28 「サッカー好きの女の子たち」
向山凛は浦和レッジレディースユースにこの春昇格したばかりの十六歳、高校一年生だ。
レッジランドでの平日練習、ついこの前まではジュニアユースで最上級生としてプレーしていたのが、今度はユースで一番下っ端として練習していることにちょっとだけ違和感を覚える。
レッジレディース下部組織は当然だが実力主義だ。ユース、ジュニアユースそれぞれで主力のAチームとそれ以外のBチームに分かれて様々な試合に出場する。学年は関係ない。実力さえあれば、ユースに昇格したばかりの凛でも即座にユースのAチームに入れる。
トップの選手が怪我をすれば、代わりにユースの選手がトップへ登録され出場する。その選手はユースAチーム所属なので、Aチームに空きが出来る。当然凛たちがいるBチームからAチームへ昇格がある。
それ以外でも監督に実力を認められれば、簡単に上へチャレンジさせてくれる。そう、上のカテへ挑戦するチャンスは絶えずあるのだ。あとは、そのチャンスをものにできるかどうか、それは凛たち選手の実力の問題だ。
チャンスをものにできなければ、すぐ下へ戻される。試合に使ってもらえなくなることはないが、自分の成長の為には、よりレベルの高いステージでプレーすることは重要だし、凛たちの目標であるトップチーム昇格が遠のくことになる。チャンスをいかにものにするか、それが常に問われている。
(といっても、実力をつける以外に道はないんだけどね)
凛はU_16日本代表に選ばれている。Bチームで活躍すればじきにAチームに呼んでもらえるだろう。というか、Bチームで埋もれるようなら、日本代表から脱落間違いなしだと考えている。
(絶対に日本代表に残るんだ。そうすれば……)
凛は隣のコートにいる超絶例外のことを横目で見つめつつ、早くAチームに上がってやるぞと気合を入れ直し、仲間たちと練習に汗を流す。
十九時、日が落ち、照明が点灯したところで本日最初の休憩時間となった。
凛は冷たい水を飲みながら皆と一緒の方角を向く。凛と同い年であるチームメイト、杉田と小松がそれぞれ視線の先にいる人物を話題に盛り上がっている。
「それにしてもやっぱり大井紅葉は違うね~」
「ねっ! マジヤバいわ! 見た? あのドリブル! マーカーギリギリをスイスイ進んでくの! 滑らかすぎで気持ち悪いレベルなんだけど」
「分かる! ジグザグドリブルのスピードじゃないよね! あのドリブルって足の小指で押し出すようにタッチするんでしょ? 世界の超一流がやってるのをあんな簡単そうにやってんだから! いやぁ、あり得んっすわ~」
パスの精度や、ドリブル鬼ごっこ、ラダートレーニングについても周りで盛んに、紅葉すげー、という会話がなされている。それは会場中も一緒なのだろう、皆が一点を見つめて同様の会話をしているようだ。
紅葉は春休み、男子に交じって海外遠征をしていた為、今日がジュニアユース初参加だ。マスコミ嫌いで有名な少女を見ようと、練習開始前から続々とマスコミが集まり、紅葉にレンズを向ける。
彼らだけでなく、凛たちチームメイト、そしてレッジ関係者たちからも、紅葉に好奇の視線が向けられる異様な雰囲気の中、当の紅葉は実にリラックスしたニコニコ笑顔で練習をこなしていた。
レッジランドではトップチームも練習している為、公開練習日には、それなりに観客やマスコミが入る。とはいえ、ここまで多く観客が集まったのは初めてだ。
そして酷いことに、トップチームが練習している隣のピッチには、観客が誰もいないと言う笑えない状況が、紅葉のせいで起こっていた。
凛たちは大歓声の前でプレーすることに慣れている。それだけの経験と自信を三年間で積んできた。
けれど、ジュニアユース、特に新一年生たちはそうではない。彼女たちは紅葉目当ての大観衆の視線に晒され、かわいそうなほど緊張していた。
紅葉と一緒にドリブルやパス練習をしている幼い少女たちは、簡単な初歩の練習、昨日までは問題なく出来ていたことすら出来なくなっていた。
凛は練習をしながら、横目で紅葉を、彼女たちを観察し、彼女たちがかわいそうだなと同情した。
彼女たちは紅葉の前で恥をかいてしまった。
紅葉はチームメイトがミスをするたびに、微笑みながらドンマイと声を掛けて、彼女たちの緊張を解きほぐそうとしていた。それが凛にはよく分かった。
(でも、それは逆効果なんだよねぇ)
凛は苦笑しつつ思った。どうやら紅葉は自分のことが何も分かっていないようだ、と。
大井紅葉はサッカーをする女の子にとってヒーローなのだ。
(女の子だけどね)
憧れ、尊敬する紅葉の前で恥ずかしいプレーをしてしまう。さらには慰められてしまう。落ち込まずにはいられない状況だ。
そんな状況での休憩時間、当然紅葉に話しかける者は誰もいない。というか、紅葉のまわりだけ、ぽっかり人がいなくなる始末だ。
紅葉は周囲を確認し、半端なく綺麗な顔に苦笑混じりの困った表情を浮かべていた。恥ずかしさから紅葉の傍に居られない、と逃げ出してしまったジュニアユース選手たちの気持ちは分かるが、紅葉がちょっと可哀そうだなと凛はその様子を見ていた。
しかし、紅葉がすぐにパァっと満面の笑みになるのを見て、凛は苦笑してしまう。
(何か打開策を思いついたみたいだけど、ふふっ、わっかりやすいなぁ~)
「……何かいいこと思いついたみたいね」
「うん、つーか、大井さんてめっちゃ表情分かりやすいよね。綺麗な顔だからかな?」
「いや、顔ってより、性格じゃない? あそこまでめっちゃ顔に出るってどんだけ素直な性格なんだろね~」
当然だが、紅葉を見ているのは凛だけではなかった。隣で杉田と小松が凛とまったく同じ感想を口にし、そのあと、
「でも、まぁ、あの子の隣で写真撮影はヤダわ」
「あ~、それねぇ、比べられるのは確かに勘弁だわな」
二人の乾いた笑いを聞きながら、凛は内心で同意する。そんな中、紅葉は女子ジュニアユース監督の渡谷に手を振りながら声を掛ける。
「お~い、コータぁ! ちょっと手伝ってぇ!」
その声は実によく響いた。そして、一瞬であたりの雑音が消える。すべての視線が紅葉から渡谷へと移動する。渡谷は呆然とした表情の後、自身の顔を指さし、俺のこと、と呟くように答える。紅葉が嬉しそうに笑いながら渡谷に近づき、話しかける。
「うんっ! ねっ、コータ、ちょっとこのボール頭に乗っけて立ってて……って、あ~! いや、そのごめんなさい! コータじゃないです! 渡谷監督です! 変な呼び方して本当にすみませんでした! つい、いつもの癖で、口が滑りました。もう、何やってんだ、私は……やっちゃったぁ。気を付けないから……」
紅葉が頬を真っ赤に染め、頭を抱えた後、深々と頭を下げて、渡谷に謝罪をする。渡谷が紅葉に何か言っている。おそらく、気にするな、だろうか。だが、その声は周囲で一斉に巻き起こった声によってかき消され、誰にも届かなかった。
小松が、不思議そうに問う。
「えっ! コータって渡谷監督のこと?」
杉田が、早口で答える。
「う、うん、確か、監督の名前って渡谷幸太郎……コウタロウだからコータなのかな」
同様の会話が会場中で交わされている。そして、皆が同じ疑問を持っただろう。
「で、あの二人の関係って何?」
「そりゃあ、あんなに嬉しそうな笑顔でコータなんて下の名前で呼ぶんだから……」
「……呼ぶんだから?」
「……………………恋人?」
会場中から悲鳴が上がった。カメラのフラッシュが咲き、渡谷と、そしてその隣に立つ、顔を赤く染めた紅葉を同時にフレームに収める。
渡谷が強化部長の江崎に連行されるのを見つつ、凛は苦笑を漏らす。
紅葉を避けていたはずのジュニアユースの選手たちが、いつの間にか紅葉を取り囲み、紅葉に次々と質問を浴びせている。
(大井さん、あっという間にジュニアユースの子たちと仲良くなってるし。ある意味、あれも才能なのかしら。てか、渡谷監督と大井さんの関係って何だろう? あの二人の接点なんて聞いたことないんだけど)
凛は紅葉のファンなので、大井紅葉ファンサイトは毎日チェックしている。そのサイトであの二人の話題などこれまで一度も上がったことはない。
(まぁ、不思議だけど、とりあえず)
「渡谷監督、終わったわね」
凛の呟きに杉田と小松が大きく頷いた。
休憩時間がその騒動だけで終わり、練習再開となる。と思っていた凛たちに、ユース監督の榊原祭 が練習内容の変更を告げてくる。
「だから、これから試合するわよ! 十五分の二セット、初めにBチーム、次にAチームだからね。ビブス配るから、ほら、さっさと受け取りにくる!」
皆が不思議そうに首を傾げたながら、ビブスを受け取っていく。凛を含め全員が受け取り終わる。隣ではジュニアユースAチームの選手たちが同じくビブスを付けていくのを見て、対戦相手が判明する。
「監督! どうして、突然下の子たちと試合をするんですか?」
キャプテンの遠田が当然の疑問を榊原にぶつける。榊原がガシガシと髪を掻きながら、実に面倒くさそうに答える。
「どうしてって、そりゃあ、あんたたちの為に決まってんでしょ?」
「私たちの為ですか?」
「そうよ。そうね、あんたたちの中で今日集中して練習出来てたって自信を持って言える奴、手あげてみなさい」
榊原の質問に誰一人手を上げる者はいなかった。皆が、だってねぇ、と言いたげな表情を作っているのを確認し、榊原が続ける。
「ほらね? まったく、大井に気を取られすぎ。まぁ、あの子に関しては仕方ない部分もあるけどさ。とはいえ、このまま練習したって実のあるもんになんないっしょ? だったら、あの子と戦って、スッキリしてきなさいってこと! 分かった?」
「え~と、はい、分かりました!」
ありがとうございます、と言いながら、遠田が半笑いになる。それは他の皆も一緒であった。つまりは、ジュニアユースAチームin紅葉と戦って、紅葉に対する浮ついた気持ちを取っ払って来いということなのだ。理由は分かる、分かるが。
「勝てる気がしねー!」
凛の思いを代弁したわけではないだろうが、Aチームゴールキーパーの田所が吠えるように言う。それを皮切りに、
「うちさ、小六の時、あの子にトリプルハットトリック食らって負けたんだ。まじあれトラウマなんだけど」
「何がトラウマよ! あんたは昔からフォワードだったんだから、直接やられたわけじゃないでしょ! あたしなんて、あの子のことマークさせられたんだよ。ただの一度も止められなかったけどね!」
私なんか、私は、とその後は紅葉にどれだけ激しく負けたかの被虐自慢大会が始まる。この場にいる選手たちはほとんどが埼玉県民である。紅葉とは小学生時代にどこかで戦って負けているのだ。監督が静かにしろ、と言わなければ、ずっと続きそうな勢いで皆が楽しそうに紅葉との敗戦経験を語る。
「はいはい、あんたたちがどんだけ大井に苦手意識持ってるか、分かったから。んじゃ、これから、その苦手意識も取り除いて来なさい。いくら大井がすごくても周りがしょぼけりゃ、勝てるでしょ。サッカーはチームスポーツだってことを教えてやりなさい!」
「……はい」
監督の相変わらずの酷い物言いに皆が苦笑しつつ、それでもと考えるのは、あの大井紅葉に本当に勝てるのか、という疑問だ。
全員で天然芝のピッチに移動する。スパイクを履き替え、ピッチに散らばる。
凛は、4-2-3-1のボランチ左につく。相手の紅葉が右サイドハーフに入るだろうと予想される為、凛と左サイドバックの風間、左サイドハーフの四条で紅葉にどう対応するか話し合う。
「風間パイセン! よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
実にいい笑顔で丸投げする四条に凛も続き、風間に紅葉のマークを押し付ける。風間は、こいつらっ! と怒ったフリをした後、苦笑いしつつ、
「はぁ~、もう……いいけどさ、でもフォロー絶対早く来てよ! 特に四条! 大井のパスコースきっちり切ってよ! 向山は距離気を付けてね!」
「はーい!」
「はい」
他に気を付ける選手って笠井くらいだっけ? あいつ足早いから裏気を付けろよ、と言った会話を交わしているうちにホイッスルが鳴る。
相手のジュニアユースAチームも4-2-3-1と同じフォーメーションのミラーゲームとなった。こちらは紅葉を警戒してフォワードを一枚減らし、ボランチを二枚にしたことで。相手は格上相手に守備的フォーメーションを選択したからか。
試合は開始直後から、こちらが攻める展開となる。こちらの左側は相対するサイドハーフの紅葉を警戒し、攻め上がりを自重する。代わりに右サイドバックが高い位置を取り、右サイドから一気に崩しにかかる。
(うん、後輩たち、いい守備するじゃん)
一対一で負けても必ずフォローが入り、最後の一歩を崩させない守備をジュニアユースチームはしていた。4バックに中盤四人が戻り二列に並ぶ。前線は紅葉とフォワードの笠井のみ。現代サッカーにおいて、もっともポピュラーな守備陣形だ。
いかに早くしっかりした守備陣形を作れるか。いかに早く相手の守備陣形が整う前に攻撃に移行出来るか。
基本中の基本戦術だが、実はとても難しいこの課題をレッジ下部では徹底的に意識させられる。ついこの前まで一緒のチームにいた子たちがそれを実践しているのを見て、凛は敵ながら嬉しくなる。
とは言っても手詰まりだ。右側からしか攻めなければ、当然敵も右側に守備を集める。大混戦のぐちゃぐちゃとした見苦しいボールの奪い合いとなる。
それでは当然、崩せるわけがない。掻き出されるボールを拾ってまた右を攻める。その繰り返しが四度。押し込んだ状態で、段々と全体が前がかりになる。そして、左にはポッカリとスペースがある。
サイドチェンジが有効であり必要な局面だ。凛はちょこちょこ動いている紅葉を見た後、四条にアイコンタクトを送る。四条が嬉しそうに頷く。
四条がタイミングを見計らい、左サイドを駆け上がっていく。凛はハーフウェイライン中央で右バイタルから戻されたボールを受け取り、四条へとパスを供給しようとする、が。
――ここ狙うかっ!?
紅葉がいつの間にか凛の目の前に現れ、ボールをノーコンタクトで奪っていく。そして紅葉は、奪った勢いのまま、流れるように凛の横を抜けていく。
凛は腰をひねりながら後ろを向く。とっさに手が伸びる。倒れながら紅葉のユニホームを掴もうとする。
「くっ、ちきしょう!」
照明の加減で美しい金色に見える、紅葉の纏められた髪が、凛の手をすり抜ける。紅葉が一瞬でトップスピードに加速し、ドリブルする。走るたびに靡く紅葉の髪が、凛には喜びをめいいっぱい表現する犬の尻尾のように見えた。
凛が崩れた体勢を立て直し、身体を後ろに向け、走り出した一秒ちょっとの間に、紅葉とは十メートル近くの距離が開いていた。
左サイドバックの風間が紅葉の斜め前を走り、紅葉の足を遅らせようとする。センターバック二枚、横山と斉藤が相手フォワード笠井を間に挟みつつゴールへ急いで戻る。
二人のセンターバックは、いつ紅葉から笠井へスルーパスが来てもいいよう、笠井と紅葉のパスコースを切り、なおかつオフサイドトラップを取れるよう、独走は絶対に許さないよう駆け引きしながら、後ろを何度も振り向いての全力疾走だ。
全体が前がかりになっていたところに、バックパスを奪われるという最悪なカウンターになってしまった。
三対二と守備の人数は一応足りている。足りているのだが、相手が悪すぎる。ハーフウェイラインから中央を駆け上がってくるのはあの紅葉なのだ。
風間は紅葉に抜かれないよう、紅葉の斜め前を並走するが、まったくディレイになっていない。凛も全力で戻っているが、まったく追いつけない。さらに一秒経ったところで、キーパーの佐賀がセンターバックの横山に紅葉へ行けと大声で指示する。
が、指示が遅かった。横山が紅葉へ向かう前に、風間が紅葉に並ばれたのだ。風間はファウル覚悟で紅葉を捕まえようとした。しかし、風間のタックルは紅葉が斜めに進むことであっさりとかわされる。
スピードを落とすことなく紅葉が三十メートル独走する。あと十メートルちょっとでペナルティエリアだ。パスだけでなく紅葉自身のシュートまで警戒しなくてはならない。ファウルも出来なくなる。
完全に後手後手だ。紅葉の前に突っ込んだセンターバック横山がダブルタッチであっさりとかわされる。最初から笠井など無視して紅葉へセンターバック二人が行くべきだったと思ってしまう結果だ。
センターバック斉藤が笠井をフリーにして紅葉に突進しようとする。笠井をオフサイドポジションにしつつ、紅葉を止めに行く。この絶体絶命の状況において一番失点を防ぐ可能性が高く、そしてある意味セオリー通りの守備だ。
それは当然、紅葉に読まれていた。紅葉の右足が振るわれる。オフサイドギリギリでボールがゴール前へ。走りこむ笠井より、キーパー佐賀の方が先に届く距離。
佐賀が飛び出す。だが、ボールには猛烈なバックスピンがかかっていた。
笠井の利き足である左足、その一メートル手前に紅葉からのスルーパスが戻ってくる。笠井は飛び出した佐賀の脇にボールを流し込むだけでよかった。
ゴールのホイッスルが鳴り、ピースをする笠井に紅葉が飛びつく。
凛は笑いたくなった。全力でドリブルし、スピードを緩めることなく二人かわす。そして、全力疾走中にオフサイドギリギリで味方の利き足にドンピシャなスルーパスを出す。
特に最後のスルーパス、あれはシビアすぎるタイミングのはずだ。それこそ、一呼吸、一歩分、瞬き一つでパスのタイミングを逸する。
紅葉ならそのままシュートを打った方が楽であったろうし、成功確率も高かっただろう。だが、それでも紅葉はパスを選択した。
(なぜ? 大井さんは常に確実な選択をするクレバーな選手なのに)
ゴールを祝福する為に皆が集まってくる。どうだ、とドヤりまくる笠井に皆は、
「いや~、さすが大井さん! ほんっとうにスゴイ!」
「ね~! あのパスカットからのカウンター、ちょー早かったし、もうっカッコよすぎ! ボール蹴ってる時の方が、ボールない時より速く走れるって噂、本当だったんだね!」
「それにそれにっ、スルーもっ! 大井さんマジウマだったよ!」
興奮冷めやらぬチームメイトたちに紅葉は微笑み、ありがとう、とお礼を言っている。完全に無視された笠井が拗ねて、
「あ、た、し、の得点だぞぉ! あたしに感謝しろよぉ~」
「あ~、はいはい、よくやったよくやった」
「うん、よくやった」
いつものことと笠井に適当な相槌を打つチームメイトたち。紅葉だけが笠井を褒め称える。
「うん、笠井さんの動きとフィニッシュ、すっごいよかったよ! でもね、皆があの猛攻をしっかり守ってくれたおかげでカウンターが出来たんだ。だからね、この得点は皆の得点なんだよ。お互いに感謝し合って、喜び合おう?」
「うぅ~! 大井! お前チョーいいヤツだな! そうだよな! 皆があたしの得点をお膳立てしてくれたんだもんな! サンキュー、お前ら!」
笠井が本当に嬉しそうに笑いながら、紅葉の頭を撫でる。紅葉も嬉しそうに微笑む。それを見たチームメイトたちは、
「なんか、笠井の言い方、上から目線で超ムカつくんだけど……まぁコーローシャの大井さんが嬉しそうだからいいのかな?」
「いいんじゃない? 二人ともめっちゃ嬉しそうだし」
結局、皆が笑顔を浮かべ、ハイタッチを交わす。試合時間はあと少しだけ残っていたが、区切りがよいということで終了となり、凛たちは交代する為にベンチへ引き返す。
凛はベンチへ戻る前に紅葉へ声を掛けた。
「大井さん、どうしてシュートじゃなくてスルーパスを選択したの? シュートの方が楽だったでしょう?」
凛は紅葉を追いかけていたのだ。紅葉の斜め後ろから、ほぼ紅葉と同じ視点であの時の状況を見ている。ほとんど角度のない味方へのスルーパスと、両脇へコースを狙って打てばいいシュート。タイミングは言わずもがな。
なのに、紅葉が選択したのはスルーパスであった。それにどんな理由があったのか、凛は知りたかった。紅葉は少し驚いた表情をした後、考えながら言葉を紡ぐ。
「え~と、そうですね。確かに、シュートの方が簡単だったかもしれないですかね。でも、シュートじゃ、ちょっと足りないなって思ったんです」
「足りない?」
「はい、この、先輩たちとの試合って、たぶんですけど、私の為にしてくれてるんですよね? 遅れて参加した私がチームに溶け込めるようにって。あとは、私がどれだけ出来るのか見る為ってのも考えられるんですけど、どっちにしても私の為にやってくれてるんだと思うんです」
違ってたら、恥ずかしいんですけどね、と、紅葉がハニカミながら、続ける。
「だから、私はこの試合でどんな選手か示さなきゃって思ってました。でも、私を知ってもらうチャンスに、シュートを決めるだけじゃちょっと足りないし、もったいないかなぁって。シュートは私一人で完結しちゃうじゃないですか? でも、パスは私だけじゃ完結しない。パスって出し手と受け手のイメージが共有しないと上手くいかないから。私はこんなパスを出せるんだよって、皆に知ってもらえれば、皆は私がボールを持った時、私のパスを想像して動いてくれるようになる。私はそんな皆のことを想像してパスを出す。私がこのチームで積み重ねる一歩目として、あの場面ではパスだったんだと思うんです」
もちろん、シュートでもよかったと思うんですけどね、と紅葉が微笑む。紅葉と凛の会話を皆が静かに聞いていた。
「ありがとう、大井さん。あなたのパスを受けられるように私も頑張るわね」
凛は紅葉にお礼を言って、その場を皆と後にする。
「大井さんってさ、笠井へのあの超絶パスでも、満足してないんだね」
「まぁ、笠井の奴も何度か飛び出しをやり直してたし、そこんとこを完璧にしたいんだろうけど。それにしてもあれ以上を目指すのか」
「いやはや、どんだけ理想が高いんだか」
「ねっ! でもさ、それに合わせられるようになったらって想像するとさ……」
「うん……」
皆が顔を見合わせ、同じ表情になっていることを確認し、凛は笑う。周りからも笑い声が漏れる。ベンチに戻ってきた凛たちを待ち構えていたユースAチームが早速とばかりにからかってくる。
「お前ら、マジで負けるとか! ダサすぎるだろー!」
「そうそう、もうこれは全員下と交代でしょう! ……って、なんであんたたち揃いも揃ってそんなにニヤニヤしてんの? めっちゃ気持ち悪いんだけど」
負けて落ち込んでいるだろう凛たちを、元気付けるつもりで待ち構えていた先輩たちには、さぞや凛たちは不気味に見えたことだろう。どうしたのか、と心配した表情で聞いてくる先輩たちに、凛たちは笑うだけで何も答えない。
こんな気持ちになったのはいつ以来だろうか、と考えた凛はすぐに思い出す。かつて、兄が小学一年生の小さな少女と戦ったあの試合。あの時以来だと。
兄を応援しに行っていた凛はあっという間に、兄の応援を忘れ、小さな少女を応援していた。自分より小さな少女が本当に楽しそうにサッカーをする姿は眩いばかりに輝いて見えた。
(自分もあの子みたいに上手くなるんだって思ったのが、私の原点だったなぁ)
そうだ、と、凛は名案を思い付く。久しぶりに兄に電話をしよう。そして、今日のことを話そう、と。あの紅葉を天敵認定している兄のことだ。さぞや、面白い反応をしてくれることだろう。
(大井さんのこと嫌い嫌い言ってる癖に、大井さんのことなら、なんでも知りたがるお兄ちゃんのことだから、きっと物凄く食いついてくるはず)
浦和レッジから札幌へレンタル移籍した兄の顔を思い浮かべ、凛は笑う。ひとしきり笑った後、凛はジュニアユースとユースAチームの試合を観戦する。
(なるほど、先輩たちの自信のもとはこれか)
ユースAチームは4-3-3、ジュニアユースは引き続き4-2-3-1のフォーメーションだと思うのだが、分からない。
分からないのには理由がある。ユースAチームがハイプレスをかけているからだ。それも普通のプレスではない。ボールに対して二人プレスに行く。それも相手キーパーからだ。
センターバックすら敵陣に侵入し、猛スピードでボールを追いかけまわす。誰も一瞬たりとも止まらない。全員でプレスし、連動しながらパスコースを切り続け、ルーズボールには飛び込むように突進していく。
スピードも技術も体格も上の選手にこれをやられたら、ボールはあっという間に奪われてしまう。
(なるほど、大井さんにボールを渡さない為に、大井さんをマークするんじゃなく、ずっとボールを保持する作戦か。でも、これって)
「きったないなぁ~」
「ね~! 先輩たち、自信満々に大井さんを倒すって言ってた癖にこれって、最低すぎるでしょ!」
周りから批判の声が上がる。当然だ。こんなハイプレスをずっと続けられるわけがない。これは、試合時間が十五分と短いから出来る作戦だ。実戦では使えない。
とはいえ、この作戦は実に有効であった。立て続けに2点奪ったユースAチームは、その間、紅葉にボールを触らせていない。
そして、十五分間、選手交代をしまくって、超全力でハイプレスをし続け、紅葉にボールを持たせなかったユースAチームが3-0と完勝して練習試合は終わった。
試合終了のホイッスルとともにピッチに倒れこむユースAチームの選手たちを見つめながら、紅葉が、
「こ、これがレッジのサッカーなのか。恐ろしいところに来ちゃったかも……」
と、呆然と呟いたらしい。完全なる誤解を紅葉に与えたユースAチームの選手たちは、体力を使い果たし、その日の練習はそれ以降何も出来ず、監督に怒られまくっていた。
怒られている間、それでも、彼女たちは満足そうに笑っていた。