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【第一話】 僕、人間になれたよ

 毎年やってくる夏。毎日毎日、これでもかというぐらいに日差しが降り注ぐ。

 私の家――というか、このボロアパートは、その日差しに溶けてしまうのではないか、というぐらい暑い。

 少ない給料で少しでもお金を貯めるべく、クーラーなどという贅沢品は私の家にはない。ひたすら団扇を仰ぎ、熱風を身体にあてるだけ。


「あ……暑い……溶ける……」


 こうも暑いと、せっかくの休みだというのに動く気も失せる。朝から身体の至るところから汗が噴き出てくる。長い髪の毛をまとめても暑い。あまりの暑さに食欲もなくなり、そのせいか身体もだるい。まさに、夏バテ。


「でも、掃除ぐらいしなきゃ。……Gの、巣窟になっちゃう!」


 G。そう、どこかに身を潜めているアイツ。ゴキブリ、という単語を言うのは嫌なので、私はGと呼ぶ。

 掃除には気を遣っている。けれど、毎日仕事で帰りも遅いので、いつも綺麗な状態で保つことは難しい。

 今日のように、予定のない休み日は必ず掃除をする。いや、しなくちゃいけない!


「G。絶対に見たくない」


 Gが大っ嫌い! Gを見るのも、それを処理するのも嫌。

 以前、スプレーを噴射しまくりGを撃退し、ほっとしたのもつかの間、その亡骸を前に私は固まった。

 掴みたくない、が、そこに放置も嫌。

 じゃあ誰かに……と思っても一人暮らしで頼める人もおらず。

 結果、数時間かけて決心してトイレットペーパーを何重にも何重にもして包み、即トイレへ流した。けれど、その日は一日中嫌な気持ちで過ごす羽目に。

 今思い出してもため息が出る。誰かGだけを処理してくれる、そんな都合の良い人はいないものか――。

 そんなことを考えながら掃除を進めて行くと――視界の隅にいた気がした。

 何かがいる。

 ドキッとして手が止まる。見える……なにか黒い物体。壁の上、今絶対いる。掃除機をそおっと床に置いて、ゆっくりと視線を上げてみる――。


「…………なーんだ」


 そこには小さなクモがいた。Gではなくてほっと胸をなでおろす。


「クモちゃん、今床に降りないでよ。掃除機かけてるんだから」


 クモは理解しているのかしていないのか、掃除機の爆音にも物怖じせずじっと壁に張り付いている。


「良い子ねぇ」


 ハエトリグモと思われる小さなクモ。ここに住み始めてから数カ月後に、その姿を初めて見た。あまり虫が得意ではない私でも、このクモは別。なんとなく、クモの姿を見かけるようになってGを見る回数が減っている気がする。そう思うと大変ありがたいクモで、拝みたくなる。


「意外にかわいいのよねぇ。擬人化でもしたら面白そうだけどっ。ま、これからもよろしくねー」


 一人暮らしを始めると、クモに対してもしゃべりかけてしまう。他人から見ればおかしな光景かもしれないけど、私にとっては立派な話し相手。まぁ、一方的ではあるけれど……。

 そんなクモも知ってか知らずか、ぴょんぴょんと跳ねて、どこかの陰に隠れてしまった。


「私につぶされないように気をつけなさいよー」


   ◇    ◇


 その日の夜は熱帯夜だった。窓を開け換気を良くしたところで、涼しくなるはずもなく……。

 ひたすら身体の不快と眠気が戦いながら、なんとか寝ているような状態だった。


「あ……暑い……」


 首元、背中が汗でびっしょりと濡れている。何度も寝返りを打っては、寝ようと試みているところだった。


「……ん」


 気のせいか、トイレのすりガラスが一瞬光ったように見えた。瞼ごしなので気のせいかもしれない。でも気になって目をこすりながら身体を起こした。

 すると突然、トイレのドアが開いた。

 一瞬で眠気が飛んで、思わず立ち上がる。


「な、何! 誰かいる?」


 こんな風も吹いていない真夜中に、トイレのドアが開くはずなんてない。でも怖くてその場から動けない。暗い中、トイレから出てきたのは――。


「きゃ、きゃああ!」


 男。全裸。ありえない。

 私は積み上げてあった雑誌をおもむろに掴み、男へと投げつける。


「こっちに来ないで!」


 襲われる。嫌だ。絶対嫌だ!


「……はな。落ち着いて」


「こっちに来ないで!!」


 どんどん雑誌を投げつけてしまい、その場に雑誌がなくなってしまった。私は部屋の隅に身体を寄せる。


「やめて!」


「何もしないよ。落ち着いて」


 心臓がバクバクと動いてる。男はその場に立ったまま動こうとはしていない。

 しばらく沈黙が流れる。

 暗くてはっきり見えないけど……って、いやいや、見ちゃだめだ!


「け、警察呼ぶわよ!」


「僕、クモだよ」


「はぁ!?」


「僕、クモだよ。ほら」


 ほら、と言って、男が隠れていたおでこを手で掻きあげた。釣られて思わず、男に凝視してしまった。

 ――丁度こめかみよりも少し上。髪の生え際のところにあるはずのない、目、がある。


「僕、人間になれたよ」


 ありえない。

 恐怖と信じられない光景に意識を失ってしまった。


    ◇    ◇


 セミの鳴き声のうるささと、蒸し暑さで薄らと意識が戻っていく。あぁ、もう朝になったんだ……って!

 はっとして起き上がる。夜いた男の姿はなかった。そう、きっと夢だったんだ。そう夢なのよ。けれど……。


「……なんで私、こんなに部屋の隅で寝てるの」


 本棚に倒れ込むようにして寝ていたらしい。元いた布団の上には、雑誌が無残に散らばっている。トイレの方を見ると、やはり戸が開いたままになっていた。

 身体に異常なし。棚タンスに乱れた様子もなし。誰かが部屋を荒らしたような感じもしなかった。


「夢、だったのよ。うん、そうしよう」


 言い聞かせるように独り言を呟いた。けれど、夢で見た、四つ目の顔が妙に頭から離れなかった。


    ◇    ◇


「はな先輩。おはようございます!」


「おはよう。祐樹くん」


 会社のデスクに着くと、さっそく隣の祐樹くんから挨拶を受けた。


「その『先輩』っていうのは、なしにしない? 私と祐樹くん同い年だし、この部署、若い世代は私たちしかいないんだから」


「それはできないです。会社にいる以上は、はな先輩ははな先輩ですよ」


 白い歯をこぼしにっこりと笑う彼は、私より一年後に入社した藤本祐樹くん。私が専門学校卒、彼が大学卒ということで同い年。けれど、今のように先輩後輩の関係を重んじている。学生の間はずっとスポーツをしていたらしく、その影響だろうと思う。

 そんな祐樹くんは、新人とは思えないほどの効率の良さで、私と同じぐらいの信頼をすでに得ている。


「はな先輩、今日も外回りに行かれるんですよね?」


「そうね。朝礼が終わったら出るよ」


「じゃあ俺もご一緒して、運転させてください。課長からサポートするようにって言われてるので」


「そう。じゃあよろしくね」


 何カ月か私が彼の指導役として付き添っていたためか、えらく懐かれてしまった。まぁ悪い気はしない。スーツをびしっと着こなして、スタイルも良い。顔も、男性雑誌のモデルとして出てもおかしくないような顔立ち。髪も短いながら、いつもワックスでセットされツンツンとしている。きっと学生のときはモテモテだったに違いない。

 朝礼が終わって、私たちは車を走らせた。顧客先を回るのはなかなかの体力勝負だ。


「……次はちょっと遠いわね。まだ予定時間より早いし、ゆっくり行きましょうか」


 助手席に座ってスケジュール帳を開く。……嫌になるぐらい仕事の予定ばかり。思わずため息が漏れた。


「はな先輩って、すごいですよね」


「え、何が?」


「仕事に対して一生懸命と言うか、周りに対して気を遣っているというか。なんだか見ていると、すごいなぁって思って」


「……そうかな。周りは仕事がバリバリできる人たちばかりだし、私はその人たちの足元にも及ばないわ。それに男の人ばかりだから、なんか小さいことが気になっちゃうのよね。……きっと、もし私たちの部署に他の女の人がいたら、そうは思わないよ」


 私の話が聞こえているのかいないのか、祐樹くんはニコニコしながらハンドルを回している。


「祐樹くんだってわかるでしょ? 女の人が気を遣うくらい」


「え、なんでわかるんですか?」


「彼女。いるんじゃないの?」


 すると、じわじわと真面目な表情となり少し沈黙が流れた。丁度良く、車も信号に止まった。


「俺は彼女いません」


「え、そうなの?」


 意外だった。モテそうなのに。


「はな先輩は……彼氏いるんですか?」


「私? いないわよ」


 そう言うと、驚いた表情で私の方を向いた。


「え、マジっすか。……じゃあ俺にもチャンスありますか?」


「……え?」


 私は半分笑いながらだったが、祐樹くんはじっと真面目な顔で私の顔を見つめてくる。

 何なんだろう、この状況は。


「すいません、急に」


 信号が変わり、祐樹くんは再び前を見て運転を再開した。けれど先ほどのニコニコ顔ではなく、真面目な表情のままだった。

 真面目というか……頬が少し赤い。祐樹くん……恥ずかしがっている?

 ……しまった。笑い飛ばしてあげればよかった。きっと冗談を言ったのね。

 一瞬でも戸惑ってしまったことを後悔した。


    ◇    ◇


 なんとかその日の仕事は定時に終わった。祐樹くんに飲みに行かないかと誘われたけれど、連日の寝不足で帰らせてもらった。途中、コンビニで缶ビールとチーズを買って、家で一杯といこう。


「ただいま、と……」


 誰もいない家に言った。返事がないことを知っていてもつい癖で言ってしまう。

 冷蔵庫にビールを冷やして、お風呂を沸かして、シャツを脱いで、上はブラジャー一枚。家にいるんだから誰も文句は言うまい。じゃないと暑くて死にそうだ。


「今日はテレビ何をやっているかなぁっと……」


 台所と和室を仕切っているふすまを開けた。和室には私の寝床とテーブルがある癒しの空間――が!


「はな、おかえり」


 そこに、白い前髪を眉毛辺りでぱっつんと揃え、前髪以外は黒髪の男が座ってテレビをつけている。


「人間の姿は暑いね。あ、夜は驚かせてしまってごめんね」


 もちろん全裸。肝心なところは、わざとなのか、腕で隠している。


「きゃあああ!!」


 私はすぐに和室のふすまをしめて、玄関へと飛び出た。が、すぐに自分が上がブラジャー一枚だったことを思い出し、仕方なく家へとまた入った。

 けれど、そこから動けない。あのふすまの先に、またあの男いるのだから。


「はな。ごめんね。どうすれば、僕とお話してくれるのかな」


 怖さで心臓がバクバクと動いている。私は、身動きできず男の言葉を聞くしかなかった。


「僕ね、はなと一緒に住んでいるクモなんだ。神様が夜の間だけ、僕を人間の姿にできるようにしてくれたんだよ」


 何を言っているんだ。信じられるわけない。なんだか泣けてきた。私はそのまま玄関でしゃがみ込んだ。どうすればいいのかわからない。


「……怖いよね。ごめんね。はなが落ち着くまで、このふすまは開けないよ。落ち着いたらはなが開けてね」


 けれど、男の声は優しく耳をくすぐった。私に対して乱暴するようには聞こえない。

 しばらくそのまま動かなかったが、男も動くこともなくじっとしているようだった。

 暴れていた心臓がようやく落ち着いてきて、涙も止まった。私はゆっくりと立ち上がり、風呂場にあるタオルを取りに行った。一枚はブラジャーの上から巻いた。もう一枚は手に持ち、和室のふすまの前に立つ。


「……今からタオル入れるからこれで下を隠して」


「あ……ごめん」


 消え入りそうな声で返事をしたのを確認して、私はふすまを少しだけ開けてタオルを投げ入れすぐに閉めた。耳をすますと、中から微かに畳が軋む音がする。


「隠したよ」


 深呼吸をする。――そして、ゆっくりとふすまを引いていった。


「はな。大丈夫?」


 そこには、ちゃんと腰周りにタオルを巻いた筋肉質のスタイルの良い男が一人、心配そうに私を見つめている。この男、間違いなく夜に現れた男だ。


「……大丈夫だから、その場に座って。あと押入れのほうに身体を向けて、顔はこっちを見ないで」


「うん。わかった」


 男は素直に私の指示に従った。敵意はなさそう。その間、私はタンスからTシャツを取り出し、すぐさま着た。そしてふすま付近に落としてしまっていた、かばんの中から財布を取り出した。


「あなたの話は聞くわ。だから、この場にいて。ちょっと出かけてくるから」


「うん」


 頷いたのを確認して、私はダッシュで近所の古着屋に向かった。あの格好で部屋にいてもらっては困る。適当な大きさの男もののパンツ、ズボン、シャツ、を買ってダッシュで家に戻る。

 警察には通報しない。だって、あの四つ目が世の中に解き放てば、私の平和な生活を失うかもしれない。


「おかえり」


 和室に戻ると、男は言われた通り押入れのほうに身体を向けたまま。もちろん顔も。私は、服の入った紙袋ごと男の近くに置いた。


「この中に下着と服があるから着て。それまで和室から出るから、着替え終わったら呼んで」


 そう言って和室から出た。出た途端、どっと疲れが出た。なんで私は見ず知らずの男に、服まで買ってあげているんだろう。放っておけない性格を呪いたい。


「……着替え終えたよ」


 すぐに和室から声がした。恐る恐る開くと、ちゃんと服を着た男がいる。……なんで私はパジャマを買ってしまったんだろう。

 男は着替え終えた後もまだ押入れのほうを向いていた。


「もうこっちを向いてもいいわ」


 そう言われ、男は立ち上がって私の方へと向き直った。

 私よりも頭一つ高い身長。だぼだぼのパジャマに身体は隠れているものの、顔も無駄肉がなくて引き締まっている。その顔に似合わず前髪が眉の辺りでぱっつんと揃えられて、前髪が白髪、それ以外は黒髪で短い。夜に見た、この前髪の奥にある目を思わず凝視してしまう。


「はな、落ち着いた?」


 にっこりと子供のように微笑む男。こっちが恥ずかしくなりそうになり、思わず顔を背ける。


「……座って。話を聞くから」


 頷いて座る男。あまりにも素直に言うことを聞く男に、私の警戒心は薄れていく。

 クモが擬人化。あり得ない話をこれから聞くことになろうとは思いもよらなかった。


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