22 「楓と雪奈の戦い 後」
立花雪奈は浦和領家のセンターフォワードだ。味方の最前列、相手ゴール前に陣取り、得点を奪うことが役目だ。どんな時でもそれは変わらない。当然、下関戦でもそれは変わらない。
(……はずなんだけどなぁ)
マズい展開になってしまったと雪奈は焦っていた。
試合開始早々、浦和領家は失点してしまった。ホイッスルがなり、浦和領家ボールでスタートした前半頭、吉田、和博、雪奈と中央で回し、そこからサイドを駆け上がってきた鈴木へフィード、鈴木が右サイドを抉り、マイナスクロスを上げた。最近の領家らしいパス回しからの崩しだ。しかし、そのボールは相手キーパーにキャッチされてしまう。
そこから、相手キーパーがパントキックでクリアしたボールが前線に残っていた相手フォワードにドンピシャで渡り、そのフォワードが振り抜いたシュートはあっさりとゴールに吸い込まれた。あっという間の出来事であった。
相手のカウンターが決まることなど、サッカーでは普通の出来事である。出鼻をくじかれはしたが、落ち着いて同点、逆転を狙えばいい。それに相手は下関、はっきり言って領家よりも格下である。
下関のカウンターだって、キーパーのキックはサイドボレーではなく、ただ強く前に蹴ることだけを考えた、コントロールのまったく出来ないパントキックであったのだ。それが、たまたま丁度いい具合に、マークについていた大山の頭を超え、相手フォワードのところに落ちたのだ。
すぐに追いつける。逆転出来ると雪奈、そしてチームメイト全員が思っていた。カウンターだけは気を付けようと声を掛け合い、ボールを回して攻め込む。けれど、相手は一点リードしたことでゴール前を固めてきた。前線に得点を取ったフォワード一人を残して、後の六人がゴール前にひしめいている状態だ。
領家はずっとボールを保持し、相手を攻め続ける。ゴール前を固められた時のセオリー通り、ミドルシュートを何度も打ち、相手守備陣をゴール前から引きずり出す。そしてミドルと見せかけて、スルーパスから抜け出しを図る。またサイドからクロスを単純に上げるのではなく、カットインして、逆サイドに振る。監督の指示のもと、雪奈たちは猛攻を仕掛けた。
雪奈自身、三度、決定機があった。けれど、相手キーパーのファインセーブ二回と自身の狙いすぎが原因でポストに弾かれ、ゴールを奪えなかった。ピンチの後にチャンスありとよく言うが、当然、チャンスの後にはピンチがある。相手のカウンター一発で領家は危うくまた失点しそうになる。キーパー佐野が相手フォワードとの一対一を何とか止めて、その場は失点を免れた。
相手フォワードはディフェンダーの大山がマンマークしている。大山はフィジカルの強いディフェンダーで、対人戦に滅法強い。相手フォワードとまともに勝負すれば、確実に大山がボールを奪うだろう。そう分かっていても、また決定機を作られては大山一人に任せることは出来ない。次の一点は試合を決めてしまうのだから。慎重を期し、八滝の指示の元、左サイドバックの都築が大山とコンビを組んで相手フォワードをマークする。
相手陣内で攻め続ける領家にとってこれで、相手フォワード一人とこちらのディフェンダー二人が実質的にいなくなった。フィールドプレーヤーは相手が六人で守り、こちらは五人で攻めている状態だ。攻める方が一人少ないのだ。押し込み、ボールはずっと相手陣内で領家がパスを回しているが、最前線ではフリーの選手を作れなくなってしまった。
時間が刻一刻と過ぎていき、その度に一点の重みが増す。そうなると、領家はボールを安易にフォワード、雪奈のところに集めるようになる。最もキツイマークにあっているのにだ。監督からは大声でサイドサイドという声が飛んでいるのだが、吉田や八滝は中央にいる雪奈に縦パスを送ってくる。
(信頼されちゃってるね、わたし! くっ、でも、前向けないのにどうしろっていうのよ)
雪奈は二人に挟まれながら、来たボールを右足でトラップする。左側のディフェンダーは雪奈に密着して審判から隠れるように雪奈の腕を押さえつけている。右側のディフェンダーの足が伸びてくる。
――なめんな!
左側の相手ディフェンダーに全体重を預けるようにのしかかる。そしてボールをヒールで後ろ、ゴール前にちょこんと蹴り出す。左は雪奈にのしかかられ、よろけている。右はボールを取ろうと足を伸ばして前のめり。思いっきり180度右回転する。押さえつけられていた手を振り払い、二人のディフェンダーの中央を完璧な形で突破することに成功する。
とはいえ、半歩後ろに二人ディフェンダーがいる。またすぐ囲まれてしまう。判断に迷っていたら即座にボールを奪われる。キーパーとゴールの位置を確認している時間はない。地面を転がるボールをしっかり見て、感覚を頼りにつま先でシュートを打つ。
――感覚派をなめんな!
キーパーにコースを読まれにくく、振りを小さく出来るトーキックで打った後、雪奈は相手ディフェンダーのチャージを後ろから受けて前のめりに転ぶ。雪奈はすぐ立ち上がり、ボールの行方を探す。そのボールがゴール脇に転がっているのを確認し、ふうぅ、と息を吐き出す。吉田が審判にアフターチャージではないかと質問するが、違うと言われる。
結局このプレイが浦和領家にとって最後のチャンスになってしまった。絶対に勝たないといけない試合に一点ビハインド。残り時間は僅か。選手間の声掛けがなくなり、ボールが回らなくなる。横パスがなくなり、縦パス一辺倒になってしまう。以降チャンスは作れなかった。
試合が終わり、皆が俯きがちにピッチを後にする。痛恨の敗戦だ。リーグ戦残りを三勝二敗で四位というプランが完全に崩れてしまった。はっきり言ってもう領家が勝ち上がることは不可能だろう。
雪奈たち六年生にとってこのリーグ戦に勝ち上がらなくては、その時点で領家の一員として出る公式戦はない。リーグ戦ラストの浦和レッジ戦が公式戦引退試合となる。
(私のせいだ。私がゴールを決められなかったから……これで、私の引退試合は浦和レッジかぁ)
雪奈が内心で盛大に悔やんでいるところに、監督が優しく出迎えてくれる。
「皆お疲れ様! 怪我や目眩はない? 大丈夫かな?」
はい、と皆が答える。しかし、その声にはいつもの元気がなかった。
(皆も落ち込んでるんだ。でも、それは仕方ない。絶対に負けちゃいけない相手だったのに。あ~、紅葉ちゃんに合わせる顔がないわぁ)
皆の気持ちに気付いたのだろう、監督が少し苦笑した後、明るい声で話しかけてくる。
「皆、そんなに落ち込まない! 勝負は時の運、負けることは仕方ないんだから。大事なのは負けたことから目を逸らさずに、何で負けたか分析して次に活かすことなんだから」
よし、クールダウンしながら何が足りなかったか皆で考えてみよう! ほら、しっかり汗拭いて着替えてスポドリもいっぱい飲もう! さあさあ、急いで急いで! と、監督はいつものルーチンを口にする。
今は負けた下関戦のことより、グルスタ戦の対策が大事なんじゃ、と雪奈は思ったが監督にそれを言うのは躊躇われた。
(今から対策なんて無理だもんね)
皆が、はい、と答え各自行動に移る。そしていつものように入念に試合後の柔軟体操を行う。それが終わったら、早めの昼食を取る。昼食はいつもの馬鹿騒ぎは鳴りを潜め、静かに終わった。そして、午後の試合に向けたミーティング、監督の第一声は、
「今日の敗因は何だったと思う?」
という質問であった。皆が沈黙する。そして雪奈の方を伺ってくる。大体八滝が茶化して答えない場合は、雪奈が答えるのが浦和領家のお決まりだ。
(まったく意気地なしなんだから。うちの男どもは)
溜息を堪え雪奈は答える。
「……それは早い時間に先制点を取られたことで、相手が引いちゃったからだと思います。守りを固める相手を最後まで崩せなかったんです」
「そうだね。うちは惜しいシュートは何本も打てたけど、最後まで相手の守りを崩せなかったね。相手の守りがよかったからかな? 運がなかったからかな? うん、どっちもあるだろうね。ボールの転がりで明暗が付くのがサッカーだからね。じゃあ、次は、相手を崩すのにうちは何が足りなかったと思う?」
「……決定力ですか?」
試合でシュートをすべて外してしまった雪奈の回答はその一言に尽きる。他にあるかな? という監督の質問に皆が答えていく。
「早く点を取り返そうとしてパスを立花先輩に入れすぎた気がします。相手は先輩のマークをタイトにしてたのに。もっと攻めのバリエーションが必要だったと思います」
攻撃的ミッドフィルダーの吉田が悔しそうな声音で言う。続いてセンターバックの大山が反省を口にする。
「俺が相手のマークを失敗して簡単に点取られたせいかな。それに、その後もピンチを作っちまったから、都築がフォローすることになっちまった。そのせいで攻め切れなかったんじゃねーかな」
攻め上がりが足りなかった。もっと、攻撃参加すべきだった。と、その他のメンバーがそれぞれ口にする。監督はそれに頷きながら、
「そうだね。皆しっかり試合を振り返れてる。じゃあ、その反省点を次の練習で改善していこう! って言いたいところだけど、もう一時間後には試合なんだよね。ということで、今出てきた反省点はぶっつけ本番で修正する必要があるんだけど、難しいかな。それに今君たちに必要なのは自信なんだ。次のグルスタ戦、皆は負けるって思ってるでしょう?」
皆が沈黙する。誰もが分かるほど、その沈黙は肯定を表していた。
「君たちが残りの試合、三勝二敗で四位を目指してるのは僕も知ってるよ。まぁ、それで四位になれるかは別としても、グルスタと浦和レッジ以外には勝つっていう目標は妥当ではある。けれど、下関戦は負けられないっていう気持ちが出過ぎちゃってたね。そのせいで、ディフェンスラインが最初から高くなって得点されてしまったし、逆転しなくちゃってことで攻め急いでしまっていた。うちの方が強い、下関なんかに負けるわけないっていう気持ちはあまり褒められたことではないんだけど、ある程度ならプラスに作用するんだ。自信を持ってプレー出来るから。けれど、下関戦では負けたらお終いだっていう気持ちになっちゃってたね。そんな気持ちじゃ、満足なプレーは出来ないよ。いいかい、サッカーは技術やフィジカルの前に大前提として強いメンタルが必要なんだよ。そのメンタルは本番を想定した練習で培われるんだ。そして、試合では練習で出来たから出来るっていう自信を持ってプレーする。そして試合で出来た。勝ったっていうのがまた自信になるんだ」
でも、困ったことに下関に負けたことで今の君たちは自信をなくしちゃってるね? そう言って一人ひとりの顔を見る監督に雪奈は全くその通りだと苦笑する。
「練習は試合のように、試合は練習のように。次からはこの気持ちを持って練習と試合に臨むように、以上!」
「えっ!? 解決策は?」
つい、素で突っ込んでしまった雪奈に監督が実にいい笑顔で、ない、と断言する。まじかよ、という呻き声に監督は、
「いい機会だからぼこぼこに負けてきなさい」
と言って親指を立てる。そこに監督のスマホが鳴り、ごめんちょっと失礼と謝ってから電話に出る。
「うん、うん、えっ! うん、それは大丈夫だよ。うん、わかった、うん、うん、え~、せっかく今お父さんがヒール役を演じたばっかなのに、いや、何でもない、こっちのこと。………………うん、わかった伝えるね。うん、うん、じゃあ、待ってるよ。はい、バイバイ」
スマホをしまった監督が、ごほん、とわざとらしい咳払いをした後、何とも言えない表情を浮かべて言う。
「紅葉がこれからこっちに来るそうです。それと、紅葉からのメッセージを伝えます。一試合目に出れなかった悲しみを二試合目にぶつける、とのことです。後、楓に活躍するって言っちゃったから、試合に出たいとのことです。控えはイヤだと申しております」
「……ぷっ、ふふふっ、分かりました」
「ははは、了解です」
「たく、あいつは」
皆が笑いながら紅葉のメッセージに頷く。いつの間にか次のグルスタ戦が怖くなくなっていた。それは皆も一緒であったようだ。軽口が復活し、八滝たちがいつものように喧嘩を始める。そして試合開始五分前、やっと紅葉が到着した。
いつにもまして笑顔が弾けている紅葉に監督が声を掛ける。
「紅葉、アップは済んでるのかい?」
「うん、タクシーの中で柔軟しっかりしてきたから大丈夫!」
「そうか、じゃあ右ウィングで先発だ。サイドから相手を崩してくれるかい? あと、今度からタクシーでの柔軟は禁止だからね。マナー違反だとお父さんは思うよ」
「うん!」
「怪我だけは気をつけるんだよ。和博、和博には全員のバックアップをやってもらうからね! すぐ出番来るから集中力を切らしちゃだめだよ」
「はい!」
八滝が笑顔がキラキラ輝いている紅葉に話し掛ける。
「紅葉、身体だけじゃなく、気持ちの準備は出来てるか? 試合は練習の延長で、練習は試合と同じ気持ちでやらなくちゃいけないんだからな!」
監督の言葉そのまま、受け売りを偉そうに言う八滝に皆が呆れる。雪奈も八滝に注意しようとするが、その前に紅葉がキョトンと小首を傾げながら答える。
「? 練習は練習だし、試合は試合だよ? 練習の楽しさと試合の楽しさは全然違うと思うけど? どっちも楽しいけど、おんなじ楽しさじゃないよ?」
「いや、俺が言いたいのはそんなことじゃなくてだな! 試合に臨む準備が必要だって話をしているんだぞ」
「? ……ああ! 確かに! 試合前日は楽しみ過ぎて夜なかなか寝れないよね! でも、私はちゃんと九時に寝てるから大丈夫だよ!」
あまりにかみ合っていない二人の会話に皆が笑いだす。雪奈も笑いながら紅葉に話しかける。
「あははははっ! 紅葉ちゃんにとってサッカーは練習も試合も違った楽しみがあるんだね! うん、その気持ちならいつでも百パーセントの力を出せるんだろうね!」
(昔は私も試合前日ウキウキして寝れなかったな。懐かしいなぁ、あのころは本当にサッカーが楽しかったなぁ……今はどうだろう? 私はなんで苦しい思いをしてまでサッカーをしてるんだ? いや、楽しいからサッカーを続けてこれたんだ。紅葉ちゃんみたいに楽しまなくちゃ)
雪奈は一度大きく深呼吸してから、大きな声で浦和領家の面々を見ながら言う。
「じゃあ、試合を楽しもう! そんでもって楽しい試合をより楽しくする為に勝ちましょう! ねぇ、みんな!」
「おお!」
「だな! 相手がどんだけ強かろうと紅葉みたいに楽しんだもん勝ちだしな」
「こっちは失うものなんてないんだから、当たって砕けろだね!」
「砕けるのはヤダから俺は勝つ」
皆が好き勝手なことを言いながら笑いあう。雪奈も得点を決めてみせるぞと気合を入れる。
浦和領家は気合十分でグルスタとの試合を始めることが出来た。それでも、相手は強豪街クラブ、加入時の選抜試験を潜り抜け、さらにそこからチーム内競争に勝ち上がって試合に出ている選手たちのチームなのだ。皆、身体能力が高く基礎スキルが備わっている。攻める領家の攻撃を完璧にブロックし、カウンターを繰り出してくる。
自身より十センチ以上高い相手ディフェンダーに囲まれながら、雪奈は何度もダッシュを繰り返す。未だ一度もボールは雪奈のところへ届いてはいない。前を向いた吉田からのスルーも雪奈の前でカットされてしまう。
(ふふっ、さすがに隙がない。あんなに厳しいチェックを受けてたら吉田も正確なパスなんて出せないわね。それにもしさっきのパスが来ても多分シュートまでいけてなかった。う~ん、やっぱこいつらすごいわ)
雪奈は笑う。楽しくて仕方なかった。
――そう、こんな奴らからゴールを奪うから面白いのだ!
(あ~、本当に楽しい! この気持ちいつ以来だろう? いつから、私はサッカーを楽しめてなかったんだろう。本当にもったいないことしてたなぁ)
フォワードは試合中、何十回、何百回とボールが来ないところでダッシュを繰り返す。そのうちの何回ボールに触れるか。何回シュートまで行けるか。何回得点出来るか。
一点も取れないことが当たり前。一本もシュートを打たせてもらえないことがある。数回しかボールタッチ出来ないことだってある。
ゴール前は戦場だ。相手ディフェンダーはフォワードを止める為なら何でもしてくる。ガシガシ削ってくるのに耐え、押し合いへし合いに耐え、挑発や悪口にも耐えなくてはならない。
耐えて耐えて、そして騙すのだ。右に行くと見せかけて左。蹴ると見せかけてドリブル。リズムを細かく刻んで、出足を悟らせない。転がってくるボールにいち早く反応し、ディフェンダーとキーパーを持てる技術とトリックで出し抜きゴールする。
――その駆け引きが楽しいんだ!
大山が相手フォワード、細田からボールを奪う。細田は身長百七十五センチのデカさとパワーが売りの選手だ。技術も高く、ナショナルトレセンに選出されるほどの実力者だ。だが、細田も恐ろしいほど気合の入った大山相手には手を焼いているようだ。
(大山やるじゃんか! あいつは本当にプレーにムラがあるわねー)
ボールが大山から八滝、そして吉田へと渡る。吉田が相手の速い寄せに対応し、ワンタッチでサイドの鈴木へ流す。すかさず吉田は反転し相手ミッドフィルダーを追い越す。手を上げてボールを要求する吉田に鈴木が吉田の前方へボールをパスする。ドリブルで中央を駆け上がる吉田。
(吉田は本当に上手いわ! イップスも治ってきてるって言ってたし、次の主将はあいつね)
雪奈は相手ディフェンダーを引き連れながら高い位置に行く。雪奈自身はゴール前でディフェンダー二人に完璧に囲まれてしまう。吉田からのパスは来ない。でも、これで!
――紅葉ちゃんの飛び出すスペースが生まれる!
吉田が、右サイド前方フリースペースへスルーパスを出す。そこには相手ディフェンダーに執拗にマークされていた紅葉が駆け込んできている。雪奈が上がったことでオフサイドラインが上がる。そのスペースに紅葉が相手より早く飛び出したのだ。それでも、紅葉がボールを右足で受け取る時には隣にグルスタディフェンダー六番が追いついている。紅葉とグルスタ六番が向かい合う。観客から大歓声が巻き起こる。
(みんな、紅葉ちゃんを応援してる。まぁ、あんな可愛い小さな子が笑顔でデカブツを抜くんだからねぇ~。応援するし、盛り上がるわよね。さて、じゃあ私は!)
皆の視線、グルスタディフェンダー陣までの視線が紅葉に注がれる中、雪奈は二人のディフェンダーに挟まれた状態から、静かに後ろへ後退する。そして回り込むように左サイド側、紅葉から離れるように移動する。当然、ディフェンダーの片方に見つかり、そいつからもう片方へと注意の言葉が飛ぶ。二人のディフェンダーが雪奈に近寄ってくる。
――よし! 今だ!
雪奈は紅葉のいる方であるゴール前右ニアへ猛然とダッシュする。ディフェンダー二人を瞬間置き去りにし、フリーになる。紅葉は相手六番の図体に隠れてまったく見えない。それは雪奈の動き出しも紅葉には見えていないことを意味する。けれど、ここしかないと雪奈には思えたのだ。
ゴール右端へ駆け込む雪奈、後ろからディフェンダー二人が追いかけてくる。キーパーもニアにポジションを修正するように飛び出してくる。
――今!
しかし、雪奈の願いは叶わず、ボールは来ない。ゴール前を駆け抜けた雪奈は止まり、ディフェンダー二人が雪奈の前後に殺到する。
(まだまだ! 次はどうする。もう一回フリーになってやる!)
さすがの紅葉も雪奈の動き出しを感じてはくれなかったようだ。それにまだ紅葉は六番の影に隠れたままだ。紅葉でも簡単に抜けない相手とは、紅葉と対峙する相手ディフェンダーはかなりのものなのだろうと雪奈は推測し、すぐさま次の動きを考える。そこで気が付く。ボールが雪奈の頭上を通過していくことに。
「えっ?」
雪奈はボールを見上げたまま呆然と呟き、ボールの行方を追う。それは雪奈をマークしていたディフェンダー二人とキーパーも一緒であったようだ。唖然とした表情で顔を上に向けている。そして、高々と山なりの軌跡を辿ってボールが落下する先、そこに領家のユニホームである青シャツと白パンツを着た小太りの選手が猛然と突っ込んでくる。相手キーパーが慌てて走り出すが、それをあざ笑うように領家のサイドバック都築がボールをジャンピングヘッドでゴール左隅に叩き込む。
雪奈は、ぜえはぁ、ぜえはぁ、と倒れたまま荒い息を繰り返す都築のことをしばし見つめた後、視線を逆側へ向ける。そこには相手ディフェンダー六番の背中、正確にはお尻のちょっと上くらいの低い位置から顔をチョコンと出してこちらを見つめてくる少女の顔があった。その顔はもちろん満面の笑顔である。
(……紅葉ちゃん、相手六番を抜かずにパスを出したってことだよね? 紅葉ちゃんからのパスを受ける為に私はずっと紅葉ちゃんの方を見てた。でも、紅葉ちゃんは相手六番の身体に隠れて一度も見えなかった。紅葉ちゃんもこっち見れてないはず。それにあの山なりのボール……六番の上を通す為に高くボールを蹴ったんだ。私に釣られて全員がニアにいくのがどうしてわかったの? それに都築がオーバーラップしてくるのも見えてた? 見えるわけないわ! 私たちがどう動くか想像してパスしたってこと? 都築は今まで一度もゴール前に顔を出したことないのに? 嘘でしょう?)
観客の盛大な拍手の中、雪奈の方へ走ってくる紅葉を呆然と見つめる。
「雪お姉ちゃん、ナイスラン!」
「あ、ありがとう」
紅葉にそう言われ、手をパチリと合わせる。紅葉は、立ち上がりガッツポーズを繰り返す都築のところに走り去る。入れ替わりに吉田が雪奈の所へ来る。
「あいつ半端ないっすね」
「見てたの?」
「ええ、あいつのことフォローしようと走り寄ってる最中だったんで。あいつ、背中を相手ディフェンダーに思いっきり預ける形でボールキープしてたんすけど、途中でリフティングし始めたんすよ。そのまま、適当に思いっきり上に蹴り上げたと思ったら、それがドンピシャで都築の頭っすからね。まじすげーっす」
「……偶然?」
「いや、多分あれは狙って、でしょうね。ボール蹴る直前、こっちに来なくていいって手で合図されたんすけど、あいつその時こっち見てなかったんです。あいついつもキョロキョロしてるじゃないですか? それで事前に俺らの位置を把握してるらしいんで、それで……」
「それで、見てなくても後はどう動くか想像してパスしたってことか。アハハ、それが本当なら凄すぎるわね」
「うす」
(ナイスランって言われたってことは私の動きも想定してたんだ。私の動きで皆がニアに引っ張られてるの分かってのファーか……ふふふっ、ほんっっとうにすごい! でも、悔しい! だってそれって、私より都築の方が決める確率高いって思われたってことだもん!)
「見てなさい紅葉ちゃん! 次は私にパス出させて見せるわ!」
――私はフォワードなんだから!
一点ビハインドになったことでグルスタFCが猛攻を仕掛けてくる。グルスタは堅守速攻を信条とするチームである為、横パスをほとんどしない。前線に三人を並べ、縦にロングフィードしての力技で攻めてくる。フィジカルで勝る相手にこれをやられると本当に辛い。厳しい競り合いに勝ち、弾いても弾いてもボールが次々飛んでくるのだから。
それでも、今の領家は強かった。紅葉を前線に残し、全員が自陣に引く。そこまでは今までと同じであったが、相手の攻撃を防いでからが違った。守備ラインを出来る限り高くし、中盤をタイトにしたことでルーズボールをしっかり拾い、パスを繋ぎスムーズなカウンター攻撃に転じることが出来るようになったのだ。
鈴木がクリアしたボールを八滝が拾い、またカウンターに移行する。雪奈はそれを確認し全速力で走り出す。目指すのはゴール前、途中何度か後ろを振り向き、ボールと人の位置を確認する。隣に敵ディフェンダーがぴたりとついてくる。ボールは左サイドバックの都築から吉田へと渡っている。敵味方全員が全速力でグルスタ陣内へとなだれ込む。
雪奈はオフサイドラインぎりぎりまで辿り着く。苦しい呼吸のまま、右を確認、隣に敵ディフェンダー、さらに先に敵ディフェンダーと紅葉。後ろを確認、八滝と都築がワンツーで左サイドを崩して攻め上がっている。雪奈は一旦敵ディフェンダーの斜め後ろに下がり、クロスに備える。
都築が抜け出し、クロスを放ってくる。斜めに走り、フリーになりジャンプするもボールは雪奈の頭の上をあっという間に超えていく。着地。ボールの行方を追う。ボールは右サイドの紅葉のところに到達していた。しかし、紅葉の前に敵六番が立ちはだかっている。
取られてカウンターかと身構える。けれど、ボールはジャンプした敵六番の頭の上を掠めるように超えていく。この時点でスローインかと皆が思っただろう。けれど、ボールはサイドに出ることはなかった。紅葉がサイドラインぎりぎりまで走りながら、ジャンプ一番足を高々と上げてボールをトラップしたのだ。着地で転がりながらもボールは紅葉の足元から離れない。立ち上がる紅葉。
敵六番が慌てて詰め寄ってボールを奪おうとする。紅葉はボールをふわりと浮かせてその伸びてくる足の上を通すとクルリと半回転して相手六番との位置を入れ替えてしまう。そして紅葉はゴール前にカットインしてくる。
雪奈は外に逃げるようにバックステップを踏んでフリーになる。そして重心を前に戻し、小刻みに前進。いつでも、シュートが打てる態勢を作り上げる。
――今度こそパス!
紅葉へグルスタの選手が急いで詰め寄る。紅葉と目が合う。紅葉が小さな身体を傾け、キックモーションに入る。
――来る! 決める!
ボールが紅葉の足元から離れる。
「えっ?」
雪奈の呟き。ボールをフリーで受けた吉田がダイレクトシュートを放つ。それがゴール右隅に突き刺さる。ガッツポーズをして、本当に嬉しそうに笑う吉田に紅葉が走り寄り、抱き着く。
皆が次々と吉田の元に集まり、背中を叩いたり頭を叩いたり尻を叩いたりして吉田を祝福する。呆然と立ち尽くしていた雪奈も慌てて吉田の元に向かい、ナイゴと褒める。吉田が涙目になりながら、ありがとうございます、と返事をした後、笑顔を浮かべてくる。
(よかったね、吉田! あんたはもう大丈夫だよ!)
もらい泣きしそうになりながら、雪奈も笑顔を浮かべる。試合が再開される。2-0になったことでグルスタ側はさらに攻撃的になる。2-2-3というフォーメーションの相手に領家側は粘り強く守り、カウンターを繰り返した。上下動の激しい試合になったことで領家側はかなり体力を消耗したが、疲れた選手の代わりに和博が入り、抜けた選手が休んで体力を回復し再び試合に戻ることを繰り返し、最後まで守備固めをせず、攻め続けることが出来た。
この後、一点奪われたものの、紅葉からのアシストを和博がゴールし、試合は3-1で浦和領家が快勝したのであった。試合後、大盛り上がりする領家のメンバー。雪奈自身も嬉しさで笑顔になっていたが、釈然としないものも感じていた。
(何で、紅葉ちゃんは私にパスをくれなかったの? 私じゃシュート決められないと思ったのかな……)
落ち込んでいるのが雪奈の顔に出ていたらしい。紅葉が心配そうに声を掛けてくれる。
「雪お姉ちゃんどうしたの?」
「あっ、いや、その……ねぇ、紅葉ちゃん。今日、私へのパス少なくなかった? ほら、私かなり頑張ってフリーになってたかなぁって思うんだけど」
「うん! 今日の雪お姉ちゃんすっごいいいプレーしてたよね! 雪お姉ちゃんのおかげで、三点も点が取れたもんね!」
「えっ? 私のおかげ? え~と、でも、私にパス少なかったような」
「あ~! それはね、相手が雪お姉ちゃんをすっごい警戒してたからだよ! ほら、相手チームってリストバンドでデータ分析してるって言ってたでしょう? データ重視なんだね。それで、データ分析は自分たちだけじゃなくて対戦相手もしてたんだと思う。ゴール前にボールが入る状況になると、うちの得点源、雪お姉ちゃんのところに相手ディフェンスが引き付けられてたの。雪お姉ちゃんがいい動きでフリーになるたびに他の選手も慌ててカバーに動いて、それでギャップが出来てたんだよ! それでフリーになった皆がシュートを決められたの。だから、今日の三得点は半分以上雪お姉ちゃんのおかげなんだよ!」
「そうなの?」
「うん!」
紅葉の断言に気恥ずかしくなり、雪奈は茶化す意味も込めて、周りを巻き込もうとする。
「そっか、私のおかげか……こら、聞いてた!? あんたたちぃ! 今日のゴールの半分は私のおかげってことは1.5点ね。私に感謝しなさいよぉ!」
しかし、雪奈の話題は瞬殺されることになる。八滝が紅葉に怒鳴る。それに鈴木と佐野が続く。
「おい、そんなことより紅葉! お前、俺たちの名前全然覚えてねーだろ!?」
「そうだ! 紅葉ちゃん、いくらなんでも僕のことデブって呼ぶのは酷いよ! 得点取ったのに、笑顔でおめでとうデブって言われて、僕、喜んでいいのか、泣いたらいいのかわからなかったよ!」
「俺もナイスひょろって言われました」
「そうだぞ、お前いつも俺のことメガネって呼びそうになってんだろ! 知ってんだからな!」
いや、メガネはメガネだろ、そうだ、黙れエセメガネ、というヤジに八滝が切れて喧嘩に発展する。そういえば、俺もイケメンって呼ばれることがある、という吉田の一言で、喧嘩はピタリと止まり、はぁぁっ? 調子こくなよ、吉田ぁぁ!! と男子一同団結して吉田叩きに発展する。
(はぁぁ、こいつらは、まったくガキなんだから)
雪奈は苦笑しながら、男連中のじゃれ合いを見守る。
(でも、そっか。グルスタが私のこと警戒してたのか)
「ねぇ、紅葉ちゃん。私ってフォワードとしてどうかな? いい選手かな?」
「うん! 雪お姉ちゃんはすっごいいい選手だよ!」
「……ほんとう? でも、私最近壁を感じてたんだけど。男子たちに混じってサッカーしてるとさ、前までは全然問題なかったプレーが通じなくなっちゃうの。それはさ、私が下手になったからじゃないんだよ。男子たちが上手くなったわけでもないの。どんどん大きくなってく男子たちのフィジカルに負けちゃうの。一生懸命練習しても、ただ体格がいい選手に負けちゃうんだもん、イヤになるよね」
「うん」
小学一年生の女の子相手に何を言っているんだろう。そう思うも雪奈の口は止まらなかった。
「だからね、中学生になったらサッカー辞めようと思ってたんだ。地元の学校、サッカー部は男子しかないしさ。県トレの女の子たちが女子ジュニアユースの招待練習とかセレクションとか行ってるのに、私は行かなかったの……男子にどんどん追い抜かれるのが悔しくてサッカーから逃げ出したいって思ってたんだ。だからこそ、この領家で最後までしっかりやりたいって思ったんだ。でもね、紅葉ちゃんと一緒にサッカーしてたら私、サッカーもっと続けたいって思っちゃってね。それで、今ちょっと悩んでるんだ」
紅葉は真剣に雪奈の話を聞いてくれ、一つ頷いた後、雪奈の目を見て話しかけてくる。
「うん、そうなんだぁ……ねぇ、雪お姉ちゃん! この前、メガネがデータ分析の為のリストバンドが小学生の間で流行らなかったって言ってたの覚えてる?」
「うん……理由は分からないって話で終わってたと思うけど」
「そう、それ。その理由はね、データ分析には負の面があるからなんだよ。子供たちの成長をデータで示してあげれば、子供たちのやる気はアップするし、疲労度を数値化すればケガのリスクを減らせる。データを見て、今、最もコンディションのいい選手を試合に選べる。いいことづくめだよね。でもね、子供の気持ちはデータ化出来ないんだ。ねぇ、雪お姉ちゃん、雪おねえちゃんは自分の成長を疑ってたんだよね。雪お姉ちゃんはどんどん上手くなってるよ。データで数値化すればそれは分かると思う。でも、データを使っても雪お姉ちゃんの悩みは解決しなかったと思う。だって、他の男子たちの方がもっと成長してるってデータも同時に分かっちゃうんだから。それにね、そうしてすべてをデータ化することで監督は数字ばかりを見るようになっちゃう。データを通してしか子供を見れなくなっちゃうんだ。それは子供たちの気持ちを見え難くしちゃう。だから、ジュニアではあのリストバンドは流行らなかったんだよ。え~と、色々と言ったけど、私たちに一番重要なのはデータじゃ分からないことなんだ。ねぇ、雪お姉ちゃん」
――サッカーは楽しい?
紅葉に笑顔でそう聞かれて、雪奈は、
――ええ、最高に楽しいわ!
弾ける笑顔で答える。
雪奈がジュニアユースのセレクションを受けようと考えながら、笑顔でピッチ脇を歩いていると、後ろから小走りで近づいてきた八滝に声を掛けられる。
「おい、立花。一つだけ言っとくけど、さっきの紅葉の答え、ぜんっっぜん! ちげーからな!」
「えっ?」
「いや、お前が悩んでんの気付かなくてわりーと思ったし、勝手にお前らの話を立ち聞きしたのも悪いと思ったが、あんまりデタラメすぎて黙ってられなくってさ……あのリストバンドが流行らなかったのはアマチュアの監督にデータを扱うスキルがないからっていうどうしようもない理由だからな」
「…………マジ?」
「ああ、その、なんかスマンな」
「…………」
「…………」
この話は二度とするなと八滝を説得し、雪奈は紅葉には何も言わずに、くすぐりの刑を与えようと笑顔を浮かべるのであった。