛ばされそうになる。何とか堪えた紅葉は、重心を低くし、倒れるほど昭利側に体を傾け、全体重を昭利に預ける。
「くっ」
昭利が呻く。けれど昭利の態勢はまったく崩れない。昭利は一度紅葉から体を引き、間隔を開けた後、再度紅葉へチャージする。
(来るぞ、来るぞ)
紅葉は昭利のチャージに身構え、衝撃に備える。昭利が来るタイミングで紅葉は思いっきり昭利側に体を寄せる。が、来ない。タイミングをズラされたと気付いた時には遅く、吹っ飛ばされ、地面に転がりながら紅葉は悔しがる。
「紅葉大丈夫か!?」
「くぅぅ~! やっぱりダメかぁ~!」
昭利の伸ばされた手につかまり紅葉は立ち上がる。
「悔しいなぁ、う~ん、でも、今のは昭利のタイミングにやられちゃったね、ナイス昭利! でも、もうちょっとな気がするんだけど、ムズいなぁ。ねぇ、昭利もう一回!」
「いや、やるのはいいんだけど、本当に大丈夫か紅葉?」
「うん、心配してくれてありがと、昭利! でも、昔っから体格の大きい子に吹っ飛ばされるのは慣れてるから大丈夫だよ。ねっ、だからもう一回お願い!」
「はぁ、分かったよ。でもさ、よけるんじゃダメなのか? 紅葉のテクなら誰でも簡単にかわせるだろ? こんな相撲のぶつかりげいこみたいなことして紅葉が怪我したらと思うとさ……」
紅葉は背伸びして昭利の頬を優しく触る。背伸びしないと届かないほど身長差が開いたことを実感しつつ、昭利の不安そうに揺れる瞳に、幼い少年であったかつての昭利を重ね合わせ、微笑みを深くしながら優しく話しかける。
「サッカーってさ、ちょっと不思議だと思わない? ボールに絡んだプレーなら接触してもオッケーで、ボールがなければ同じ行為がファールになるんだよ? もちろん危険なプレーはダメだけど、タックルで相手を吹っ飛ばしても、スライディングで倒しても、オッケーなんてちょっと危険だよね。でもさ、だからサッカーはエキサイティングで楽しいんだ。あらゆる技術に戦術、そして身体を使って、一個のボールを真剣に奪い合う。ボールにいってればセーフで、ボールがないとこだとファール。あとは相手のゴールに蹴り込むだけ。こんなに単純で、だからこそ奥深いゲームはないよね」
「……ああ、そうだな」
「うん、私はそのゲームを全部楽しみたいわけなのです。身体を寄せられたら逃げるしか選択肢がないって、そんなことつまんないよ。むしろ吹っ飛ばしてドリブルしたいじゃない?」
「つまりは紅葉がサッカーを楽しむ為ってことか」
「うん! もちろん、かわせない状況になった時の練習だったり、大人クラスのぶつかりに早く慣れたいっていうのもあるけどね。すべては私がサッカーを楽しむ為のワガママなんだ。ごめんね、昭利」
「いや、いいんだ。俺は紅葉とこうしてサッカー出来るだけで幸せだから。紅葉の我儘なら何だって付き合うさ!」
「ありがとう! 昭利!」
それからもう三回、昭利との練習を行った。紅葉は三度地面を転がったが、二人の間には笑顔が溢れていた。
予鈴がなり、昭利と一緒に校舎に戻る途中、昭利が紅葉に聞いてくる。
「それで、女子サッカー部の件、どんな感じなんだ?」
「うん、たぶん、大丈夫だと思うよ。皆川中と浦和二中は先生にも挨拶済ませてオッケーもらえたよ。ただ、浦和第一中は先生の許可はもらえたけど、領家出身の子がいないから、部員集めもこっちでしなくちゃいけないから、ちょっと難しいかも」
「監督はどうなったんだ?」
「監督もたぶん平気。ちゃんとチーム作れたら、協会所属コーチを派遣してもらえる約束してきたから」
「紅葉はスゲーな。じゃあ、これで鈴子に言っても問題ないな」
「うん、鈴ちゃん、喜んでくれるといいんだけど……」
「大丈夫だって、絶対喜ぶよ」
余計なお世話にならないといいなぁ、と紅葉はちょっと自信なさそうに笑う。
戸田鈴子はサッカー部所属の中学三年生だが、もう一週間ほどサッカー部を休んでいる。体調不良だと嘘をつき、部員たちから逃げ回っている自身の現状に嫌気が差してしょうがない。今も、誰もいなくなった教室で一人、ぼうっとしている自分がたまらなく情けない。
(今日こそ提出しなきゃ)
手元の退部届を見つめながら、鈴子は決意を固めようとする。けれど、どうしても踏ん切りが付かないのだ。
鈴子は浦和領家サッカー少年団に小学四年生の時に入団した。サッカー経験ゼロでの入団だった。一年生の子たちと一緒になってリフティングやドリブル、キックなどを監督やコーチから丁寧に教えてもらった。子供たちを飽きさせない為だろう、ボールを使ったゲーム感覚の練習がやたら多かったのを覚えている。
一人だけ年上の鈴子が初心者コースで楽しめたのは一人の少女のおかげだ。監督の娘さん、紅葉がいつも鈴子たちのところに遊びに来て、一緒に練習してくれたのだ。
紅葉は天才であった。小学二年生なのに少年団の誰よりも上手かった。紅葉と一緒にやるボール鬼ごっこは本当に楽しかった。皆大はしゃぎで鬼の紅葉から逃げ回っていた。それを見て、Aチームの子たちまで参加してきたりして、とにかく少年団全員仲がよかった。
鈴子たちが小学六年生の時、浦和領家は谷間の世代と言われていた。紅葉の兄である和博たちの世代では日本一になったのに、鈴子たちの代では埼玉県大会で浦和や大宮、強豪町クラブに敗れてしまっていた。
浦和領家に対してどのチームも紅葉一人を封じる為に、二人使ってきた。敵は八人中二人を紅葉一人に割いているのだから、他では数的有利な局面を作れる。なのに、勝てない。紅葉へパスを通すことも出来ず、紅葉以外の攻撃も機能しない。
鈴子たちのレベルが紅葉に釣り合っていなかった。負けるたびに泣くほど悔しがる紅葉に申し訳なかった。鈴子は昭利たちと必死になって練習した。結局最後まで全国へは行けなかった。
本当に悔しかったけれど、卒団式の時、紅葉がまた一緒にサッカーをしよう、と約束してくれて、すべてが報われた気持ちになったのを今でも鮮明に覚えている。紅葉の涙につられて、一緒になって大泣きしてしまった。
中学校にはほとんど女子サッカー部がない。どこかの女子サッカークラブに所属するか男子サッカー部に入れてもらうしか道はなくなる。鈴子はクラブに通うつもりであった。少し遠いが下手な鈴子でも通える良さそうなクラブがあったので、そこへ何度か練習に参加させてもらった。
だが、親の反対でクラブへは行けなかった。練習終わりが二十一時の日が週二回あり、帰宅時間が二十二時過ぎになってしまうのだ。鈴子の家は駅から若干離れている。深夜に女の子一人での帰宅は危ない、というのが理由であった。
クラブに通えないとなると学校のサッカー部に入れてもらうしかなくなる。かなり勇気のいる行動であったが、幸いにもサッカー部のキャプテンは紅葉の兄、和博であった。昭利たち浦和領家出身者も多くおり、鈴子はサッカー部に入ることにした。
男子たちの中でサッカーをすることには慣れていた、つもりであった。けれど、小学生と中学生ではまったく違った。身体が大きくなる男子たちと違い、鈴子は背が伸びず、代わりに胸が大きくなった。
男子たちが遠慮しているのを感じながらプレーする。遠慮されているのにまったく歯が立たなくなる。中学から始めた子たちにどんどん追い抜かれる。一年の時は練習試合で出してもらえたが、二年からは練習試合ですら試合に出してもらえなくなった。
楽しいわけない。サッカーが嫌いになってしまいそうであった。けれど、紅葉と一緒にプレーした時の気持ちを思い出すと、辞めようという気持ちにはなれなかった。
そして、ビッグニュースが飛び込んでくる。なんと、紅葉が入学してくるというのだ。鈴子は本当に嬉しかった。もちろん、サッカーはレッジ下部に入るそうだから、一緒には出来ない。でも、お昼休みに昔のように一緒に遊べるだろう、というだけで鈴子は本当に嬉しかったのだ。
その願いはすぐに叶った。久しぶりに会った紅葉は本当に綺麗になっていて、ちょっと声を掛けづらいほどであった。でも、紅葉の方から鈴ちゃん、と、あの人懐っこい笑みを浮かべて呼んでくれ、緊張は一瞬で消えてなくなった。
紅葉とのサッカーは本当に楽しかった。普段、昼休みにサッカーをしない連中が紅葉目当てに出てきて、ウザかったが、それでも、紅葉にアシストしてもらえた時は泣きそうになってしまった。
本当に楽しかったのだ。途中で紅葉が昭利とマンツーマン練習をするまでは。
昭利に吹き飛ばされる紅葉を見ることになるなんて思っても見なかったのだ。何度も何度も昭利に吹き飛ばされ、ボールを奪われる紅葉、それは現実を鈴子に突き付けてきた。
昭利は男で、紅葉は女なのだ。あの天才である紅葉でもただ男であるという理由だけで、昭利に追いつかれ、追い抜かれてしまうのだ。
吹き飛ばされ、慌てる昭利に助け起こされている紅葉の顔には笑顔があった。その顔に涙はなかった。紅葉は勝てないことを受け入れているのだ。かつて、どんな強敵に負けても、涙を目じりにためて悔しがっていた、あの紅葉が。
ふっと力が抜けた。もうサッカーをするのが嫌になってしまった。
ガラリ、と教室の戸が開く。そこには図体ばかりデカくなった昭利がいた。沈黙に耐え兼ね、鈴子は低い声で昭利に声を掛ける。
「何か用? 私、これから、先生のとこ行かないといけないんだけど」
「それで、その退部届を出すのか?」
「よく、これが退部届ってわかったわね? そうよ、なんか文句ある?」
「…………はぁぁ~、まったく。全部、紅葉の言ってたとおりか。それで、理由は?」
紅葉が鈴子について何を言っていたのか、猛烈に気になった。けれど、それを聞く勇気は鈴子にはなかった。歯を食いしばり、答える。
「紅葉ちゃんが何て言ってたのか知らないけど、別に理由なんてないよ。受験勉強早く始めたいだけだし」
「まぁ、いいや、ほれ、それは俺が先生に届けてやるよ。寄こせ」
「なんで、あんたなんかに! でも、いいわ」
鈴子は近づいてくる昭利に投げつけるように退部届を渡す。それを受け取った昭利が代わりとばかりに一枚の用紙を丁寧に渡してくる。その用紙には『北浦和地区中学校女子サッカー部入部届』と書かれていた。
「……ナニコレ?」
「うち、とそれからここら辺にある中学全部合同で女子サッカー部を紅葉がつくったんだよ。その入部届だ」
「そうじゃない! なんで、そんなこと紅葉ちゃんがするの!? まさか!?」
「まぁ、そのまさかだな。お前の為だよ。お前の辛そうにサッカーやってる姿を見た紅葉が、お前がサッカー辞めるつもりだって、言いだしてな。男の中でサッカーするのは大変だったか? 気付いてやれなくて本当に悪かった。俺たちはずっと仲間だって言ってた癖に、紅葉に言われるまで気付けなかった」
「そんなことどーでもいい! 紅葉ちゃんはなんでこんなことしたの!?」
「試合に出れなきゃつまらない。競争相手がいなくちゃサッカーじゃない。本当の仲間ともう一度サッカーを楽しんで。だとさ。お前がサッカーを嫌いになる姿を見てられなかったんだろうな」
「そんな……」
「あいつ、スゲーよ。お前の状況を知ったらすぐに動き出したんだぜ。忙しくて死にそうなのに、まわりの中学回って、知らない先生にお願いして、領家の元メンバーに協力募って部員募集して、サッカー協会の知り合いに頼んでコーチまで派遣してもらえる手筈を整えちまった。グラウンドはどこもいっぱいで練習場が確保出来ないって言われても、各中学を日ごとに回るから、週一回隅っこを貸してもらえればいいって、生徒会にまで訴えたらしいぜ」
で、見事に新チームが出来上がったと言うわけだ、と実に楽しそうに昭利が言う。それがどれだけ大変なことかなんて、昭利に言われなくても分かっている。
(私だって女子サッカー部作ろうとしたことあるもの! でも、顧問の先生も部員だって集まらなかったんだから!)
教師が部活動の顧問を極端に嫌がる時代なのだ。既存の部活ですら就きたがらないのに、わざわざ新しい部活を作ってその顧問に就くなんてあり得ないのだ。
それに女子部員だって集まらなかった。サッカー経験者でも、男子と交じってまでやろうとする者は少ない。皆、他の競技に移ってしまい、今更女子サッカー部になど、と言われ断られてしまっていた。
(それを他校と合同でやることでクリアするなんて)
鈴子は泣いてしまった。紅葉が忙しい中、鈴子の為に走り回ってくれたのだ。本当に大変だったろう。
「見てみろよ。代表者んとこ」
「えっ? 嘘、なんで私の名前があるの?」
「喜べ! もし、お前が退部届を出すようなら、新チームのキャプテンはお前にやらせろって言う紅葉の指名だ。おまえはこれを出したから、当然、お前がキャプテンだ」
「……でも、私は」
「紅葉から、一言。また一緒にサッカーをしようって約束覚えてるか、だってさ」
(忘れるわけない! 紅葉ちゃん!)
耐えられなかった。泣きながら、鈴子は紅葉のもとへ走る。だが、そこに昭利が制止の声をあげる。
「あいつなら、もういないぞ。これから四日間、代表の合宿だとさ。紅葉、U-19女子日本代表に追加招集されたんだ。ほんとスゲーよ、紅葉は。悔しいけど、俺なんかじゃ死ぬまで追いつけないんだろうなぁ」
鈴子は涙の溢れた目を見開き、昭利を見つめる。口を開いても言葉にならない為、目でどういうことかと昭利を睨み、尋ねる。
「んっ? 俺は紅葉と違ってエスパーじゃないんだから、お前が何考えてるかなんて言われなきゃ分からんぞ」
「……使えない、ん、だから」
それだけ、何とか言った後、鼻をかみ、目元を拭ってから、尋ねる。
「あんたの方が紅葉ちゃんより上手いんじゃないの? 一対一であんなに勝ってたじゃない」
「……ハハハッ、面白しれー冗談だな、それ! はぁ、まぁ、そうだったら、どんだけ嬉しいかねー」
「違うの?」
「あぁ、紅葉の名誉の為に言っとくけど、あれは相撲のぶつかりげいこみたいなもんだよ。一度本気で一対一やったけど、一瞬で抜かされたからな。正直、どう抜かされたのかも分かんなかったぜ」
(相撲のけいこって。なに、それ? ……でも紅葉ちゃんらしいかも)
「そっか! あ~あ、なんだか悩んですっごい損した気分! 早くサッカーしたいわ! ねぇ、昭利、この新チームの計画あんたも一枚噛んでるのよね?」
「んっ? まぁな、でもお礼は俺じゃなくて紅葉に言えよ」
「んなのは当たり前でしょ! そうじゃなくて、一枚噛んでるんだから、これからの新チーム発足に向けた雑事を手伝えってことよ。当然、手伝うわよね?」
「はぁ~……元気になったら、途端にこれかよ……紅葉にお前の本当の姿を教えてやりたいぜ」
「あら、いいのかしら。あんたの恥ずかしい過去を紅葉ちゃんにバラしちゃっても?」
それだけは勘弁してくれ、とお互いに言い合い、鈴子と昭利は動き出す。
――お互いのウィークポイントが一緒ってのも、考え物ね
鈴子は笑顔を浮かべながら、昭利の尻を思いっきり叩く。
「ありがとね、昭利!」
――それに、紅葉ちゃん!




