青の祠
この迷宮に入ってどれ程たっただろうか?
30人居た仲間達は既に散り散りになって久しく、二日前に聞いた悲鳴を最後に人の気配は消えた。
残ったのは恐らく私だけなのだろう。
かの竜の邪気に当てられた精霊は恐慌状態に陥り、殆ど意思疎通すら出来ない。
食料も備蓄は無く、持ち込んだ水も終に底を尽きた。
ここは水も食料も得られるような場所ではない。
ここは死の国だ。氷に覆われた地獄。
戯曲にある嘆きの川、氷結地獄とはここに違いない。
酷く寒い。凍えそうだ。
涙や汗、唾液や鼻水、尿に血。およそ液体といえるものは全てが危険だ。
この極寒の地にあっては流れ出る傍から氷の筋となって、凍傷や火傷をもたらす。
無理に引き剥がそうとすれば皮膚ごと剥がれた。
もはや動くことも出来ず、小さな岩陰に隠れるのが精一杯であった。
ここが最後になるだろう。
視界に映る氷の大地に処々血が付着している。
私の仲間達のものだろう。そして私もいずれそうなる。
ここのトラップや魔物は強力だった。
こちらの予想を遥かに超えて。
10メートル進むのに一日と三人の命を費やした。
そして恐ろしく複雑。
決死の思いで進み、その果てが行き止まりだった、など何度あったことだろう。
その度に誰かの心が折れた。
私とて例外ではない。
先ほどから魔物の気配がする度に糞尿を垂らしそうなほどに恐怖している。
今まで冒険者として幾多の死線を潜り抜けてきた。
しかし、こんなのは――――――――
ばけものが - -
― 目のまえしにたく
以下、判読不能。
「それで? 貴女、名前は何ていいますの?」
「お」
そういや名乗ってなかったか。
「聞いて驚け、アヴィスクーヤちゃんだ」
「驚く要素がわかりませんけど。
…………アヴィス=クーヤ、深淵なる混沌、独り眠る静謐の夜…………あまりいい名前ではありませんわね。
霊的言語として悪魔を現す真言を悪魔の法に則って並べた名前ですわ。
碌な名付けをされませんでしたのね」
「ふーん…………」
そんな意味があったのかこの名前。
しかも何か寂しい独り身の夜みたいな。
なんかやだな。
いずれ必ずや暗黒神をやめ、心優しい男性と結婚し幸せな家庭を築き、名前を陽だまりの家、家族と眠るあったかオフトンと改名すると誓う。
「それよりも、その傷を見せてごらんあそばせ」
ひょいと手を取られた。
「回復魔法とか使えるの?」
「さぁ…………。聖女であった頃は扱えましてよ。
今はどうかわかりませんわ。
それに、光魔法が使えなくとも私の契約する土精霊と水精霊の力で効果は落ちますが治癒の真似事が出来ますから問題ありませんわ」
そうなのか。確かに光魔法は使えないだろう。
しかしこの聖女は精霊魔法なるものをそれなりに使えるようだ。羨ましくなんかないぞ。
まぁそれは置いておいて使ってもらえるなら有難い。
「これはバーミリオン様がお持ちしていた神剣の傷ですの?」
「そうだけど」
「…………痛くありませんの? あの悪趣味な剣ですわよね?」
「あー、やっぱ人間から見ても悪趣味なんだ」
「他の人はどうだか知りませんけれど、少なくとも私は好きではありませんでしたわ」
…………意外だ。
傷をじーっと検分するフィリアに質問を投げた。
「じゃあさ、何であの勇者と組んでたのさ」
「組みたくて組んだわけではありませんわ。
ああ見えてバーミリオン様は多くの勇者輩出の実績を持つ古い貴族の嫡男でしたのよ。
それに魔なる者達に贖罪の慈悲を与える勇者として教団から高く評価されている前途有望勇者だったのですわ。
ノーブルガード家の聖女として彼と組めという現当主様の命でしたの。
現当主であるフェラリアス様は野心家でしたもの」
「へー」
いやー貴族って大変そうだなー。
当主とか嫡男とかなんだか面倒くさそうだ。
「何ですの、その気の無い返事は」
「んー、イマイチよくわからん」
貴族なんてカボチャパンツ王子とかパンが無ければお菓子を食べる王女とかしか出てこない。そしてそれで充分なのである。のーぶるがーどだのなんだの、今後も別に関わらないだろう。
「幸せな頭ですわね。…………駄目ですわ。浅い傷ならば何とかなりますけれど、腕はどうしようもありませんわね」
「いいよ別に」
腕なんて気にするほどじゃない。利き腕じゃないし。
魔力を蓄えれば本で腕を治すのも可能だろうし。
それより見た目がましになったのがいい。あれだけあった切り傷が消えてしまった。
これはいい。
「うおー…………超便利だ!」
「そうでしょう、そうでしょう。
上位精霊と契約出来るものは限られておりますのよ?
私の年齢でこの数の精霊と契約した神官は今の時代においては私くらいですわ!」
ふんぞり返って自慢げである。
おのれー…………。
乳がロケットのように眼前に突き出されて邪魔である。
ばっちーんとひっぱたいた。
「あぁん!」
無視した。
しかし精霊魔法、精霊魔法か。
…………私にも使えないだろうか?
魔力がからきしでも精霊と契約さえすればいいって事だ。
「ねぇねぇ、その精霊魔法って私にも使えないの?」
「…………ふぅ。わかりませんわ。本人の資質による所が大きい分野ですもの。
精霊に好かれるかどうかが全てですわ。
街に下りてから魔導研究機関かギルドにでも行って契約の儀でも試せばいいですわ。出来るとは思えませんけど。ホーッホッホ!」
「ムギイィィィイ!!」
嘲笑われた。しかも古典的な笑い声で!
ちくしょう!いずれ後悔させてやる!
いや、今後悔させてやる!
「おのれー! 奥だ! 奥に行くぞフィリア!」
「なっ! 嫌ですわ!!」
「うるさーい!」
ぐいぐい引っ張る。
「嫌ですったら! そもそもこの祠に入れるわけないでしょう!?
その赤紅の法でさえ通れるまでに一日掛かりますわ!」
「何それ?」
「貴女通り抜けたんじゃありませんの!?
その布ですわ!」
「普通に通れたわい!
もうボロくなってるに違いない!」
「そんなわけないでしょう!?」
「通れるわーい! いいから行くぞー! 随分時間経ったしまた吼えられるじゃんか!
尻と乳引っ叩いて連れてくぞ!」
「……………………はっ! い、行きませんわよ!」
今めっちゃ考えたなこの人。
そんなにか!
まあいい。この聖女には大人しく付いて来てもらう。
そして私の代わりにあの竜に吼えられてればいいのだ。バッと枝を掲げる。そのままバチバチと枝で引っ叩いて追い立てた。牛のようにピシピシいくべし。
キャインキャインと鳴きながら小走りに逃げていく聖女を誘導しながら進んでいく。
「通れたじゃん」
「はぁ、はぁ……う、嘘でございましょう……?」
赤くなって尻を片手で隠しながら座り込んでいるフィリアが息も絶え絶えに辺りを見回した。
後ろにはその赤紅の法とやらがある。
そう、先ほどと同じく普通に跨いで抜けたのである。
特に何か身体に異常があるわけでもなく、通るのにそんな何かするとかいった苦労もない。
フィリアが一日掛かると言っていたほどだし何かの魔法なのだろうが……やっぱりボロくなってんじゃないのかコレ。
「…………変ですわね…………。本当に封印が古くなっているとでも……」
「きっとそうなんじゃね?」
知らんけど。
「さー行くぞー!」
再び座り込んでいるフィリアの肉まんを枝で叩いた。
「あふん!!」
こうするとなんだかんだ大人しく進むあたり本当に駄目な聖女である。
しかし何で私がこんな事をしなくちゃいけないんだ。
こんな役目は…………そうだな、クロノア君は流石にアレだし、ブラドさんかアスタレルの役目であろう。
もう二度とすまい。テクテクと追い立てながら歩く。
さっきと同じ、一本道だ。迷うこともない。
「キャン!キャイン!! ちょ、待って、待ってくださいまし! あんっ! 待って、待って…………!」
「んー?」
リズミカルに尻を叩いて左右に振り回していた枝を止めて立ち止まる。何だその残念そうな顔。にしても犬のように鳴きおってからに。
今度は両手で尻を押さえているフィリアがさっきよりも真っ赤な顔で辺りをきょろきょろと見回す。
「はっ……! はぁ、こ、ここは変ですわ。確か記録によれば複雑かつ強力な魔物や邪霊が蠢く迷宮と…………なのにこんな一本道で魔物どころかトラップさえないなんて……」
「そうなの?」
「ふぅ、ふぅ…………え、ええ、そうでしたわ…………。以前にここに入った勇者様が持ち帰った探索家の手記がいくつか残されておりましてよ。
そこに書かれていた内容では、こんなものでは…………。
此処に居るのは破壊竜ウルトディアス、封印されているとはいえ、……違いますわね、神の力で封印されているからこそ引力が強い。
破壊竜だけでなく、辺りから流れ込む邪気や瘴気が溜まり、霊脈である事も災いとなってこの氷河一帯が強力な迷宮と化しているのですわ。
封印は出来ているのですから、教団が時間を掛けて外側から少しずつ浄化すべし、とする程ですもの。
けれどこれは…………まるで、途中を全て飛ばして来ているような……、違和感がありますわ……」
「ふーん…………」
それほど強力な迷宮には思えないのだが。
以前は違ったということか。
このままではどちらにせよ封印は解けてしまう気がする。
それなら元聖女のフィリアでもなんとかなるかもしれない。
「まあ、危険がないならいいんじゃないかな。行くぞー! 立てー! ここまで来たんだからもういいじゃんか!」
すごく残念そうな顔であった。
もう引っ叩かないぞ。