近く 遠く
改札を背にして歩く俺たちの横を、忙しそうに人々は通り過ぎて行く。善華の声も、何処か俺には遠く、耳に留まる事は無い。適度に相槌を打ちながら、俺の思考は他の事を考えている。
彼女は記憶の一部を失ったと善華は言っていた。何かで聞いた話だが、記憶喪失で欠落する記憶は、辛い記憶を封じている事もあるのだと言う。善華も聞いた事があったなら――善華自身が、『彼女にとって自分との記憶が辛かったのかもしれない』と感じてしまっているのなら――彼女に十年以上の間、罪の意識を抱えてきたのではないだろうか。
善華の笑顔を幸せそうだと見る俺に、善華の声はそんな陰を想像させる。
俺の事は。――彼女にとって辛い記憶だったのだろうか。
彼女に想いを告げられたあの日、俺は彼女が俺を選んでくれたなら、そのまま自分の選んだ道に進もうと思っていた。親友を裏切るような事になっても、彼女が側に居てくれるなら、善華に抱く負の思いも消していけると思った。――また、善華と出会う前に戻れる気がしていた。
あの日――俺が立ち上がり一歩、彼女へと踏み出すと、彼女の表情が変わった。知らない人物でも見るかのように俺を見つめた。それでも、俺の足は止まらず、鼓動は強く打ち続けた。
俺が彼女に近づく中、彼女は次第に身を固くしていった。そして、恐怖を愛らしい顔に浮かべると、俺の前を素早く横切って行った。鍵の掛かったノブを、震える手で素早く掴もうとしているのが見て取れた。
言い訳はしない。ただ、彼女を求めた。
彼女を後ろから抱き寄せていた。彼女が伸ばしていた手は、ノブからするりと離れ、血の気の引いたのか力無く落ちた。
熱を発する俺の身体とは反対に、彼女の身体は冷たかった。
「俺の親も……彩華の両親だって、俺たちが一緒になる方がいいと、未だに言っている。彩華も言われているんだろ? 親に認められない恋愛を、いつまで続けるつもりだ」
この期に及んで、俺は素直に言えなかった。互いの親を盾に取ってまで、彼女が欲しかった。
彼女は黙っていた。
何も言わなくても彼女の想いは俺に伝わり、深く突き刺した。震えて冷えた身体で、何よりも俺を拒絶していると示していた。
力づくでなら、どうにでも出来ただろう。衝動に駆られなかった訳でも無い。ただ、そうしてしまえば、彼女の泣き叫ぶ姿を見る事になるだろうと想像するのが簡単だっただけだ。
強く抱き締め、痛かったかもしれない。けれど、彼女は痛いとさえ言わず、俺に身を委ねていた。俺は、次第に腕を緩めるしかなかった。
震えていたのは、いつの間にか俺の方だったと感じた頃、
「近すぎたのよ、私たち」
と、彼女は言った。
つまり、彼女にとって俺は既に身内であり、異性ではない――そういう意味だ。
身体に力を取り戻した彼女は、しっかりとした手で鍵を外し、ノブを回して部屋から出て行った。
開いたままの扉から、彼女の階段を降りる音がした。
遠くで、彼女と両親の声が聞こえた。
彼女の声は、先程のやり取りがあったとは思えない、明るい声だった。
一歩、その場に俺も身を投じれば、何も無かったかのようになりそうな空気に、堪らなくなった。彼女の言葉、表情、体温が残り、俺は縛られたままなのに。
彼女にとって、俺はどんな存在なのだろうとそればかりが駆け巡った。頬に冷たさを感じても答えを出せず、自分の存在を消したくなった。
街中の賑やかな声は、あの時に扉から聞こえてきた声に似ている。右から聞こえて来る善華の声さえも。
あの日以降も、俺に対して善華の態度も変わらなかった。善華は彼女から聞いていないのだろう。聞いていたなら、少しは俺に憎悪を向けたかもしれない。彼女は――彼女の記憶の中には、あの日の事は消されているものだとずっと思っていた。記憶喪失と聞かなければ、彼女があの日の事を思い出したらと、思う事も無かっただろう。俺が彼女に会う事を躊躇ったのは、あの日の続きを、またあの恐怖の浮かんだ表情を見たくないと何処かで思ったからに違いない。
お互いに二十年以上の歳月が経過している。その中で老いた姿を見たくないというよりは、老いた彼女を見れればいいと願っている節がある。
老いた彼女を見て、感情が吹っ切れたらいい。そして、ようやく彼女を吹っ切れた自分にも、失望すればいい。