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停止した時間

 彼女が善華と子ども達の事を封じてしまったのは、もしかしたら、善華に言えなかったという後ろめたい気持ちがあったからかもしれない。――そう思っている内に、善華の家へと辿り着いていた。

 そこは、マンションだった。見栄えも良く、セキュリティもしっかりとしていそうだが、俺には違和感が湧いていた。

「意外だな。善華は一軒家に住むと思っていた」

 善華は『いやぁ……』と言葉を濁す。

「なんだ、『これから』というつもりでもないんだろ?」

 年齢を考えれば遅いと突いてみると、善華は言いにくそうに口を開く。

「確かに、家を……という話を僕ははなに何度もしたんだ。けど、結局は賃貸のまま。はなが……買うと後々厄介な事になるのは、嫌だからって」

 不思議な言い方だと感じ、意味を問うと善華は衝撃的な事を言ってきた。――娘が二十歳になったら離婚したいと彼女に言われていると善華は言った。

 俺が言葉を失ったのは、一瞬のこと。自身の意思が強い彼女なら、言い兼ねないと妙に納得した所為だ。

 鮮明に彼女を思い出し、つい、俺の頬は緩む。抑える事が出来ないまま、笑ってしまっていた。

「いいじゃないか。お前の事もすっかり忘れているんだろう? それなら、例え二十年以上連れ添った相手とは言え、別れてやればいい」

「そんな見捨てるような真似……」

「優しい善華には、出来ない。ああ、そうだな」

 真面目に答える善華に対し、俺は笑いが堪えきれずにいる。

 善華には、俺がからかっているように聞こえているのだろうが、そうでは無い。――今でさえ、善華と彼女が別れるなら、願ってもない事だと想像している。それだけで、楽しく笑える。


 自分が嫌になる。だが、俺自身は自分がそういう人間だと良く知っている。

 昔の記憶など、どうでもいい。新たに思い出を作っていけばいいだけだ。そして、俺を見てくれるのなら、それ以上の事は無い。


 ずっと忘れていた。――いや、忘れたふりをしていただけだ。

 俺は、彼女の事に対して、些細な事でこんなにも浮き沈みをし、単純で、卑しい。


「まったく」

 と、言いながら善華は怒った振りをする。俺が本心で言っているとは、思ってもみないのだろう。

「久し振りに笑った気がするよ」

 と言う善華には、日頃の疲労が窺える。

 善華と彼女は睦まじかった。それだけに、十年以上の歳月をかけて過ごしても『思い出さない』という事実が苦しいのだろう。彼女に何と言われ、思われようが善華自身は離婚に応じたくはなく、そうは思ってみても、一方的に彼女の想いを拒否する事も出来ない――そんな感じだろうか。

 他人を傷付けるくらいなら、自らが傷付く道を選ぶだろう善華。彼女を諦めるまで至らず、最後まで足掻き続けたいのか。そんな折、巡ってきた俺との再会。善華にとっては最後の賭け、願っても無い奇跡だという思いに近いのかもしれない。

 広いエントランスを通り抜け、エレベーターのボタンを善華が押す。間もなく扉が開き、善華は一歩踏み出し、俺が乗るのを待った。

 俺が徐に乗ると、扉が善華の押したボタンによって閉まる。上層階のボタンに善華の指が伸びると、エレベーターは上昇し出す。階数を表示する光が規則的に変化していった頃、

「はなに会ったら、彩は驚くかもしれない」

 と、善華はポツリ呟いた。

 淡々と表示していく数字から、俺の視界が動く。無言のままの俺と視線が合うと、善華は自慢げに笑う。

「記憶を失ってから、はな自身の時間も止まったみたいに……綺麗なままだよ」

 幸せ自慢のつもりで言ったのか、善華の言葉は、俺の心に荒波を上げた。

「毎日見ているから、蓄積していくものに気付かないだけだろ」

「そうかもしれないね」

 嬉しそうな善華の声に、やはり自慢かと心が荒む。

 毎日会え、共に日々を過ごしていける尊さを、善華は彼女の記憶が欠けてから実感したに違いない。――俺が、善華から逃げ、彼女から離れた時のように。


 押し上げられるように感じていた重力が、次第に身体を押さえつける。目的の階に到着した事を告げるように、扉が開く。善華は俺に先に出るようにと、柔らかい視線を送っていた。


 エレベーターを背に歩く事、凡そ一分。良く澄んだ空が包む光景を臨みながら、ゆっくりと歩くのは悪くは無かった。善華の家は、角部屋だった。小さな門が、善華の一軒家の望みを示しているようにも感じられた。

「どうぞ」

 緩む善華の表情は、幸せを告げている。一時の陰は、今は無い。

 重い足を動かすと、小さな音が聞こえ『ただいま』と、善華の声が聞こえる。

「お帰りなさい」

 聞こえた声に意識を取られた。その声は幼く、彼女のものではない。

 足早になり扉の前に立つと、善華の背と、その奥に見知らぬ少女が居た。冷たい視線を善華に向けていたが、俺の存在に視線が動く。そして、俺と目が合うと、

「こんにちは」

 と、笑顔を浮かべた。

「上がって」

 振り向いた善華が続けて言う。

「あ……ああ、失礼する」

 扉を閉め、靴を脱ぐと善華は少女を『娘だ』と紹介してくれた。少女も『初めまして』と頭を下げる。

「初めまして」

『善華の友だ』と言おうとした言葉は出なかった。

 善華と少女は真っ直ぐと廊下を歩いて行く。その二人の背中は、確かに親子だ。少女は彼女にも似ていたが、善華にも良く似ていた。


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