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茨城県鹿嶋市鹿島神宮境内、霊泉御手洗。
数多の英雄、賢人が禊を行い、鹿島立ちを果たした神秘の泉に少女は浮かんでいた。
静かに流れる霊水に身を任せ、一糸まとわぬ姿のまま、花菖蒲のような青紫の眼をぼんやりと虚空に向けている。
虚空よりも遙か先、雲に半分隠れた月が淡い輝きを放った。
透き通った水面に浮かぶその裸体は新雪のように白く、豊かに膨らんだ胸が呼吸にあわせ僅かに上下している。月光に晒された腰まである艶やかな黒髪が水面に緩やかに広がり、淡い輝きを放つ。
贅肉のないすらりとした顎が尖った顎へと流れる。端正だがどこか幼さの残る顔立ち。桜貝のような小さな唇から濡れた吐息が漏れた。
滑らかな脚線美を描く両脚は長く伸び、長身の少女を凛々しく見せる。細い両肩から伸びるしなやかな柔らかさに包まれた両腕が健康的な魅力を放つ。
不意に冷たさを孕んだ風に周囲の木々がざわめいた。
風に舞い落ちる木の葉が水面へと落ち、無数の波紋を作る。
浮かぶ少女の体も、そのわずかな波紋に合わせ、ゆらり、ゆらりと揺れた。
風に流された雲に月が隠れる。
澄み切った霊泉の放つ仄かな水明に透明感のある少女の裸体がおぼろげな光を放つ。
月だけが見守る中、神秘の霊泉で少女は静かに禊を行っていた。
しかし――少女は自らが行っている禊の意味を理解していなかった。いや、そもそも禊という行為そのものすらよく判っていなかった。
ただ、なんとなく、本当になんとなく、泉に入っただけ。
この霊泉を見たとき、感覚的にそうすべきだと思えた。
それだけだった。
少女は迷っていた。
与えられた使命の目的が見つけられない。
与えられた使命の意味が判らない。
与えられた使命の目指すべき場所が把握できない。
――なによりも
少女は自身が迷っているということを認識することができない。
形のはっきりとしない不明慮なものが胸の中に詰まってくる。もやもやした鬱屈とした霧のようなものが心を浸食してくる。そんな不確かな感覚でしか、自らの感情を認識できなかった。
つまるところ、少女の精神、知識は共に極めて未成熟であった。
自らの感情を把握できないほど、少女は未成熟な存在であったのだ。
しかしそれは仕方のないことでもある。
生れ落ちて間もない少女には仕方のないことであったのだ。
そう。少女はほんの数時間ほど前に生まれたのだ。
鹿島神宮奥宮の先、整然とした森の奥に半ば地面に埋もれた巨石がある。
一見すると直径三十センチほどの石のように見える。しかし埋もれた地中部は深く周囲に広がり、その大きさは東関東全域へと広がるとも言われている。
古代より存在する神秘の巨石『要石』。
地下深くに潜む地震大鯰を押さえつけ、東関東全域の地盤と命脈を支える役目を帯びた神石である。
東日本最大の霊源とも言える要石から少女は生まれたのだ。
どのようにして自分が生まれたのかは少女には判らない。
その意識が生まれた時、少女自身も生まれたのだ。
気付くと少女は森の中にいた。
周囲を見渡したが誰もいない。日の落ちた森の中で少女は一人であった。
遠くから闇夜を飛翔する夜鳥の甲高い声が響く。絹を引き裂くような鳴き声が静寂の森に鳴りわたった。
生まれ落ちたばかりの少女には、心細いという感覚をはっきりと認識することはまだ出来ない。しかしこの場に居るべきではないとも思えた。
月に導かれるように、ゆっくりと、一歩ずつ確かめるように少女は歩み始める。
闇夜の森を抜け、泳ぐようなおぼつかない足取りで、境内の奥宮を抜けて旧参道への坂道を下り始めた。
急な坂道を下りた先、ふいに開けた場所に少女はたどり着つく。
周囲を木々に囲まれた中、かすかな輝きを放つ小さな泉が見えた。
底まで見えるほど美しく澄んだ泉だった。光る泉には真円の月が浮かんでいる。
泉に浮かぶ満月の放つおぼろげな光に水明が煌く。
淡い瞳で少女は泉を見つめた。
少女は感覚的に、この泉からなにか神秘的な気配を感じたのだ。その感覚は正しいものであった。
神代の昔、大神が天曲弓で穿たれたとも、宮造の折一夜にして湧き出したとも伝えられる霊泉、御手洗。
古来からの神職並び参拝者の禊斎を行ってきた神秘なる泉のほとりに立ち、少女はしばし逡巡をした。
一時ほどそうしていただろうか、幽鬼のようにぼんやりとした眼のまま、少女は着衣していた巫女服をたどたどしい手つきで脱ぎ始めた。
ひっそりと静まりかえった周囲は犯しがたい神聖さすら漂っている。
静寂のほとりに少女の脱衣するなめかしい音が響く。
シュル……シュル
神の祷りが籠められた巫女装束が衣擦れの音を放つ。
天頂より差し込む月光が少女のしなやかな肢体を照らす。夜の筋を横切り、腰まである長い黒髪が輝く。
優雅な曲線を描いた裸体が静かに霊泉へと沈んでゆく。水面の外縁にゆるやかな波紋が広がる。
眠るかのように意識を浅く落とし、流れる水流に身を晒す。脱力した身体が水面に浮かび、月光に晒された裸体から狭霧が煌く。
そのまま幾ばくかの時が流れた。
僅かな水音のみが耳を打つ。浮かぶ少女の肢体が風を受け穏やかにたなびく。
使命を果たさなければいけないのに……
無為に時を過ごしていることは判っていた。
しかし……
使命を果たすにはどうすればいいのかが判らず、、なぜ使命を果たさなければいけないのかも判らない。
そして、自分が迷っているということに気づくことができない。
漠然とした不安に少女は進むべきことを迷っていたのだ。
生れ落ちて間もない少女に、それを自力で解決することは困難なことであった。
未熟な少女には導き手が必要であった。
それは母であり、父であり、教師ともいえる存在。
だがその存在は今の少女にはいない。
少女を産み落とした存在が、彼女に与えたものは果たすべき使命と最低限の知識。
そして……
――突然、不意に、夜の風に紛れた夜気が押し寄せる。
森の闇を一陣の風が切り裂く。その風に乗った僅かな闇の瘴気が流れ、うねりとなる。
瘴気にまぎれた、ねっとりとした闇の気配が少女の柔肌を掻い撫でる。
凡人ならば気づくことのない僅かな闇の波紋。
だが少女はその正体に気付く。
邪なアヤカシの気配だ。
「………………………………っ!」
刹那、闇の存在を感じとった少女の瞳に光がともる。
本来ならば幾重にも破魔の結界に守られた境内には、いかなるアヤカシの邪念も侵入することはない。
ましてここは東日本最強の霊場である鹿島神宮境内である。
しかし現在の鹿島神宮の結界には大きな穴がある。
五年前に起きた東日本大震災。
この凶災により、かつて建立していた日本最大の大鳥居、並びに六十基以上の献灯が倒壊することとなったのだ。
現在では樹齢六百年の神木が卸木曳きを持って新たな鳥居として建立され、倒壊した献灯の復旧も概ね完了している。
だがしかし、神材木としての特性を多く残すこの鳥居が結界としての能力を発現するにはまだ時間がかかる。また、急ごしらえで製造された献灯も神域への映照力を発現しきれていない。
なによりも――、神宮の祭神たるタケミカヅチノオオカミ。
東関東の地震押さえの役目を負ったタケミカヅチと香取神宮の祭神、経津主神大神は先の震災を抑えるために神力の大半を消耗し、本来の力を発揮できない状況なのだ。
すなわち現在の鹿島神宮の大結界は、大幅に弱体化しているうえ、祭神であるタケミカヅチも真の実力を発揮できない状態だ。
そのため強力なアヤカシから放たれる瘴気を防ぎきることが出来ないのである。
東国最大の霊場である鹿島神宮の霊的防衛力の低下は、日本全体の危機にも繋がる状況であった。
そして——————、少女はその危機から日本を救うために生まれた。
アヤカシの瘴気を感じとった少女の体に生気が宿る。
静かだがとても強い、蒼い覇気が少女の全身を覆う。
それまでの緩慢な動きからは比べられないほど素早い動きで少女が御手洗池から上がる。少女の裸体から滴る霊水が月明かりに煌き、光の粒子となって飛散していった。
濡れた少女の身体が宙を舞う。それは影となり、森を飛翔してゆく。
俊敏な身のこなしで木々の枝葉を足場に、少女は虚空の宙を駆ける。静寂の森に木々のしなる音が響きわたった。
少女の澄んだ黒い双眸が遙かなる先の闇を見通す。
ふいに夜の闇を飛翔する少女の右手に蒼い光の結晶が集い始める。
光の結晶が集い、それは形づいた物となる。それは長尺の剣となって細い少女の手に浮かぶ。
全長八尺九寸(271センチ)、刃長七尺四寸(224センチ)。
それは剣と呼ぶにはあまりにも長大な逸物。
可憐な少女が持つにはあまりにも不釣合いな長剣。
持ち上げることさえ困難なその剣を手に、少女は一陣の風となって闇夜を跳ぶ。
アヤカシの放つ瘴気が近づく。それは次第に色濃くなり、腐り落ちて崩れゆく果実の放つ倒錯とした甘い腐敗臭のように、ねっとりと少女に絡みつく。
少女が長尺の剣を無骨な鞘から抜き放った。
濡れた氷のようなその刃から陽炎のような蒼い神気が立ち上る。
その神気はあらゆる毒気を退け、研ぎ澄まされた地金の刃文は荒ぶる神をも切り裂き、闇を討つ。迸る剣気は瘴気を払い、進むべき闇を照らす。
少女を産み落とした存在が少女に与えたものは三つ。
果たすべき使命と最低限の知識。
そして――
神のみが用いることが出来る神剣、韴霊剣。
軍神タケミカヅチが所持する最強の破魔剣。
森の木々を跳ね、最強の神剣を手にした少女は夜の闇を飛翔する。