10
……いつの間にか窓から見えていた夜空が白み始めている。
もう夜空ではない。朝空と言うべき時間のようだ。
嵐の後のように荒れ果てた部屋の中央。
堅い床板の上、ボロ雑巾のようになって水明は倒れていた。
あれから散々暴れまわる亜狗亜にぼこぼこにされた水明。全身ズタボロボロになりながらも、なんとか生きてはいる。
幸か不幸か、水明は生命力が強かった。
一方、散々暴れ続けた亜狗亜のほうは体力を使い果たしたらしい。
部屋の隅で壁にもたれかかっている。ただ、その双眸は依然として輝いている。
とはいえ散々水明をタコ殴りにして幾分かは気を晴らしたようだ。ある程度は理性を取り戻したように見える。
取り合えず話し合おうと、痛む体を堪えて水明が立ち上がる。その姿に、部屋の隅の亜狗亜びくりと身構えた。
「……なあ、そろそろ「しゃああああぁぁぁぁぁ!」」
……聞く耳持たずに子猫のように毛を逆立てて威嚇された。
しかしながら先ほどように飛びかかってくることはなかった。
再度、なるべく優しい声で話を続けた。
「落ち着いて話を聞いてほしいんだけど」
「黙りなさい! なんで私の命令に従わなかったのよ!」
……ようやく日本語を喋った。野獣から一歩前進、と水明は思った。
「だから話を聞いてくれ。たしか……、アクアだったよな」
「……っ! ご主人様にため口って、なんなのよ!」
「ご主人様って、お前、……………っ!」
そこでようやく水明は気付いた。無理やり結ばれた誓約が解呪されていることに。
「……解呪されてる。……なんでだ?」
「はあっ? 解呪? なんなの?」
水明の言葉に亜狗亜が困惑の色を浮かべた。
「お前にかけられた誓約が解けてるってことだよ」
「嘘っ! そんな簡単に解けるわけないわ。一生に一度しか出来ない術なんだから!」
水明の言葉に憤慨する亜狗亜。
だが誓約が解呪されているのは間違いのない話だ。一時的とはいえ、奪われた水明の自我が取り戻されているのがその証拠だ。
「なんなのよあんた! ご主人様に向かってなんなのよ! あんた奴婢の分際でなんなのよ! いったいなんなのよ!」
また興奮しだした亜狗亜が顔を真っ赤にしてぎゃあぎゃあと喚き始める。なんなのよ、という単語を繰り返す辺りから語彙の貧弱さが窺い知れた。
……アホすぎて忘れそうだけど、コイツ何者なんだ。人の血を吸って呪いをかけるなんて完全に吸血鬼じゃないか。やっぱこいつ、人間じゃない。
見た目は小柄な子供。だけど人間ではない。
人ではない存在と話し合いなんてできるんだろうか。
そんな水明の心情など気付きもせずに亜狗亜が声を荒げヒステリックに喚き散らす。
「なんなのよ! 急に黙って、なんなのよ!」
「いや、なんでもないよ」
「なんでもないって、なんなのよ。命令よ、答えなさい、いったいなんなのよ!」
「だからなんでもないって言ってるだろ!」
「なんでもないなら答えなさい! なんなのよ!」
「…………………………なんなのって……」
「なんで答えないのよ! なんなのよ! なんなのよ!」
人でない存在と話し合いが出来るだろうか、と思っていた水明だったが、そういったレベルうんぬん以前に話し合いが成立しない。
きりが無いのでとにかく強引に話を進めるしかない、と水明は考えた。
「と、とにかく俺はお前の命令には従わないからな! それだけは覚えておけよ」
「なんなのよ! いったいなんなのよ! なんで誓約が解けてるのよ!」
顔を紅潮させた亜狗亜が手足をじたばた振って不機嫌さをアピールする。
「一体どうやって誓約を解いたのよ! あれは簡単に解けるもんじゃないわ!」
「それは確か………………さっきの……」
心当たりはあった。
しかしながら、それを伝えるのはなんとなく気恥ずかしい。
「さっきのってなによ? なんなのいったい」
「だからさっきの、そのベットで……」
「はぁ? ベット? あんたなに言ってるの?」
「……というか、お前はさっきのアレ覚えてないの?」
「はあ? さっきのアレ? なんなのよ」
上気した顔のまま首を傾げる亜狗亜。
嘘をついているようには見えない。本当に判っていないようだ。
ドタバタ騒動で記憶が混乱しているのか、あるいは堪えられない過酷な体験として心の奥底へと封印されたのだろうか。
……さんざん暴れておいてなんで忘れてるんだ。
……そもそも忘れてるならなんで暴れてたんだ。
……それじゃ理由も判らずに暴れてたのか。
浮かんでくる疑問はともかく、
無理やりキスをした時に放たれた紅い光。
あの光によって誓約は解呪されたと考えるべきだろう。
とはいえ、それをハッキリと亜狗亜に伝えるのは微妙に恥ずかしかった。
純粋に自分の意志で行ったというわけではない。
しかしながら、先ほどのキスは水明にとって初めてのキスだったからだ。
「その……さっきキスしただろ、その時に解けたと思う」
視線を外しながら、少し頬を赤らめながら水明は呟いた。
「………………はっ? ……キス? ……誰と誰が?」
水明の言葉に亜狗亜がキョトンとした表情を浮かべる。
「この状況で俺とお前以外いるかよ!」
顔を紅潮させた水明がやけくそ気味に声を上げる。
「……え、私があんたと?」
水明の言葉に固まる亜狗亜。そして上気した顔が更に赤くなってゆく。
いや、顔どころか耳まで真っ赤に染まってゆく。
細い両肩をぶるぶる震わせ、亜狗亜の背中からどす黒いオーラが染み出してくる。
「……お、思いだしてきたわ。そうよ、あんた私が嫌がったのに無理やり……」
「ま、待てよ。落ち着け、落ち着いて話を聞けよ」
只ならぬ気配を感じた水明が後ずさる。
「そうよ……、あんた私の初めてのキスを無理やり……、嫌がる私に無理やり…………、そっか、そういうことね……、主への接吻で誓約を強制解除したのね……、なるほどね……、初めてのキスは特別だもの……、そうファーストキスを…………、無理やり…………ふふ、ふふふ、ふふふふふ……」
「とにかくだから落ち着けって。初めてだったのはお互いだし、そのあれだ」
黒いオーラを滲ませたまま、俯いた亜狗亜がぶつぶつと呟き続ける。
「けどおかしいわ……、そうおかしいわ…………、なんであんた私に襲いかかってきたの……、私がやめろっていったのになんで襲いかかってきたの……、間違いなく奴婢だった……、奴婢になったはずなのに……、私の命令を聞くはずなのに……、なんで命令を聞かなかったの……、おかしいわ……、なんで……、なんで……」
負のオーラを全身に纏った亜狗亜がぶつぶつと呟き続ける。
明らかに異様な状態となった亜狗亜を前に青ざめた水明が更に後ずさる。
「なんでよ……、あんた……、奴婢だったのに……、あたしの命令を無視して襲ってきた……、無理やりキスした……、そう……、無理やり……、命令を無視して……、キスを……、キスを……、ふふ……、ふふふ……、ふふふふふ」
「いや、それはそのあれだ。熱湯風呂でその、あれで」
異様な気配に気圧され、テンパり始めた水明が適当なことを言い出す。当然ながら熱湯風呂は関係ない。
「……ふふっ、そっか、そっか、そういうことね。そういうことね。ふふふっ、そういうことね。ふふふっ」
「ちょっ、落ち着けって、そういうことって、な、なにっ?」
更に更に更に後ずさろうとする水明。
だがしかし、気付くといつの間にか部屋の隅に追い込まれていた。
逃げ場はもうない。
「……あんた……、あんた……、あんた、あんた、あんた、あんた、あんた、あんた!」
「ひいいいぃぃぃ、とにかくごめんなさい~」
追い込まれた水明が、哀れに思えるほど情けない声を上げる。
しかしなにに対して謝っているのかは本人にすら判らない。
だが瞬間、
突然に背負った黒いオーラを吹き飛ばした亜狗亜が、再びズバッと指さしポーズを決める。この女がなにを指さしているかは、やはり誰にも判らない。
「あんた、あたしのことが好きなのね! あたしのことが好きでしょうがないのね! そうよ! そうなのね! そうに決まってる! そうに決まったわ!」
怒りに身を任せた亜狗亜が再び殴りかかってくる、と水明は思っていた。
しかし亜狗亜の宣言は予想の遥か斜め下を行くものだった。
「…………………………はひっ?」
状況が理解できない水明が茫然としたまま気返事を返す。
「やっぱりそうか! あんた私のことが好きでしょうがないのね! それで命令を無視したのね!」
だがしかし、亜狗亜は水明の気返事を肯定の答えと捉えたようだ。
あれ? なんかこんなことさっきになかったっけ、と呆けた頭で水明は思った。
「あんた私のことが好きだから、命令を無視したのね! そういうことね! そうよ! そうなのね! そうに決まってる! そうに決まったわ!」
「いや、そういうわけでは……」
「信じられない誓約を自力で破るなんて、あんたどんだけあたしのことが好きなのよ!」
「だから、そういうわけでは……」
「だからって最低! いくら好きだからって無理やりキスするなんて最悪よ!」
「いや、あれはお前の命令で……」
「私のことが好きなのは嬉しいわ。けど無理やりキスするなんて最悪よ!」
「いや、だからあれは……」
「たしかにあんたはそこそこよ。だから奴婢に選んだわ。けど私はそこらの安い女と違うのよ。簡単に許すとでも思ったの!」
「そういうことじゃなくて……」
「まず告白するのが筋でしょ! なのに無理やりなんて最低よ!」
「…………………………」
……ダメだこいつ。どうにかしないと。
というか、どういう思考でそういう発想にたどりつくのだ。
こいつ強烈すぎるアホの子だ、と水明は判断した。
同時に、
人間ではないが、それほど邪悪なタイプには思えないとも思えた。
なんというか、ジュラル臭がする。
異常なほど回りくどい手段に拘って勝手に自滅するタイプの小悪党だ。
実際このアホの出したアホな命令で呪いは解けた。
そしてこのアホはそれに気づきもしない。
強烈な頭痛が水明を襲う。
この哀れみを感じるほどの、アホの子をどう取り扱えというのだ。
「な、なんなのよ、急に黙っちゃって……、ま、まさかまた!」
黙りこんだ水明の姿に、さっと身構えた亜狗亜が防御姿勢を取る。
「欲情して襲いかかってくる気なんじゃないでしょうね! このケダモノ!」
「誰が襲うか!」
相手をするのがめんどくさくなってきた水明の語気も自然と荒くなる。
と、その時、ガチャリと音を立てて部屋の扉が開いた。
開いた扉から寝ぼけ眼の全裸の少女が部屋に入ってくる。
昨晩連れてきた少女だ。
「ふにゃあああぁぁぁ~~~、う~る~さぁ~いぃ~~~」
目元をこすりながらグニャグニャとした足取りで全裸の少女が部屋へと入ってくる。
歩むたびにその豊かな双胸が上下に揺れる。
そして全身の滑らかな光沢を放つ色白の肌が朝日に輝く。
「……あっ、昨日の裸族! なんでここにいるのよ? ってなんなのよ! その無駄な肉の塊は!」
「……あ、いたんだっけ」
突然の全裸の少女の登場、二人がそれぞれの反応を示す。
……完全に忘れてた。この子もいたんだ。なんか俺も記憶が変だぞ。
にしても大騒ぎしてる時は起きなかったのに、なんでこのタイミングで起きるんだよ。
なんだか更にめんどくさいことになる気がしてきた。
津波のごとく強烈な嫌な予感が水明に押し寄せてくる。
「なんで昨日の裸族がいるのよ! それも全裸で! あんたなんなのよ! なんで素っ裸なのよ!」
「いや、裸族なら全裸が標準……」
「うにゃあぁ~~? らぁぞく~~?」
興奮した面持ちの亜狗亜が全裸の少女を指さしながら、水明を睨みつける。
亜狗亜の発言にツッコミを入れつつ、どうすべきか思案する水明。しかしどう考えてもいい考えなんて浮かばない。そもそも何をどうすればいいのかが判らない。
全裸の少女の方はといえば、なんのことやら判らない、といった表情のままふにゃふにゃぐにゃぐにゃしている。
そもそもこの二人何者なのだろうか。
「ふにゃあぁ~~、あっ、パパぁ~~」
水明に気付いた少女が、にぱぁ~とした笑顔を浮かべて嬉しそうな声を上げた。
昨晩と同じように、なぜか水明のことをパパと呼んでいる。
「おはようパパぁ~~~」
無邪気な笑顔を浮かべた少女が止める間もなく正面から水明の胸に飛び込んでくる。
しなやかな両手が水明の背中へと回され抱きつかれた。
昨晩のようなめちゃくちゃな力での抱きつきではない。
柔らかな双胸が水明の胸板へと押しつけられ、ほどよい肉つきの瑞々しく、しなやかな太ももが両足に絡みついてくる。
「わわわわ、ちょっ、君、離れてよ」
「パパぁ~、パパぁ~~」
裸の少女に抱きつかれ、赤面した顔の水明が離れるように促す。
しかし少女は水明の言葉を聞こうともせず、ぎゅっと抱きついてくる。
「パパぁ~、パパぁ~、パパぁ~、すいかパパにあえてうれしぃい~」
「う、うん判った。判ったから取り合えず離れて……って、水歌? それが君の名前?」
「すいかだよぉ~、パパぁ~~」
「ちょっ、判ったから離れて」
「パパぁ~、パパぁ~、パパぁ~?」
水歌と名乗る少女は、水明の言葉など気にも留めず、無垢な笑みのまま魅惑的な裸体を恥ずかしげもなく擦りよせてくる。
柔らかな肉の感触と甘い香りが強烈に水明の理性を揺さぶる。
「わわわっ、ちょっと離れてねえ!」
「ふにゃぁ~~? ふにゃあん?」
慌てた水明が水歌を押し離そうとした。
しかし手をついた先が少女の柔らかな乳房だったため、もろに豊かな両胸を鷲掴みにする形となってしまう。
「うわぁ、ごめん! わざとじゃないんだ!」
「うにゃああぁぁ~、パパぁ~~、んぅ~んぅ~んぅ~んううぅぅ~♪」
もっとも水歌は全く気にするそぶりも無く、甘えた声を上げてピッタリと水明に吸いついてくる。
じゃれつく子猫のように喉をゴロゴロと鳴らし、妙な鼻歌を歌いながら全身をべたべたと水明へと擦りよせ、際限なく甘えてくる。
「パパぁ、パパぁ、パパぁ~~~♪」
「ちょ、ちょっと君離れて、落ち着いて話を聞いてよ」
「パパぁ~~、すいかパパのことがぁすきすきすきすきすき~~~?」
言いながら少女が甘く成熟した身体を擦り寄せてくる。
「え、え、えっ、す、好き? 僕のことが?」
唐突な少女の好きという言葉に、ドキがムネムネしてしまう水明。
「すきすきすきすきぃ~~、パパだ~いすきぃ~?」
「だ、大好きって……」
ぽわーんとした幸せなピンクの雲が水明の脳内に浮かびあがる。
八衢水明十六歳。彼女いない歴十六年。
とどのつまり女子とまともなお付き合いなどしたことがない。
その哀れな男が、生まれて始めて女の子に好きと言われたのだ。
脳内に溢れてくるピンク色の雲。修羅場かしている状況を忘れ去り、水明はトリップした。
脳内でフューチャーした。
色々フィーバーした。
それは思春期の少年らしい、端から見ていれば哀れみを感じるほど、都合のいい妄想であった。