神の使徒3
「………………………………っ!」
しまった。
思うがもう遅い。振り返った先、其処にはいつの間にやら。
既に5分経っていたのか。
我ながらなんて足の遅さだ。この鈍足感、世の無常を憂いる時かもしれないな。
こちらへと追いついたのだろう、直ぐそこに剣を振り下ろしたポーズのままの勇者が立っていた。
その顔は喜悦に歪み、とてもではないが勇者とはとても言えない。
うーむ、やはりうんこ野郎でいいだろう。ばっちぃな。
「ひひ、ひ、ナァ?いてぇだろ?泣けよ。叫べよ。なぁ?」
何?
痛い?
別に痛くもなんともないが。
言われるがままに自分の身体を見下ろして…………そりゃもうぎょっとするというものである。
なんてこった。
腕がなくなっている。我がミニマムアームが少し離れた場所に転がっていた。何をしやがるこの勇者め!
しかし、あんなもので斬られた割には痛みはない。
血も出ない。
…………はて?
勇者の喜悦に歪んだ顔が徐々に強張っていく。
「んだてめぇ。何で痛がらねぇんだよ、クソが。クソがクソがクソがクソがァ!!」
そんな事言われても。
痛くないのだから仕方が無い。
そういやずっと歩いていても痛くならないのだった。
痛みは感じない身体なのかもしれない。あ、でもさっきベッドから落ちた時もそうだが痛い時は痛い。
何か法則でもあるのだろうか。血も出ない傷口を見やればそこにあるのは虚無だけだ。
真っ黒な断面はただの平面ではない。
すぐそこに何か怪物でも潜んでいそうな恐怖や不安を凝り固めたような深い黒。
あからさまに人間じゃなさ過ぎてわかっちゃいたが改めてショッキングである。
でも本を木の枝を握った方の小脇に抱えていて良かった。
幸いにも斬られた腕には何も持っていない。しかし片腕では本も木の枝も使えないな。
許せんこの野郎!
この拳で一泡吹かせてくれるわ!
…………と、取り敢えず暗黒神ちゃん怒りの神罰鉄拳は心の中で思うにとどめておいて再び逃げた。
今はすたこらっさっさと逃げるが勝ちである。
まぁ、問題はどう足掻いたとて逃げ切れやしない事なのであるのだが。
「っ!」
何度目だろう、風を切る刃先。
やはりコンパスの差があまりにも大きすぎる。
おまけに片腕では本も使えず、まさに何も出来ないまな板の鯉である。
一度追いつかれてしまった以上、再び引き離せる目は既にもう無い。
しまったなー。
ここに来てゲームオーバーのようだ。
それはいいがあの洞窟に居るであろう悪魔を思うと気が重い。
また散々どつかれるに違いなかった。
足を切りつけられて転んでしまった身体をようようと上げ、縺れながらも再び走る。
「ヒャ、ハッハァ!!」
勇者は絶好調だ。
獲物が痛がらなくとも傷を増やすのは楽しいようだ。
こいつがこうして楽しんでいるからこそ未だにこうして動けるわけだがやられる側としては面白くない。
身体は既に切り傷だらけで処々真っ黒な闇が覗いている。ありゃあこちらを甚振る為にわざと歩いているな。
これって治るのだろうか?
治ればいいのだが。走りながらも血走った目をした勇者を振り返る。
うわ、目が両方ともあらぬ方向を向いているのを見てしまった。
どう見たって心と呼べるものが完全に壊れている。
これが神託を受けるというものか。
それでも性癖全開な辺り、余程の真性さんだったのだろう。
こんな奴を楽しませてしまう事になったのは遺憾であるが…………まぁ仕方が無い。
次は絶対こいつを地獄に落としてやる、そう決めた。
こいつには天国よりも地獄の方がいい感じだ。
背後で勇者が大きく神剣を振り上げる気配。
とどめを刺す腹積もりなのだろう。
せめてイーッと舌でも出してやろう、そう思った。
「クーヤ、しゃがみなさい!」
闇を引き裂く凛とした声。
イーッと舌を出したまま言われるがままにしゃがみ込む。
瞬間、勇者が文字通りぶっとんでいった。
「わぁ!」
ぶっ飛んでいった勇者を見送る間も無く抱え上げられた。
「無事、とは言えんようだな」
「ブラドさんじゃないですかやだー!」
「何を言うか!私のような美男子に救われる事に頬を赤くして俯きながら礼を言う場面だろうこのおチビめ!」
勇者をぶっ飛ばしたのは案の定クロノア君だったようだ。
手の具合を確かめるようにフリフリとしている。
ブラドさん私を抱えただけじゃないか。
「クロノア、腕はどうだ?」
「………………………………」
クロノア君は腕をひらひらとさせながらこちらへ向けた。
そう、ひらひらと。
とても柔らかな動きだった。
「…………折れたか。流石は勇者だな。精霊すら居ないこの大地でコレとはな」
マジか。
天使をぶん殴っても無傷だったクロノア君が。
「クーヤ、傷は大丈夫…………ではなさそうね。女に傷を付けるなんて…………これだから勇者は嫌いよ」
「マリーさん…………助けに来てくれたんですね! ありがとうございます!」
マリーさんに向かって頬を赤くして俯きながら礼を言った。
ついでに目も潤ませておいた。
「ふふ、クーヤ。当然でしょう?その犬と一緒にしてはダメよ」
「私はその扱いの差に不服を申し立てるぞ!」
「ブラドさんだし…………犬っぽいし…………獣臭いし…………」
「ワイルドと言い給え! この溢れ出る危険な大人の魅力が分からんとは!」
「ただのダメ人狼じゃないですか!」
叫んでから漸く人心地つく。
こうしてブラドさんにぶーぶー言えるのも今だからこそだ。
あー良かった。
暫くはアスタレルの顔を見ないで済む。
「ひ、ひ。…………さっきの吸血鬼じゃねーか? クク、斬られたくなったのか? ナァ?」
「お断りね」
「そう言うなよ。あんた、すっげーいい声してる。俺好みなんだァ…………、くくく」
おお、勇者の性癖がついにレガノアの神託を上回ったようだ。
勇者の目には最早マリーさんしか映っていない。
どれだけ変態なのだコイツ。
「ギヒィヒヒヒィ!!」
マリーさんに飛び掛る変態、もとい勇者。
その所々裏返った笑い声と来たらもう悪魔さながらだ。
まさにヒャッハーと言ってよかった。
私には効かなかったが流石のマリーさんもあの神剣で僅かなりとも斬られたらひとたまりも無いだろう。
それにマリーさんは魔法系のお人、あそこまで懐に入られては魔法など使えるわけがない。
徒手空拳で勇者に挑むのは無理だ。
「させるか!」
飛び出したのはブラドさん。
我を忘れたのだろうか?
私を抱えたままである。
「ブラド! クーヤを抱えたままこっちに来るのではなくてよ!」
「ちっ…………!」
クロノア君にぶん投げられてしまった。その流れるような仕草、まさにポイ捨ての如し。
いやいいけど。
仮に勇者をどうにか出来ても礼は言わんし扱いはこのままであることが今この瞬間確定した。
「クロノア君、クロノア君。腕は大丈夫ですか?」
ぷらぷらとあらぬ方向を向いたりする腕は見るからに痛そうである。
「………………………………」
…………平気なのか?
よくわからん。
「邪魔をォ…………するなァアァアァァア!!!」
空気を震わせる怒りに満ちた咆哮。
ブラドさんという邪魔が入った事が余程気に食わなかったようだ。
ブラドさんをも狩るべき獲物に定めたらしい勇者は片腕でマリーさんを押さえ込みながらブラドさんに応戦している。
恐ろしい男だ。
あの二人を同時に相手取り、一歩も引かない、所ではない。
マリーさん達の攻撃は全く届いていないのだ。
二人だからこそ何とか凌いでいるというのが正しいだろう。
一手でも下手を打てば恐らくマリーさん達が負ける。
これが勇者…………!
クロノア君は私を抱えたまま動かない。
いや、私を抱えているから動けないのだろう。
何とかしたいが…………!
片腕にされたのは口惜しい限りだ。
クッソー。
歯噛みして斬り飛ばされた腕を見つめる。
拾ってひっつけたらそのまま治らないだろうか?
「マリー!」
聞こえたのはブラドさんの声。
「マリーさん!」
見ればマリーさんの腕からは一筋の血。
じわりじわりと黒ずんでゆく傷は明らかにただの傷ではない。
神剣紅薔薇。
魂を熔かした炉で鍛えたという神剣は斬った者にこの世ならざる痛苦を与える。
勇者が愛用する悪趣味な剣。
「ヒャッハハハァ! いてぇだろ!? もっと痛がれよォ!! 泣いて喚いて叫んで死ねぇ!!
アンタをそいつらの前で細切れにした後、悪魔共の神とやらもこの紅薔薇で小さく切り刻んでやるよォ!!」
「………………………………」
…………驚嘆すべきはマリーさんの精神力か。
自分の爛れた傷を眺めるマリーさんは眉一つ動かさない。
勇者が拷問に使っていたくらいの剣だ。
余程の苦痛だろうに。
「…………黙れ。私にその不愉快な鳴き声を聞かせるな地を這いずる餌でしかない下等生物がぁ!」
…………めっちゃぶち切れてた。
怒りのあまり苦痛を忘れたらしい。
口調が思いっきり変わっていらっしゃる。
ちょっぴり、いや、かなり…………うん、漏れそうなくらい怖い。
「ブラド! 何の為の犬だ! 少しは時間を稼げ!」
「全く…………満月でも無いというのに…………獣の本性を公衆の面前で晒すなど紳士としてありえんよ」
言うが早いか、ブラドさんの身体が見る見る膨らんでいく。
誇張ではない。文字通り全体のシルエットが月を背景にどんどん膨れ上がっていく。
ぞわぞわと生えてくる獣毛。
ビリビリと破けていく服から覗く身体は完全に獣のそれだ。
種族は人狼。
そうか、これが人狼たる所以。
伊達に犬耳を生やしているわけではないようだ。
人の姿を取っていた頃より倍ほどの大きさになった身体。
腕などは丸太のような太さだ。
鋼のような爪の殺傷力はかなりのものだろう。
巨大な狼と化したブラドさんの猛攻にさしもの勇者もマリーさんに構いきりというわけに行かなくなったようだ。
「…………この…………っ、ケダモノがァ! 邪魔しやがるならてめぇから殺すぞ!!」
「ふん、紅薔薇と言ったか? 成程、凄まじい剣だ。当てられればの話だがね?
君の実力は…………失礼ながら些かその剣に見合っていないようだね」
巨体に見合わぬ目にも留まらぬ動き。
ブラドさんすごい。
意外だ。
その間にマリーさんは以前報酬として払った例の魔んじゅうを全部食べてしまった。
実は持ち歩いていたらしい。
全てを攻撃につぎ込むつもりだろう。
本気でやる気のようだ。
ぶつぶつと…………恐らくは呪文だろう、呟いている。
展開される巨大な魔法陣。
めちゃくちゃ複雑そうだ。
それに何だか以前見た魔法陣とは全体的に毛色が違う。
何だ?
「来たれ! 深淵に蠢く黒き雷よ!」
マリーさんの手には真っ黒な光。
これは…………!
クロノア君がマリーさんから隠すように私を抱え込む。
うん、絶対私みたいな最弱には近くにいるだけで危険な魔法だ。
マリーさん私の事忘れてませんか。
「獄雷!!」
以前の天使戦で見せたものとは比較にすらならない。
おそらくは暗黒魔法。
空気が撓む。放たれた雷は重々しい音と共に一瞬で周囲を舐め焦がし融解させる。
それもブラドさんが言った通り、雷本来の性質を完全に無視しプラズマの様な球体となりいつまで経っても消え去る様子がない。
「っんだ、こりゃぁ…………!?」
驚きながらも勇者はこの一瞬で何やら結界のような物を張ったようだ。
張られた光の結界は雷を弾き、中の勇者には届かない。
「ちっ…………この程度とは…………!」
私には十分凄い魔法に見えるがマリーさんには面白くないようだ。
「…………笑えん威力だな」
ブラドさんとしてもイマイチらしい。
マリーさんが手を振ると雷はパッと闇に霧散し消えてしまった。
「今のが暗黒魔法って奴か? へぇ…………初めて見たぜ。
確かに只の魔法じゃねぇが…………たいした事ねぇな? …………ヒヒ」
「………………………………」
マリーさんの目がめっちゃ赤く光っている。
うおおお…………。
「…………少々厳しいね」
ブラドさんも奥歯に物が詰まったまま取れないような顔だ。
「ヒャッハァ!」
ブラドさんの動きにも慣れてきたらしい勇者の猛攻。
ブラドさんもじりじりと押されつつある。
マリーさんはあれで魔力を使い切ってしまったようだ。
ブラドさんのフォロー一辺倒に回っている。
…………本当に屈辱に違いがない。
唇に血が滲む程に噛み締める様にありありとそれが出ている。
魔王にまで昇り詰めたにも関わらずこんな強いとはとても言えない勇者にいいようにされているのだ。
これが屈辱で無いわけが無かった。
ブラドさんだってそうだ。
魔王では無いが…………本来であればこんな勇者に引けを取るなど無かっただろう。
「………………………………」
腕を見る。
斬り飛ばされた片腕。
本も使えず、神剣なんて物で斬られた身体中の傷も治るかどうか微妙だ。
…………もういいか。仕方がない。
アスタレルはいざとなったら肉の壁にでもしろと言っていたが…………勿論そんなつもりは毛頭ない。
クロノア君の影から出てその辺の石を手に取る。
振りかぶって投げた。カツーンといい音である。
「…………あ?」
「クーヤ!」
マリーさんの声。
「マリーさん、暫く魔んじゅうは無しです。あと今度来る時はもっと魔水晶もいで来ますんで」
少々離れる事になるがどうせまたこの大地で会うだろう。
この前の事を考えると一ヶ月か?
次はもっとうまい事やろうと思う。
「勇者のバーカ! 変態! マリーさんに触んな変態が移るし妊娠する!!
地獄に落とすぞこのエセ勇者! 人間の底辺! ピラミッドの下の分厚い所め!」
べーっと舌を突き出してやった。
勇者の顔が見る間に赤黒くなっていく。
ヒクヒクと引き攣った口元。
効果は覿面だ。
「……………………そうかそうか、てめぇからブチ殺されてぇわけか。
いいぜ? こいつらの前でてめぇを細切れにしたら面白そうだからなァ?」
ゆらゆらと海草みたいに揺れながら歩み寄ってくる。
その身体は…………蜃気楼の如く揺れている。
何だろう。
あれが勇者の魔力だろうか?
「クーヤ、逃げなさい!」
マリーさんには悪いが逃げるつもりとっくにはない。
傍のクロノア君に囁くようにお願いしておく。
「クロノア君、皆さんを連れて逃げるのです。
私はあの剣で斬られても痛くないですし…………まぁ精々時間を稼ぎますので」
左腕は無いがまだ右腕と両足がある。
斬られていない箇所もそれなりだ。
いっぱいに使えば何とか三人が逃げるぐらいの時間は稼げるだろう。
「………………………………」
クロノア君は相変わらず返事をしない。
相変わらず無表情にこちらを見ている。
が、何となくだが了承はしていないのだろう。
そこはかとなくそんな空気だ。多分。
だが了承してもらわねば困る。
全員共倒れなどより、生き返る私が命は一つしか持っていない三人を逃がすのが多分最善の筈だ。
「皆さん逃げるのですー!」
叫びつつ勇者に立ち向かっていった。
のたのた遅いけど。
「クーヤ!」
私の名を叫んだのは誰だっただろう。