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02 「幼馴染の夢」

 



 太一は幼馴染の御園咲(みそのさき)とカフェに来ていた。窓際の二人掛けの椅子に向かい合って座りコーヒーを啜る。咲はロングの黒髪がよく似合う、サバサバとした勝気な性格の美しい女性だ。太一とは幼稚園のチューリップ組から続く腐れ縁で、かれこれ15年は一緒にいる。太一にとって家族以上に気心が知れた存在が咲である。


 そんな咲が普段は浮かべない物憂げな表情でカフェオレが入った手元のカップを見つめている。朝日が差し込み、アンニュイな表情を浮かべる美少女を優しい光が照らす。美しいと素直に思う反面、ここまで落ち込んでいる幼馴染を見るのはかなり辛いと太一は顔をしかめそうになる。


(なんて声掛ければいいのかまったくわかんねー)


 普段なら何も考えなくてもポンポン会話を交わすことが出来るのに。『悪かったな』『大丈夫だから』『朝飯食べるか』 浮かんだ言葉は口から出なかった。口をもにゅもにゅして、言葉が出ず、結局コーヒーを啜る。


「ぷっ! ふふふっ……もうダメ、太一ったら、さっきからなんて顔してるのよ! あははははっ、おっかしい」


 咲が突然笑い出す。太一はそれをポカンとした表情で見つめる。


「私がそんなに落ち込んでるように見えたのかな? 太一君は」

「いや、普通に落ち込んでただろ?」

「そんなことないわよ。ちょっと避妊に失敗したくらいでこの私が落ち込む訳ないでしょ」

「ホントかよ」


 急に元気になった咲にぶすっとした顔を向けるとまた笑われる。でも、怒りは湧かなかった。笑っている咲を見ることが出来、太一は不安が消えていくのを感じる。


「いやぁ、まぁねぇ。確かにちょっと悩んだけどね。やっぱりまだ私たちには早いと思うんだ。ごめんね」

「咲が謝ることじゃないだろーが……俺の方こそ悪かったな」

「ふふっ、じゃあ、どっちも悪かったということで。あー、なんだかお腹すいてきちゃった。サンドウィッチ頼もっと」


 そう言うと咲は店員にサンドウィッチを2セット注文する。片方はトマト抜きでと注文するのを太一はコーヒーを啜りながら聞き、笑みを浮かべる。


 ことの発端は昨夜、咲とセックス中にコンドームが外れてしまったことだ。そして丁度咲は危険日真っ只中であった。アフターピルを処方してもらう為、明朝横浜市内の産婦人科に向かうことになった。ただ、太一も咲も気が急いでいたせいか、早く家を出過ぎてしまったのだ。まだ、クリニックが開いていなかった為、クリニックの傍にあったこのカフェでこうして時間を潰している。


 太一は咲のことが好きだ。いつでも結婚する心構えでいる。いつかは赤ちゃんも欲しい。咲にはそのことをしっかりと伝えてある。咲も気持ちは一緒だと言ってくれている。だから昨日、避妊に失敗してしまった時も太一はそんなに慌てていなかった。出来ちゃったなら出来ちゃったでいいとすら思っていた。


 だが、咲は違ったようだ。膣出しに気付くと驚愕し、そしてやがて泣き出してしまったのだ。そんな咲の態度に太一は正直困惑した。咲は大学で教職課程を履修している。学校の先生になるというのが咲の小さい頃からの夢だ。確かに赤ちゃんが出来たら休学が必要になるだろう。


 夢が遠のいてしまう。とはいえ、アフターピルを服用すれば妊娠はほとんどしないのだ。副作用は気になるが昨日急いで調べた限りだと、最近の薬は副作用もだいぶ少ないタイプであるらしいことがわかった。しかし、咲にそのことを伝えても彼女の涙は引かなかった。


 結局太一は咲を抱きしめて眠ることしか出来なかった。咲が酷く落ち込んでいる理由が太一にはわからなかった。咲の気持ちがわからないなんてことは、太一にとって初めてであった。


 トマト抜きのサンドウィッチを頬張る太一に咲が話しかけてくる。


「私ね、赤ちゃんが出来ちゃうかもって思ったら急に怖くなっちゃったの。太一は夢を叶えていつも楽しそうにサッカーしてる。私も太一に負けてられない。学校の先生になるぞって太一のこと見ながらいつも思ってた。でもね、もしかしたら赤ちゃんが出来るかもって状況になったらね、想像しちゃったんだ。太一の赤ちゃん産んで、子育てして、太一の傍で太一のことサポートして、太一のサッカーを応援する……そんな人生を想像しちゃったらさ。そしたら、それってすっごい幸せだなぁって思えてきてね。太一は来年イギリスでしょ。私も一緒に行きたい。大学なんて辞めて、先生の夢なんて捨てて太一と一緒にいたいって気持ちが溢れてきちゃったの」


 太一は静かに咲を見つめる。咲は困ったような泣きそうな顔を浮かべながら続ける。


「その時、初めて分かったんだ。このままだと太一と離れ離れになっちゃうんだって。イギリスに行くって教えてもらった時には全然実感が湧いてなかっただけなんだ。ずっと一緒にいるのが当たり前すぎてまったく気付いてなかったの……私の傍に太一がいない人生が急に目の前に現れたんだよ? そうしたら怖くて悲しくて、どうにもならなくなっちゃったんだ。アフターピルなんていらない、結婚しよって何度も言いたくなった……えへへっ、私ってしっかり者だと思ってたんだけどなぁ。結構乙女だったみたい」


 そう言ってから、咲は頬を染め、少し恥ずかしそうに笑う。


「そっか。うん、咲の気持ちが分かってよかった。それで、咲はどうしたい?」


 太一は簡潔に問う。咲が拗ねて、唇をへの字にする。


「ちょっと冷たいんじゃないかな? 恋人の一途な気持ちを聞いてそれだけって」

「ははっ、いやさ、俺だって咲の気持ちが聞けて、すっげー嬉しいよ。結婚しよう。んでもって、一緒にイングランドへ来てくれって言いたい。けどさ、咲、お前もう結論出してるだろ? 顔に書いてあるぞ、バカ」


 目を丸くした咲が自身の頬を両手でぺたぺたと触る。その後、舌をちょこっと出して照れたように笑う。


「いやぁ、さすが幼馴染。うん、さっきの太一の情けない顔見てたら思い出したの。私が学校の先生になりたいって思った切欠を。知ってる太一? 知らないでしょうから教えてあげましょう。昔ね、勉強が死ぬほど出来ないどっかのサッカーバカに毎日勉強を教えてたら、そのサッカーバカがこう言ったの。『お前教えるの上手だなぁ、お前くらいわかりやすく説明出来る先生がいてくれたら、俺も学業って奴を嫌いにならなかったかもなぁ』ってね。ちなみにそのサッカーバカは私が一生懸命毎日毎日教えてあげてたのに毎回赤点ギリギリのバカのままだったわねぇ。でも、私はその時、じゃあ私が先生になって勉強嫌いの子を減らしてやるって思っちゃったのよねぇ」


(まじかぁ、知らなかった……つか、俺そんなこと言ったっけ?)


 誰が教えてくれても、サッカー以外、それこそ勉強になど一ミクロンも興味などなかった太一だ。その時もどうせ何も考えずに適当な気持ちで言ったに違いない。とはいえ、ここでそんなことを言えば咲は怒る。それも、口も聞いてもらえないほどに。笑って誤魔化すしかない。


「あはははっ、出来の悪い生徒を持ったおかげだな。そのサッカー小僧に感謝だな」


 太一は咲にポカリと頭を叩かれる。


「調子に乗るな……それでね、折れかけてた先生になるって気持ちがちょっと復活してきたの。そしたら、気付いたんだ。二年間我慢すればいいんだって。大学卒業しちゃえば、後は太一と同じ場所に行けばいいんだから。日本で先生する必要ないじゃない。バカは世界中にいるんだから。ふふっ、先生になることも太一と一緒にいることもどっちも叶えられる。叶えてやろうじゃないかって決めたの」

「どこが乙女だ。男前すぎだぞ」

「ふふっ、惚れ直した?」

「ああ、めっちゃ」


 よかったと笑う咲に太一も自然と笑みがこぼれる。その後も他愛ない話を咲と交わし笑いあう。




「本当に惜しかったよねぇ、あのフリーキック」

「いやー! 言わないでぇ! もう言わないでぇ!」


 太一は頭を抱えて悶え、絶叫する。


「まぁまぁ、結局二位だったんだから上々なんじゃない? あの時、牧村選手がフリーキックを決めてれば一位だったんだろうけど。いやぁ、中川&牧村、奇跡のフリーキック(笑)って伝説として横浜で語り継がれるんだろうなぁ」

「くっ! 殺せ!」

「そして伝説を残して牧村選手は颯爽とチームを去る。いやぁ、やっちゃいましたねぇ~」

「…………」


 虚ろな目をする太一の頭を咲が再びポカンと叩く。意識が戻った太一が涙目で言う。


「絶対にもうフリーキックは蹴らない。だいたい、サッカーは流れの中で決めてこそなんだ。PKだとかCKだとFKだとかGKだとか、あんなのは廃止すべきだ、絶対!」

「いやいや、ゴールキック廃止したらどうするのよ。ルールめちゃくちゃになるよ」

「手があるだろ! 何の為の手だよ。人間は手で道具を使うことによって生存競争に勝ち残ってきたんだ! 足でボールを蹴るなんて進化の過程にはないんだ!」

「何、その蘊蓄? スポーツのルールってのは適度な縛りプレイのことなんだからね。諦めなさい」

「よし、じゃあ新しいサッカールールを考案しよう。まず、手を使ってよい」

「サッカー全否定!?」

「それから……」


 バカ話がひと段落したところで、太一は腕時計を見る。丁度九時。クリニックが開く時間になっていた。そろそろ行こうと話し合い、二人は立ち上がる。


「ごめんね、私の赤ちゃん」


 咲が手をお腹に持っていき呟く。いつかきっと、と太一が手を咲の手の上に乗せて囁く。咲がありがとうと微笑んでくれる。カフェを出て、クリニックまでの数百メートル、手を繋いだまま歩く。吐く息が白い。咲の手をコートのポケットの中に入れる。咲が暖かいと笑いながらお礼を言ってくる。


 目の前にはお腹を大きくした女性が一人で歩いていた。彼女も同じクリニックを目指しているのだろう。太一は隣の咲を見る。咲は目の前を歩く女性を羨ましそうに見ている。


(いつかきっと俺たちも)


 そこで、咲を見つめていた太一の視界の端に、猛スピードで突っ込んでくるソレが映る。ソレはあっという間に接近してくる。誰かの悲鳴。クラクション。咲と目の前の妊婦が漸くソレに気付く。二人が呆然とソレを見つめたまま、立ち止まる。太一は咲を後ろに思いっきり突き飛ばす。そして、目の前の妊婦も突き飛ばそうとして一瞬固まる。


 妊婦を突き飛ばしていいのか。その一瞬の迷いが致命的な結末を招いてしまう。太一は妊婦を抱き締め、少しでもと前に飛ぶ。直後、ソレ――暴走したトラック――が二人を跳ね飛ばしていく。太一は薄れゆく意識の中、咲の悲鳴を聞いた気がした。


(咲ゴメンな……あぁ、妊婦さんと赤ちゃん大丈夫かなぁ)


 これから日本フットボール界を牽引していくだろうと誰もが期待を寄せていた二十歳の青年、牧村太一が最後に思ったことは、


(あぁ、もっとサッカーしたかったなぁ)


 やはりサッカーのことであった。




 太一の蹴ったボールは、弧を描いてゴールに向かう。しかし、ボールはクロスバーを叩き無常にもゴール上のネットに乗り、止まる。審判が笛を三度、長く吹く。横浜対浦和の試合は2-2の引き分けで終わった。太一は呆然と天を見上げる。澄んだ秋晴れの空は雲一つ見当たらない。それが滲んで見えるのは太一の瞳が潤んでいた為であろう。




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