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……気を失っていたようだ。
体が鉛の塊になったかのようにだるい。幸いなことに出てはいけないものは出ずに済んだようだが、全身がボロボロだ。
水明が気付くと、いつの間にやら道路に大の字になって倒れていた。
胸に重みを感じて見ると、裸の少女が水明にしがみつくようにして眠っている。
よく見ると、その頬にはいく筋もの乾いた涙の痕がついていた。泣き疲れて眠ってしまったのだろうか。
本気で死ぬかと思ったが、とりあえずなんとか生きているようだ。
ノロノロと水明は横たわっていた上体を起こす。
とたんに締め付けられるような強烈な痛みが意識を貫く。
先ほどのベアハッグで相当に体を痛めつけられたようだ。
フラフラと頭を振りながら周囲を見渡す。幸いなことに眠っている少女以外誰の姿も見えなかった。夜間とはいえ、あれほど大騒ぎをしたのによく見つからなかったものだ。
めまいがする。吐き気もひどい。全身が自分の体と思えないほど重い。
そのくせ痛みの感覚だけはやたら鋭く感じられる。
先ほどのベアハッグで肉体、精神共にボロボロだ。とりあえず家に帰るしかない。
痛む体を気力で奮い立たせ、ヨロヨロと生まれたての小鹿のように立ち上がる。
すると、しがみついていた少女の身体がずるりと滑って地面に横たわった。
少女の艶やかな黒髪が放射状に広がり、白磁のような白い肌が月明かりに輝く。
端正な顔立ちの中、小さな口から規則正しい寝息が漏れる。その呼吸に合わせ、豊かな胸も僅かに上下している。
名匠によって作られた西洋人形のように可憐な少女の裸体。
本来純情な水明ならば、直視出来ない姿であった。
だが今の水明には、そんなことを気にする余裕はない。体力、精神共に限界近いのだ。
そもそも誰かは知らないが、この子のせいで本気で死にかけたのだ。
改めて考える。いったいこの子は何者なんだろう、と。
木々を跳躍して飛翔する常人離れたした身体能力。それに光になって消えた剣。
……どう考えてもこの子、普通の人間じゃない。
それにこの子が先ほど言っていた『パパ』、という言葉も気になった。
なぜ初対面の子にパパと言われないといけないのだ。
それと逃げ出していった白髪の少女。どう考えてもあの子も普通の人間じゃない。この子と一体どういった関係なのだろうか。
判らないことだらけだ。
冷たい夜の風が流れる静かな街並みに、少女の漏らす寝息の音が響く。
この子が何者かは判らない。
客観的に見れば全裸の不審人物。
しかし不審者だからといって、全裸の少女をこのまま放置するわけにはいかないだろう。
どうすべきだろう。このままにするわけにはいかない。
普通に考えれば、警察に連絡するのが正しいのだろう。
しかし……
間違いなく一連の出来事の中心にはこの子がいる。それはまず間違いないことだろう。
この子に聞きたいことは山ほどあるのだ。
そう考えると警察にこの子を引き渡すわけにはいかない。
「…………はぁっ、しょうがないよな」
自身を納得させるように独り言をつぶやく。散々痛めつけられた胸がずきりと痛んだ。
水明は少女に着ていた上着をかける。
そして痛む体に鞭打って、水明は眠る少女を背負った。
眠る少女を起し、自分で歩いてもらおうかとも考えた。しかしどうもこの子、頭がアレっぽい感じだ。
もしかしたら起こした途端、先ほど以上のベアハッグを喰らうことになるかもしれない。
今の状態では、冗談抜きで本当に死ぬかもしれない。
そう判断し、水明は少女を起こすことをやめたのだ。
少女の柔らかな双丘が水明の背中に潰れる。まろやかなマシュマロのような感触が背中に広がった。
絹のように柔らかで、むっちりとした太ももが支える両手に沈む。
小さな口元から漏れる甘い寝息が首筋を撫でた。
思春期の少年には、きつ過ぎるほど魅惑に溢れた肢体であった。
もっとも――、
幸か不幸か判らないが、今の水明にはその魅惑に溢れた肢体の感触を楽しむ余裕は無かった。
先ほどのベアハッグで崩れ落ちそうなほどに体は重い。自身の体を支えるだけでもつらい。
その状態で更にもう一人抱えなければいけないのだ。
感触を楽しむ余裕なんてあるわけないのだ。
少女を背負い、ヨタヨタと自宅へと水明は歩み始めた。
コンニャクのような足腰を奮い立たせ、少女を背負って一歩ずつ歩む。そのたびに鈍痛が全身を走る。水明の額から脂汗が流れる。
全身の骨という骨が軋むように痛む。全身だけでなく、世界そのものが歪んでゆくように感じた。
ヨタヨタと、ようやく社務所にたどり着いたときには全身が汗にまみれていた。
胃がひっくり返るような嘔吐感が込み上げてくる。
崩れるように立て付けの悪い引き戸を開け、水明は玄関へと倒れこんだ。
ようやくたどり着いた自宅。
安心感からか、強烈な疲労と眠気が水明を襲う。
だがここで眠るわけにはいかない。
水明は背負っていた少女を降ろし、荒い息のまま這うようにして廊下へと上がった。
本来なら夕飯の準備をするのだが、身体がガタガタすぎて食欲は一切ない。
ふらふらと客間へと行き、押入れの中から無造作に布団を引っ張り出す。
そして僅かに残った体力を動員し、再び少女を背負い、客間の布団へと放り投げる。
女性への対応としては最悪だ。だが今の水明では仕方のない話だ。
放り投げられた少女がゴロゴロと布団の上を転がる。少々投げる力が強かったのか、勢いそのまま少女が布団から転がり落ちて壁へとぶつかった。
ゴンッ! と中々いい音が響く。
その音に、なぜかちょっとスカッとする水明。
壁に跳ね返った少女がちょうど布団の上に止まる。
結構な勢いで壁にぶつかったのだが、少女が目覚めることはなかった。
見ると壁にぶつかって、額がちょっと赤くなっている。しかし大口を開けてぐーぐー眠っている所を見ると、どうも爆睡モードに入ったらしい。簡単には目覚めそうにない。
水明はぞんざいに少女に掛け布団をかけた。
とりあえずこれでいいだろう。
本来ならばこの子を起こして話を聞かなければいけない。
だが、もはやそんな余裕はなかった。正直そのまま一緒に眠ってしまいたい気分だ。
とはいえ、さすがにそれはまずい、と、最後の理性を働かせ、自室へと水明は芋虫のように這いつくばって進んだ。
そうしてようやく自室のベットにたどり着く。
直後、ついに水明の肉体に限界が訪れた。強烈すぎる眠気が津波のように押し寄せてくる。
最早抗う必要はない。
寄せる眠気に身を任せ、水明は深い深い眠りの海へと沈んでいった。
――――――――――しかし、
水明の長い夜はまだまだ終わらないのであった。