19 「リーグ戦再開」
九月の第一土曜日、浦和領家サッカー少年団はリーグ戦後期の初戦を迎えた。リーグ戦は九チーム総当たり戦を二回行い、一位のチームはリーグ選手権大会及び全日本少年サッカー大会地区予選の出場権を得る。そして二位から四位までに全日本少年サッカー大会地区予選プレーオフ出場権が与えられる。
浦和領家は前期、二勝六敗の勝ち点6で現在七位だ。一位が浦和レッジの勝ち点24、二位にグルスタの勝ち点21、三位は三門で勝ち点16、四位が浦和大林の勝ち点15、五位に行町十鳥の勝ち点10、六位に勝ち点7のサンタバ。そして七位が浦和領家。八位、九位がそれぞれ勝ち点4と2で下関と斉川となっている。
「うちはこれから全勝しても勝ち点30にしかならないわ。上位陣の浦和レッジとグルスタが全敗するようなことでもないと一位には絶対なれない。だから目標は四位以内に入ること! それで全少プレーオフ出場権獲得して全国を目指す! その為には後半戦全勝よ! いいわね! みんな!」
「おおっ!!」
チームキャプテン立花の声に皆が気勢を上げる。夏休みにお父さんの指導でしっかりとしたチーム作りが出来た。そのことが選手たちに自信とやる気を与えているのだろう。
今日は二試合、一試合目に斉川サッカー少年団と戦い、二試合目に浦和大林サッカー少年団と戦うことになっている。特に二試合目、前半戦勝ち点15で四位に付けている浦和大林は、四位以内で全少プレーオフ出場を目指す浦和領家にとって、絶対に勝って叩いておかないといけない相手だ。
紅葉は斉川戦、右のフォワードとして先発起用された。ピッチにウキウキで向かう紅葉にお父さんが声を掛けてくる。
「紅葉に一つ課題を出すよ」
「うん!」
「これは監督からの絶対命令だからね」
「ラジャーです!」
ノリよく楽しそうに二人は会話をする。しかし、お父さんの次の言葉に紅葉は驚愕することになった。
「いい返事だね。じゃあ、この試合での紅葉は、ワンタッチプレー以外禁止だよ。ボールをもらったらトラップしないで、ダイレクトでパスやクロス、シュートをするんだ。もし、ツータッチしちゃったら交代してもらうからね」
「えっ……ええっ!!」
「よし、じゃあ頑張って! 他の皆も怪我に気を付けて、楽しんできてね」
「はい!!」
お父さんからの指令に驚き、どうやってプレーするか考え込んで動かなくなってしまった紅葉を、立花が両脇に手を入れ抱え上げてピッチに持っていく。そして試合は始まった。
――全てワンタッチでプレーすること
はっきり言って難しい注文だ。ワンタッチプレーということは、ドリブル禁止ということだ。いつものように右のワイドに張ることは出来ない。孤立したスペースでボールをもらってもワンタッチではクロスを上げるしか選択肢がないからだ。それでは単調で読まれやすいクロスになってしまう。
(う~ん、やっぱり下がってプレーしていいってことだよね?)
紅葉がワイドでプレーしていたのは密集した場所を避け、ボディーコンタクトを極力減らし怪我をしない為であった。そしてもう一つ、一番の理由はアタッキングサードで得意のドリブル勝負をすることだ。しかし、ワンタッチ以外するなということは、ドリブル禁止ということだ。前線右に張る意味がなくなってしまった。
(よし、中盤でパスを捌こう! ドリブル出来ないのはちょっと悲しいけど、ワンタッチプレーを楽しもう!)
紅葉は気持ちを入れ替え、ワンタッチでパス交換が可能なところ、中盤とディフェンスラインの間でプレーすることを決める。
3‐2‐2のフォーメーションが紅葉の位置修正で相手の斉川と同じ3‐3‐1となった。そしてこの移動により中盤に人が多いフォーメーション同士のミラーゲームとなる。こうなると普通は両軍が中盤でぶつかり合い、ボールの奪い合いになる。
しかし、中盤でお互いの選手たちがボールを奪い合う展開にはならなかった。浦和領家のパス回しが奇麗に繋がり斉川の守備を圧倒したのだ。その要因の一つは紅葉であった。紅葉がパスの受け手として味方のボールを引き出し、それをワンタッチで戻したり、他の選手へと正確にパスを繋いだりして、浦和領家のパスリズムを作り出していた。
八滝とパス交換をし、大きく逆サイドの都築へとボールを送る。その後も紅葉はワンタッチパスでボールを散らして中盤を組み立てる。
(よし、次はあっちかな)
紅葉はフラフラとピッチを移動しながら、何度も首を左右に振って皆の動きを把握する。
(今だ!)
敵ゴールに背を向け、ダッシュで吉田に近づく。ボールを保持し相手と対峙する吉田に手を上げて自身がフリーであることをアピールする。ピッチ中央付近、吉田が紅葉に気付きパスを送ってくる。
紅葉はボールが蹴られた瞬間に一歩右に移動し、身体の真正面にボールが来る場所に先回りする。つま先立ちでトントンっと軽くステップを踏みつつ、力を抜く。ボールが紅葉の足元に来る。右足の側面でボールを迎え入れ、インパクトの瞬間だけ足に力を入れて、鋭く蹴り出す。
軸足、身体の中心を意識しながら、両手、そして身体全体を使って、しなるように振り抜かれた足はブレることなく、正確にボールの中心をミートする。そして右サイドを駆け上がっていた鈴木の前方二メートルに正確なパスを出すことに成功する。
(ふぅぅ、ワンタッチパス難しい!)
そう思いながら、紅葉は汗を手で拭いつつ笑顔を浮かべる。鈴木が減速することなくボールをトラップし、勢いそのままドリブルを開始する。紅葉は鈴木を追って走り出す。走りながら、首を一生懸命左右に振って、仲間の位置、敵の位置、スペースを確認する。
(雪お姉ちゃんはニア狙い。イケメンが中央のフリースペース狙ってる。眼鏡はその後ろ、こぼれ球狙いとカウンター阻止の位置取りだ。相手はボールに一人、後はボックスの守備で三人だけど位置が甘い。戻りも遅いからイケる)
紅葉は味方と相手の位置と動き方から何を狙い、この後どう動くか一生懸命予想しながら鈴木の斜め後ろを走る。相手ディフェンダーが鈴木に詰め寄る。相手陣内深くまで来た鈴木がドリブルを止め、ボールと相手の間に自身の身体を入れる。ボールキープする鈴木に敵ディフェンダーがさらにもう一人寄っていく。相手ディフェンスラインにギャップが生まれる。紅葉が手を上げ声を出す。
「こっち! パス!」
鈴木がボールを紅葉に送ってくる。しかし、紅葉はそのパスの行方を予想し慌てる。
(うわぁ、マズイ!)
鈴木からのパスが大きくズレたのだ。紅葉は鈴木からのボールを右足インサイドで丁寧に、ワンタッチで吉田へパスする予定であった。けれど、鈴木からのパスは大きく右、サイドラインギリギリに逸れている。ダッシュしてボールを止めて、それからパスをすれば問題なくフリーの吉田にパスを送れる。そして吉田がシュートをすれば一点だ。
(うぅぅ、ワンタッチはムリだ! でも、チームプレー優先!)
紅葉はスライディングでボールに飛びつき、右足つま先でボールをトラップ、身体が右に流れるまま急いで立ち上がり、足元に止めたボールを、左足を軸に独楽のように回転しながら右足で思いっきり蹴り出す。そのボールが吉田の走り込むスペースに行くのを目で追いながら、紅葉はよろけて倒れ込む。
土の感触を頬に感じながら視線は切らず、吉田を見つめる。ゴール前中央、吉田がドフリーでボールをトラップする。
(いけぇ! イケメン!)
紅葉の心の声に後押しされた吉田が右足を振り抜く。けれど、吉田の選択はシュートではなかった。吉田は左の立花へとパスを出したのだ。立花が突然来たボールに慌てつつも、ワントラップして左足ボレーでネットを揺らすことに成功する。
(……う~ん、今のはシュートでよかったんじゃないかなぁ?)
ゴール前でフリーの選手が隣にパスを出すのは、相手キーパーの虚を突き、確実に点を狙うプレーと言えなくもない。けれど、左右どちらにもシュートコースがあったのだから敢えて難しいプレーを選択する必要はなかったと紅葉は思う。
それに、入らなくてもシュートで終えることはかなり重要だ。紅葉は吉田がパスを選択した理由を不思議に思いつつも、ゴールを皆でお祝いする為に立ち上がり、全速力で立花の元へ走っていく。
紅葉は立花にジャンプして抱きつく。立花は笑顔で紅葉を受け止める。
「ナイッゴォです、雪お姉ちゃん!」
「ありがとう! 紅葉ちゃんも吉田もいいパス交換だったよ! あと、鈴木! ナイスラン! あんたの頑張りが生んだ得点よ!」
「いやぁ、そうかなぁ」
鈴木が照れて顔を赤くしているのを八滝と大山がからかう。
「ああ! すっげーいいタイミングでサイド駆け上がってたぜ! それに紅葉へのパス! 絶対にワントラさせるって強い意志を感じたぜ、俺は!」
「確かに、パス出した瞬間、紅葉よさらばって顔に書いてあったな!」
「ちょ、ちょっと待って! そんなことないよ! 紅葉ちゃん本当だよ!」
「おっ、交代ゾーンに和博登場だ。さらば、紅葉!」
鈴木が大慌てで紅葉に無実を訴えてくる。紅葉はその会話で、ワントラップしたことを思い出す。
(そうだった。ワントラップしたから交代だ。うぅぅ)
紅葉は立花から離れると、一度キッと鈴木を見据え、それから一生懸命に笑顔を作る。
「大丈夫だよ! パスがズレちゃったの、わざとじゃないってわかってるから! いい攻撃参加だったからまた一緒にやろうね!」
「あ、ありがとう……あ~、その本当にごめんね、紅葉ちゃん」
「気にしないで! じゃあ、交代してくる!」
そう言い残し、紅葉は交代ゾーンに走る。
「和君ファイト!」
「おう、紅葉の分も頑張ってくるからな!」
交代ゾーンで兄の和博と手をパチリと合わせてからピッチに向かってお辞儀をし、ベンチへ戻る。
(うぅ、もっとプレーしたかったなぁ)
浦和領家対斉川の試合は、前半十二分1-0で浦和領家がリードしていた。
「お疲れ様、紅葉。よく頑張ったね」
「うん!」
ベンチに戻るとお父さんがスポドリを渡してくれる。そして汗だくの紅葉を労うようにタオルで優しく顔を拭ってくれる。紅葉は笑顔を浮かべてお礼を言う。
「ありがとう、お父さん!」
「どういたしまして、それで疲れはどうだい? かなり動き回っていたけど体力は残ってるかな?」
「全然疲れてないよ! 大丈夫!」
「う~ん、じゃあ、後半頭からもう一回いくかい?」
紅葉は自身の体調を把握する為、ジャンプしてから片足をフルフルと振って疲労の蓄積具合を確認する。
(大丈夫だよね……うん、ちょっと疲れたけどまだまだ大丈夫!)
一瞬悩んだが、結局試合に出たいという思いが勝つ。紅葉は笑顔でお父さんに伝える。
「……うん! いく!」
お父さんは紅葉のその返答の間に微妙な表情をした後、苦笑いを浮かべて尋ねてくる。
「……本当に大丈夫かな? 今日は午後からもう一試合あるんだよ。そっちの対戦相手はかなり強敵だからね。紅葉の力が必要になるとお父さんは考えてるんだけど」
「へーき!」
「う~ん、わかった。じゃあ、後半頭からね。それと紅葉、ワンタッチプレーしてみてどうだった?」
「楽しかった! あと、すっごく難しかった!」
紅葉は笑顔で正直に答える。いつものドリブルとは全く違う、中盤でのワンタッチパスの連続は、これまでとは違ったサッカーの楽しさと難しさを紅葉に教えてくれた。
「そうだね、難しかったよね。正直僕は十数分も紅葉がピッチに残れるとは思ってなかったんだよ。ワンタッチプレーだけっていうのはそれだけとっても難しいんだ。ボールが来る前に次のプレーを決める。その為には味方と敵の位置を把握し続けなくちゃならない。そして、ボールを受ける時は味方と呼吸が合っていないと態勢が崩れてパスが出来ない。紅葉は身体が小さいから特にボールを迎え入れるプレーが大変だ。ちょっとでもパスがズレると足が届かないし、パスが出来なくなっちゃう。だから、紅葉がここまでワンタッチプレーが出来てお父さんはびっくりしてるんだよ。紅葉は凄いね」
「えへへへへ、そうかなぁ」
お父さんから大絶賛され、紅葉はめちゃくちゃ嬉しくなる。顔を赤く染めながら笑み崩れる。そんな紅葉をお父さんが笑顔を浮かべて見つめながら問いかけてくる。
「じゃあ、なんで僕がそんなことをさせたか分かるかい?」
「う~ん……ポゼッションサッカーする為かな。中盤に厚みを持たせて、パス回しして試合を支配する作戦!」
これまでの浦和領家はリアクションサッカーであった。守備ラインを低く設定し、三分の二までは積極的なプレスを行わず、攻め込ませる。ボール奪取は大山たちスリーバックと八滝が担う。そして、奪ったボールは吉田を経由して前線の立花と紅葉に一気に送る。相手にある程度ボールを持たせ、攻め込ませることでカウンターを決めてきた。
それが、お父さんが監督になったことでガラリと変わった。全員攻撃全員守備を標榜するお父さんのサッカーはラインを下げずにコンパクトな陣形を維持する必要がある。前線からのプレスで守備の網を張り、高い位置でボールを奪いショートカウンターに移行する。
ショートカウンターが出来ない通常の攻めでは縦ポンを止めて、パスを皆で回して相手を崩すことになる。その為に紅葉に中盤でワンタッチプレーをするよう指令が来たのだと紅葉は解釈していた。しかし、紅葉の答えにお父さんは感心したという顔で答える。
「そっか、紅葉はそんなことまで考えたんだね。偉いぞぉ!」
「わぁっ、あはは」
タオルで頭を覆われ、わしゃわしゃと優しく頭を撫でられ紅葉は笑う。それから、二人で並んで試合を応援する。和博がフォワードに入り、3‐2‐2に戻った領家は攻撃の手を緩めず、相手を攻め続けている。試合を観ながら、お父さんが先ほどの続きを話し始める。
「でも、お父さんはそこまで紅葉に求めてなかったんだよ」
「そうなの?」
「うん、紅葉、現代サッカーって言われているのはね、とにかくフィジカル重視なんだ。皆で攻めて皆で守る。その為には最低条件として走力が求められるよね。大人の場合だけど、九十分の試合でボールに触れてる時間は二~三分くらいしかないんだって。だから、どんなに上手くても走れない選手は八十七分間何もしないことになっちゃう。そんな選手は監督にとって使いづらいから試合に出られなくなっちゃうんだ。もちろん世界には走らなくても許されるほど決定的な違いを作れる選手がいるのも事実だけど、その選手だってチームメイトが代わりに一生懸命走ってサポートするから輝けるんだよ」
だから紅葉にはしっかり走れる選手になってもらいたいんだよ、とお父さんが優しく言う。
「うん、頑張って走れる選手になるよ!」
紅葉はお父さんの言葉に大きく頷き、宣言するようにしっかりと答える。紅葉としても走力の必要性は、かつてJリーガーであった時に、実感として理解している部分だ。ダッシュとランニング、歩くことの組み合わせでしっかり相手のマークを外すオフザボールの動きが出来ないとボールが回ってこなくなる。守備の部分はある程度免除されていたのであまり分からないが、走れない選手は試合で消える。そうなったらもう試合で使われなくなる。スタメン争いをしていた一年目はオフザボールの動きが単調でボールをもらえず、かなり苦労したものだ。
「いい返事だね、頑張ろう! それとね、皆で攻めて皆で守るってことはラインが上がって、コンパクトなフォーメーション同士の戦いになるんだ。そうすると狭いエリア、大人だと縦三十メートルにフィールドプレーヤー二十人全員が集まって、ひしめき合うのが普通になってしまったんだ。狭い空間に人数が増えれば、次から次へと敵が寄ってくるようになるからドリブル突破よりも、早いパス回しが重要になってくる。そして守備側は早いパス回しをさせない為に、チェックする必要がある。守備側は激しいタックルが必要になってきたわけだ。そのタックルに耐える為に攻撃側もフィジカルが必要になる。これがまぁ、簡単な現代サッカーのフィジカル重視論だけど、どうだろう、今の紅葉は身体を張ったプレーは絶対に出来ないよね?」
「うん、無理かなぁ」
そう紅葉が答えたところで、立花が二点目を叩き込む。やったぁと紅葉とお父さんが手を叩き合って喜ぶ。こちらにVサインを送ってくる立花にVサインを送り返す。もっと、攻めろとお父さんが選手たちに指示を送った後、再び紅葉に説明を始める。
「紅葉の得意なドリブルを活かすプレーをする為に、混戦を避けてワイドに張る。そこからドリブル突破。現代に残された唯一のフリースペースを使う当然の戦術としてサイドのドリブル突破は重要だけど、それだってサイドハーフの選手が下がってスペースを潰す対応をされると難しくなる。紅葉にはこれから色んなポジションでプレーして、成長してもらいたいって思ってる。でも、今の紅葉の上級生たちとプレーするこの環境だと、人の少ないサイドしか出来ない。混戦する場所はフィジカルで潰されて怪我しちゃうからね。だからまず紅葉にはフィジカルに潰されないようなプレーを覚えてもらいたいって思ったんだ。その為に今日はワンタッチプレーをしてもらったんだ。相手に寄せる時間を与えないワンタッチプレーは、フィジカル弱者の紅葉が怪我を防いで色々なポジションで活躍する必須スキルだと僕は思ってるんだ」
「うん、私頑張る!」
お父さんの言葉に紅葉はしっかりと頷く。
(お父さんは私のことしっかり見てくれてるんだ! やってやるぞぉ!)
紅葉は気合を入れ直す。ピッと審判が前半終了の笛をならす。まずは仲間たちをしっかり出迎えようとタオルとスポーツドリンクの準備を始める。紅葉の顔は自然と笑顔になっていた。こんなにいい環境でプレー出来ることが嬉しくて仕方なかったのだ。
吉田秀哉は浦和領家少年サッカー団のミッドフィルダーだ。一年の春に体験入団し、それから五年間ずっと浦和領家でサッカーをしてきた。去年まで浦和領家は少年団としては中堅どころであった。団員数は小学一年生から六年生までで四十七名、六年主体のAチーム十二名、四五年主体のBチーム十六名、後は各学年で適宜チーム編成し、様々な試合に出場していた。
秀哉は四年生ながらBチームの主力として活躍していた。そんな中、新しい監督が浦和領家に来た。それが浦和領家を崩壊させることになるとは誰も思っていなかった。Aチームを主に指導し始めた監督は些細なことで選手たちを怒鳴りつける酷い奴だった。
親の見ている前でもヤジや暴言を平気で吐く。他のボランティアコーチや親にまで嫌味を言う。そんな監督のせいで、団の空気はどんどん悪くなっていった。親たちからクレームが入るようになり、辞めていく子供が出始めた。
ただ、皮肉なことに監督としての手腕は良いらしく、Aチームはリーグ戦や市民大会で勝つようになっていた。ボランティアで毎週末子供の指導をしてくれ、さらには結果を残している監督。それがたとえ性格に難があるとしても辞めてもらうということは難しかったらしい。
それに、厳しく指導する過程で多少汚い言葉が出るのは仕方ない。むしろ子供の躾には丁度いいと考える親も少数だが存在し、彼らが監督を擁護した。監督と親の対立、そして親同士の対立で団の結束がなくなってしまった。少年団は親たちのサポートがあって成り立っている。そのサポートがあっという間になくなってしまった。
嫌気を差し、あの監督とはやっていけないと親たちが子供を辞めさせた。子供たちも監督の暴言を怖がってどんどん移籍していってしまった。結局一年で団員数は半分近く減ってしまった。これはさすがに拙いと監督擁護派が遅まきながら気付き始めた頃に、追い打ちをかける事件が起こる。
監督が団の会計係の親と結託し、団費を不正に使用していたのだ。年度会計でそれが発覚し、親たちが監督に詰め寄った。しかし、大した額ではない。返金すると悪びれることなく言う監督にさすがの親たちも開いた口がふさがらなかったらしい。秀哉の父が凄い怒りながらことの経緯を話していたのを覚えている。金額の問題ではない。信用の問題だということが監督は分かっていない、と秀哉の父は憤慨していた。
自身の大切な子供を預けるのに、こんな監督に任せることなど出来ない。秀哉の親だけではなく、他の親たちもそう思ったようだ。しかし、この問題はさらに根が深かった。監督と一緒に団費をちょろまかしていた会計係の子供はサッカーがあまり上手くなかった。けれど、Aチームのスタメンとして使われ続けていたのだ。他にも四年生なのにAチームに昇格した子供や、明らかに実力で優れた子供がBチームに追いやられていた。
そして、秀哉自身、四年生ながらAチームに昇格し、試合に出ていた。秀哉の父が監督に賄賂を贈ったということは絶対にない。監督の言動に怒り、あんな少年団なんか辞めろと口癖のように言っていた父なのだから。
かといって、実力でAチームになれたとは秀哉は思えなかった。秀哉の憧れである立花先輩がBチームに降格して、秀哉がAチームに入る。これが実力だなどと、そこまで自身の実力に自惚れられるほど秀哉はアホではない。
Aチームで試合に出て、秀哉が感じたことは年上とのフィジカルの差であった。スピード、パワー、体格、全てで勝てないのだ。立花先輩にフィジカルで負けない身体の使い方とテクニックの重要性を教えてもらえなかったら挫折していたはずだ。それほど、一つ、二つ年上の選手とはフィジカルに開きがあった。
そんな悪戦苦闘している秀哉に、監督からは罵声ばかりが飛んできた。立花先輩の代わりに出ているんだという一種の思い込みがなければ耐えられなかっただろう。最終的にはリーグ選手権でドフリーの状態からシュートミスをしてしまい負けたことで、ベンチ要員に格下げされてしまった。あの時の監督のド下手糞という言葉と、チームメイトの冷めた視線が秀哉は今も忘れられない。
親は自身の子どもがやっぱり一番可愛いし、出来ることなら試合に出て欲しいと常に願っているものだ。試合に出て活躍して欲しい。活躍出来なくても試合に出て成長して欲しいと思いながら子供の応援や団のボランティアに参加している。それが監督に賄賂を贈った者の子供や気に入られた子が試合に出ている。こんな不平等は到底納得出来るものではない。そう言って、親たちが子供を退団させていった。
誰が監督に取り入っているのか分からない状態で、親同士が疑心暗鬼に陥ってしまった。もう監督を辞めさせるという段階を通り越していた。親たちは浦和領家を見限った。そして監督も浦和領家を見限り、自身のお気に入り選手を引き連れて隣町のサッカークラブに移籍してしまった。残ったのは監督に贔屓されていた二名と秀哉たち小学一年の時から浦和領家で育ち、浦和領家に愛着のある子ども七名だけであった。
秀哉は五年になり、Aチームのスタメンになった。いや、団員が九名しかいないのだから、AもBもないし、スタメンも控えもない。秀哉自身、親から辞めろ、私たちは団の活動に協力しないと散々言われ続けていた。
けれど、小学一年生から仲間たちと一緒に過ごしてきたこのチームを見捨てることは秀哉には出来なかった。そして何より立花先輩がチームに残るのだ。秀哉が団を出る選択肢はなかった。
新年度のリーグ戦は大山先輩のお父さんが監督を、あと立花先輩のお父さんが帯同審判をしてくれることで何とか参加することが出来た。五戦五敗、結果は惨敗であった。
チームに一体感がなくなってしまっていた。立花先輩が懸命に声を掛けて、皆を鼓舞してもまとまれなかった。そもそも単純に小学五年生が四人も入ることでチームレベルが低くなっていることと、交代選手がいないことで運動量で負けてしまっていた。
そして、そんな中、前監督に贔屓されていた二人が同時に退団することになった。前監督のいる隣町のサッカークラブに引き抜かれたそうだ。あの前監督は自身のキャリアに泥を塗られたとでも思っているのだろうか。逆恨みでこんな嫌がらせを受けるとは思ってもいなかった。けれども、あいつの手腕は確かに凄いと秀哉はため息を付きながら色々な意味で賞賛の気持ちが湧いてしまった。
浦和領家は団員七名となり、八人制の大会にすら出場出来なくなってしまった。秀哉たちは立花を中心に団員募集をした。けれど、悪い噂が立ってしまった浦和領家には誰も入ってくれなかった。もうどうしようもない。このまま少年団解散かと内心で思っている時に現れたのが大井紅葉であった。西洋人形みたいな整った顔の小さな少女が一緒にやりたいと言ってきた時は何の冗談かと思った。こんなガキまで使って試合に出るくらいなら、解散した方がマシだとさえ思った。
けれど、紅葉はサッカーの天才だった。小さな身体を目一杯使って行われるドリブル、パス、シュート、全てが秀哉より上手かった。四百グラム弱の4号ボールは小さな少女には大きすぎるはずだ。けれど、そんなものはこの少女にはまったく関係がなかった。
「手でボールを投げる時って手全体、指も使うよね? 指を使わないと変な方向に行っちゃうんだよ。それは足でも一緒なの。だから、足でボールを蹴る時だって足全体、足の指も意識しなくちゃダメなんだよ」
過去の恐怖から試合でシュートが打てなくなっていた秀哉が、どうやればシュートを正確に打てるようになるかと聞いた時の回答がこれだ。まったく理解出来なかった。分かったのは、この少女が秀哉とは数段レベルの違うところにいるということだけだった。
それでも、嫉妬はまったくといっていいほど湧かなかった。ぶかぶかのユニホームを着て、呆れるくらい笑顔を浮かべながら走り回っている少女相手にそんな負の感情など湧くはずがない。紅葉と一緒にプレーしていると秀哉までいつの間にか笑顔になっているのだ。チームに失われていたはずの一体感があっという間に出来ていた。まとめ役は立花先輩であったが、中心は紅葉だ。
そして、紅葉のお父さんが監督に就任し、和博が加わったことで浦和領家は完全に息を吹き返した。大井監督は選手全員を本当によく見てくれている。そしてとても優秀だ。秀哉が試合でシュートを打てなくなったのはイップスが原因だろうと教えてくれ、一緒に克服しようと笑顔で励まされた。バレたらディフェンダーにコンバートされると思って必死に隠していたのがバカらしいほど、あっさりと見抜かれ、治そうと言われてしまった時の驚きと嬉しさは一生忘れないだろう。
まだ秀哉の両親は少年団の活動に対して不参加を決め込んでいる。けれど、それも時間の問題だろう。相手チームの保護者たちすら紅葉のプレーに声援を送ってしまうのだ。両親が試合を観に来れば、紅葉のプレーに魅了されること請け合いだ。
だから今、秀哉はこの新チームで充実したプレーをすることが出来ているのだ。
浦和大林戦、2-0でリードして迎えた後半、秀哉はバックラインの鈴木からパスを受け、中央で前を向く。敵ミッドフィルダーが早速とばかりに詰めてくる。交代したばかりの相手とは体力勝負では勝てない。けれど、こちらには頼りになる仲間がいるのだ。
「へい! こっち!」
右前方からよく通る澄んだ声。顔を上げる。青いぶかぶかのユニホームを着た小さな少女とその後ろに必死で食らいついてくる相手ディフェンダー。秀哉は紅葉に早いパスを送る。そのまま走り相手の裏を取る。そこには当然とばかりにボールが転がっている。
(左足ドンピシャなパス! やっぱりすげーな紅葉!)
疲れ汗だくになりながらも、秀哉の顔には笑顔が浮かんでいた。完璧なパスを前に蹴り出し、一気に加速する。ゴール中央、ディフェンスラインが待ち構えるペナルティーエリア前まで進む。センターバックが待ち構え、後ろからは先ほどワンツーでかわした相手ミッドフィルダーが近づいてくる。ドリブルを緩めパス先を探す。
「こっち!」
立花先輩の鋭い声。男子に密着マークされながらもパスを要求してくる。足元ではなくディフェンスラインの裏へのスルーを狙っていると予想してパスを出そうとする。しかし、秀哉がパスをするより早く敵ミッドフィルダーが追いつき、身体をぶつけてくる。斜め後ろからのチャージだ。審判の笛がなるのを地面に転がりながら聞く。
「ナイス突破!」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫?」
立花が秀哉を助け起こしながら、褒めてくれる。和博と紅葉が怪我を心配してくれる。
「うす。大丈夫す」
秀哉は照れながら、そう素っ気なく答える。
「よし、じゃあ紅葉ちゃん、決めちゃって!」
「うん、任せて!」
ゴール前正面十六メートル、フリーキックを狙うのには絶好の位置だ。前半で完璧なフリーキックで一点取っている紅葉なら確実に決めるだろう。
(こいつのシュート精度は半端ないからな)
そう安心しながら、紅葉の隣に並ぶ。左利きの秀哉がフェイクで空振りをした後に紅葉が蹴る為だ。しかし、紅葉が秀哉のユニホームを引っ張ってくる。頭を下げて紅葉を見ると、そこには満面の笑みがあった。
何か嫌な予感を感じながら、どうした、と聞く。紅葉が頭下げてと言ってくるので屈む。紅葉が弾んだ声で耳打ちしてくる。少女の熱い息が耳にかかり、くすぐったい。
「ねぇ、イケ……吉田、君。フリーキック蹴っていいよ!」
「…………」
あまりのことに何も言えなくなる秀哉に紅葉が続けて耳打ちする。
「私が左隅を狙うフリするから、右に蹴って! あっ、あんまり狙わないでも大丈夫なはずだから気楽に蹴ってね」
「…………お前、親父から俺のこと何か聞いてるのか?」
「? 何のこと?」
秀哉が絞り出すように何とか聞いた言葉に紅葉がキョトンとした顔で聞き返してくる。
(こいつは絶対に俺がイップスだって知らないな。じゃあ、なんでそんなこと言うんだ?)
「何で俺に蹴らせたいんだ?」
「え~とね、これは挑戦なの! 今の私がどれだけ出来るかの!」
意味の分からない答えが返ってくる。ただ、その楽しそうな笑顔が、何かに挑戦したくて仕方ないのだと雄弁に物語っている。
(俺がシュート蹴れないって言うべきか……でもこんな顔してる奴に言えるか? めっちゃ恰好悪いじゃねーか)
秀哉は心臓がバクバクする中、何とか頷く。紅葉がボールをセットし助走を取りに離れる。秀哉は自身の身体がまるで別人のように動かなくなったのを、死ぬ気で動かし、助走を取る。観客たちのざわめきの声が大きくなる。皆、紅葉の笑顔に何をするんだと興味津々とばかりに笑っている。
(挑戦か……チクショウ! 何も知らない癖にこいつはどうしてそんな言葉を言うんだ)
――俺だって挑戦してやるよ
蹴れるようになってやる。そう強く思い定める秀哉の前で、紅葉がゆったりしたフォームで走り出す。後ろに纏められた明るいブラウンの髪が揺れる。七歩目でしっかりと左足を踏み込み、右足を後ろに引く。
――蹴る
誰もがそう思ったはずだ。蹴らないと知っている秀哉でさえ蹴ると思った。全身をしならせ、鞭のように右足が一閃される。壁が全員飛ぶ。キーパーが左へ身体を投げ出すように横っ飛びになって倒れる。
その光景を秀哉は呆然と見ていた。走る足はいつの間にか止まっていた。会場中がしんっと静かになる。キーパーが立ち上がり、壁が再び元の位置に戻る。
「やった! 成功だ!」
紅葉の嬉しそうな声とガッツポーズが皆の前で炸裂する。秀哉はやっちまったという気持ちと、何が成功なんだという気持ちの中で固まる。そこで漸くボールが動いていないことに紅葉が気付き、不思議そうに聞いてくる。
「あれ、何で蹴ってないの?」
「……おま、今更かよ」
その言葉に会場中が大爆笑の渦に包まれる。秀哉はため息を付いた後、苦笑してから紅葉に声を掛ける。
「すまん、ちょっとボウッとしてた。次は蹴るから、もう一回頼む」
「……失敗しちゃったんだぁ! そっかぁ! うん、仕方ないなぁ! 誰でも失敗はあるからね! 気にしちゃダメだよ!」
なぜか、秀哉の失敗が物凄い嬉しいらしい紅葉は、飛び上がらんばかりに喜びの表情を浮かべて、慰めてくる。本来ならバカにされたと怒る場面かもしれないが、紅葉の奇麗な顔には嫌味を言っている感じは全くない。
――意味分かんねー! けど、まぁあんまり深く考えたら負けな気がする
そう、秀哉は思い直し、笑う。いつの間にか震えは消えていた。
(俺もこいつみたいにサッカーを楽しみたい。イップスなんかすぐ直してやる!)
今なら蹴れる、そう根拠のない自信だけが秀哉の心に残った。どうしたの? と紅葉が問いかけてくる。なんでもねー、とぶっきらぼうに答え秀哉は笑うのであった。