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14 「サッカーとお兄ちゃん」

 


 試合終了の笛を聞きながら、紅葉は空を仰ぐ。


(試合楽しかったなぁ、でもやっぱり負けるのは悔しいなぁ)


 泣きそうになるのをぐっと我慢する。試合に負けたくらいで泣くなんて恥ずかしい。そう思うのだが、どうしても涙が溢れてきてしまう。そんな紅葉に対戦相手の男の子が、またやろうなと笑顔で紅葉の頭を撫でてくれる。


(……そっか、次があるんだ。また出来るんだ!)


 男の子の言葉はすっと紅葉の心の中に入ってきた。嬉しさが一気に込み上げてくる。紅葉は涙の残る顔を笑顔に変え、元気に頷く。


「うん!」


 後半はこの男の子に完璧に抑えられてしまった。こんなに通用しなかったのは初めての経験だ。悔しかった。でも、次があるんだ! もっといっぱい練習して、リベンジすればいいんだ! そう思うと途端に嬉しくて嬉しくて仕方なくなる。


「名前、教えて?」


 紅葉は頬を染めつつ、男の子の顔を見上げ、問いかける。ライバルの名前が知りたかった。男の子が紅葉を見つめながら答えてくれる。


坂下玲音(さかしたれおん)。お、お前は?」

「私は大井紅葉! 絶対(次の試合で)また会おうね! 約束だよ! 玲音!」


 紅葉のライバル宣言に男の子、坂下も気分が高揚したのか、顔を真っ赤にしながら、


「わ、わかった」


 そう答えてくれる。紅葉はライバルが出来たことに破顔する。


(いっぱい練習して、必ず勝つ!)


「こ、今度一緒に映画観に行かないか? も、もちろん、俺の奢りで!」


 坂下が何か言っていたような気がしたが、紅葉は打倒浦和レッジ練習プランを考えるのに夢中で聞き流してしまう。そして試合後の挨拶の為に、整列し始めた仲間の元へ力強く走り寄る。


「ありがとうございました!」


 紅葉は大きな声で心の底からお礼を言う。こうして、紅葉にとって初めての公式戦は幕を閉じた。




 大山と立花のお父さんが帯同審判として、試合に駆り出されてしまったので、紅葉のお父さんが領家サッカー団の面倒を見ることになった。お父さん指示の元、サッカー場隣の八王子公園へ移動し、ジョギングやストレッチ、深呼吸をしてクールダウンする。


 その後、午後二時からまた試合がある為、昼食には早い時間であったが、お昼ごはんを取ることになった。木立の中にあるベンチの横にシートを敷き、皆がバラバラに座る。紅葉は立花と楽しそうにお喋りしている楓の隣に座る。


(あんまりお腹空いてないなぁ)


 お母さん特製お弁当を前に紅葉はふぅと息を吐く。そんな紅葉の様子に楓が気付き心配そうに声を掛けてくる。


「お姉ちゃん、調子悪いの?」

「大丈夫! ただちょっとお腹減ってないだけだよ」


 楓がその言葉に目を見張って驚きを露わにする。


(いや、まぁ確かに私は食欲旺盛な方だけどね。でも、そんなに信じられないわ~って顔しなくても。カエちゃんは私のこと、どれだけ食いしん坊って思ってるんだ)


 心の中でさめざめと涙する紅葉のおでこに自身のおでこを当てて、楓は紅葉の熱を測る。おでこを当てたまま、お姉ちゃん大丈夫? と聞かれる。心配させてしまった罪悪感と楓の可愛さに、紅葉は笑顔を浮かべながら正直に答える。


「本当に全然大丈夫だよ! ただ、ちょっと疲れて食欲がないだけだから。心配させちゃってごめんね」

「そっか、よかったぁ」


 楓が紅葉の目をじぃっと見て、嘘を言っていないか確認した後、漸くおでこを離す。


「紅葉ちゃん、大丈夫? 少しでもお腹に入れとかないと次の試合で倒れちゃうよ」


 紅葉たちの会話を聞いていた立花が、心配そうに声を掛けてくる。


「うん、でもなんかお腹空いてない」

「う~ん、やっぱり、一日二試合は無理だよね。よし、次の試合は紅葉ちゃんは見『治った!』学……本当に?」

「ほ、ほんと!」


 紅葉は慌てて立花の言葉を遮る。立花は苦笑しながら、聞いてくる。


「体調が悪いなぁって思ったらすぐに言うのよ。約束出来る?」

「うん!」

「じゃあ、ご飯食べようね」

「うん」


 危なく次の試合に出してもらえなくなるところだったと紅葉は胸を撫で下ろす。仕方ないので、ちょこっとだけ食べようと、お箸を持つ紅葉に楓が笑顔で私が食べさせてあげると言ってくれる。


「お姉ちゃん、はい、あ~ん」

「うっ、うん。あ~ん」


 楓にから揚げをあーんされる。もちろん、紅葉にそれを断るという選択肢はない。胃がムカムカしている時に、よりにもよって揚げ物をチョイスされ、かなり涙目になりながらも、何とか嚥下する。結局、お弁当の中身がなくなるまで楓のあ~んは続くのであった。





 食後にお昼寝をして、起きたらすぐに試合であった。身体がバキバキでもう歩くのも遠慮願いたいような状態で、下関サッカー少年団との試合が始まる。紅葉は右ウィングとして前線に張る。そんな紅葉のマークについた、身長百四十センチくらいの男の子が陽気に話しかけてくる。


「あの浦和相手にめっちゃドリッてたの見てたぞ! お前本当に上手いんだな!」

「えへへ、そうかな?」

「おう、まじ凄いって! 最後はうちら全員お前のこと応援してたんだから!」

「いや、そんなことないよ。あ、応援してくれてありがとう!」


 ボールを中盤の八滝がカットし、それを吉田にパスする。来るぞ来るぞと紅葉は対戦相手の男の子の内側に移動する。男の子はお喋りに夢中でそんな紅葉の動きにまったく反応しない。紅葉はボールに集中しながら、適当に男の子の質問に答える。


「やっぱり、スクール行ってるの? あっ、親に習ってると逆に行かないのかな。なぁなぁ、どんな練習したらあんなに上手くなれるんだ?」

「うん、スクールには行ってないよ。え~と、ジョンと一緒に毎日サッカーの練習したかな。お父さんには習ってないよ」

「うわぁ、外国人専属コーチにマンツーマンか!? すっげー! えっ、あっ!」


 紅葉は吉田からの縦パスをワンタッチで斜め前方にトラップし、ディフェンダーの男の子を置き去りにする。そのままサイドを駆け上がり、マイナスクロスを上げる。ニアに飛び込んだ立花がそれを頭で押し込み、ネットを揺らす。


「やったぁ! ナイスアシスト紅葉ちゃん!」

「ナイッシュゥ! 立花! 大井もナイスパス!」

「やったね! 雪お姉ちゃんナイシュです!」


 皆でハイタッチをする。初アシストに紅葉は笑顔が零れる。笛がなり、試合再開となる。すると、相手監督の大声による指示で、紅葉に密着マークが付くことになる。それを紅葉は内心でラッキーとほくそ笑む。もう紅葉は限界であった。足がブルブル震えて、一歩歩くのも辛い状態だ。


 まともなプレーはもう出来ないだろう紅葉に一人戦力を割くのだ。紅葉は敵エリア右隅でおとなしく試合観戦をすることにした。ボールを領家側が支配し始めていた。


 紅葉は前線から後ろを振り返り、仲間たちとボールの動きを追う。こうして仲間たちの試合中の動きをじっくり見るのは初めてだが、皆なかなか上手い。下関の選手が下手なのかもしれないが、各人がきっちりパスとトラップを行い、ボールを繋げられている。もちろん、中盤やゴール前の密集スペースでは選手同士がぶつかり合い、ボールロストが目立つがそれは仕方ないだろう。


 浦和レッジのように常にフォローを意識し、三角を作ってパス回しが出来ているなら狭いスペースでもボールを繋ぐことが出来る。領家の選手たちにそういった戦術は、残念ながらあまりないようだ。フリーのスペースにボールをパスし、後は個の力に頼ってドリブル、シュートまで持ち込んでいる。


(ちゃんとした監督がいない弊害なんだろうな。それでも、こんなに出来るんだから、皆凄いな!)


 領家は守備もなかなかであった。ボールを取られると一人が必ず相手に寄り、他の選手がそのフォローに入っている。八滝がバック陣を指揮しているのだ。大声交じりの指示が八滝や大山から活発に出される。


(うん、守備はすごくいい。もうちょっとフォローの位置をしっかり考えれば浦和にだって対抗出来るかもしれない)


 ただ、攻撃参加があまり出来ていないようだ。8人制サッカーで3バックをするのなら、両サイドバックの攻撃、もしくはセンターバックの大山が攻撃に参加しなければならない。


 しかし、それが出来ていない。バックが、いつ、どれだけ、どんな風に、攻撃に参加するのか。それはチームの約束としてしっかり決めるべきことだ。ある程度のサッカーインテリジェンスが身に付けば、その約束事を緩めて、それぞれの判断に委ねることも出来る。


(でも、まだ小学生だもんね。勝手に攻めて、自分のところから失点したらって考えたら、怖くて上がれないよね。う~ん、やっぱりちゃんとした監督がいればなぁ)


 とりあえず、紅葉は自身の知識を可能な限り皆に伝えようと決意する。腐っても元プロだ。前世では、超感覚派として、あいつの言っていることは意味不明だと散々バカにされていた紅葉だが、それでも小学生相手には十分なはずだ。


(うん、私がビシバシ指導して皆を鍛えればいいんだ! 頑張るぞ! ……まずは、ボールを抱えて寝ることで、夢の中でもサッカーの練習が出来るようになってもらおう!)


 吉田からのスルーパスに反応した立花が、一人ディフェンスをかわしてゴールしたところで前半が終了する。浦和領家少年サッカー団対下関少年サッカー団は2-0で浦和領家がリードしていた。



 ハーフタイム、早速とばかりに紅葉は皆に戦術を指導しようとベンチに駆け寄る。そんな紅葉に立花が水とタオルを渡しながら話しかけてくる。


「紅葉ちゃん大丈夫? ちょっとでも身体がおかしかったら絶対に言うのよ。ほら、もっとお水飲んで。タオルで汗しっかり拭いてね!」

「えと、はい、大丈夫です」

「よし! でも、ほんっっっとうに無理だけはしちゃだめだからね!」


 そう言うと立花は紅葉の頭を撫でて大山たちの方へ向き直る。


「あんたたち、後半始め気をつけなさいよ! 向こうは放り込んでくるはずよ!」

「ああ、わぁってるよ! 俺様がビシッと弾き返してやるから安心しろ。なぁ、お前ら!」

「まぁ、マッサーはアホだが空中戦には強いから大丈夫だろ。それより、お前もっとワイドに張ってくんね? 奪った後、パスの出し所がねーんだよ。なぁ、吉田?」

「そうっすね。でも、立花先輩が中にいないと点入んないっすよ」

「いいんだよ! なぁマッサー! このまま逃げ切り完封だろ」

「そうだそうだ! ウノゼロ目指すべきだ!」

「おバカ! ウノゼロってのは1-0のことよ! はぁ、まぁ皆もうガス欠気味だし、私はワイドに開いてボール受けるわ。そこで溜め作るから、吉田と八滝はフォローよろしく」

「うす」

「はいよ、まかせな!」

「あと、紅葉ちゃんは完全にガス欠だからね。ボール蹴り出す時はなるべく左に蹴るのよ! よし、頑張るわよ! いいわね!!」

「「「おおおお!!」」」


 立花のリーダーシップの元、皆が声を張り上げ、気合を入れ直す。紅葉は皆の会話に入れず、ただ聞くことしかできなかった。それにしても立花は凄いと紅葉は関心する。ショートカットの髪がよく似合う、日焼けした少女の顔をじっと見つめる。


(雪お姉ちゃん本当に格好いい! 私も雪お姉ちゃんみたいになりたいな!)


 疲れた表情ながら、紅葉は笑顔を浮かべる。紅葉にまた一つ目標が出来た瞬間であった。


(でも、ウノゼロって1-0のことなんだ! てっきり完封勝利のことだとばっかり思ってた!)


 こうしてハーフタイムは過ぎていった。




 後半も紅葉は観戦モードだ。相手の4番を従えて味方の応援をする。後半は、前半と違って防戦一方になってしまった。相手はどんどん選手交代をして、フレッシュな選手を投入してくるのに対して、紅葉たちは控えゼロなので出ずっぱりだ。足が止まったところを奪われ、全員攻撃を受けてしまう。


 そして、途中から相手は紅葉のマークを外して全員で攻め上がるようになる。8人制サッカーで数的不利はあまりにも厳しすぎる。決定的に流れが下関に傾く。そして、三度弾き返したボールを身体ごと押し込まれ、一点失ってしまう。尚も、攻め続ける相手に、こちらはワイドに張った立花がボールを受け、サイドを抉るようにドリブルする。


 けれど、ゴール前には誰もおらず、ボールキープしようとしたところを挟まれボールを奪われる。領家はゴール前で危ないシーンを何度も作られるばかりで、シュートにすらいけなくなっていた。このままでは同点になるのは時間の問題だと焦ったのか、皆のプレーに落ち着きがなくなってしまう。通っていたパスがズレ、収まっていたトラップが零れる。


(拙い状況になっちゃった。私のせいだよね。うぅ、何とかしなくちゃいけないのに、頭がクラクラして動けないよ)


 紅葉は悔しさに泣きそうになるのを、歯を食いしばって耐える。けれど、何も打つ手が思いつかない。このまま同点、逆転されちゃうのかなと凹む。


 そして、一本のクリアボールが試合を決定づけることになる。大山がゴール前から蹴り出したボールが右サイドに突っ立っていた紅葉のところに飛んできたのだ。紅葉はもう立っているのも辛いフラフラの状態であった。ただでさえ、白い顔がさらに白くなっているのを見て、相手も紅葉の警戒を完全に止め、フリーにしていた。


(ボール来た。決めなきゃ)


 紅葉は最後の力を振り絞って、ドリブルをする。意図せず、完璧なカウンターになっていた。相手側はディフェンス一枚とキーパーのみだ。ゴール目掛けて最短距離を進む紅葉にディフェンダーが身体を寄せようとしてくる。紅葉はただでさえ、ゆっくりなドリブルをもっとゆっくりする。


 小刻みなボールタッチを数度。そしてディフェンダーの男の子が横に並び、ボールを蹴り出そうとした瞬間に、ボールタッチを大きくし一瞬だけ加速する。相手の男の子は態勢を崩し、転んでしまう。紅葉はただただ真っすぐドリブルし、ゴールを目指す。


 キーパーが猛然と飛び出してくる。彼我の距離は五メートル。紅葉は右足を振りかぶる。キーパーが倒れながら、身体全体でシュートコースを塞ぐ。それを確認し、紅葉は蹴り足を下す。左に二歩ドリブルし、無人のゴールへとボールを蹴り込む。


 そのボールがゴールに吸い込まれるのを確認する前に、紅葉は人工芝のピッチに倒れ込む。歓声が上がる。その声を聴きながら、紅葉は夢現で思う。


(やっぱりサッカーは一人じゃ出来ないんだ。大勢の仲間がいないとダメなんだ) 


 ――でも、楽しかったぁ


 そして、完全に意識を失うのであった。







 夕食の席は紅葉がいない為、いつもより静かに過ぎていた。お父さんが撮影したビデオを皆が見ながら食事が進んでいく。楓は紅葉の活躍したシーン以外は興味がないらしく、スキップしまくるので、あっという間に試合は二試合目の終わりになる。


 紅葉がドリブルでディフェンダーとキーパーをかわし、ゴールする。その後紅葉がバタリと倒れるシーンで、動画は真っ暗になる。しかし、音声はきっちり拾っており、会場中の怒号と悲鳴がダイニングに響く。楓がビデオを停止する。


「お兄ちゃん、サッカー少年団に入ってあげて」


 楓にそうお願いされ、大井和博(おおいかずひろ)は顔を顰める。


「何で俺がサッカーなんかしなくちゃいけないんだよ」

「お姉ちゃんのチーム、交代選手がいなくて大変なんだよ」

「じゃあ、お前が入ればいいだろ!」


 和博は突っぱねるように吐き捨てると、そのまま楓から逃げるように自室へ戻る。ベッドに飛び込み、目を瞑る。楓の恨めしそうな顔と紅葉の笑顔が和博の脳裏に浮かぶ。


「ちぇっ! 何で俺が!」


 もやもやする気持ちを忘れる為に、和博は寝てしまおうと目を瞑り続ける。そうすると思い出してしまう。楓が熱を出し休んだ日、一緒の登校班で紅葉と久しぶりに手を繋いで、学校に向かっている自分。紅葉は笑顔で和博に話しかけてくる。和博も自然と笑顔になって紅葉の頭を撫でる。


「うわぁ、外国人だ。って、この子超可愛いぃ!」

「お人形さんみたいだね! 大井、その子と手繋いじゃって、仲良いの?」


 学校近くでクラスメイトの女子連中がそんな和博と紅葉のことを見つけ、声を掛けてくる。紅葉のことを興味津々に観察してくる女子たち。和博は嫌な気持ちになり沈黙する。紅葉は和博の顔と女子たちを見た後、笑顔で自己紹介する。


「お兄ちゃんがお世話になってます! 妹の紅葉です!」 

「可愛い! でも、お世話してないからねー」

「嘘ぉ、大井の妹なの? ナニナニ、どんな事情があるの?」


 不躾な質問をする二人の少女たちを、六年の登校班長がやんわりと引き留める。その間に和博は紅葉を連れて逃げ出す。




 サッカーを親友の鯨井達也たちとする。ジョンが死んで、落ち込んだまま一人でボール遊びをしている紅葉を連れていく。妹なんか連れてくるなよと友人たちが言い、達也はまぁいいじゃんかとそれをなだめる。そうして始まったサッカーは紅葉の独壇場であった。パスにシュート、そしてドリブル、全てが圧倒的であった。もうやんない、と年下の少女に負けた奴らが去っていく。


 和博には彼らの気持ちがよく分かる。年下に負けたから悔しい。それはあるだろうが、それだけではないのだ。嫉妬や羨望もある。でも、それ以上に恥ずかしいのだ。彼らはこんな小さな奴に勝てないなんて、俺はなんてダメなんだと考え、急にサッカーそのものが馬鹿らしくなってしまったのだろう。


 トントンとドアがノックされる。和博はそれを無視する。入るわよ、とお母さんの声が響き、やがて、キィとドアが開く。和博はベッドで目を瞑ったまま、お母さんを無視する。


 ギシっとベッドが軋む。お母さんがベッドの端に座ったのだろう。


「和博は紅葉のこと嫌いになっちゃったのかな?」

「……そんなことないよ」

「うん、そうよね。でもここのところ紅葉のこと避けてるでしょう」

「別にそんなことない」

「そっか、ならいいの。ご飯温めなおすから、降りてらっしゃい」


 紅葉に避けているのがバレたのかと和博は不安になる。あいつは泣き虫だから、泣かせてしまったかと後悔しながら、恐る恐るお母さんに尋ねる。


「……ねぇ、母さん。避けてるって紅葉に聞かれたの?」

「ふふっ、あの子がそんなこと気付くわけないでしょう。見てれば分かるわよ。お父さんも楓だって気付いてるわよ」


 その言葉に和博は安堵する。そして、心の中で渦巻く、整理できない感情をお母さんに告白する。


「……俺、サッカーの才能ないんだ。紅葉のいるサッカー少年団なんか入ったって、紅葉と比較されてバカにされるだけじゃん。紅葉の兄貴は下手くそって言われたくないよ」

「そうなの? お母さん、サッカーのこと知らないから分からないけど、そんなに紅葉は凄いの?」


 さっきのビデオの何を見ていたんだと和博はお母さんに言いたくなる。あんなに紅葉がすごいプレーをしていたのに、と。そして、自慢の妹について口から言いたくない言葉が溢れ出す。


「紅葉は超すげーよ。本当にさ、紅葉とやると勝てないって思い知らされるんだぜ。あいつ、勉強も料理も出来るんだろう? すげーよな。叔母さんの娘だからあんなに優秀なのかな?」

「そうねぇ、私の妹は頑張り屋さんだったわね。紅葉もその血をしっかり引き継いで頑張り屋さんになってくれたわねぇ。和博も知ってるでしょう。紅葉が毎日サッカーも勉強も料理も頑張ってきたこと。コツコツやってきたから、今の紅葉があるんだってこと。ちょっと頑張り屋さんすぎて今日みたいに倒れちゃうのは困ったものだけどね」


 知っている。本当は分かっているのだ。毎日毎日バカみたいに練習している紅葉を見守ってきたのだ。


「うん、知ってる。でもさ、俺、情けないんだよ。あんなに凄い妹だと、みんなに俺は紅葉の兄貴だぞって胸張って言えないんだ。紅葉が将来、俺のことバカにしてくるんじゃないかって怖いんだ」


 言葉に出して、初めて自分の感情を理解する。そして、それが杞憂であるとお母さんが言ってくれる。


「そっか、格好いいお兄ちゃんでいたいんだ。でも、心配しすぎよ。楓じゃないんだから、紅葉が和博のことバカにするなんて絶対にないわ。あの子は和博のこと大好きだから。安心なさい。むしろ問題は楓の方だわ。今もあんたのこと根性なしって散々罵ってたわよ」

「楓はもう手遅れだから、どうでもいいや」


 お母さんが苦笑する。とにかく降りてらっしゃいとお母さんは和博に言い残し、部屋を出ていく。


(クラスの連中に、俺が紅葉の兄貴だぞって、自信を持って言いたかったんだ。なのに俺は逃げちまった。だからか……最低じゃんか、俺)


 あの日から、和博は妹の顔をまともに見られなくなってしまったのだ。はぁ、とため息をついた後、ご飯を食べにダイニングに戻る。そこには紅葉がいた。元気にご飯を食べている。


「あっ、和君! 食事中にどこ行ってたの?」

「……紅葉はもう平気なの?」


 和博は何とかそれだけを言う。紅葉は笑顔で返事をする。


「うん! いっぱい寝たからもう大丈夫だよ!」

「そっか、って、お前その鼻! 何で鼻だけ日焼けしてんだ。真っ赤じゃねーか!」

「えっ? うん、これね。ここだけ、日焼け止め塗り忘れてたみたいなの」

「痛くない? 大丈夫?」

「……痛い」

「って、触るなバカ! 紅葉は肌弱いんだから気を付けろっていっぱい言われてただろ! 母さん!?」


 慌ててお母さんを呼ぶ和博に、お母さんは笑いながら、今、お父さんがお薬を買いに行ってるから大丈夫よと答える。それに安堵し、和博は紅葉の隣に座る。


「試合のビデオ観たぞ。大活躍だったな」

「えへへ、そうかなぁ」

 

 和博の言葉に紅葉は本当に嬉しそうに笑う。真っ白な肌の鼻だけ赤くした顔は何ともユーモラスで、和博は苦笑する。そして、聞かなくても分かることを聞く。


「試合は楽しかったか?」

「うん!」


 紅葉の笑顔は人を勇気付ける笑顔だと和博は思う。その輝く笑顔を見つめながら、和博は勇気を振り絞る。


「そっか、じゃあ、俺も紅葉のチームに入れてもらえないかな?」

「ホント!? うん、大歓迎だよ! 今日もね、控えの選手がいなかったからすっごい大変だったんだよ!」

「そうなのか。でも俺、サッカー下手だけど大丈夫かな?」


 そこで、紅葉が困った顔をする。


「えっとね、ちゃんとした監督がいないから、指導はあんまり期待出来ないかもしれないの。でも、和君さえ嫌じゃなければ、私が教えてあげるよ!」

「あれ、監督いないの? だったら父さんにやってもらえばいいじゃん。父さん、ああ見えてバリバリのサッカー選手だったんだぜ。俺も小さい頃は、父さんにサッカー教えてもらってたんだから」

「えっ!?」

「あれ、知らなかったの? うん、じゃあ、紅葉から頼んでみなよ。紅葉の頼み事なら、父さん絶対に断らないから」


 紅葉はブンブン首を横に振ったり、縦に振ったり忙しく、食事の手が止まっていた。和博はご飯食べながら話そうと紅葉を促す。お互いちょっと無言になりご飯を食べる。そして、和博はポツリと呟くように言う。


「でも、俺は紅葉にサッカー教えてもらいたいかな。紅葉さえよければだけど」


 紅葉の返答は、爛漫に輝く笑顔であった。和博はその笑顔を見て幸せな気持ちになる。


 ――いつかわかんねーけど、紅葉の兄貴だって自信持って言えるようになってやる!


 和博は笑顔を浮かべて誓うのであった。




 その日から、サッカーボールを抱えて眠ることになると、和博はまだ知らない。




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