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鹿島神宮境内社務所前。
夜の八時を回っていた。満月がゆっくりと流れる雲に隠れてゆく。玉砂利の敷き詰められた境内を歩むたび、シャリシャリとした石の擦れる音が闇夜に響いた。
季節は六月。昼間はじりじりと日が照りつけて蒸し暑い。しかしこの時間帯になって吹く風は肌寒く感じた。昼夜の寒暖差の激しい季節だ。
すっかり遅くなってしまった。早く帰らないと。
溜息が自然と漏れた。自身の吐いた溜息を含んだ湿り気を帯びた冷たい風が頬を撫でる。
本日開催された鹿島神宮古武道演舞大会。
武道の盛んな鹿嶋の地で毎年開催される祭典に、水明は実家である息栖神社代表として出場し、その後の片付けを手伝い、ここまで遅くなってしまったのだ。
八衢水明、十六歳。身長175センチ、体重60キロ。賞罰無し、彼女も無し。今年の春より高校に入学。そして、関東三社の一社、息栖神社の管理者代理である。
なんとはなしに水明は大きく息を吸った。神社特有の神聖さを帯びた涼やかな空気が縮んだ肺に染み渡る。
「……まあ神宮の人たちには世話になってるしな」
自身を納得させるように溜息と独り言が自然と漏れた。どうも一人暮らしを始めてから独り言が増えた気がする。あまりいい癖ではないので気をつけないと、と水明は思った。
同じ神職関係者とはいえ、本来部外者である水明が祭典の片づけを手伝う必要はない。
実際、神宮の神職たちに頼まれて片づけを手伝ったわけではない。水明自身が自発的に手伝ったのだ。
一介の高校生である水明が、神社管理者代理であることも含め、これには少々理由がある。
発端は三カ月前にさかのぼる。
三か月前、水明の中学卒業当日のことだ。
あの日、三年間過ごした中学を卒業し、若干ながら湿り気を帯びたセンチメンタルな気分に浸りながら水明は帰宅した。
ところが、玄関を開けた瞬間、妙な違和感を感じた。
本来ならば社務所にいるはずの息栖神社の宮司である水明の父の靴が玄関になかったのだ。その上、傘や朝の鍛錬用の木刀やらも無くなっている。
ん? といった感じで家へと上がる。どうも家から人の気配が感じられない。
ん? ん? なんか変だな、と違和感を感じつつ居間へと行くと、使い古されたちゃぶ台の上に手紙が一通置いてあることに水明は気付いた。
不審な気配を感じつつ、よせばいいのに水明は手紙を見た。
その内容は……
『水明、家はお前に任せる。
父さんは海外へ武者修行の旅に出る。
俺より強い奴に会いに行く』
読み終えた瞬間、頭が呆然として目の前が真っ白になる感覚を水明は味わった。
小説でよくある表現。しかしまさか、こんなレアな感覚を実体験する日が来るとは思わなかった。
……もっとも少しも嬉しくないが。
なんと宮司である水明の父が、全ての責務を放り出し、武者修行の旅『鹿島立ち』をしてしまったのだ。
あまりの事態に呆然とする水明。だからといって、いつまでも呆けてはいられない。
吹けば飛びそうな思考の中、水明は考えた。
こ、これって、なにかの冗談?
しかしながら、当然答えてくれる人間などはいない。自力で調べるしかない。
ひとまず父が本当に鹿島立ちをしたのか、確認しようと部屋に行く。
が、当然のながら父の姿は無い。ついでに旅行鞄と着替えの一部も無くなっている。
更に何故か父の携帯が置いてある。こちらからの連絡を受けるつもりは無い、ということだろう。
再び水明は目の前が真っ白になる感覚を味わった。
レア体験再び。生涯一度も体験できないような出来事を連続フィーバー。
しかし、やはり嬉しくない。
実際問題、中学を卒業したばかりの水明に神社の管理を任せるなど、無茶苦茶な話なのだ。
なにしろ水明には神職としての知識も経験も無い。更に当然ながら、神職業務に必要な階位も無い。
この時の水明の取得している資格は、この当日に取得した中卒のみ、とんでもない無茶な話だ。
初対面の人間に、『なんか面白いこと言って』と、言ってしまうくらいの無茶振りなのだ。
真っ白な思考の中、水明は、フンガァッー! と、叫んだ。
独りぼっちとなった家の中、水明の意味不明な叫びが響く。幸い木々に囲まれた神社境内なので、ご近所に迷惑をかけることはない。それを踏まえて、力の限り水明は叫んだ。
叫んだからといってどうなるものでもない。それくらいはアレな状況の水明でも判っていた。
しかし、それでもとにかく叫び続けた。叫ばずにいられなかった。
その後、アホみたいに散々叫び終えた水明は、若干ながら冷静さを取り戻し、ひとまず知り合いの鹿島神宮の神職たちに事の次第を相談することにした。
あまり知られていないが、本来神社は独立運営が鉄則であり、個々の神社で起きた問題はそれぞれの神社で処理しなくてはいけない。
なぜならば、神道において、問題とは神の与える試練であるからだ。
つまり本来なら、この問題は水明が自力で解決すべき試練であった。
しかしながら、世の中には例外というものがある。
この件に関しても十分に例外といえるものであった。
なにしろ鹿島神宮ほどの規模は無いものの、水明の実家である息栖神社も東国三社の一社なのだ。
その格式と伝統ある神社の管理を、中卒しか資格を持っていない男一人に任せるわけにはいかない。さすがにこれは放置できない。
水明からの話を聞いた神宮の神職たちが、そう判断したのはごく当然であった。
その後の神宮神職たちの対応は早かった。
参拝者への対応、物販、各種祈祷を行う代理の宮司を派遣してくれ、更に地元の氏子たちへの事情説明と、神社運営への協力を要請してくたのだった。
こうして水明は神宮神職たちのお陰で精神崩壊の末、鉄格子のついた病院に入院する危機を免れた。
それと、本来の宮司の息子ということで水明が神社管理者代理となった。
もっとも形だけだが。
実務面、その他全てのことは神宮神職にお任せなのだ。
さすがの水明も、何もかも人任せなのは情けないものがあった。
だがしかし、現実問題として仕方のない話でもあった。一介の高校生である水明に出来ることなど、境内の掃除ぐらいなのだ。
そんな事情からの負い目と恩義もあって、水明は祭典の片づけを自発的にすることとなったのだ。
ちなみに―――――発端である水明の父であるが……
三カ月たった現在でも、今だに帰ってこない。
それどころかどこに行ってるのかすら判らない。
唯一の連絡として、一月ほど前に海外からの手紙が届いた。
その内容はといえば、取りあえず元気だということと、神社の運営はテキトーに任せるとのこと。
それだけ。それだけだ。
連絡先などは一切書かれてなかった。間違いなく故意に書かなかったのだろう。
それと、写真が一枚入っていた。
ピーカン晴れの太陽。真っ白く輝く砂浜。そして健康的な褐色に焼けたビキニ美女の後ろ姿たち。
正確な国は判らない。が、なんとなく中南米っぽい雰囲気の写真だ。
その中央に、ラリってるとしか思えない笑顔を浮かべた父が、何故か超ビキニの褐色肌の美女を両手に抱きかかえて写っている。
この女はなにものだ……、どこに行ってるのだ……、そして、なんの修行を行ってるのだ……
その写真を見ていると、自身の中にスクスク元気に殺意の芽が育ってゆく事を水明は感じた。
そして水明はその写真を焼却処分した。今でもそれは間違ってないと思う。
まあ、そんなこんなで水明は今日まで、神社の管理者代理として過ごすこととなった。
「……にしても情けない」
ポロリと再び独り言が漏れる。口から漏れた重い吐息が夜風に流れた。
天頂には降ってきそうなほど美しい銀の満月が輝いている。
そんな美しい夜空を背に、墨汁をぶちまけられたように陰湿な気分の水明であった。
そのままトボトボと駐輪所に止めてあるバイクへと向かう。
と、その時――――
一陣の風に合わせ、ネットリと肌を舐められたような嫌悪感が水明の体に走った。
暗闇の塊のような瘴気が風を切る。意識に無理やりドロリとしたものを流しこまれるような感覚が全身を覆う。突然の怪異に心臓が早鐘のように高鳴る。
「なっ! なっ! な、なんだ!」
突然の事態に心臓が急速に高鳴り胸が痛くなってくる。
瞬間的に身体が痺れて猛烈に熱くなってきた。胃の底から強烈な嘔吐感が込み上げてくる。
ドロリとしたものが脳髄を覆い、世界がぐにゃりと歪んでいく。
押し寄せる濁流のような負の感覚、真っ黒な闇の洪水に水明の意識は押し流された。
瞬間的に水明の自我が崩壊し、ずぶずぶと沈んでゆく。
それはなんの脈絡もない突然の事態であった。
いったい何が起きたのか判らないまま、ねっとりとした汚泥のような闇の中に水明の意識は引きずり込まれていった。
―――――――闇の中。
水明の自我は闇の中で目覚めた。
体の感覚がない。何も見えない。
だけど何かを感じる。
直ぐ近くに何かがいる。見えないけど判る。
なにか――、邪な存在の気配が感じられる。
それはとても邪悪な存在。ヘドロのような粘性を帯びた闇の塊。
水明は何かが這いずるような気配を感じた。
目には見えない。だが、確かにそれはいる。
コールタールのようなドロドロとした闇に潜む邪な存在。
なにか邪悪な黒い霧の塊がうごめいている。
奇妙な感覚だった。何も見えないのにその存在が判るのだ。
ぐにゃぐにゃと揺れる感覚の中、距離感の掴めない闇に隠れる黒い霧が四肢ある人型の影をつくる。
その頭部と思われる箇所から歪にねじくれた突起のようなものが感じられた。
――腐りゆく果実が放つ、甘くねっとりとした腐敗臭が迫ってくる。
その先には――――――――――
「………………っ!」
――ハッとした。
流されかかっていた意識がフラッシュバックのように急速に戻る。
ぞくりとした感覚に冷や汗が頬を伝い、鳥肌が全身を覆う。
な、なんだ今の! 白昼夢ってやつか?
意識を刈り取るほどの強烈な悪寒。
いや、今のは悪寒などといった生易しいものではない。
夜が凍りつくほどの戦慄の波動。
意識を取り戻した水明は、反射的に周囲を見渡した。
しかし、周囲には誰の姿も見えない。
夜の帳の下りた境内を静寂の衣が覆っている。月光に照らされた足元には自身の影が長く伸びている。
頭が重い。頭痛もする。
平衡感覚がぐにゃぐにゃに狂っている。水明はその場にへたり込みそうになった。
感じたのは、ほんの一瞬。
だが意識が吹き飛ぶほど強烈なものだった。
いったい今のはなんなんだ?! 虫の知らせとか、そういった類のもの?
水明は考えた。
何かは判らない。だが、風に乗った何か邪な気配に意識が流されかかったのだ。
そうだ。たしか風に乗った何かに―――
風上の方角を見据えた。、南の方角、自宅のある方角だ。
遙か先、南の夜空を注視するがなにも見えない。静かな月光が無人の境内を照らしていた。
月が放つ光は、くっきりと地面に影を落とすほど明るい。かなり遠くまで見ることが出来た。
しかし、どれだけ目を凝らしてもなにも見えない。
耳を澄ましてもなにも聞こえない。
いや、バクバクと脈打つ自身の鼓動だけが耳をついた。
息を呑むような緊張が水明の全身を走った。
―――――――その時。
突然に夜鳥の鳴き声が境内に響きわたり、夜の静寂を打ち破った。
背後の森から木々のしなる音、枝葉の折れ落ちる音がこだまする。
反射的に水明が振り返ると森の奥からなにかの影が飛び出した。
夜の木々の枝から枝へと俊敏な身のこなしで宙を駆けてゆく一つの影。影が舞い踊るように空を飛翔する。
天頂に煌く満月と舞い飛ぶ影が重なった瞬間、
月を背に、夜の漆黒に溶け込むほど長く美しい煌めく黒髪をひるがえした少女が長尺の剣を手に木々を飛翔してゆく。
ひるがえる髪から輝く月光の粒子が零れ落ちた。
強い意思と生気を感じる青紫色の瞳が遙か彼方を見据えている。
見た目の年齢は水明と同じくらいだろうか。少しすました感じと、幼さの混じった人形のような端正な顔立ち。さらさらとした長い前髪が端正な顔立ちにかかっている。
釣り目がちの双眸からは紫水晶のような光りが放たれる。すっきりとした頬は美しい流線型を描き、整った美しい鼻梁が神秘的な容貌を醸しだしていた。
なによりも……
……………………
なによりも……
顔立ちよりも、遙かに重要なものが水明には見えた。
見えたが、一瞬、それが水明には理解できなかった。常識が意識を瞬間的に遮断したのだ。
だがしかし、見えるものは見えた。見えるものを見た。
そんなわけでしっかり見た。ガン見した。見ざるをえなかった。とにかく見た。
見える。はっきりと、少女のなめらかな白い肌が。少女の全身が。
少女の体が月の輝きに煌めき、全身からおぼろげな光が放たれている。
そう、少女の全身から光が放たれている。全身の白い肌から光が。
―――くどいようだが全身の。
そう。つまり、少女は―――――――――、
全裸だった。
全裸の少女が夜空を飛翔してゆく。
全裸。はだか。ヌード。一糸まとわぬ姿。生まれたての姿。
呼び方は色々あるのだが、とにかく服のたぐいを一切身に着けていない。
月明かりを背に、木々の枝葉を足場に、舞うかのように宙を駆ける少女。
その動きに合わせ、ボリュームある両胸が上下に激しく揺れ動く。
そして、そのしなやかな肢体からは、すらりとした長い両手足が伸び、細いウエストは滑らかな曲線を描いていた。
いわゆる、出るところは出ておきながら引っ込むところは引っ込んでいるスタイル。
見事なまでのプロポーション。天晴と言わざるを得ない。
究極の理想ともいえる美貌とプロポーションを兼ね備えた少女がすっぽんぽんで闇夜を飛翔していく。
その姿を一口に表現すると…………、とてつもなく美しいが、とてつもなくシュール。
凛々しい横顔と完璧なまでのプロポーション。
そのくせ何故か、すっぽんぽんで剣を握りしめて飛んでゆくのだ。
その強烈なギャップが更なるシュールリズムを醸しだす。
いったいなにあれ? 裸族?
女の子の裸をこうまではっきりと見たのは始めてだ。
しかしなぜかときめかない。そりゃあ、多少はドキドキした。
しかしそれ以上に、なんなのあれ? といった感じが強かった。
女の子の裸をこうまでガン見したのは始めてなのに、なんともいえないガッカリ感。なんとなくだがションボリとしてしまう。
何故だろうか、水明は大切なものを一つ失ったような気がした。
声を出すのも忘れ、呆然と見つめている間に、飛翔する全裸の少女は南の夜空に溶けて消えてしまった。
―――――――――――しばし硬直。
先ほどの強烈な悪寒が、あっさりと吹き飛ぶほどの衝撃な光景だった。
なんだか頭痛がしてきた。先ほどの悪寒とは別のタイプの頭痛だ。
頭を振りながら水明はとりあえず考えることにした。そうだ考えよう。
意識が吹き飛ぶほどの悪寒、嫌悪感。
そして、朦朧とした闇の中で感じた不気味な存在。
でもって、意識が戻った直後、何故だか、すっぽんぽんの少女が剣を構えて飛んでいった。
……うん、間違いない。間違いないな。
……なるほど判った。さっぱり判らない。
生まれて十六年、こんな妙な体験をしたのは始めてだ。
無人の境内で呆然としながら水明は再び周囲を見渡した。
だが、やはり誰もいない。自分以外の生き物の気配は感じられなかった。
既に裸の少女は相当に遠くに行ってしまったようで姿は見えない。
少女が消えていった空を見上げる。
先ほどと同じ、なにも見えない闇夜が広がっていた。
そうだ、先ほどと同じ、なにも見えない南の夜空が広がっている。
「…………………………あっ」
ふっと水明は気づいた。
少女が飛翔して行った方向、それは先ほどの邪な気配を感じた方向だ。
それに気づくと、もしかして裸の少女は邪な気配の発生元へと向かったのではないか、と、なんとなく思えたのだ。
根拠はなにもない。
しかし、少女が飛び出してきたタイミングがあまりにも良すぎたのでそう思えた。
「……いったいなんだったんだ」
夜空を見上げながら水明は呟いた。無意識の独り言ではなく、自問への言葉を。
不意に再び風が流れた。浮かぶ雲が月の前へと流れてゆく。
湿り気を帯びた六月の風、それはどこか蒼く冷えた甘い空気を含んでいた。
まとわりつくような夜の風が静寂の境内を包んでゆく。