6
風の冷ややかな夜。
夜空には銀砂のような星々が煌めいている。その中心には磨かれた鏡のような満月が淡い輝きを放つ。
星の降ってくるような夜空を背に、何者かが周囲を窺いながらコソコソと水明の自宅へと訪れる。
ガラガラガラガラ……
引き戸を開け、周囲に気を使いながら何者かが玄関へと忍び込む。さり気なく靴を脱いで玄関に揃える。
「……おじゃましま~す(超小声)」
誰にも聞こえないよう、超小声で挨拶をした何者かが侵入してくる。
抜き足、差し足、忍び足。
気配を消した何者かが水明の部屋へと滑り込む。
一方、ベット上、何者かの侵入に気付きもせず、泥のように眠る水明。
そんな水明を何者かが見下ろす。
「……ふ~ん、顔はまあまあ。名前は水明ね…………にしても変な魔力ね」
ぶつぶつと呟きながら、何者かが眠る水明の頬をつつき始める。
「まあいいわ。とっとと起きなさい」
つん。つん。つん。
……ぐう。ぐう。ぐう。
しかし泥のように眠る水明は全く起きる気配を見せない。
もう少し力を入れて更に頬をつつく。
「とっとと起きろって言ってるでしょ。私の命令に従いなさい」
づん。づん。づん。づん。
…………ぐう。ぐう。ぐう。ぐう。
しかしやはり泥のように眠る水明は全く起きる気配を見せない。
更に力を込めて抉るような勢いで頬をつつく。
「起きろといってるのが判らないの。命令に従えと言ってるでしょ」
ぐり。ぐり。ぐり。ぐり。ぐり。
………………ぐう。ぐう。ぐう。ぐう。ぐう。ぐう。
しかしやはりそれでも、泥のように眠る水明は起きる気配を見せない。いわゆる爆睡状態だ。
「……いい加減に起きなさい! あんたはあたしの奴婢になるのよ!」
業を煮やした何者かが強烈な踵落としを放つ。
そして無防備に眠る水明の腹に容赦なく突き刺さる。
「ぶべぇっ!」
「とっと起きなさい! 寝てる状態でやっても盛り上がらないのよ!」
「ぐほおぉっ!」
更にベットから固いフローリングに叩き落される。つぶれたカエルのような声を水明が上げた。
心地よい深い眠りの底から、無理やり引きずり出される。
なにが起きたのかも判らないままフローリングに倒れこむ水明。
そんな水明の上に、何者かが馬乗りになって乗ってくる。
そして紅い瞳を輝かせ、水明の顔を覗き込んでくる。
「……ふむ。まあいいわ。合格としましょう」
「……え? え? え? な、なんなの?」
状況を理解できない水明は身を起こそうとした。
しかし馬乗りになった何者かにがっちりと腰を抑えられて起き上がれない。
感触から、貧相な肉つきの悪い両脚で締め付けてきているのが判った。
「ふふふっ」
馬乗りになった何者かが不遜な笑い声を上げる。
半ば惚けた瞳の水明が目の前の何者かを注視する。しかし部屋の電気はついていない。暗くて顔が見えない。闇の中に光る、紅い瞳だけが見える。
「喜びなさい。あんたは今から私の奴婢になるのよ。あたしに選ばれたのよ。光栄に思いなさい」
「……………………はい?」
未だに状況が理解できない水明。反ボケのまま生返事をする。
「ふふふ、いい返事ね」
が、何者かは水明の気返事を同意の答えと捉えたようだ。嬉しそうな声を上げる。
「じゃ、そういうわけでいくわよ」
「ええ? な、なにいったい? そういうわけって?」
そういうわけもなにも、説明等なにも言ってない。
いぶかしげな雰囲気に、水明の思考が急速にクリアーになってくる。
しかし状況は既に遅かった。
闇の中に紅い瞳が怪しげな光を放つ。
闇の中から伸びた白くて滑らかな指が水明の頬を這う。
愛でるような手つきでその感触を確かめてくる。
頬に触れる白雪のような冷たい指先。ぞくぞくとする背徳的な感覚。
相手がなにをしようとしてるのかは判らない。しかし本能的に水明は危機を感じた。
咄嗟に馬乗りになっている何者かを突き飛ばそうとした。
しかし身体がまるで動かない。全身が石膏で固められたようだ。
な、なんだこれ、なんで体が動かないんだ。
異常事態に水明は狼狽した。
しかし何者かは水明の心情など気にも止めず、小さな手でが水明の体をまさぐり続ける。
頬から滑るようにシャツの下に入った冷たい手が、水明の肌を嘗で回す。
「ふーん、意外と筋肉ついてるのね。なにかやってるの?」
「ちょっ、やめろ! 誰だ!」
声だけはかろうじて出せるものの、身体は鉄の塊にでもなったかのように重く動かない。
そのくせ肌を撫でる何者かの冷たい指先だけは敏感に感じられる。ゾクゾクとした悪寒が背中を突き抜け、全身へと走る。
その時、カーテンを閉めていなかった窓の外、強い風に月を覆っていた雲が流れる。
天からの強い月明かりが部屋へと射し込んだ。
その明かりに、水明に馬乗りとなった何者かの姿が照らされる。
「あ! お、お前は!」
「むぅ、ご主人様になんなのよ。口の聞き方を覚えなさい」
そこにいたのは----------。先ほど裸の少女と対峙していた白髪の少女であった。
「ご主人さまに向かって、お前だなんて、教育が必要ね」
反抗的な水明の反応に少女が頬を膨らませて唇を尖らせる。
「お前、さっきの女だな! なんでここにいる」
「……またお前って……、まったく反抗的な奴婢ね。なんなのよいったい。亜狗亜様と呼びなさい」
亜狗亜と名乗る少女が不機嫌そうな顔で水明を睨みつける。
先ほどはヴェールハットで顔の半分が覆われていたが、今は外したらしい。
透き通るほどに肌が白い。そしてそれ以上に白い白髪。
少し頬が上気しているらく赤い。釣り上がった両眼がくりくりと動きながら水明を見つめている。
おそらく睨んでいるようだが、子猫のようで少しも怖くもない。
だがその紅い双眸だけは闇の中にあやしげな光を放っていた。
「いいこと。あんたはこれからあたしの奴婢になるのよ。光栄に思いなさい」
言いながら亜狗亜の冷たい手が水明の首筋を這う。なにかを確認するかのような指先の動きであった。
「ちょ、やめろ! いったいお前は」
「亜狗亜様と呼びなさいって言ったでしょ。まったくうるさい奴婢ね。ほら、あたしの瞳を見なさい」
亜狗亜の両眼が突き通すような輝きを放つ。
その紅い瞳が仄暗い輝きを放ち、魔力が溢れだす。
対象を虜とする魅力の呪術。
呪術の知識など水明にはなかった。しかし本能的に危機を察し、咄嗟に目を閉じようとした。
だが両の瞼は動かない。凍り付いたかのように固定化してしまっている。
亜狗亜の口元に蠱惑的な笑みが浮かぶ。その紅い瞳が強烈な呪術を放つ。
倒錯的な魅惑の波が直接脳髄に押し寄せてくる。
圧倒的なまでの魅力が幾重にも重なり波紋となって水明の意識を押し流そうとする。
だがしかし-----。
その瞬間、呪術的な危機に、無意識のまま水明は自身の内に眠る潜在能力を発動させた。
無意識のまま精神への護りの印が発動した。意識に呪術への防壁が構築される。
押し寄せる津波のような魅力の波動。
だが守りの印が水明の自我を防衛する。
「が、がああああぁぁぁぁっ!」
「あら、なんか変ね? やっぱ本調子じゃないから? それともコイツの魔力のせい?」
押し迫る強烈な呪術。全身の筋肉がビリビリと痺れ、脳髄に電極を埋めつけられたような強烈な痛みに水明が苦悶の声を上げる。
対照的に、亜狗亜は納得できないといった表情のまま、のんきな声を上げる。
「う~ん。なんか変ね。なんでかしら?」
水明の上に馬乗りになったまま亜狗亜が首を傾げる。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
かろうじて魅力の呪術は防げた。水明がゼイゼイと息を荒げる。
しかし相変わらず体は鉄の塊なったかのごとく動かない。状況はなにも好転していない。
「まあいいわ、どっちにせよ同じことだし」
「……ど、どっちにせよって一体なんのことだよ」
「ふふふ、すぐに判るわよ」
質問には答えず、亜狗亜は再び水明の首筋に指を這わせる。
なにかを探すかのように悩ましげに肌の上を滑らせる。
そしてその指先がある一点で止まる。
「ふふふ、ここね。ここで間違いないわね」
陶磁器のような白い指が首筋の一点を撫で回す。
そこは人体における最大の急所の一つである頚動脈の走る場所であった。
亜狗亜が蠱惑な笑みを浮かべた。
その口元の鋭い牙が怪しげな光を放つ。
雰囲気的に亜狗亜が自身の血を吸おうとしていることに水明は気付いた。
こいつが何者かは判らない。
しかし紅い瞳と魅力の呪術。間違いなく普通の人間ではない。
映画やアニメで見た吸血鬼の姿が水明の脳裏によぎる。
まずい、なんとかして逃げないと。
しかし体は依然として動かない。不動の彫像のごと動かない。
「それじゃ覚悟しなさい。今からあんたはあたしの奴婢になるのよ」
「ちょ、やめろっ、やめろってば!」
「ふふふ。怖がらなくていいわよ。私も初めてだけど、全部任せておけばいいのよ。誰だって始めては怖いものだけど、そうやって成長していくものなんだから。お姉さんに全部任せておきなさい。ふふ」
「その言い方はやめろ!」
なぜかお姉さんキャラになった亜狗亜が優艶な笑顔を浮かべ、ゆっくりと水明の首筋へと近づいてくる。
「さ、いくわよ。たぶん少しだけ痛いけど我慢しなさい」
亜狗亜の口から艶っぽい吐息が漏れる。
「や、やめろ! やめろ!」
「ふふふ。だ~め、覚悟しなさい」
止めようもなく、亜狗亜の小さな口が水明の首筋へと近づく。
ゆっくり、ゆっくりと。
おもむろに首筋に走る頚動脈へと鋭い牙を突き立てる。
首筋から血肉が裂ける鋭い痛みが水明の体に走る。
裂けた皮膚から温かい液体が溢れ出す。濃厚な血だ。
鼻腔にまとわりつくような強烈な血の香りが、部屋へと漏れ溢れる。
切り裂かれた皮膚を突き破り、水明の首筋に鋭い牙がゆっくりと侵入してくる。
そしてその中にある血脈の塊である動脈へと、ヌルリと侵入してくる。
始めは強烈な痛み。
そして――、
更に気が狂いそうなほど凄まじい激痛。
「ガァッ! ガガァッ! ………………■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッッッッッ!」
あまりの激痛に水明の口から言葉に出来ない叫びが上がる。
少しだけ痛いなんてもんじゃない。言葉を失うほどの凄まじい激痛だ。
溢れだ出た大量の血流が首筋を伝い、床へと流れ落ちる。
ぴちゃ、ぴちゃと床に血だまりを作り出される。
「……はぁ、はぁ……、ああぁぁ……、これが血の味……ハァァ……」
亜狗亜が水明の叫びなど気にも留めず、恍惚とした笑みを浮かべ、溢れ出る血を啜る。濡れた唇が水明の首筋を這い、柔かな舌が首筋を嘗め回す。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッッッッッッッ!」
「ああ……、はあああぁぁぁ……、熱い……、はぁ、はふううぅぅ……」
頬を赤らめ、愉悦の表情を浮かべた亜狗亜が熱っぽい声を上げる。
表すべき言葉もない激痛に水明の意識を掻きむしる。最早痛みを超えた強烈すぎる衝撃。
脳髄に焼けた火箸を押し付けられ、かき混ぜられるようだ。
あらゆる感覚、自我が吹き飛んでゆく。
強烈なLSDのフラッシュバックのように世界の全てが原色の色に染まってゆく。水明の理性が弾け、視覚、触覚、味覚、痛覚、聴覚、臭覚、あらゆる感覚の境目が無くなり混ざり合ってゆく。
押し寄せる原色の津波に水明の自我が崩れ落ちてゆく。
「ん……、んぅ……、ふぅ……、んん……っ」
愉悦の吐息を漏しながら、亜狗亜が水明の首筋から溢れ続ける濃厚な血を啜る。
どこか愛おしげに亜狗亜の濡れた舌が水明の肌を優しく撫ぜる。
「■■■■■■■■■■■ッッッ……ッ……………………ッ…………………………………………」
「ふぁ、ああぁ。ようやく……、静かになったわね……。今からあんたを私の物にするから。私だけの物に……」
水明の体から力が失われ、ゆっくりと重力に従い倒れてゆく。
力を失ったその体を、亜狗亜の小さな手が支える。
淀んだ空気の部屋に、まとわり付くような濃密な血の香りが混ざる。
それまでどこか妖艶な笑みだった亜狗亜の表情が、子供を抱きしめる自愛に満ちた母親のようになってゆく。柔らかな微笑みを浮かべ、赤ん坊をあやすように優しく水明の髪を撫でる。
「ん……、待ってなさい。今からあたしの血をあんたに流すわ、それで終わりよ。全ての誓約は果たされるわ。そしてあんたは私の物になるのよ……。ン……、痛っ」
呟きながら鋭い牙が自身の柔らかな唇を貫く。濡れた朱色の唇からビジョンブラッドの輝きを放つ鮮血が漏れ溢れる。
「さぁ、誓約を結ぶわよ……。私の物になりなさい……。大丈夫、一生大切にするわ……」
亜狗亜の血に濡れた口元に、暖かな微笑が浮かぶ。
力を失った水明の体を、亜狗亜の小さな手が愛おしむかのように柔らかに撫でる。
自身の血に濡れた牙がゆっくりと水明の首筋へと再び潜り込む。
「……ん、んん……はああぁ……はああぁ」
亜狗亜の口元から艶かしい声が漏れる。
唇から溢れ出る血。骸姫の呪いと魔力を乗せた鮮血。
亜狗亜の呪いを乗せた鮮血が、影のように静かに水明の体へと流れ込む。全身に絡みつくよう、ゆっくりと魔力と呪いが水明の体と精神を侵食してゆく。
広がりゆく魔力と呪いの波が意識の無い水明の全身を覆う。
奴婢の呪詛。
その呪いを受けたものは骸姫の特性を受け継ぐ。
そして、主への絶対的な忠誠を植え付けられる。
どす黒い呪いが水明の自我を蹂躙し上書きする。
病毒のような穢れの波は増殖しつづけ、闇の呪法が水明の全身へと浸透してゆく。
「ん……、んん……、ふぅ……」
亜狗亜の口元から一滴の血と嬌声が溢れた。
奴婢の呪詛の浸透を感覚的に理解し、ゆっくりと首筋から牙を抜く。
「……ん、はあぁ、んん……、はあああぁぁ」
悩ましいほど熱く濡れた吐息が亜狗亜の口から漏れた。
柔らかな唇の離れた水明の傷口から、とくとくと鮮血が流れ出す。
「んんん……。ふあ……。待っててね、今直すから」
頬を紅潮させた亜狗亜が愛しむように優しく水明を抱きしめる。
微笑みを浮かべたまま、首筋の傷口へと再びやわらかな舌を這わせる。
「……ふあ……、濃い……、血の味」
濡れた亜狗亜の舌に水明の鮮血の味が広がる。
子猫のように小さな舌がちろりちろりと水明の傷口を舐める。
その舌の動きに合わせ、傷口が目に見えて癒されてゆく。
骸姫の特性である治癒能力であった。
ドロリとした血の香りの混じった部屋の空気に、どこか淫美な気配が混じり合う。
「……はああ………………、うん……、これで塞がったわ」
頬を上気させた亜狗亜が呟く。
愛情あふれた母親のような穏やかな表情を浮かべた亜狗亜が、力を失った水明の身体を優しくゆっくりと床へと寝かせる。
「……ふう~~~。……はい。終わった。これで誓約は果たされたわ」
大きくため息を吐き、倒れこむように亜狗亜がベットに体を投げ出した。
「つ、疲れたわ~。まさか誓約を結ぶのが、こんなに疲れるとは思わなかったわ」
うつぶせに寝転んだ亜狗亜が独り言をつぶやく。
「ふふふ、でもこれであんたは私の物。私だけの物よ」
愉悦の笑みを浮かべた亜狗亜が床に力なく横たわる水明を愛おし気に見つめる。
そう、誓約は果たされた。
この瞬間より、水明は亜狗亜の奴婢となったのであった。