03 「赤ちゃんになって」
これは夢だと、夢の中で気付く時がある。空を自由に飛んだり、宇宙空間を泳いでみたり、死んだはずのおばあちゃんが現れたり、中学の授業を受けていたり。これはあり得ない。大抵の場合、そう気付いた時が、夢から目覚める時なのだ。少なくとも牧村太一にとって、夢とは、それが楽しいものであっても辛いものであっても、いつか終わるものであった。
太一は今、覚めぬ夢を見ている。自身が赤ちゃん、それも女の子になり、日々を過ごす夢だ。どうにも眠くて記憶がよく飛ぶし、視界がぼやけてほとんど見えないが、太一がこの夢を見始めてから既に半年近くが経っている。
哺乳瓶から温くて甘い飲み物を飲む夢。
おしっこを漏らして下半身が気持ち悪くなり泣く夢。
寒くて寒くて仕方がない夢。
おじさんに抱き締められタクシーに乗る夢。
妊婦の女性が太一を抱き締め、頬を優しく撫でてくれる夢。
夫婦らしい二人がベビーベッドの中にいる太一を覗き込んで微笑みを浮かべる夢。
やんちゃそうな子供と大きな犬が太一の体をべたべた触り、大喜びする夢。
妊婦であった女性が出産したらしい赤ちゃんを太一の横にそっと置く夢。
隣の赤ちゃんが大泣きして、なんだか太一もつられて泣いてしまう夢。
夢は五感を伴ってゆっくりと進んでいく。視界のぼやけも少なくなってクリアになっていった。だが、目覚めることはない。いや、認めよう。これは夢ではない。現実であると。
どうやら太一は死んだ後、生まれ変わったらしい。輪廻転生はあったんや! と漸く自由に動かせるようになった両手を開いて、目をまん丸に開けながらクワッ!! っと、驚愕のポーズをとる。隣で横になっている赤ちゃん、大井楓が太一、今の名前は大井紅葉のリアクションにきゃっきゃと笑い声をあげる。
(死ぬほど可愛い)
紅葉(太一)はこの楓が可愛くて可愛くて仕方がなかった。赤ちゃんがこんなに可愛いとは思ってもいなかった。紅葉は一月遅れの妹の面倒を一生懸命見ようと頑張り、生後半年ながら将来この子に求婚しにくる野郎は絶対に殺すと決意していた。
もちろん、赤ちゃんに赤ちゃんの面倒など見れるわけがない。一緒になってお母さんに面倒を見てもらっている。むしろ、生前の意識があり、中途半端に我慢強い紅葉は下の世話や母乳を飲むのが恥ずかしく、泣いてお母さんを呼ぶのを我慢してしまい、それがもとでしょっちゅう体調不良でぶっ倒れていた。
最近はそんな紅葉の代わりに楓が泣いてお母さんを呼んでくれるので、どっちが世話をしてもらっているのかわからない状態に陥っていたりもしたが、それを考えると心が凹むので考えないようにしている。
次々に変顔を披露し楓を笑わせていく。頬を抓ってひっぱり、顔を変形させる。痛くて涙目になるが、楓がコロコロ笑ってくれたので大満足だ。やがて楓がウトウトと眠そうに目を細める。コロリと転がって楓の隣により、タオルケットをかけてあげる。
初夏の室内は暖かいとはいえ、赤ちゃんはすぐに風邪を引くので油断ならない。楓が手を伸ばしてくる。小さな手を同じくらい小さな手で握り返し、微笑みを浮かべる。楓がすぐに寝息をたてて夢の世界へと旅立つ。お母さんも育児疲れの為か、リビングのソファで息子の大井和博と一緒にスヤスヤと寝息をたてている。リビングの端では、ゴールデンレトリバーのジョンが丸まって寝ている。室内の空気が穏やかに過ぎていく。
紅葉も急に眠くなってくる。紅葉はもぞもぞと楓を包むタオルケットの中に納まり、幸せそうに寝息をたてるのであった。
妹が死んだ。大井皐月は始め、その連絡が信じられなかった。
母親の不倫が原因で両親が離婚し、父親に引き取られた皐月と妹の秋奈はネグレクトを受けて育った。父親は母の面影を残す二人の少女が憎かったのだろう。新しく出来た家族にのみ愛情を注ぎ、皐月と秋奈は完全にいないものとして扱われた。皐月は高校には何とか通わせてもらえたが、大学など絶対に無理な状況であった。
皐月は高校卒業後、家を出、埼玉の設備プラントの事務員として就職することが出来た。三つ年の離れた妹の秋奈はこの時高校一年、このままあの冷え切った場所に置いてはおけないと、皐月が引き取ることにした。1DKの安アパートに二人、事務員の給料は決して高くなく、生活は貧しかった。
しかし、妹と二人だけの生活は楽しかった。家族の冷たい視線、食事を与えてもらえない空腹感、家に居場所がない悲しみ。すべてが悪夢のように消え去り、二人仲良く毎日を過ごした。妹は埼玉の公立高校に転入することが出来、毎日笑顔で学校に通うようになった。
喧嘩はたった一度だけ、高校卒業と同時に働くという妹に大学へ行って欲しいとお願いしたあの時だけ。妹には皐月が行けなかった大学生活を楽しんで欲しいと願った皐月のエゴと、姉にこれ以上迷惑をかけたくないと、秋奈が皐月のことを思いやったが為のすれ違い。あの時は激しい口論になってしまった。
結局、いい大学を卒業していい企業に入って、お姉ちゃんにいっぱい恩返しするという形ですべてが丸く納まり、大学を優秀な成績で卒業した秋奈は大手商社の総合職として就職することが出来た。
妹の仕事は忙しく、世界を飛び回って元気にプロジェクトをこなしている、と外国から折々の葉書で近況が送られてきた。入社二年目で右も左もわからないけど毎日が楽しいと書かれた葉書を読みながら、妹はもう一人前で私の手から離れたのだな、と安堵と寂しい気持ちを覚えたのを今も鮮明に覚えている。
そして、皐月は以前から付き合っていた会社の同僚、大井康夫と籍を入れることにした。妹に国際電話でそのことを告げるととても喜んでくれ、結婚式は盛大に行おうと張り切っていた。
身内が妹しかいない皐月を祝ってくれたのは会社の同僚たちだけであったが、結婚式は妹の希望通り、盛大に行うことが出来た。結婚式で一番記憶に残っているのは秋奈の泣きはらした笑顔であった。
秋奈は始まる前から泣きっぱなしで目を真っ赤に充血させていたが、それでも、披露宴の最後に手紙を読み切って、笑顔で、お姉ちゃん今までありがとう、と言われた時は皐月も涙が止まらなくなってしまった。
お互いに別々の道を歩みだした為、会うことは少なくなった。それでもよく電話をし、毎年一回は顔を合わせていた。三十歳になった皐月は、二人目の子供を妊娠したとフランスにいる秋奈に連絡した。
すると私も子供が出来たと秋奈に報告され、皐月はびっくりさせられた。結婚はしていない。相手は妻帯者で不倫だと妹が告げてきたとき、言葉が出なかった。産休で日本に帰ってくると告げられた時、必ず顔を出しなさいと言うのがやっとであった。
妹が不倫をしたことがショックであった。母が犯した過ちと同じ過ち。そのせいで私たちの人生が狂ってしまったのだ。それを妹が行った。どうしていいのかわからなくなってしまった。家に顔を出した秋奈を皐月は強い口調で問い詰めてしまった。どうしてそんなことをしたのか、と。
秋奈はほんの少し膨らんだお腹をさすりながら、笑顔で言った。
「好きになった人に奥さんがいるなんて知らなかったの。でも、そいつに奥さんがいるって気付いた時には、しっかりぶん殴って別れたから。もちろん、相手の家庭は壊してないよ」
でも、赤ちゃんが出来るとはびっくり、とあっけらかんと笑う秋奈に皐月も笑うしかなかった。とにかく出産するまではうちに住みなさいと命令し、悪いからいいと突っぱねる秋奈を夫と三歳になる息子も味方につけ、何とか説得し、一緒に出産に備えることになった。
しばらく一緒に過ごしていたのだが、やっぱり悪いからと妹は以前横浜に買ったというマンションに戻ってしまった。皐月にはもう絶対迷惑を掛けたくないとあの妹は思っているのだろう。こまめに連絡を入れ、アドバイスをしてあげるくらいが、逆に妹にとっては精神的に楽なのかもしれないと自身に言い聞かせ、皐月も出産の準備に入った。
もうじき産まれそうと弾んだ声で電話越しに伝えてきたのが、皐月が秋奈の声を聞いた最後になった。秋奈の死亡はトラックに撥ねられたことによる脳挫傷。大手宅配ドライバーがてんかん発作を起こし、歩道に猛スピードで突っ込んだとのことであった。死者は秋奈ともう一人、その人が有名スポーツ選手であったことから事故は連日のように報道され続けた。
妹の死に呆然とする皐月に秋奈のお腹の中にいた赤子が無事であったと伝えられた。スポーツ選手、牧村太一さんという方が、身を挺して秋奈のことを庇ったのだそうだ。牧村さんはトラックに全身を強打し即死であったそうだが、牧村さんの身体がクッションになり、お腹の子供は奇跡的に無傷であったらしい。緊急帝王切開で取り出された赤子は何の後遺症も見られない健康体であった。
保育器に入れられた妹の子供を見たとき、皐月は涙が止まらなかった。あんなに子供が産まれるのを楽しみにしていたのに。子供の名前が全然決まらない、お姉ちゃんどうしよう、と言っていたのに。その子供を見ることなく、妹は逝ってしまったのだ。
頽れる皐月を支えながら、夫の康夫がこの子は僕たちで大切に育てよう。だから、君は気をしっかり持って元気な赤ちゃんを産むんだ。そう言って皐月を励ましてくれた。康夫がいなければ、皐月は流産していたかもしれない。マスコミが連日のように皐月の元に詰めかけたのだ。皐月が臨月であるなど関係ないとばかりに家の電話とインターフォンは鳴りっぱなしであった。
そして、テレビでは秋奈の過去を勝手に報道し続ける。一部のコメンテーターが、秋奈を助ける為に日本サッカー界の至宝が命を落とし残念だとコメントした。それが、いつの間にか、秋奈のせいで、秋奈さえいなければ、牧村さんは死ななかったという論調になっていた。
あの子は被害者だ。なのに何だ。どうしてあの子がシングルマザーであることがいけないことになるのだ。産婦人科に向かっていたのに、妊婦が遊び回っているのが悪いということになるのだ。世間は一部の報道を自分たちの思うが儘勝手に解釈し、違うと言わない、言えないだけで、それを真実と決めつけていく。あの子の死が自業自得? 何なのだ。意味がわからなかった。絶対に許せなかった。
皐月はノイローゼになってしまった。食べ物を胃が受け付けず、倒れてしまった。入院し、点滴で栄養を摂取する日々。このままではお腹の中の子供が危ないと言われ、何とか食べ物を食べようとして吐いてしまう日々。そんな皐月を救ってくれたのは秋奈の子供であった。保育器から出された子を康夫が連れて会いに来てくれたのだ。
「この子は正式に僕たちの子供になったよ。ただ、出生届の名前欄を未記入で提出したからこの子にはまだ名前がないんだ。名前を決めて、追完届ってのを出さないとこの子の名前は永遠に名無しさんのままだよ。どうしよっか?」
康夫が優しく聞いてくる。皐月は赤子をベッドの上で抱き締める。名無しの赤子はじぃっと皐月を見つめてくる。赤子は視力がほとんどない。皐月のことはぼんやりとしか見えないであろう。それでも、この子は一生懸命こちらを見つめてくる。
まるで皐月の状態を確認するまでは目を離さないとばかりに視線をそらさない。その頑固なところが秋奈そっくりに思えて、皐月は泣いてしまった。そうだ。この子の為に私はこの子の妹を産んであげなくちゃいけないんだ。私と妹のように、この赤子と私のお腹の中の子が仲良く過ごす為に。
「……秋奈は秋が好きだったの。名前に秋が付いてるからなんですって。栗ご飯にさんま、さつまいも、美味しい食べ物がいっぱいで過ごしやすい季節であるのもポイントが高いんだって笑って言ってたわ。だから、そうね。この子は……紅葉ちゃん。ブラウンの髪の毛も真っ赤に染まったほっぺも紅葉みたいに綺麗だから」
皐月が赤子、紅葉の頬を優しく撫でながらそう呟く。康夫がいい名前だねと笑う。食べ物の名前じゃないところもばっちりだと言う。つられて皐月も笑う。腕の中で紅葉はいつの間にか眠っていた。寝顔が愛らしかった。
――この子を絶対幸せにしよう。
皐月は紅葉を見てもう一度笑う。久しぶりに笑った気がした。