【第四話】 呼び捨て
やっとのことで、土曜日!
仕事って休みという目標のために乗り切っている感じがするなぁ。私だけかな?
朝も寝坊せずに起床完了。というのも、昨日から散々祐樹くんから確認のメールやら電話が来るんだもの。私、そんなに信用ないかなぁ。
ま、いっか。まだ暑いけど丁寧に化粧をしてっと――。
「……あら」
鏡のところに小さな黒いクモがいる。……もしかして。
「……アダン?」
問いかけても返事があるわけでもなく、ただじっとして動かない。だけど、こっちを見ているような気がする。
早く帰ってこい、そんなことを訴えたいのかしら。
「そんなに何回も言わなくてもわかってるって……」
アダンを見つつ、化粧を始めた。久しぶりに男の人と出掛ける。少しくらい、おしゃれにしていかないと。
◇ ◇
待ち合わせの十分前には着いて、祐樹くんを待つ。なんだろう、ただ食事行くだけなのに妙な気持ち。仕事行くときも薄化粧しかしない私が、気合いの入ったばっちりメイクに、髪の毛も雑誌を参考に整えていた。
……やっぱり、何気なく行くって言ってしまったけど、男の人と二人で食事なんて……まるで――。
「はな先輩! おまたせしました」
あ、祐樹くんだ。普段、スーツしか見てないからカジュアルな格好はなんか新鮮。
「……祐樹くんって私服姿もかっこいいわね」
というか、何を着ても似合う。
祐樹くんは何やら恥ずかしそうに、顔を少し赤らめて私の視線から逸らす。
「はな先輩だって……すごく綺麗ですよ」
「え。……あ、ありがと」
そんなド直球に言わなくても……恥ずかしい。
私も祐樹くんが見られなくて、顔を俯かせてしまった。
「あの、お願いがあるんですけど」
「な、何?」
「今日は、会社で会っているわけではないので……その、呼び捨て、してもいいかな?」
え、呼び捨て?
顔を上げてみると、祐樹くんがじっと真っ直ぐ私を見つめている。なんかいつもの祐樹くんじゃないみたい。
「い、いいよ。……な、なんか恥ずかしいね! 学生に戻ったみたい」
はは、と笑って誤魔化す。誤魔化さないと、胸が妙にドキドキして耳まで赤いのがバレてしまいそう!
「ははっ。じゃあ、はな。お店に行こう。すぐ近くだから」
「う、うん」
慌てているのが私だけのようで、祐樹くんはなんだか楽しそうに笑っている。……なんか悔しい。でもまぁ、祐樹くんが楽しそうならいっか。
それにしても、はなって呼び捨てされるのなんだか恥ずかしいなぁ。あれ、そういえばアダンは初めから呼び捨てだったよね。――この違いは何だろう。
歩きながらそんなことを考えていると、すぐ前を歩く祐樹くんの足が止まった。
「ここだよ。もう予約してるから、気にせず行こう」
と言って、ずらりと並んでいる列を横目に店へと入って行く私たち。なんか並んでいる人たちの視線が痛い。
この店は見たことがある。確か、雑誌でもよく取り上げられている創作和食の有名店。おいしい料理な上に、料金もお値打ちとかなんとか書いてあった気がする。
「ひとまず、乾杯といきますか」
「そうね。乾杯っ」
ビールジョッキを片手に喉へと流し込む。……うまい!
「はなっておいしそうに飲むね」
にやりと笑う祐樹くん。さっきからいつもと違う祐樹くんで調子が狂いそう。
「……美味しいんだもん。というか、今日の祐樹くん、いつもと違って……なんか調子が狂う」
「そりゃ今はプライベートだから。はなとやっと二人で出掛けられて、少し浮足立っているのかもね」
そんなことをさらりと言ってのけ、再びビールを口に運んでいる。
というか、浮足立つって……。そんなに今日の食事が楽しみだったのかしら。……まぁいっか。
「……ここのお店、すっごく美味しいね。普段、祐樹くんはこういうお店に来たりするの?」
「たまにかな。でも、一人は寂しくて、今日こういうお店に来たのは久しぶり。はなは、休みの日とかは何してるの?」
「休みの日は……」
休み、ただひたすら掃除をして寝るだけ! 最近なんかは暑いから、買い物もよっぽどのことがないと出ていないわ! だって、服とか靴とかぜーんぶスマホから買えるじゃない。暑いのに外に出る必要ある? ……あれ、私ってこんなぐーだらな生活をしていたっけ。
どうしよう、何て答えれば……。
「……はなって」
なかなか答えない私にイライラしたのか、祐樹くんがじっと見つめる。
「もしかして本当は、付き合っている人、いるんじゃないの?」
「はい?」
いきなり何を言い出すの。
「何言ってるの、祐樹くん。私、今誰とも付き合ってないよ」
「本当に? 怪しいなぁ。はなみたいな綺麗な人今まで放っておいたなんて、周りの男のやつら見る目がないんじゃないかな」
い、いきなり何を言い出すのよ。私は綺麗じゃないし、周りの男の人たちの目も正常よ。
というか、仕事ばかりで恋愛なんて二の次だし、というか恋愛とか想像できないし。
「私、ずっと仕事のことしか考えていなかったから、恋愛なんて想像もつかないよ」
笑って誤魔化そうとする私に対し、祐樹くんは真っ直ぐ見つめてくる。
「じゃあ今は?」
「え?」
「今は、仕事のこと考えなくてもいいんじゃない? はなは、もっと恋愛のこと考えてほしい」
仕事でも見たことないような精悍な顔立ちに、言葉を失ってただ祐樹くんを見た。何と答えたらいいのかわからない。
そんな私を察したのか、祐樹くんは大きくため息を漏らし、ビールを口に含んだ。
「……ま、急がなくてもいいか。先輩、長期戦ですよ! 覚悟しろー」
「え、ちょっと!」
なぜか急に表情が和らぎ、祐樹くんはいきなり私のビールジョッキに注ぎ出す。
そして先ほどの真剣な顔が嘘のように、白い歯を覗かせ少年のような笑顔へとなっていた。
◆ ◆
「遅いなぁ」
朝早い時間から出て行って、まだ、はなは帰ってこない。夜空には綺麗な満月が輝いている。
窓から外の様子を見ても、人が来る気配を感じない。何度ため息を漏らしただろう。僕のこと、忘れているんだろうか。
「……はな、このアパートでいいのか? はな!」
何やら下から声がする。玄関から外へ出て身を乗り出し見てみると、一台車が止まっている。たぶん、タクシーというやつだ。
そこから見たことのない人間が出てきて、タクシーの中から出そうとしている。
「はな?」
聞き間違いがなければ、はな、と言った。僕は考えるよりも先に足が動いて、アパートの階段を下りていた。
「はな! 大丈夫? 部屋はどこ?」
階段を下りると、人間がはなの肩を持ってタクシーから降ろしているところだった。
はなは何やら顔を赤らめて、ぐったりとしている。……少し離れているのに、すっごくビール臭い。
「あ! ここの人? 悪いけど手伝ってくれないか!」
様子を見ていた僕に気づいた人間が、僕を手招きする。
「この人、山本はなって言う人なんだけど、どこの号室か知らないか? もう酔いつぶれて答えてくれないんだよ。はな、大丈夫か?」
顔を覗きこみ、男は心配そうにはなを見ていた。
「……僕、知ってるよ」
「おぉ、本当! 案内してもらえない?」
僕も逆の肩を持って、一緒に部屋まで連れて行った。
階段をなんとか昇り、はなをようやく部屋まで連れてきた。それでもはなは目を覚ますような気配がなく、気持ちよさそうに寝息をたてている。
「はな! 家、着いたよ!」
人間が軽くはなの肩を叩く。すると、薄らはなが目を開ける。
「家、着いたよ!」
「……えぇ? いえぇ? あ、祐樹くぅんわざわざありがとー」
そういうと千鳥足で玄関のドアノブを掴む。
「もう大丈夫だよお。祐樹くぅんも、気をつけてお帰りぃ」
「もう。本当に危なっかしいなー。じゃあおやすみなさい」
人間は優しい手つきで、はなの頭をぽんぽんと叩くと片手を上げ玄関から去って行く。
「君もありがとう。おやすみのところを申し訳なかった」
人間はそう言って、アパートを後にした。




