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15 「指導者たち」

 

 六月第一土曜日、梅雨前の蒸し暑い中、浦和領家は埼玉県南部リーグ前期最終戦を迎えた。新たにお父さんが監督に就任し、チームに紅葉の兄である和博が加わっての初陣だ。対戦相手は行町十鳥少年サッカー少年団、現在五位のチームだ。


 そして、紅葉は今日も絶好調であった。


(しっあい、しっあい、し~あ~い~、ららららら~)


 ピアノ教室に通って鍛えた音感をフルに使って鼻歌交じりに紅葉は会場入りし、皆と一緒に入念にストレッチをする。今度のピッチは人工芝ではなく土なのがちょっと残念ではあったが、それはそれである。楓がピアノ教室に行っている為、応援に来ていないのもちょっと残念であったが、それもそれである。


(試合はやっぱり楽しみだよぉ)


 紅葉はもうずっとニコニコ笑顔であった。その笑顔は試合前の打ち合わせまでずっと続いていた。


「よーし、それじゃあ、楽しんで試合してくるんだよ!」

「はい!!」


 お父さんが笑顔を浮かべながら選手たちに声を掛ける。皆がちょっと緊張した表情で答え、ピッチに向かう。紅葉はそんな皆に頑張って、と声を掛け見送る。


(うぅぅぅ、笑顔だ私! 試合に出るチャンスはきっとあるんだから。皆をしっかり応援するんだ)


 そう強く自身に言い聞かせる。まさかのスタメン落ちに紅葉は内心で泣きながらも、ファイトだよ! と大声を出して自身と皆を応援する。そんな紅葉にお父さんが声を掛けてくる。


「紅葉の出番もちゃんとあるから、そんなに泣きそうな顔しちゃダメだよ」

「えっ!? 私そんな顔してないよ?」

「そっかぁ、してないかぁ」

「うん、しっかりみんなを応援するのもチームプレーだもんね!」

「ははっ、紅葉はちゃんと分かってるんだね。偉い偉い」


 そう言ってお父さんが紅葉の頭を撫でてくれる。


 お父さんが監督に就任してから、チーム練習は二度しか出来ていない。土台を弄る時間はないと考えたのだろう。フォーメーションは以前に引き続き3‐2‐2を採用している。バックは右からひょろい鈴木、坊主大山、デブ都築が並ぶ。


 中盤はイケメン吉田が攻撃的MFとして、眼鏡八滝(試合では眼鏡してない)が守備的MFとして試合の舵取りを行う。その上の2トップ、シャドーの位置に紅葉のお兄ちゃん和博が今回から入り、そして少年団唯一の女の子立花がセンターフォワードとして前線中央に陣取る。


 対する行町十鳥は3‐3‐1と8人制サッカーでは最もポピュラーな布陣だ。厚みを持たせた中盤、そして両サイドハーフのサイド攻撃と守備への移行がスムーズに出来るフォーメーションだ。3バックが守備に集中することで守りも固くなる。


 行町十鳥はここまでの七試合で勝ち点10、五位に付けている。勝ち点3で七位にいる浦和領家としては、上に行くのに負けられない相手だ。


 試合は立ち上がり、ボールが落ち着かない展開となった。領家は中盤でパスミスやトラップミスを繰り返し、行町へボールを渡してしまう。行町ボールになると、領家は守備陣の早い寄せで相手の攻撃に対応する。行町は領家の守備にあっという間に捕まりボールロストする。


 だが、その奪ったボールを領家は自分たちのミスで失う。結果的に中盤でボールの取り合いになり、そこに人が集まり、ぐちゃぐちゃの泥仕合となってしまっていた。


「みんな頑張ってぇ!!」


 大声で声援を送る紅葉にお父さんが声を掛けてくる。


「う~ん、皆緊張しちゃって本来のプレーが出来てないね」

「うん、でもどうしてだろう? 相手そんなに強くないのに……」

「う~ん、多分僕が原因だろうなぁ」

「お父さんが?」

「うん、皆は新監督にいい所を見せようって気負いすぎちゃってるんじゃないかな? そのせいで固くなってミスしちゃってるんだと思う。というわけで紅葉に監督として命令します!」

「はい!」


 お父さんが腰を下げ、紅葉の顔を見つめて言ってくる。紅葉はビシッと敬礼し、お父さんからの初任務に気合を入れて聞き入る。


「皆に普段通りのサッカーをして、試合を楽しめ! って伝えてあげて。僕から言ってもきっと皆の緊張は解けないだろうからね」

「うん、わかった!」

「よし、頼んだ!」


 紅葉は元気よくサイドラインギリギリに駆け寄ると、手を大きく振ってから、息を吸い込む。そしてそのまま吸い込んだ息を静かに吐き出す。


(んっ、でも何て声かければいいんだろう? 試合を楽しんでって言ったからって簡単に緊張が解けるものなのかな? 緊張を楽しめ! なんて小学生の子に言うのも厳しいよね? んん~~)


 紅葉は顎に手を当て、考え込む。


(そもそも、緊張の原因はお父さんなんだよね? そっか! お父さんにもっと親しみをもってもらえればいいわけだ!)


 紅葉は閃いたとばかりにポンっと両手を打ち合わせる。しかし、その手はすぐに下へ落ちる。


(あっ、でも、その方法が分かんないや。お父さんはすっごいいい人だぞー、って言うの? 言って通じるものなのかな? ううぅ~)


 紅葉は頭を抱えて悶える。後ろに纏められたセミロングの髪が揺れる。


(あっ!)


 紅葉は妙案が閃いたと顔を輝かせながら、ピッチにいる皆を見回し、大声を張る。


「みんなぁ!! この試合勝ったら、お父さんが焼肉奢ってくれるってぇ!! だから頑張ってぇ!!」


(お父さん主催の焼肉パーティで親睦を深めて、尚且つ皆のモチベーションアップを促す完璧な作戦だね!)


 紅葉の声はよく響いた。静けさの中にあった会場中の皆がそれを聞いていただろう。そこで、紅葉ははた、と気が付く。


(あっ、お父さんに確認取ってないや! 子供9人分って結構な金額になるよね? 大丈夫かな)


 紅葉は身体をベンチに向けてお父さんに確認を取る。


「お父さん! お金大丈夫!?」


 会場中が笑いに包まれた。





 会場中が笑い声に包まれる中、東条絵里(とうじょうえり)も心の中で笑いをかみ殺すのに必死になっていた。小さな子供がピッチライン上で大きく手を振り出したと思ったら、今度は頭を抱え出したのだ。


 その子は明るいブラウンの髪に白い肌、整った顔かたちは西洋人形のように美しい子であった。会場中の視線がその子に注がれる。周りから、ほらあの子だよ、今度はどうしたんだ、と言った声がざわめきとなって聞こえてくる。


 そして、その少女が顔を上げ、急に笑顔になると、皆はことの成り行きを見守るように静かになる。試合中の選手や審判たちまでその子のことが気になって、試合どころではなくなっていた。そしてその少女から発せられたのは何とも言えないものであった。


 絵里は冷静を装い、隣で腹を抱えて笑い転げている先輩を見つめる。


「ぶわっはっはっはっは!! 焼肉奢ってくれるってよ! あっ、審判がお嬢ちゃんじゃなくて監督の方に注意行ったぞ! ぶっくっく! ありゃ、監督の指示じゃねーだろーに、金の心配までされて、審判にまで怒られるって!」


 ゲラゲラと大笑いするこの男がかつての日本代表センターバックであったなど、誰も想像しないだろう。子供のように無邪気に笑う男に絵里は頭痛を覚えつつ尋ねる。


「それで、国木監督。私をここに連れてきたのはこのコントを見せる為だったんですか?」


 出来るだけ、低い声音でそう問いかける。しかし、国木は絵里の不機嫌オーラなど微塵も気にせず笑い転げている。


「はははははっ! いやぁ、うん、そうなんだけど、そうじゃないっていうかね。だから、そんなに怒んないでよ。ねっ、エリちん!」

「その呼び方は絶対にやめてください! あのですね、国木監督! 私は今日仕事あったんですよ!? なのにあなたが、絶対に見た方がいい選手がいるって私をここに連れてきたんです! それが何ですか!? こんなグダグダのつまらない試合にあんなコントを見せられて、怒らない方がおかしいと思いませんか!? 帰らせて頂きます!」

「いや待って待って! 本当に本当に待って! もうちょっとだけ観てこう! それに仕事なら俺だってあったんだから! でも、まぁ俺たちって実際いてもいなくても問題ないじゃん。ねぇ、エリちん?」


 絵里は苦虫を噛み潰したような顔になりながら、はぁと大きくため息を吐き出す。悔しいことに国木の言っていることは事実だ。


 絵里は二十八歳で選手を引退し、去年から浦和レッジレディースのジュニアユース監督をしている。この間やっとS級ライセンスを取得したが、まだまだ新米監督であり、チームは実質ベテランヘッドコーチが動かしている。いてもいなくてもチームに影響はない。悲しいがそれは絵里自身が痛感している事実だ。言い返せない絵里に国木が笑いながら声を掛けてくる。


「そんな、悔しそうな顔しなくても、もうちょっと監督として経験積めばエリちんはいい監督になれるよ。そう焦んなさんな」

「……どうして国木監督は私なんかに目を掛けてくださるんですか」


 絵里は前々から疑問に思っていたことを聞く。妻帯者の癖にナンパかと思うくらい、国木は絵里のことを気に掛けてくれるのだ。


「何言ってるの。元なでしこジャパンのエリちんが同じ下部組織で監督になったんだから、構うのは当然でしょう! それに、エリちんが選手時代に言ってた女子サッカー選手の地位向上ってのも俺は凄いなぁって思ってたからね」

「……ありがとうございます」


 絵里の夢をこうも真面目に褒められ、恥ずかしさと嬉しさを感じながら、ぶっきらぼうに礼を言う。


「そして、その可能性がこの試合にはあるって俺は思ってるんだ。だからエリちんを連れてきたんだけど、まさかスタメンじゃないとは思わなかった。メンゴメンゴ。でもきっと面白いのが観れるってのは嘘じゃないからもうちょっと観戦していこうや」

「……はい、分かりました」


 絵里は怒りを鎮め、再開した試合を観る。試合は浦和領家が優勢になっていた。ボール回しがスムーズになり、攻撃に厚みも増している。そして均衡はすぐ破られる。中盤からのパスをトップの女の子がワントラップでボールを自身の横に浮かせ、反転しながらボレーを打ったのだ。それが見事ゴール左隅に突き刺さる。


「あの女の子、見たことあると思ったら埼玉選抜の子だわ。通りで上手いわけだわ。それにしても領家は動きがよくなりましたね」

「ああ、今のは見事だったな。まぁお嬢ちゃん効果で固さが取れたんだろうな。こりゃあ、一方的になってきたな」


 ゴールを決めた女の子は埼玉トレセンの子だ。特別指導員として派遣された絵里は彼女を何度か指導したことがあった。技術のある子であったと記憶している。あの動きが出来るなら、浦和レッジレディースジュニアユースに入れる実力があるだろう。後で、スカウト陣の評価を聞こうと絵里は心に留める。


 その後も攻め続けた領家だが、追加点は奪えず、1-0で前半を終える。そして後半、14番大井紅葉が出てくる。お客さんたちが紅葉を拍手で応援し出す。絵里はその光景に驚きを覚えつつ、国木に問いかける。


「国木監督ご執心の子が出てきましたよ。それにしてもあんな小さな子の何がそんなに気に入ったのですか?」

「まぁまぁ、見てれば分かるから。楽しみにしててよ」


 国木はこれまでのおちゃらけた笑いを引っ込め、真剣な表情で試合を、正確には紅葉を見つめていた。


(この人がこんなに真剣になる何かがあるの?)


 絵里も真剣に14番、紅葉の動きを追う。右の前線に入った紅葉は周りと比べ二回りは小さかった。そもそも、U-12に小学一年生が出場していること事態が異常なのだ。こんな小さな子が国木のお気に入りだなど、とても信じられない。


 半信半疑で絵里は大井紅葉に視線を送る。そしてその紅葉にボールが渡る。観客たちが一斉に静かになる。紅葉は相手のサイドバックと一対一で向かい合う。ゆっくり転がるボールの上を一回、二回、三回と紅葉が跨ぎながら対峙する男の子に近づいていく。


 そして四回目の跨ぎが終わった時にはボールと紅葉は男の子の前から消えていた。紅葉がサイドラインに沿って走るのを、抜かされた男の子が慌てて追う。スピードは男の子の方が早い。紅葉に追いつき、どんどん圧迫していく。紅葉はなすすべなくコーナーへ追いやられる。


 右コーナーフラッグ、端の端に紅葉を追い詰めた男の子が身体全体を使って通せんぼする。じりじり詰め寄ってくる男の子。逃げ場はない。後は、ボールを相手にぶつけて外に出して、コーナーキックかスローインを貰うしかない。


 そんな状況に紅葉は男の子と向かい合う。そして身体の前でボールを左足で引き、それを右足つま先に当て浮かせる。浮いたボールを左足ヒールで高々と前方へ蹴り上げ、目の前の男の子の頭上を通す。紅葉自身はゴールラインの外を回って男の子の包囲から抜け出す。男の子は前がかりになっていた為、つんのめるように倒れる。ゴールラインの中に戻った紅葉の足にボールが上から降ってくる。


 会場中からわぁっという歓声が上がる。


 紅葉はその歓声に後押しされるようにゴールラインの白線上を真っすぐ、ゴール目掛けてドリブルする。ゴール前にキーパーが立ちふさがる。角度零、パスするか一旦中に切り返してシュートするかの二択のみ。キーパーは股を閉じ、両手を広げて前傾姿勢になり、紅葉の動作に目を光らせる。


 紅葉はそのまま真っすぐドリブルし、キーパーの間合いに入る。左足のアウトサイドでボールを左へ蹴り出す。切り返してシュートと判断したキーパーは倒れ込みながら、そのボールをキャッチしようとする。しかし、左へ蹴られたと思われたボールは紅葉の左足インサイドに当たり一瞬でゴールラインへと引き戻される。小さな身体をいっぱいに使った幅の広い完璧なエラシコだ。


 紅葉は倒れたキーパーの足をボールと一緒にジャンプしかわす。後は無人のゴールまで三メートルドリブルし、そのままゴールへとボールをちょこんと蹴り込む。


「……すごい」


 呟かれた絵里の言葉はギャラリーから上がる大歓声に搔き消される。しかし、国木にはしっかりと届いていたようだ。返答がある。


「なっ? すげーだろ。なんつーか、ボールの方が、あのお嬢ちゃんのこと好きすぎて、くっついて離れないって感じだよな。あんな滑らかなドリブルと身のこなしは教えて出来るようになるもんじゃない。ここにいる保護者たちは自分の子供を通してサッカーをよく観てるからな。あの凄さにすっかり夢中だ。もちろん、あんなに小さい美少女が活躍するってのもポイントが高いんだろうけどな」


 仲間たちと抱き合い、笑顔を浮かべる少女は実に可愛らしかった。その少女の顔は見ているこちらまで嬉しくなってしまうほど笑み崩れているのだ。絵里の顔にも自然と笑顔が浮かんでしまう。


「国木監督、彼女のことをスカウトするつもりですか?」

「おー、まぁそう思っちゃいるんだがなぁ。うちは男しか採らないし、それも小三からだ。そして将来の浦和レッジ選手を育成するのがうちの使命だ。だけど、あの子は残念なことに女の子で小一だ。それでお前さんを連れてきたわけだ」

「……浦和レッジレディースの下部だって中学生、ジュニアユースからですよ」


 絵里は内心の葛藤を隠し、素っ気なく言う。国木は試合を観たまま、絵里を諭すように話し始める。


「それで、将来の金の卵を見逃すってか? まぁ、俺は別にそれでもいいんだがな。お前さんの夢の為には、俺はあの嬢ちゃんを無理してでも採った方がいいと思うがね」

「それは?」

「お前さんは女子サッカー選手の地位向上を目指してるんだろ? 具体的には何だっけ? なでしこリーグ所属選手の全員プロ化だっけ。まぁ、今の女子選手ってほとんど全員アマチュアだもんな。練習も仕事が終わってからしか出来ないからな。男子みたいにプロ化したいやな」

「はい」


 それは絵里の夢だ。いや、サッカー好きの女、サッカーを仕事にしたいと思う女は誰しもが夢見ることだ。しかし、現実は違う。なでしこジャパン、日本代表クラスでさえ、現状はサッカー以外の仕事をしている者がいるのだ。なでしこリーグ所属選手の大半は大学生や地元のサポーター企業で働いている。


 サッカーの練習は仕事が終わった夜七時から九時まで。また、翌日は仕事だ。サッカーがいくら好きでも仕事と練習の両立は厳しい。プロになってサッカーのことに集中したいと誰もが思っている。


「その為にはなでしこリーグに客を呼びこまなきゃなんねーだろうな。現状、Jリーグ各クラブに女子チームを持てって協会から依頼が来てるのに、ほとんどのクラブは女子クラブを作らない。そりゃあ、金食い虫で、全然儲からないから仕方ねーわな。そんななでしこリーグを変えて、魅力あるリーグにする為には選手のスキルアップが必要だって言って、お前は指導者の道に入って、うちに来たわけだ。俺はそんなお前を本当に尊敬してるんだぜ、エリちん。東京オリンピックでなでしこジャパンが惨敗したのだって、まったく選手の援助もなでしこリーグの改革もしなかった協会のせいだって言うのに、お前はチームキャプテンとして責任を全部背負った。普通なら嫌気がさしてサッカーなんか関わらんようになってるよ。けど、お前は逃げなかった。マジ尊敬してんだわ」


 国木がここまで真剣に絵里のことを理解していることに、エリは衝撃を受ける。震えそうになる声を何とか整え、逸る気持ちで続きを聞く。


「それで、あの子をスカウトすることがどうして私の夢と関わってくるんですか?」

「ん~、今更それを俺に聞くかい? 分かってんだろ? 選手ってのは指導者が頑張って教えたところで、それで上手くなるわけじゃない。でも、しっかりした指導者がいないと選手は将来絶対に躓く。子供たちの将来を見据えて長い目で指導するってのは、簡単なようで一番難しい。どうしたって目の前の一勝に目が眩むからな。お前、今結構行き詰まってるだろ? こんなことで将来のなでしこリーグを支える選手を育てられるのだろうかってさ」

「それは……はい」


 この男はどこまで絵里の気持ちが分かるのか、戦慄しつつ正直に頷く。今の絵里には自分のチームで指導している子供たちの成長が実感として感じられないのだ。新米監督だからなのだろうか、それとも絵里の指導がいけないのか。ヘッドコーチに聞くと、子供の成長は十年単位で初めて分かるものですよ、と笑われてしまった。


 十年先、果たして絵里の教え子たちは立派な選手に育っているのか。絵里の代わりに本当に女子サッカーの地位向上を果たしてくれているのだろうか。考えても仕方ないことだと頭では分かっている。


 けれど不安になるのだ。絵里は全てを掛けているのだ。それが絵里の身勝手な感情だとしても苦しくなる。拭い難い疑念は膨れるばかりで、絵里を締め付ける。


 ――私のしていることは徒労なんじゃないのか


 絶対に返ってこない問い掛けであったはずの答えが、国木から返ってくる。


「あの子だったら、どうだ? 今から英才教育を始めれば絶対すげー選手になる。ワクワクしないか? あんな子を自分でじっくり育てられるんだぜ。どんな選手になるんだって想像したらたまんないだろ?」


 国木の言葉に絵里はゴクリと唾を飲み込む。あのテクニックを磨けばどれほどの選手になるのか。想像もつかないレベルに成長するだろう。そして、あの子は将来絶対美人になるだろう。マスコミはそんなあの子を放っておかないはずだ。言い方は悪いが、なでしこリーグの広告塔になってくれるだろう。そうすれば、観客動員数は一気に増え、絵里の夢の実現は近づくかもしれない。


 思考の渦に沈む絵里を浮上させたのはホイッスルの音であった。領家がまた一点取ったようだ。絵里たちの前で、得点を決めた少年に紅葉が笑顔で抱き着いている。


「和君やったね! すっごいいいシュートだったよ!」

「いや、紅葉のアシストがよかったからだよ!」

「そんなことないよー! 今夜はお母さんと私でご馳走作ってあげるからね! お祝いしよー!」

「ナイッシュゥ大井兄! それに待て、大井妹! 今日は焼肉パーティっだってお前言ってただろ!」

「あっ! 忘れてた!」


 ガヤガヤと嬉しそうに自陣に戻っていく子供たちは本当に楽しそうに笑っていた。サッカーが楽しくて仕方ないというのがよく分かる。その姿が絵里には眩しく見えた。そして思い出す。


(はぁぁ、そうだった。私はサッカーが好きなんだ。そして、女子サッカーの良さをもっと知ってもらいたいって思ってた。でも、あの子だけにそれを押し付けるのは間違っているわ)


 あの子を育てて広告塔にしてどうなる。マスコミは飛びつくだろう。そうすれば、一時的になでしこリーグは潤うかもしれない。かつて、そういった現象はあった。けれど、結局長続きしなかった。


 女子サッカーはつまらない。そう言われるのが、どれだけ悔しかったか。だからこそ、女子サッカー全体のレベルアップを求めて育成年代の監督になったのだ。教え子たちを見放し、安易な方向へ逃げようとしていた己を絵里は恥じ入る。


 そして、一旦冷静になれば、国木の考えも読めてくる。絵里は鎌をかける。


「国木監督、ちなみに、あの子はさすがにU-15に入るにはまだ小さいですよね? もう少し大きくなるまではどうしたらいいと思いますか?」

「んっ! そうだなぁ、レッジレディースの下部に内定している子なら、レッジジュニア(うち)で面倒見るのが筋かな?」

「はぁ、やっぱりですか! 国木監督は単純にあの子を指導したいだけじゃないですか! 私を出汁にするのは止めてください!」

「おっ、とバレちまったか。すまんすまん」


 絵里はごまかし笑いをする国木を見て、何とも言えない気分になりながら苦笑する。そんな絵里に、国木は軽い口調で、


「いい顔になったな。やっぱりエリちんにあのお嬢ちゃんの試合を見せて正解だったな。なんつーか、ああも底抜けに嬉しそうな笑顔でサッカーされると、サッカー好きの血が騒ぐんだよな。お前さんも忘れてた気持ち思い出せただろ?」

  

 そう、ニンマリ言われる。絵里は国木のその顔を見て、


 ――敵わないなぁ

 

 と、心底思う。清々しい気持ちになりながら、笑顔ではい、と答えるのであった。



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