18 「楓と夏の空」
「ありがとうございました!」
「はい、お疲れ様でした」
一時間のピアノレッスンを終え、楓は美穂先生に挨拶をする。
(今日も楽しかったなぁ)
楓は笑顔を浮かべ、楽譜と教本、筆記用具をバッグにしまい、バイバイと手を振ってから、レッスン室を出る。次のレッスンを受ける三つ年上の女の子、苺ちゃんがすれ違い様に、こんにちは、と挨拶をしてくる。楓は一瞬固まり、それから何とか、こんにちはと声を返すと、急いでその場を離れる。
お迎えに来ているだろうお母さんと合流する為、応接室に向かう。応接室に飛び込むように入ると、そこにはお母さんともう一人、美穂先生のお母さんである幸子さんがいた。二人は応接テーブルに広げられた色とりどりの服を手に持ったまま、笑顔で楓を出迎える。
「あら楓ちゃん、レッスン終わったのね。丁度いいところに来てくれたわ」
「お疲れ様、楓。この服ね、先生の子供時代のお洋服なんですって。それをあなたに下さるそうよ」
楓はお母さんの座るソファの斜め後ろに、隠れるように立つ。そして、お母さんの腕を引っ張って帰ろうと告げる。
「はいはい、でもちょっとこの服着てみなさい。今度のコンクール用にサイズ調整が必要になるか確認しなくちゃ」
「そうですねぇ、今の楓ちゃんだと、ちょっとどれも大きいわね。でも、簡単にスカートも上着も裾上げ出来ますよ。私も娘の時に何度も手直ししましたから。よろしかったらお手伝いますよ」
「本当ですか! 何から何までありがとうございます」
「いいんですよー」
(コンクール用の服ってどういうこと? 私がコンクールに出るの? そんなの聞いてないよ先生)
お母さんと幸子さんが楽しそうにお話しするのを楓は混乱しながら聞いていた。
「うちの娘がやる気を出してくれたのは楓ちゃんのおかげなんですから! 抜け殻みたいになってたのが、今じゃあ、毎日一生懸命に勉強して。そのおかげか他の生徒さんもちょっとずつ来てくださるようになって。それもこれも全部楓ちゃん……と、紅葉ちゃんのおかげなんですから」
「いえ、そんなことありませんわ。私たちとしても飽きっぽい楓がこんなに何かに集中して、物事に当たれるようになるなんて思ってもいなかったんですよ。美穂先生には感謝してもしきれません。あと、紅葉にピアノは向いてなかったみたいで……すみません」
「フフっ。紅葉ちゃんは身体を動かす方が好きなんですもんね。向き不向きがありますわ。それにしても! 楓ちゃんは本当にピアノの才能がありますわ! 私も娘のピアノを子供の頃から近くで応援してきましたけど、楓ちゃんは娘以上に才能があるのが、私みたいな素人でも分かりますもの。きっと今度のコンクールは優勝だって出来ると思いますわ!」
「本当ですか! でも、この子はかなり引っ込み思案なところがありますから、コンクールでちゃんと弾けるか今から心配です」
「お母さん!!」
楓は二人の会話に我慢出来なくなり、大声でお母さんを呼ぶ。
「私、コンクールなんて出ないもん! そんなの先生から聞いてないもん!」
それ以上は言葉が出てこない。泣きながら、帰ろうとお母さんの腕を強く引っ張る。お母さんが楓のことを抱き締め、優しく背中を叩いてくれる。
「すみません、ちょっと今日はこれで失礼しますね」
「いえ、私の方こそすみませんでした。楓ちゃん、ごめんなさいね。おばさん、楓ちゃんの気持ち考えないで舞い上がっていたみたい。コンクールのことも無理に出る必要はないんだからね」
楓はそのままお母さんに抱きつき、家に帰る。家に帰りつくとお母さんから離れ、自室に走る。そして部屋のエアコンを十七度に設定してから、クローゼットを開け、その中に潜り込む。クローゼットを閉め、衣装ケースと収納かごの隙間に丸まって座り、顔を両腕で覆う。
やっぱりあの時に感じていた不安が当たった。楽しくピアノを弾いていたいだけだったのに。美穂先生みたいに上手にピアノを弾きたいだけなのに。楓はそう思いながら、少し前のことを思い出す。
美穂先生が突然楓の指導を辞めると言ってきた。楓は泣いて辞めないでとお願いしたが美穂先生は首を横に振るだけであった。いつも優しくピアノを教えてくれていた美穂先生に見捨てられたのだ。楓はクローゼットの中に逃げ込み、身体を丸めて泣く。
(何がいけなかったのかな。私が我儘で嫌な子だからかな。それで、美穂先生も私のこと嫌いになっちゃったのかな)
真っ暗闇の中で浮かんでくるのは暗闇の恐怖と後悔の気持ちだ。何かがいけなかった。その何かは分からないけれど、いつも自分が悪いということだけは分かっているのだ。でも、その何かは分からないし、分かる時はいつも手遅れになっている。
(私ってどうしてこんなに嫌な子なんだろう)
カチャッという音の後、光が差し込むのが丸まって目を瞑っていても分かる。楓の隣からガサガサという音が聞こえる。収納かごを移動しているのだと見なくても楓には分かる。そしてカチャリという音とともにクローゼットの中が再び暗闇に包まれる。
いつも嫌なことがあると逃げ込む場所が子供部屋のクローゼットだ。楓にとっては暗くて狭い苦手な場所だ。それでも、嫌なことがあるといつも楓はクローゼットの中に逃げ込む。その理由は一つだ。
――お姉ちゃんが絶対に来てくれるから
楓にとって、クローゼットの中は紅葉と二人っきりになれる場所なのだ。紅葉と一緒の暗闇は怖くない。楓の隣から静かな息遣いと温かさが伝わってくる。楓はもぞもぞと動いて頬を隣に座る紅葉の肩にくっつける。紅葉が何も言わずに楓の頭を撫でてくれる。
静寂が心地いい。紅葉の髪から香るシャンプーの甘い匂い、首筋からはいつも付けている無香料タイプの日焼け止めの匂い。そしてちょっとだけ汗の匂い。
(お姉ちゃんの匂いは太陽の匂いみたい)
楓にとって一番大好きな姉の匂いに包まれながら、少しだけ悲しさから解放される。ずっとこのままでいたいと思う気持ちと、このままじゃいけないと思う気持ちがぶつかり合う。そして、楓はおずおずと呟く。
「……私ってどうして嫌な子なのかな」
「どうして、そう思ったのかな?」
楓の呟きに紅葉は優しく問いをかえしてくれる。
「美穂先生に捨てられちゃったから。きっと、私が嫌な子だから嫌われちゃったの」
「美穂先生がそう言ったの?」
「言ってない」
「じゃあ、なんて言ったのかな?」
紅葉の問いかけは、感情的になって周りが見えなくなっている楓に、様々なことを教えてくれる。気付かせてくれる。
「……私には才能があるから、他の先生のところで習った方がいいって言ってた。でも、私にはそんな才能ないもん。そんなの嘘だもん」
「そっかぁ、じゃあ、どうして嫌われちゃったかはカエちゃんにも分からないんだね?」
「うん」
「私は美穂先生がカエちゃんのことを嫌いになったなんて信じられないなぁ」
「そんなことないもん!」
そして必ず紅葉は解決策を教えてくれる。勇気のない楓に代わって解決してくれる。
「そっかぁ、じゃあ、お姉ちゃんが美穂先生に聞いてきてあげる」
「……うん」
「じゃあ、お外に出ようか。ここは暗くて狭いからね」
「うん」
(お姉ちゃんに任せておけば絶対に大丈夫。お姉ちゃんは私のヒーローなんだから)
美穂先生が、楓を見つめながら話しかけてくる。紅葉が美穂先生を説得してくれたのだ。
「私は楓に相応しい先生になってみせるわ。だから、一緒に頑張りましょう!」
やっぱりお姉ちゃんは凄い! と楓は笑顔になる。また美穂先生と一緒にピアノが弾ける。美穂先生の言葉にホッと安堵し、そして同時によく分からない気持ちになる。
(別に今まで通りに先生とピアノが弾ければいいだけなのに、何を言っているんだろう?)
そう不思議に思った。楓にとってピアノを弾く理由は美穂先生だ。相応しい先生ってそれはどういう意味なのだろうか。何か、楓と美穂先生の考えていることに隔たりがある気がする。それは何なのだろうか。
(分かんない、けどちょっと不安だな)
「うん、頑張る」
それでも楓は笑顔を浮かべて、美穂先生にこれからも指導してもらえることを喜び、そう答える。
暗闇の中でどれだけそうしていただろうか。眠ってしまっていたらしい。紅葉の温もりに包まれて楓は目を覚ます。そして、先ほど思い出していた隔たりがなんであったか、寝ぼけまなこの楓は何となく理解する。目標としているところの違いなのだろうか、と。
「んっ、ふわぁ……お姉ちゃん、おはよう」
「おはよう、カエちゃん」
「……ねぇお姉ちゃん」
「なぁに?」
楓はそこで口ごもる。お姉ちゃんに上手くこの気持ちを伝えられるだろうか、と考えたのだ。けれど、そんなのは考えても仕方ないと思考を放棄する。
「えとね、お姉ちゃん、私がピアノのコンクールに出る話って聞いてる?」
「ん~、聞いてないよ? カエちゃん出るの?」
「出ない! けど、出るみたいな話になってるの!」
「そっかぁ、それが嫌なの?」
「うん、嫌!」
「どうして嫌なのかな? 皆の前でピアノ弾くのが怖い?」
「……怖い」
「う~ん、美穂先生は何て言ってたかな?」
「聞いてない」
「聞いてないの? じゃあ、聞いてみようか?」
「……うん」
「じゃあ、行こう!」
夕方の五時過ぎ、まだ日が残っている暑い中、早速とばかりに紅葉が楓の手を引いて美穂先生の家に向かう。インターフォンを押して美穂先生に挨拶をする。楓は紅葉の後ろに隠れて二人の様子をうかがう。
「先生、カエちゃんのコンクール出場をどうして決めたの?」
「お母さんたちから聞いちゃったかな? 楓、言うのが遅くなってごめんね。楓は嫌がるだろうなぁって思ってたら、どうやって言えばいいのかわからなくなっちゃって。なかなか言えなかったの。ごめんなさい」
「先生はカエちゃんが嫌がるって分かっててもコンクールに出た方がいいって思ってるんだね。それはどうしてなのかな? カエちゃんに教えてあげて、先生」
「えぇ、紅葉。ねぇ、楓、楓は私みたいに上手にピアノを弾きたいって言ってくれたわよね? 今もその気持ちは変わってないかしら?」
楓は頷く。美穂先生が笑顔を浮かべながら、続きを言う。
「そう、よかった。でも、楓。上手にピアノを弾くって誰の前で弾くのかしら。私の前だけ? 紅葉の前だけ? 苺や他の生徒、知らない人がいるとあなたはまったくピアノが弾けなくなっちゃうわよね。それは私みたいに上手に弾けるって言えるかしら? 言えないわよね。私はあなたのピアノを、狭い世界で終わらせたくないって思ってるわ。もっと色々な人とピアノを通じて知り合って、成長してもらいたいの。その為にも、ピアノコンクールに出場して欲しいって思ったの」
(先生は私のことしっかり理解してくれてたんだ。私の思い違いだったんだ。よかった……でも、そんなの私にはムリだよ)
楓は美穂先生にきちんと自分の目標、美穂先生のようになりたいということが理解されていると分かり、嬉しくなる。けれど美穂先生のそれ以上の期待に恐怖を覚え、身動き出来なくなる。紅葉が弾んだ声で確信部分を言う。
「そっか、先生はカエちゃんの引っ込み思案を改善したいんだね!」
「まぁ、ぶっちゃけるとそういうことなんだけどね。楓、頑張ってみよう?」
「そんなのムリだよぉ、私はお姉ちゃんと先生の前だけで弾ければいいんだもん! コンクールなんてムリだもん!」
楓は泣きながら、強く訴える。滲む楓の視界に紅葉が映る。紅葉が楓の肩をしっかりと掴みながら、優しく話しかけてくる。
「カエちゃん、いきなりコンクールは怖いんだよね」
楓は泣きながら何度も頷く。
「じゃあ、予行演習してみよう! 私と先生がカエちゃんの傍で見守ってる。それに無理ならすぐに止めてもいい! どう? それなら、皆の前でもピアノを弾けそうじゃないかな?」
楓は考える。弾けるかは分からない。けれど、紅葉と美穂先生が傍にいるのなら大丈夫な気がする。
「……うん」
「よし! じゃあ、早速行こう! 先生、この後時間ある?」
「えっ、ええ、あるけど、紅葉、あなたどうする気?」
「私に任せて! ちょっと心当たりがあるんだ!」
紅葉に連れられ、美穂先生と楓は北浦和駅から三駅、大宮駅に辿り着く。日が落ちかけ、夕陽が照り付ける中、西口の歩道橋の端、フリースペースとなっている場所に向かう紅葉に付いていく。そこには街灯の下、数人が見守る前で一組のバンドが演奏をしていた。そこで紅葉が立ち止まり、演奏を聞く態勢に入る。美穂先生と楓も紅葉に習って彼らの演奏を聞く。
(この前よりひどくなってる)
楓はこのバンドを知っていた。以前、大宮駅傍にあるフィットネスクラブに行く時に紅葉と姫花の三人でこのバンドの演奏を聞いたことがあるのだ。普段は姫花のお母さんに車で送ってもらっているのだが、車が使えず、電車を利用した日であった。
その時は、ギターボーカル、ベース、キーボード、ドラムの四人でやっていた。けれど、今は三人しかいない。ギターの金髪頭が抜けて、代わりにキーボードの黒髪青年がボーカルをしている。
楓にはバンドの良し悪しなどは分からない。分かるのは、キーボードがギターの穴を埋める為にメロディーラインを必死にやっていること。そして、それが裏目になっていて、ドラムとベースのリズムに合っていないことくらいだ。
演奏が終わる。パラパラと数人の拍手に三人がお辞儀をする。そこに紅葉が近づいていく。
「……まさか、あの子」
美穂先生の呟きに楓は返事をする余裕すらなくなっていた。生まれてからこれまでずっと一緒にいた姉のことを楓は誰よりも理解している。そして、紅葉はやるとなったら絶対にやる。この場合のやることは、楓のコンクール予行演習である。逃げる為に一歩足を踏み出したところで、がしっと腕を掴まれる。
「逃げちゃダメよ? 紅葉が楓の為にやろうとしてくれてるんだからね」
「……でも」
尻込みする楓に交渉を終えた紅葉が笑顔で声を掛けてくる。
「オッケーだって! カエちゃん! ここのキーボードでコンクールの予行演習だよ!」
「ほら、行きましょう楓」
「待って! ヤダよ!」
「はいはい、諦めも肝心よ。ほら、頑張ってらっしゃい!」
楓は美穂先生に引きずられてバンドの中央へと連れていかれる。ドラムを担当していたツンツン頭が頑張れよと楓に声を掛け、ベース担当の女顔が、まぁ無理すんなよと苦笑いをして脇にどく。キーボード担当の黒髪青年がキーボードの高さをマックスまで下げて、楓が弾けるようにしてくれる。
楓はボタンやつまみがいっぱいついたキーボードの前に立つ。そして顔を前方に向けて固まる。少し離れた位置に紅葉と美穂先生、そしてこの場を提供してくれたバンド三人組。その斜め後ろに数人が何事かと楓を興味津々に見ている。
(こんなのムリだよ)
楓は即座にギブアップし、泣くのを必死に堪えながら、紅葉の顔を見つめて助けを求める。紅葉はそれに気付くと、ちょっと困った顔をした後、すぐに行動を開始してくれる。リュックの中から赤いボールを取り出し、それをリフティングし始めたのだ。そして、優しく声を掛けてくれる。
「カエちゃん、おうちでよくやる曲を弾いてみて」
「う、うん」
「あと、私だけを見るんだよ! ここはおうち、私とカエちゃんだけだよ!」
その言葉に従い、笑顔でリフティングをする紅葉だけを見つめて、楓は家でよく弾くベートーヴェンのトルコ行進曲を弾き始める。
(うわぁ、この鍵盤軽すぎてダメだ! 指が滑るよ! 気持ち悪いよ)
軽やかに一定のリズムでタッチしようとして、それが上手くいかずに泣きそうになる。何度もタッチをミスる。でも、止めることは出来ない。
楓の曲に合わせて、紅葉がリフティングしながら行進を始めたのだ。視界の端に紅葉がコミカルに身体を動かし、それに合わせてボールをヒールや腿、肩、頭、背中と順番に変えながら蹴っているのが見える。
(お姉ちゃんと一緒にボール遊びが出来るのはこれだけなんだもん! 絶対にお姉ちゃんに楽しんでもらう曲を弾くの!)
家でいつもやっている通りに合わせたい。その一心で楓は慣れないキーボードを叩く。段々と集中していく。雑音が消え、白と黒、そして紅葉と赤いボールだけの世界になる。
楽しくて活発に、そして気晴らしのような曲。この曲は紅葉のような曲なのだ。だから楓はこの曲が好きであった。二分弱、集中して弾き切る。最後に時間を少し取ってから両手の親指と小指で鍵盤を叩く。一度目の音に合わせて紅葉がボールを高々と頭上に蹴り上げ、難なくそのボールを肩で受け止める。それが成功したら、お辞儀の為にもう一度鍵盤を叩く。紅葉がお辞儀をしながら肩から落ちたボールを足で受け止める。
(ちょっと失敗しちゃったけど、しっかり弾き切れた!)
紅葉が笑顔を楓に向けてくれるのを確認し、楓も笑顔になる。そこで漸く集中が解けた楓は周囲の状況に気が付く。物凄い観客がいた。それが、皆一様に拍手を送ってくる。楓は笑顔を固まらせる。アンコールの大合唱が始まる。興奮が一気に覚め、恐怖が顔を出す。そこに紅葉が近づいてきて笑顔でこう言ってくれる。
「カエちゃん、楽しかったね! ねぇ、カエちゃん、私はいつだってカエちゃんと一緒にいるよ。守ってあげる。だから、怖がる必要なんてないんだよ。ねっ!」
「う、うん、でも……」
「大丈夫大丈夫! せっかくなんだから、もっと私とカエちゃんの息がぴったりあったところを皆に見せつけてやろう! お姉ちゃんを信じて!」
(怖い……けど、お姉ちゃんと一緒なら大丈夫。うん、それにお姉ちゃんが凄いところをもっと皆に見てもらいたい)
楓はぎこちない笑みを紅葉に返す。そして、次の曲を弾き始める。
――そうだ、お姉ちゃんが見守ってくれてるんだ。お姉ちゃんと一緒なら何だって出来るんだから!
暗譜している曲を弾きながら、楓は歩道を埋め尽くしている観客たちを見回し、ちょっとだけ笑みを浮かべる。その顔は若干引き攣っていたが、それでも堂々としていた。
高藤信也は普通の進学校に通う高校二年生だ。趣味と言えるようなものもなく、高校ではどの部活にも入らず帰宅部であった。そんな信也に中学時代の友達から声が掛かった。信也が幼いころからピアノをやっていることを知っていた友達が、自分の結成したギタートリオに信也をキーボーディストとしてスカウトしたのだ。
よりポップでディープな曲をやりたい、という訳の分からない理由で信也をバンド、グルーサムに招き入れた友達、堀一健太は中学時代の面影など微塵もなくなっており、金髪でピアスをじゃらじゃら付けたチャラ男になっていた。
健太が中学時代の友達でなかったら、確実にお近づきになりたくないような見てくれになっていたが、中身はあまり変わっていなかった。お調子者で、すぐにボケるやんちゃな性格。それでいて、人に気を遣えるところもあるいい奴のままであった。そして、残りのメンバーもいい奴らであった。
ファミレスであーでもないこーでもないと曲のアイデアを出し合い、ぼろスタジオで練習。そして路上ライブ。まったくといっていいほどファンは増えないし、自作CDも売れなかったが毎日が本当に楽しかった。小さな箱で演奏することに全員で大興奮した。
ただ、バンドをやるのにはお金が沢山掛かった。信也もバイトをして費用を捻出していた。そして、健太はその費用が払えなくなってしまった。健太のお袋さんが病気で入院してしまったのだ。親父さんがいない健太は妹の面倒を見ないといけない。学校にバイトと家事、そしてバンド活動。それはさすがに無理だ。
泣きながら、バンドを辞めると信也たちに頭を下げてきた健太を前に、信也は何も言えなかった。俺たちがお前の分も金を出すよ。これから、売れまくって金の心配なんて必要なくなるよ。だから、バンド辞めるなよ。そう言えればどんなによかったか。ただ、頑張れよとお互いに励ましあって、そして健太はバンドを辞めていった。
ギターボーカルが抜けたのだ。解散すべきかと信也たちは思った。けれど、健太の頑張れという言葉がバンドを続けさせた。キーボードの信也がメロディラインとソロをカバーし、ベースの酒井がベースソロやベースラインを弾き、皆でギターパートをカバーする。
そんなこんなで、健太の穴を埋めて活動を続けていたが、ファンは以前よりもさらに少なくなってしまった。大宮駅西口で路上ライブをしても足を止めてくれる人は少ない。固定客が数人代わる代わる聞いてくれるだけ。
信也たちはバンドを解散させようと話し合った。信也は高校二年生、来年は大学受験だ。他のメンバーもそれぞれの理由があり、バンドはこの夏いっぱいまでということになった。最後の夏だ。頑張ろうと皆で路上ライブに箱、新曲作成と色々なことをした。
そんな時、路上ライブの観客に外国人の美少女が現れるようになった。小学低学年であろう少女はもう一人の女の子と一緒に信也たちが大宮駅西口で路上ライブを行っていると現れ、歌を聞いてくれるようになった。いつもビニール製のプールバッグを持っていることから隣の商業施設にあるプールで泳いでからここに立ち寄ってくれているのだろう。
黙っていたら人形と間違えてしまいそうなほどの美少女は、何が面白いのか信也たちの歌を聞いている最中ずっと笑顔であった。曲が終われば一番大きな拍手をくれ、小銭をギターケースに投げ入れてくれる。せっかく出来たファンだ。信也たちはその少女が来ると、過激な曲は控え、バラードやライトな曲を演奏するようになった。
ある時、観客がその少女二人のみとなった。そこで信也は少女に話しかけてみた。
「俺たちの歌どうだい? 気に入ってくれたかい?」
「うん、すっごく! とっても上手で面白いよ!」
面白いというのは、どういう誉め言葉なのかとちょっと分からなかったが、それでも美少女に笑顔で言われれば悪い気はしない。それから、夏休みの間にちょくちょくその少女と会話をするようになった。そして、夏休みの終わりが近づいてきた夕暮れ時、その少女がまた現れた。今度はお姉さまといった感じの年上美女と同い年くらいの可愛らしい少女を伴って。
その少女のお願いは、妹さんのコンクール予行演習をさせて欲しいからキーボードを貸してくれないかということであった。なんでも、妹さんは極度の人見知りで、その克服の為にここで弾かせたいというのだ。貴重なファンの頼み事だ。協力しようと言うと仲間たちも笑顔で同意してくれた。
それから、始まったコンクールの予行演習は凄まじかった。いや、これが何のコンクールの予行演習なのか信也にはまったく見当もつかなかったが。妹ちゃんの弾くトルコ行進曲に合わせて、少女がリフティングをしながら、コミカルに行進する。
まるでボールが生きた動物、犬のように少女の身体にくっついては離れ、離れてはくっついてを繰り返す。行進する少女とそれを追って嬉しそうにはしゃぐ犬の光景が信也には見えた気がした。あっという間に観客が集まり皆が少女たちのパフォーマンスに拍手を送る。信也も信じられないものを見た思いで仰天しながら両手を打ち鳴らす。
アンコールの大合唱に少女たちが話し合っている。そして次の曲を妹ちゃんが弾き始める。少女がリフティングを始める。今度の曲は信也も知らない曲であった。落ち着いたゆったりとした曲調に合わせて少女が回転しながらボールを蹴る。
赤い一個のボールが街灯の明かりを反射し輝きながら、クルクル回るブラウン色の美しい髪の少女を中心に縦横無尽に飛び回る。スマホのフラッシュが星の瞬きのように光る。観客たちのざわめきがいつの間にか消える。それは妖精が中空で舞い踊っているかのような幻想的な光景であった。
皆が二人の少女に魅了されていた。ピアノの音が終わる。ボールが高々と打ち上げられる。重力がなくなったかのようにボールがピタリと少女の足に収まる。それを胸に抱えあげてから頭を下げる少女。ジャンっと一音鳴り響き終局を迎える。それからしばらく拍手が鳴り止まなかった。
そこから先は実に大変であった。観客が集まり過ぎて皆、身動きできなくなってしまったのだ。最後は警官が誘導をして何とか騒然としていた場は通常通りに戻った。当然の如く信也たちは警官に厳重注意と言う名の大説教を食らい、深夜になってやっと解放された。一夜の祭典はこうして終わりを告げたのであった。
それから同じ場所で路上ライブをするといつもより観客が集まるようになった。もちろん、お目当ては信也たちではないのだろうが、信也たちの演奏を聴いてくれるのだ。ちょっとずつファンが増えた。
そしてすぐ後、奇麗な女性、太田美穂さんが少女たちを引き連れて謝罪に来た。太田さんは少女たちのピアノの先生なのだそうだ。こんな美人に面と向かって謝られれば、笑顔で許してしまうのが男の悲しい性であろう。それに、いいものを見せてもらったという感謝こそあれ、もともと謝罪など不必要であったのだから尚更だ。
信也たちは夏が終わってもバンドを解散しないことにした。バンドは休止に近いほど活動出来ないだろうが、それでも辞めたくなくなっていた。あの夜の出来事を体験した三人の総意であった。
そして信也は音大を目指すことにした。今からやっても当然間に合わないだろう。専門学校にするというバンド仲間たちと一緒の道も考えたが、浪人してでも音大を目指すことにした。
やってやるぞという強い気持ちが湧いてくるのだ。あの二人の少女の弾けるような笑顔を見てしまったからだろう。何かが感染してしまったらしい。
――いつか健太も引っ張り出して、四人で最高の曲を演奏したい
作曲家になる。そして信也の作った曲を四人で弾く。それが信也の目標だ。