01 「一人のJリーガー」
浦和スタジアムはサポーターの着るユニホームで真っ赤に染まっていた。赤い服を着た彼らが動き、旗を振る様は、一斉に紅葉した山の木々が風で靡いているようで美しい。そうピッチから見上げる牧村太一には思えた。
十月二十四日午後二時、気温十九度、湿度二十パーセントという絶好のピッチコンディション。しかし、観客席は観衆の発散する熱気で汗ばむほど熱く熱せられ、場の空気は皆の緊張で帯電したかのように張りつめ、試合が進むに連れ、いつ雷光となって放電してもおかしくないほどになっていた。
Jリーグ第29節、二位に付ける横浜が一位浦和のホーム、浦和スタジアムへと乗り込んでの天王山。残り3節、勝ち点差はたった二。横浜は負ければ優勝の可能性がほぼ絶たれ、逆に浦和にとってはここで勝てば六年ぶりの優勝がぐっと近づく状況。
今年一番のビッグゲームであること間違いなしのシチュエーション。浦スタは満員御礼、六万三千七百人の観客で埋め尽くされていた。
圧倒的大多数の浦和サポーターが選手たちのワンプレーワンプレーに、怒号と地響きを伴ったチャントで応援を送る。選手たちはその声援に後押しされ迫力あるプレーを披露する。
またそのプレーに観客が拍手を送り、選手がモチベーションを高める。審判の判定や芝の調整ではない、真のホームゲームアドバンテージがこの時の浦和にはあった。
観客席の南サイドスタンド、そこだけは赤に浸食されず、真っ青な蒼が翻っていた。アウェイ席に陣取る横浜サポーターだ。彼らは人数で負けていても情熱は負けないと、声を枯らして叫び応援し続ける。その声は浦和のチャントでかき消されてしまうが、サポーターの気持ちはピッチ上の選手たちへと確かに届いていた。
試合は残り二十分、2-1でホームの浦和リード。
「もう好き勝手させねーからな、太一!」
「ちょっと、神田先輩ユニ引っ張りすぎですってば」
中盤で浦和ボランチの神田に密着マークされ、横浜ミッドフィルダー牧村太一はこの試合なかなか仕事をさせてもらえずに苦しんでいた。
(くっそぉ、足が重い、もっと動いて準さんからパス引き出さなくちゃいけねーのに。身体が動かねー)
太一はJリーグ、カップ戦、代表とこの二週間で五つの試合をこなしてきた。怪我こそないが疲労が残った身体は、プレーの精度と運動量を大幅に押し下げてしまっていた。
「大体お前なんでまだこんなとこにいんの? さっさと高飛びしろや」
「なんすか、高飛びって? つか、話しかけないでくださいよ先輩」
横浜のディフェンス陣がボールの出しどころを探してパス回しを繰り返している。前線にターゲットがいないのだ。右サイドハーフの太一はフリーになって、ボールを受け、起点にならなくてはならない。太一はゴールに背を向け小刻みに移動を繰り返しボールを引き出そうとする。
神田はそれを阻止する為、べったり太一にくっついてくる。この試合ずっと繰り返されるやり取りにさすがの太一もイライラが募る。そんな太一にお構いなく神田が話しかけてくる。
「移籍だよ、移籍。早くドイツなり何なり行けよ、なんでお前みたいな奴がまだここにいんだよ。はぁ、お前とマッチアップするこっちの身にもなれっつうんだよなぁ」
敵ディフェンダーが話しかけてきて、選手の集中を阻害するのはよくあることだ。太一もそんなのはわかっている。けれど、相手が横浜ユースの時お世話になった先輩なのだ。ガン無視する訳にはいかない気がして困ってしまう。言葉少なに対応しているのだが、それはそれでどうにも落ち着かない気持ちになる。
(いや、真剣勝負の最中なんだから無視したって問題ないよな)
そう考えている時点で太一はすでに神田の思惑にハマって集中力を削がれているのだが、本人は試合が終わるまでそのことに気づかない。
残り二十分、一点リードの浦和は当然守りを固める。浦和は最悪同点でいいのだ。1トップを残して後はガチガチに守備を固めている。それに対して横浜は絶対に勝たなければならない。引き分けでは駄目だ。
勝って逆転しなければ、残り2節、後は浦和が負けるのを祈るだけになってしまう。そして、条件がはっきりしていることで試合はシンプルになる。
攻める横浜と守る浦和。全体を押し上げ、皆がオーバーラップを繰り返し、ゴールマウスをこじ開けようとする横浜。ゴール前を固めつつ、少しでもラインを上げ、ボールを奪ったら1トップのワトソンに託す浦和。
ボールが横浜不動のセントラルミッドフィルダー、中川準介の元に収まる。センターサークル近くでボールを受けた中川に素早く寄せる浦和フォワードのワトソンとトップ下の醍醐、味方がフォローに入るのを横目に太一は神田を引き連れながら、中川から離れるように右側へと流れる。
一瞬神田が、太一ではなくボールを持つ中川へと視線を向ける。その瞬間、太一はターンしダッシュをかける。神田の大外を抜けるとそこにはバックスピンがかかったボールが転がってくる。
(さっすが、中川先輩の超絶パス! やっぱすげーや先輩は!)
二人にマークされながら、太一の動き出しを捉え、相手のミッドフィルダーにも、サイドバックにも届かない位置にドンピシャでパスを出す。本当に凄いことだ。少なくとも太一には出来ない。このボールを絶対にゴールまで届けるんだと太一は決意を新たに、右足を伸ばし、ボールを受け取る。
太一はトラップしたボールを右足首に乗せた状態で大きく前方に跳躍する。直後斜め後ろからスライした足が現れる。出遅れた神田がボールトラップの瞬間を狙って、ファウル覚悟で足を出してくるのを読んでの太一のプレー。普段であったなら、これで神田をかわしきっていたはずだ。
だが、太一の身体は太一の思い通りには動いてくれなかった。疲労の蓄積した足が太一の出足を鈍らせていた。ほんの少しジャンプの遅れた左足が神田の伸びてきた足先、シューズに引っかかる。態勢を崩す太一。右足に乗っかっていたボールは転がり、太一は前のめりに倒れ、両手を芝についてしまう。
(くっそ、まだまだぁ!)
浦和ミッドフィルダーの島がボールに詰めてくる中、太一は即座に立ち上がり、前傾姿勢のままダッシュ。島がボールを蹴り出そうとスライディングしてくる。半瞬先にボールに追いついた太一はボールを右へとはたき、島のスライディングを横っ飛びでかわす。
タッチライン際でパスを受け取った横浜サイドバックの大島がドリブルを開始するのを見ながら、太一は後を追う。大島が浦和サイドバックの明神に捕まり、太一へボールを返してくる。大島が抜け出す。ワンツーするなら今、というタイミングを無視する。大島と浦和サイドバックがボールから離れていき、太一一人となる。
ドリブルを開始した太一に浦和センターバック国木が詰めてくる。太一は大島へのリターンではなくペナルティエリアへ侵入する為のドリブルを選択した。大島へ戻してクロスボールを上げても、ゴール前はガチガチで得点の可能性は低い。ならば、ここは浦和の日本代表センターバック国木との勝負で勝つことこそ得点に近づくプレーだと判断したのだ。
(絶対に抜く)
それも一瞬でだ。後ろから先ほどかわした神田と島が迫ってきている。少しでも遅れれば挟み撃ちされる。太一は国木の前でボールを右左に動かし、揺さぶる。国木の重心がズレた瞬間に逆、もしくは股を抜く為、国木の瞳を見つめながら、フェイントをかける。
国木もそれがわかっているから、不用意に飛び込まず、太一に対して垂直ぎみに構えて小刻みにステップを踏みながら間合いを保ち、ずるずると後ろに下がりディレイをかけてくる。
(隙が無いなぁ、さすがに日本代表CB……確実に抜きたいってのは虫が良すぎたかなぁ。強引にいっとくべきだったなぁ)
後ろから近付いてくる気配を感じながら太一は後悔する。確実に抜きたいと躊躇ったが為に時間をかけてしまった。ペナ外斜め五メートルほどで神田が左から、島が右から太一を挟むように囲んでくる。
時間切れだ。前を向いた状態での一対一なら絶対に抜く自信があったが為に慎重に行き過ぎた。二人に寄せられてしまった。神田に左手を、島にユニを掴まれてしまう。ボールを足元に置き、二人の足から逃げるようにコントロールする。
この状況は太一の負け。バックパスで作り直す局面だ。ガシガシ足を削られる。わざと倒れるか逡巡。笛がならない可能性が高い。太一は二人のホールドを振り払う為、強引に回転し後ろに振り向くことに成功する。手を思いっきり使っているので、どちらがファウルを取られてもおかしくなかったが審判は流したようだ。
後ろにきていた中川へパスをする為、キック動作に入る。バックパスを阻止し、ボールを奪おうと神田がさらに足を出してくる。ガシガシと向う脛を蹴られながらもボールを守る。
(いや、絶体絶命のこの局面だから、抜ける)
状況が変わった。刹那の閃き。この状況に太一の勘がゴーを出した。バックパスをする為のキックをわざと空振りし、後ろを向いたままヒールで国木と神田のわずかな間を通す。
素早く振り返る。ボールが想像通りのコースを転がっていることを確認。神田はボールが自身の横を抜けていったことに気づいていない。島は位置が悪い。対応出来るのは唯一国木だけ。
一歩でその国木と神田の隙間に身体を潜らせる。国木が足を出してきたのを躱し、追いすがるように差し出される国木の手を払いのけ、二歩目で国木を抜き去る。
一瞬の加速、太一の身体能力が三人を置き去りにする。神田たちは囲んだことにより、抜かれないということからボールを捕るということに意識が向きすぎてしまったのだ。そのわずかな心の隙ともいえない隙をついた太一のテクとスピードがこの場面で勝利をもたらした。
国木たち三人を後ろに従えペナルティエリアに侵入した太一に、浦和センターバック進藤が慌てて寄ってくる。だが、それでは遅い。ゴール右十七メートル。シュートもパスもすべてが狙える位置に単独で侵入したのだ。太一への対応で浦和のマークが一つずつズレて、ゴールエリア中央に陣取る横浜フォワードの高橋がフリーになる。
太一は視線と身体を高橋に向け、右足を右後方へ振り上げる。高橋へのパス。そう誰もが、ディフェンダーもキーパーも、高橋すらも惑わすことに成功する。
そして、太一が選択したのはチップキック、つま先をボールの下側に差し込むことでボールを浮かすものであった。ペナ内右十六メートルから打たれたボールはふわりと浮遊し、ゴール裏ではためく青と赤と白のトリコロール旗に応援されながら、懸命に伸ばされたキーパーの手を掠め、皆の視線を浴びつつ、ゆっくりとゴール左上に吸い込まれていく。
会場が一瞬鎮まる。そしてその後、一気に爆発する。太一はその場で右手を高々と掲げる。仲間が太一に駆け寄ってくる。もみくちゃにされながら、バシバシと全身を叩かれる。
「はははっ、やりやがったな太一!」
「太一よくやった!」
「こんにゃろー、俺様にパスしないとは、こーだ」
「痛いっ、痛いってば、勘弁してくださいって!」
皆に囲まれながら横浜サポのチャントを聞く。嬉しさと気恥ずかしさ、そしてやる気が漲ってくる。
『オーレーオレオレオレ、タイチータイチー』
最後に中川が太一の尻を思いっきり叩いた後、皆に声を掛ける。
「よし、後一点だ! 絶対に取るぞ!」
「「「「「「おおっ!!」」」」」」
(そうだ、もう一点だ。もう一点取れば優勝だ!)
皆が気合を入れ直し、守備に戻る。試合が再開されるや猛然と浦和ボールに食らいついていく横浜の選手たち。疲れなどないとばかりに猛ダッシュする太一たちの勢いは、並のチームであったなら一気に横浜のペースになり逆転ゴールが奪えただろうほど凄まじかった。
だが、ここにきて浦和が本来のパスサッカーを展開し出したことで、試合は一進一退の様相を呈することになる。3-6-1の浦和はゴールキーパーまでボールを戻して繋ぐ技術に長けている。各選手は代表レベルが揃い、皆足元がしっかりしている。
そんな浦和にボールを回されるとそう簡単には奪えない。とはいえ、浦和のこの3-4-2-1の4のところの両サイドハーフが上がることで、その裏にはスペースができる。浦和もかなりリスクがあるのだ。
それでも、引き分けでいいはずの浦和は、恐れずにパス回しから攻撃を仕掛けてくる。自分たちのサッカーをして絶対に勝つ。そのプレーには絶対のプライドが漲っている。ワンツーで抜け出したサイドハーフの島にサイドを深く抉られ、ワトソンにドンピシャのマイナスクロスが入る。
横浜センターバックの大越がワトソンに身体を投げ出して寄せていたことでボールはキーパー正面に飛び、何とか失点を防ぐ。
今度は横浜の攻撃だとキーパーが左サイドバックの島野へとボールをトスする。そこに浦和が即座に詰めてくる。カウンターを諦めた島野がボールを庇いながら後ろを向き、ヘルプにきたボランチの葛城へボールを預け、そこからバックパスと横パスを繋げ、体制を整える。その間に浦和は守備陣形を構築し、3-4-2-1の4のところの二人がバックに吸収され、5-4-1のフォーメーションをとる。
横浜も前掛かりになり、攻め一辺倒で曖昧になっていた4-2-1-3のフォーメーションを本来の4-2-3-1へと戻す。ボランチとトップ下の中川がパス交換をおこない、相手を崩しにかかる。残り十分になり、どちらも本来の陣形で全てが決まるであろう一点を奪い合うことになったのだ。
――自力が上の方が勝つ!
優勝チームを決めるのに相応しい決着のつけ方であったろう。お互いのゴール前で決定的な場面が交互に繰り返され、スタジアムはその度に悲鳴にも似た大歓声が巻き起こる。
(はははっ、めっちゃ楽しい! やばいな、この感じ!)
完全に密着マークされ、ボールが回ってこない太一は考える。ちっぽけな1つのボール。それを手を使わずに枠に入れるだけの単純なスポーツ。空き地で兄貴やその友達と日が暮れるまでフェンス目掛けて蹴っていた子供のころとまったく変わらない。
ただ、ボールをがむしゃらに追いかけて、転ばされて膝を擦りむいて泣き、服を砂まみれにして母さんに怒られた時と今は何が違うというのか。
(何も違わない。夢中になってボールを追いかけていたあの時と)
サッカーバカと幼馴染の少女に呆れられるほど、常にボールを蹴ってきた。幼馴染の少女の誘いをサッカーやるから無理と断ると、男の子って何でそんなに玉遊びが好きなのかしらと何度言われただろうか。
(だって、こんなに楽しいこと他にある? 咲)
一つのボールの行方を皆が目を輝かせて追いかける。選手に監督にコーチ陣に審判、ボールボーイに観客、メディカルトレーナーやスタッフにスカウト陣、下部組織の子供たちにフロントにスポンサーにサポーター、クラブに係る全ても者たち、どれほど多くの者がこのボールに想いを乗せ、共に戦っているのだろうか。
(こんなにみんなが一緒になって夢中になれる遊び、他にある?)
脳裏で幼馴染の少女に問いかける。試合時間はアディショナルタイムへ突入していた。両チームともクリーンなサッカーをしてきた為、残りは一~二分程度であろう。浦和のワトソンから奪ったボールが繋がり、横浜のレジェンド中川に渡される。
(ラストチャンスだ。ここで、決める)
太一は心の中で大きく深呼吸し一度身体の力を抜く。太一の身体はすでに疲労の限界であった。二十歳の俺でもこんなに辛いのに、中川さんは本当に凄いと太一は三七歳のレジェンドのしなやかな動きに見惚れる。
負けてられない。歩くのも億劫なほど疲れた身体はまだまだイケると主張する。もっとずっとこの場所でサッカーをしていたいと心が訴えてくる。熱い何かが身体の奥から込み上げてくる。その想いのまま、太一は走り出す。
(目指すのはゴールのみ。俺が点を取れなくても、チームの為に動く)
太一はゴールに背を向け猛ダッシュする。その動きに慌てて浦和ボランチ神田がついてくる。ハーフウェイライン近くにいる中川からパスを受け、それをワンタッチで中川へ戻す。急停止し、反転、神田を置き去りにし、一気に浦和ゴールへ向かう。
中川からまたボールが戻ってくる。今度はそれをスルーし、サイドバックの大島へ流す。大島から太一に来たボールをトラップ、左手で神田をブロックしながらドリブルする。今度は囲まれる前にフォローにきていたボランチの葛城に戻す。そこから左サイドへ振られたボールが折り返され、フォワード高橋が落とし、再び太一の元へ。
太一はダイレクトでそのボールをゴール中央に走りこんでいた中川の元にドンピシャで送る。流れるような連携、一年間戦い抜くことで完成した横浜のパスワーク。すべてを託したボールを中川が左足で振りぬく。
――いっけえぇええええ!!!
皆の想いを乗せたボールが蹴りこまれる。その寸前、中川を浦和ミッドフィルダー醍醐が後ろからスライディングで倒す。中川が倒れこむ。審判が笛を吹き、醍醐にレッドカードを掲げる。
スタジアムが騒然となる中、フリーキックの準備が行われる。浦和がキーパーの指示の元、壁を少しでも高い位置で作ろうとするのをレフリーが本来の位置に押し下げ、壁の中に横浜の選手が混ざろうとして押し出される。
少しの小競り合いも起こさせまいとレフリーが壁を注視する中、太一は中川の隣に立っていた。ゴール中央二十一メートル、絶好の位置だ。
「一応俺が空振りするんで頼みます。準さん!」
太一は普段通りの声でそう中川に声を掛ける。
(つってもあんま意味ないのが申し訳ないなぁ)
右利きの太一が蹴る振りをし、その後、左利きの中川が蹴る。キーパーと壁を惑わす常套手段だが、世界トップクラスのフリーキッカーである中川が蹴るのはバレバレなので、皆太一の動作に反応してくれない。中川が蹴るとバレてしまっているので、中川はより厳しいコースを狙わないといけなくなる。
もっとフリーキックが上手ければ、少しでも中川の手助けになるのにと太一はいつも悔しく思っている。そんな太一に中川が爆弾を落とす。
「いや、太一が蹴ってくれ……ってお前、そんな馬鹿みたいな顔するな。バレるだろーが」
「いやいや、何いってんすか……いや、えっ? マジっすか?」
「ああ、さっきの接触で足痛めた。だから、任せた」
「えっ、だ、大丈夫ですか!?」
狼狽する太一の肩に中川がガシッと腕を回してくる。
「大丈夫だから落ち着け。いいか、これがラストチャンスだ。このフリーキックで今シーズンのすべてが決まる。そんな重要な場面だ。あちらさんは絶対に俺が蹴ると思うだろうな。普通に考えりゃ、俺の得意なコース、左上だって思ってるぜ。だから、お前は右上、狙いすぎに気を付けてスピード重視で蹴り込め。絶対に決まるから」
太一はこくりと一つ頷く。返事をしよう開けた口からは何も出てこない。口の中が乾いているのがわかる。
(やばい、緊張してる)
太一は腹の底から湧き上がってくる異質な感覚に戸惑う。これまで、サッカーをしてきてここまで緊張したことがあっただろうか。U17ワールドカップ準決のPK戦は確かに緊張した。去年初めてA代表に呼ばれ、スタメンで使われた時も緊張した。だけど、こんなにぶるりと心が凍り、身体が動かなくなるような感覚に囚われるのは初めてであった。
Jリーグ四年目、チームの戦力としてずっとスタメンで出続け、優勝争いに貢献する活躍をしてきた。その総決算、決めれば優勝、外せば二位がほぼ決まる重要すぎるほど重要なラストチャンス。
(緊張しない方が嘘だよなぁ。あれ、優勝するとクラブに入る分配金が二十億だっけ。外したら田中GMブチ切れそうだ。俺たちの報酬も確かあったよな。うわぁ、これ外したら先輩たちに殺されるじゃん。つか、俺が蹴っていいのか、こんな大事なキックを)
項垂れるように顔を下げる太一に中川が笑みを浮かべながら声を掛けてくる。
「お前も人の子だったんだな……いいか、太一。サッカーはな、楽しんだもん勝ちなんだ。この一年の全てが決まるこのフリーキックが蹴れることを楽しめ。ゴールを決めた瞬間を想像してみろ。この試合のMOMも年間MVPもお前のもんだぞ」
「……いや、まぁ、そうっすね……でも外したら」
「ははっ、そんなもん考えるな。そうだな、俺は今年で37歳だ。あと何年現役で出来るかわからねーし、ましてやその間に優勝出来る確率なんて少ないだろうな。お前も来年海外だろう? 今年がJリーグ最後になるかもしれないんだ。もちろん、俺みたいに出戻りでお前も帰ってくるかもしれないけどな。俺らはいつ怪我して引退するかわからんからな。わかるか? 俺たち選手にとって、Jリーグ王者になれる機会ってのはすっげー貴重なんだ。その王者になるかどうかの分岐点が今ここだ。どうだ? すっげー、一大事だろ?」
「……ええ、準さんがめっちゃ俺にプレッシャーかけてくれてるのは理解出来ました。おかげでまじで自信がなくなってきましたよ」
太一が擦れた声でなんとか笑いながら答える。その笑顔は頬がひきつり、苦笑いになってしまっていた。
「いいか、太一。俺たちが一番成長出来るのは逆境の中、緊張を吞み込んでプレーした時だ。だから、俺は逆境の時、いつもこう思ってサッカーをしてきた」
――緊張を楽しめ!
俺からお前へ最後の助言だ。そう言うと中川はボールをセットし直し、助走距離を取る。太一はセットされたボールを一度見た後、中川を見つめる。
(はははっ、やっぱすげーや、この人は……さっきの接触で蹴れないほど足痛めたってのに、まったくそんな素振りを見せないで、自分を囮にしようってすぐに考えたんだろ? 勝つ為にどんだけクレバーなんだよ。こーゆーのをサッカーIQが高いっていうんだろうなぁ)
――ああ~~!! カッコいいなぁ畜生め!!
この人に追いつく。緊張なんてしている暇はない。決めてやる。太一は未だ沸々と湧き上がる弱気の虫を吞み込んで不敵に笑う。ピっと短い笛の音がピッチに響く。中川が左手の平をほんの少し太一に向けて、待てと合図を送ってくる。そしてゆっくりとしたスタンスで走り出す。
ブレのない、安定したキックモーションに入る。右側に身体を傾け、全体重を右足に乗せて左足を振り上げる。太一はそれを確認する前に走り出す。壁が中川のシュートに合わせるように高々とジャンプする。キーパーが横っ飛びでゴール右へと手を伸ばす。中川が倒れる。壁に入っていた選手たちが順々に着地し、驚愕の表情を浮かべる。
(ははははははっ! まじかよ!)
中川のフリーキックは空振りだ。だが、太一は確かにボールが壁を越え、ゴール右上に弧を描いて吸い込まれていく様を幻視した。太一は一ミリも動いていないボールを蹴る為、キックモーションに入った状態で笑う。
(まじでこんなことが出来るのかよ!!)
中川の空振り一つで壁が崩れ、キーパーはゴールライン上でぶっ倒れている。彼らも太一と同じ光景を視たのだろう。美しく弧を描いてゴールに吸い込まれるボールを!
(本当にすごい! 凄すぎる! ……絶対にこの人を超えてやる!)
震える心を押さえつけ、ボールの下側中央を足の内側で正確に捉える。冷静に太一は無人のゴール左隅目掛けて軽くボールを蹴り込む。狙いすましたボールは百八十センチそこそこの壁を越え、無人のゴールへと吸い込まれ…………。