21 「楓と雪奈の戦い 中」
楓はお母さんと美穂先生、そして紅葉と一緒にコンクール会場に来ていた。駐車場に止めた美穂先生の車の中でドレスに着替える。楓はピンクのひらひらドレス、紅葉は青のひらひらドレスをそれぞれ着る。美穂先生のお下がりドレスを寸法直ししたお母さんと美穂先生のお母さんが、ついでとばかりに紅葉の分も用意したのだ。
二人揃ってお姫様のような恰好になり楓は束の間、ご機嫌になる。
「お姉ちゃん綺麗!」
「そうかな? なんだか、恥ずかしいね、こういう恰好」
(お姉ちゃんほっぺ赤くなってる! 照れてるんだ。照れることないのに。でも、照れてるお姉ちゃんもすっごく可愛い!)
そして紅葉がいつものように楓の髪の毛をお姫さまバージョンだという特製ふんわり三つ編みツインテールにしてくれ、そこに白いバラのコサージュを付けてくれる。首元には紅葉とお揃いのシルバーチェーンについた葉っぱのガラスアクセがぶら下がる。
気分はお姫様の姉妹だ。楓はコンクールのことを忘れて、自身がお姉ちゃんみたいな美人になった気がしてはしゃぐ。けれど、それも長くは続かなかった。会場に入り受付を済ませた段階で笑顔は凍り付き、控室前で他の演奏者たちの緊張した表情を見たところで涙が溢れてきた。
(やっぱり私にはムリだよぉ、怖いよぉ)
お昼ごはん食べようか、と美穂先生が提案して、一旦外に出ることになる。けれど、楓は逃げるように走り出し、トイレに駆け込む。それから楓はトイレの個室に引き籠った。便座の蓋の上に体育座りで身体を丸めて、顔を膝の間に押し付け、目を瞑る。早鐘のように鳴り響く自身の心音を泣きながら聴く。
(気持ち悪い。帰りたい。でも、帰れない)
そう思っている間にも楓の順番は近づいてくる。怖くて怖くて仕方がない。震える唇を噛み締めて、涙を流す。トントンとドアがノックされる。びくりと震える楓に、紅葉の優しい声が聞こえてくる。
「カエちゃん、大丈夫? 少しお話しよう? ドア開けてくれるかな?」
楓は紅葉の声に安心感と恐怖を同時に覚え、ドアを開けるか悩む。少しの間、ドアを見つめた後、意を決して立ち上がり、鍵を開け、ほんの少しドアを開く。
「入ってもいいかな?」
紅葉が優しい声で確認してくるのに、うんと小さな声で答える。紅葉がゆっくりドアを開けてトイレの中に入ってくる。そして、所在無げに立つ楓のことを優しく抱き締めてくれる。楓は紅葉の体温に包まれ、落ち着いた気持ちになっていく。煩いほど鳴っていた鼓動と震えが消えていく。
(お姉ちゃんがいないとやっぱり私はダメなんだ。でも……)
「……お姉ちゃん、ありがとう」
しばらく経ってから楓が紅葉の顔を見つめてお礼を言う。
「どういたしまして」
と、紅葉が頭を撫でてくれ微笑んでくれる。
「怖くなっちゃったかな?」
コクリと楓は頷く。
「大丈夫だよ。何かあったらお姉ちゃんが助けてあげるから」
もう一度頷く。
(わかってるんだ。お姉ちゃんはきっと助けてくれるって。でも私のせいでサッカー出来なくさせちゃった。お姉ちゃんに悪いことしてる)
「……お姉ちゃん、ごめんね」
「ん? 何がかな?」
「私のせいで試合出れなくなっちゃった。お姉ちゃんあんなに楽しみにしてたのに」
「そんなの全然気にしなくていいんだよ! お姉ちゃんはカエちゃんの為なら何だってするんだから。サッカーの一試合や二試合何ともないんだからね」
(ウソだよ! お姉ちゃんがどれだけサッカーが好きか知ってるんだもん。試合に出れないって心の中で悲しんでるの、私にはわかるもん)
「ウソ! お姉ちゃんが落ち込んでるのわかるんだから! 私はお姉ちゃんが一緒にいないとダメだからって、お姉ちゃんの大好きなこと取っちゃったんだ!」
「カエちゃん! そんなことないよ!」
「あるんだもん! いっつも私はお姉ちゃんにワガママばっかり言っちゃうの! イヤな子だってわかるんだもん! いつかお姉ちゃんに嫌われちゃうの! そんなのイヤなのに!」
それ以上は声にならず泣いてしまう楓に、そんなことないよ、と紅葉が優しく頭を撫でてくれる。
(なんで、お姉ちゃんのこと悲しませちゃうんだろう。お姉ちゃんにはいつだって笑ってて欲しいのに。なんで、ヨワムシなんだろう。なんで……)
「カエちゃん、大丈夫だよ。ねぇ、カエちゃん、お姉ちゃんはカエちゃんのことが大好きだから、絶対に嫌いになったりしないんだから」
(そうかもしれない。お姉ちゃんはいつだって私の味方で、私のヒーローだから。でも、大好きなお姉ちゃんにメイワクばっかりかけてる私はなんなの。こんなお姉ちゃんにメイワクかけてたらいつか嫌われちゃうかもしれない。そうなったら、私は)
「でも! 私イヤな子なんだもん! なんでこんなイヤな子なのぉ」
止めどなく溢れてくる涙を紅葉がハンカチでそっと拭ってくれる。
「そんなことないよ。カエちゃん。カエちゃんはイヤな子じゃない。いい子だからね。泣かないで……そっか、カエちゃんはコンクールに私を連れてきたこと後悔してるんだね。そのせいで私に嫌われちゃうかもしれないって思っちゃったんだ……カエちゃん、そんなことちっとも気にすることないんだから、安心して」
「でも!」
「うん、カエちゃんは優しいいい子だから、気にしちゃうんだよね。そうだなぁ、じゃあ、こうしよう。今日はお姉ちゃんがカエちゃんを助ける番。だから、今度お姉ちゃんが困ってることがあったら、カエちゃんがお姉ちゃんを助けてくれるかな? そうやって、お互いに困ってることがあったら助け合うの。そうすれば嫌な気持ちにならないし、これからもずぅっと一緒に仲良しさんだよ!」
優しく元気に語られる紅葉の話を楓は一生懸命聞き、考える。お姉ちゃんとずっと一緒にいられるのなら何でもするし、それに、お姉ちゃんのことを助けることが出来たら嬉しいだろう。そう思った。けれど、
「……私お姉ちゃんのこと助けられないよ。お姉ちゃんに助けてもらってばっかだもん」
「ふふっ、お姉ちゃんはカエちゃんが隣で笑っててくれるだけで、すっごい救われてるんだけどね。でも、そうだね、じゃあ、私を助けることが出来る子になれるように努力してみない? カエちゃんならすぐ出来るようになると思うんだけど」
「お姉ちゃんを? ……なりたい! どうすればお姉ちゃんを助けられる子になれるの!?」
紅葉の提案に楓は希望を覚え涙を止めて、食いつく。イヤな子じゃない、お姉ちゃんを助けられる子になれるのなら、なんだってすると思いながら、紅葉の話を聞く。
「うん、カエちゃん、自信を持とう! それだけで、カエちゃんは私を助けられるすっごい子になれるよ。カエちゃんは想像力豊かだから、色んなことを想像して、怖くなっちゃうんだよね。相手の気持ちだったり、失敗した時の出来事とかがリアルに思い浮かんじゃうんだよね。今、それがカエちゃんを苦しめてるんじゃないかな?」
「そうなのかな? わかんない……それを無くせばいいってこと?」
「ううん、怖がることを無くそうじゃなくて、怖いけど大丈夫だっていう気持ちになれるように自信を持つの。色んな想像をして怖がることは悪いことじゃないんだよ。それはカエちゃんのいいところでもあるんだから。それに、カエちゃんのピアノにはカエちゃんのその力が必要なんだと思う。お姉ちゃんはカエちゃんのピアノが大好きなんだ。カエちゃんが弾く曲にはカエちゃんの色々な想像力で作られた想いがいっぱい詰まってるのが分かるんだ。だからね、カエちゃん。自信を付けていこう」
(お姉ちゃんの言ってることよくわかんないけど、お姉ちゃんの言うことに間違いはないんだから!)
「……うん、どうやれば自信ってつくの?」
「簡単だよ。色んなことにいっぱいチャレンジするの。毎日を後悔しないように全力で過ごすの。きっと、怖いこといっぱいあると思う。失敗もいっぱいすると思う。無理だと思ったら逃げていいし、疲れてたら休んでいい。困ったら私が助けてあげる。けれど、チャレンジしようって気持ちだけは忘れないこと。そうすれば、あっという間に自信がついて、私を助けられるスーパーカエちゃんになれるよ」
「うん、やってみる!」
楓は力強く頷く。お姉ちゃんを助けられる子になる。その為なら何だってしたいと決意する。そんな楓に紅葉がウィンクしながら楽し気に、
「そうだ、ちょっとズルだけど、これを交換しよう!」
そう言うと紅葉は自身の首元に掛かっていた先端に紅葉を象ったアクセが付いたシルバーチェーンを外し、楓の首元にある同じアクセと交換をする。
「これで、カエちゃんの怖いこと半分私が受け取ったからね。それで、私の勇気をカエちゃんに半分プレゼント! これで、スーパーカエちゃんに進化する日はさらに早くなったよ!」
「うん!」
楓にとって一番の宝物であるアクセサリーを両手で大事に包み込むように触る。
(お姉ちゃんの勇気がずっと一緒にいてくれるんだ。あったかいなぁ……うん、私だって頑張るんだ。お姉ちゃんの妹なんだから!)
よし、じゃあお昼ごはん食べよう! そう言って、楓の手を引っ張ってトイレの個室を出ようとする紅葉を楓は引き留める。
「お姉ちゃん、私はヘーキだからサッカー行って!」
「えっ?」
「地区予選の低学年の部だから演奏時間短いし、簡単な曲しかやらないの! だから、お姉ちゃんに聴いてもらう価値ないかなぁって。全国大会、ううん、宇宙一決定戦になったらお姉ちゃんに聴いてもらうから! 試合に行って! お姉ちゃん、お願い」
「……大丈夫なんだね?」
「うん!」
心配そうな顔から輝くような笑顔に変わる紅葉の顔を見て、楓も笑う。
「分かった! カエちゃん、ありがとう!」
「うん! お姉ちゃん頑張ってね!」
(お姉ちゃんのホントの笑顔が見れた! 言ってよかった!)
紅葉と一緒にトイレの個室から出るとそこには泣いているお母さんと美穂先生がいた。二人の様子に驚き、わっ、と紅葉と楓が揃って声を出す。楓は紅葉と顔を合わせて、どうしたんだろうね? と二人揃って首を傾げる。それから紅葉がお母さんに聞く。
「お母さん! これからサッカーの試合に行ってもいいかな?」
「ええ、勿論。十四時だったわよね。今から急げば間に合うかしら。先生、すみませんけど、楓のことをお願いしてもいいですか? 私は紅葉を試合会場に連れていってあげようと思いますので」
「ええ、お任せください。ほら、楓、とりあえず、少しでもお昼ご飯食べましょう。それとちょっとお化粧しようか。目元が赤くなっちゃってるから、隠さないとね。あと、体操と指の運動しなくちゃ。忙しくなってきたわね」
「お母さん、お父さんに連絡して、私の選手登録してあるか確認してくれる? 多分うちは毎回全員登録してるから平気だと思うけど、行っても出られませんでしたってなったら大変だからね! あと、一回家に荷物取りに行かなくちゃだし、時間がないかも! 急ごう!」
それから、慌ただしく四人はトイレを出て、別々に行動を開始する。お母さんと一緒にタクシーに乗り込む直前、紅葉が楓に魔法の言葉を耳打ちしてから、会場を離れていった。二人を見送った楓と美穂先生はお弁当を少し食べてから、一緒に会場のロビー隅で体操をする。
「ねぇ、楓。さっき、紅葉に何て言われたの?」
一緒に腕を上げて肩をグルグルしながら問うてくる美穂先生に楓は内緒と言って笑う。美穂先生は、え~教えてよ~、と楓の両脇に手を入れ、持ち上げてくる。重くなったなぁと楓のことを抱き上げ頬ずりしてくる美穂先生に楓は笑い声を上げる。
「ああ、しまった。ドレスに皺が付いちゃってる。セットした髪の毛も少し直さないとだし。よし、楓、控室行こう」
「うん」
控室で急いで身だしなみを整えた後、舞台袖に移動し、パイプ椅子に座り順番を待つ。三分間の演奏時間に準備二分の計五分が一人当たりの持ち時間だ。どんどん、楓の前の奏者たちの演奏が終わり、あっという間に楓の順番となる。ギュッと、胸元に掛かったアクセサリーを握る。美穂先生が補助ペダルを設置しに舞台に向かう。楓は立ち上がる。そして一生懸命に笑顔を作る。
(怖いよ、お姉ちゃん。怖くて気持ち悪い。でも、お姉ちゃんを助けられる強い子になるんだもん。頑張るんだから!)
設置し終え戻ってきた先生に今日一度も見なかった楽譜を渡し、交代で今度は楓が舞台へと進む。薄暗い中から突然太陽のような明るい場所に出る。下を向きそうになるのを何とか堪え、ピアノの横に立つ。観客席を向く。無理やり笑顔を作り、一度お辞儀をする。椅子に浅く座り、手を鍵盤の上に置く。
(はぁ、ここまで来れたら後は大丈夫だ。後は弾くだけだもん)
緊張のあまり止まっていた呼吸を再開し、深呼吸をして息を整える。肩の力が抜ける。
左手の中指で最初の一音を正確に、そして強く弾く。色とりどりのチューリップが華やかに登場し、明るく賑やかに同じリズムでステップを踏んで踊る。スタッカートとレガートのフレーズをきちんと弾き分け、全体を歯切れよく、楽し気に弾くことでそれを表現する。
長いスラーも基本通り、最初を強く、終点を弱く弾く。下降していく時の面白いクレッシェンド、8分音符のシンコベーションは軽やかに。最後は3拍子になり付点リズムの連続でクライマックスを向かえる。
完璧に暗譜してあるのだ。間違えようがない。けれど、この曲は未完成だと楓は知っている。美穂先生が弾くこの曲はもっと透明で綺麗な音なのだ。楓が弾くと音が濁ってしまう。
何が違うのだろうか。それが分からない。何度も何度も練習して、先生の弾き方を完璧に真似出来るようになっても、最後まで先生の音が出せない。分からないことはすぐ聞くこと、と言うお姉ちゃんの教え通り、先生のように弾きたい、と美穂先生に何度も聞いた。
けれど美穂先生は笑いながら、完璧だと言う。じゃあ、どうして先生みたいな音が出ないの、と聞くと、先生はどうしてだと思う? とイジワルして聞き返してくる。分かんないから聞いてるのに、と泣きながら言う。
先生は嬉しそうに私みたいに弾きたい、と聞いてくる。一生懸命頷くと、じゃあこの曲はおしまいにして次の曲を練習しようと言ってくる。なんで、出来ないまま放っておくの、と聞く。すると美穂先生は優しく微笑みながら話してくれる。
「今のあなたは私のピアノを真似しているだけなの。楓、あなたのセンスは凄いわ。すぐに教えた曲を弾けるようになっちゃう。私の弾き方をそのまま模写出来ちゃうんだよね。本当に凄い。それに、耳も物凄いわ。感覚だけで曲を深く聴けるのね。普通は気付かない私の音との差異に気付くことが出来たのね。でもね楓、あなたは、私の弾くピアノの上辺のところしか真似出来ていないのよ。ほら、泣かないで。それは当然なんだから。機能和声や対位法、色々な曲を学ぶ過程で得る音楽知識に技術。そう言った音楽理論を元に私はピアノを弾いているの。あなたは知らないんだから真似出来なくて当然でしょう。そういうのを勉強すれば私の音なんか目じゃない、すっごいいい音が出せるからね。他の曲を弾いてまた戻ってこの曲を弾こう。今の楓が悩んでいることがきっと解決出来るから」
そう言われて頭を撫でられる。
難しいことはよく分からなかったけど、先生みたいになるには努力しなくちゃいけないということだけは分かった。お姉ちゃんみたいに毎日サッカーの練習をするのと同じくらいピアノに打ち込めばいいのだろうか。そうだろう。
――美穂先生にお姉ちゃん、二人のお手本が私にはいるんだ! だから、大丈夫!
最後の一音を丁寧に弾き終える。音が間接照明に照らされる舞台上からほの暗い客席へ、そしてどこかへと消えていく。楽譜に書かれたフェルマータの指示通り、静止しチューリップたちがダンスを踊り終え、お辞儀した後の沈黙を演出する。
(ふぅぅ、終わった……終わっちゃった。うぅぅ、どうしよう。立ち上がってお辞儀するんだっけ……うぅ、怖いよ、お姉ちゃん)
楓は黒と白の鍵盤をじっと見つめた後、また無理やり笑顔を作る。そして立ち上がり、舞台側に身体を向け、ちょこんと頭を下げる。それが終わったらダッシュでその場から逃げ出す。舞台袖にいた先生を見つけ、タックルするように飛びつく。
「お疲れ様、楓。すっごいよかったわよ!」
「……あんまり上手く弾けなかった」
「そう? ふふふっ、でもほら? お客さんの拍手がいっぱい聞こえるわ。皆があなたの演奏をよかったって思ってくれたのよ」
「……そうなの?」
「ええ、よかったわね!」
「……うん」
美穂先生が楓の頭を一度撫でた後、楓から離れ、補助ペダルを取りに舞台へ向かう。楓は舞台の上を颯爽と歩く美穂先生の後ろ姿を静かに見る。
(先生格好いいなぁ、私もいつかあんな風になりたいなぁ……疲れたぁ、でも、コンクールなんて大したことなかった! お姉ちゃんの言ってた通りだ!)
楓の頭の中に、別れ際の紅葉の笑顔と言葉が浮かぶ。
「カエちゃん、怖くなっちゃったら、笑顔を浮かべてごらん。勇気が湧いてくるから! それと今晩はお姉ちゃん特製オムライス作ってあげるからね!」
(お腹空いたなぁ。ふふ、早く帰ってお姉ちゃんに報告しなくちゃ! それからお姉ちゃんのサッカーの話を聞きながらオムライスだ!)
楓は美穂先生と手を繋いで二人で鼻歌を歌いながら、ニコニコ家路につく。楓のこのご機嫌はコンクール本大会出場のお知らせが届くまでは続くのであった。