神の使徒2
目が覚めたのは奇跡に等しかったんじゃないだろうか。
私の居心地のいい部屋に紛れ込んだ異物の気配。
覚醒すると同時にベッドから転げ落ちた。
落ちた時に顎を強打した。いてぇ。
感覚だけで逃げたので何が起きたのかわからん。
辺りを見渡し、直ぐに異常に気付く。
ベッドに突き立てられた白刃が開いた窓から差し込む月光に照らされ淡い煌きを放っていた。
「………………っ!」
わたわたとベッドから距離を取る。
暗黒神ちゃんマークを跨いで部屋の隅へ。
唯一のドアには何だろう。
変な模様が書かれてしまっている。
薄っすらと白い光を放つその模様、何となくマリーさんが見せてくれた結界に似ている。
「あーぁ、起きちまったか。動けなくしてから楽しむつもりだったのになぁ?」
昼間の。
「……勇者」
月光に照らされた男、ベッドに刺さった剣を無造作に引き抜きその輝きをうっとりと眺める瞳には控えめに言っても正気が窺えない。
様子がおかしい。
昼間の様子からして気をつけようとは思っていたが……その日のうちにこんな無茶をするような男には流石に見えなかった。
魔物がキーキーと喚いて闖入者を威嚇している。
喚くだけでどうにかしようというつもりはないらしい。
役に立たないな。
「気持ちのわりぃ部屋だなぁ……。アー……魔王城より気持ちわりぃ……ヒヒ、ヒ……」
泡まで吹いている。
蟹かコイツ。
完全に錯乱している。
「気持ち悪いなんて失礼な」
取り敢えず訴えておく。
ギョロギョロと血走った目で見てくる勇者はやっぱりどう見ても正気とは思われない。
何か変な薬でもキマってるんじゃないだろうか。
警戒しながら距離を取っていると……ふと勇者の顔から表情が抜け落ちた。
何も無い。どこまでも透明で、いっそ神々しくさえある。そんな表情だった。
「神託が下った」
「神託……?」
「神の声を聞いた。神の姿を見た。光に抱かれた。御使いが来た。頭の中で太鼓の音がする。俺を駆り立てる」
「………………」
恍惚とした表情には昼間の狂気とは方向性の違う狂喜が垣間見えている。
「光が俺の傍で囁くんだ。邪悪を浄化せよってさ。
―――――ああ、俺は神の愛を知った。世界はこんなに光に満ちていたんだ」
神の啓示に導かれた光の使徒は神託を果たすべくその剣を向ける。
神の怨敵、忌むべき邪悪の権化たる私へと。
「………………っ!」
迷っている暇はない。
私に打てる手はない。逃げるしかない。
しかし、ドアは多分出られない。
混乱していたとは言え、あまりの位置取りの悪さに歯噛みする。
出られそうなのは窓だけだ。
だが、窓から反対側へと逃げ込んでしまった私には酷く遠い。
この狭い部屋の中、勇者をすりぬけあの窓から逃げ出すのは至難の技だろう。
何か打開の一手を探さねば。
部屋を見渡して、気付く。
本と木の枝。
近い。
この状況、打破するにはアレしかない。
勇者を睨みつつじりじりと移動する。
ついでに時々窓を見つめる事で勇者にこちらの意図に感ずかれないよう小細工もしておいた。
勇者の目は妙に爛々としていて不気味だ。
何をしだかすかわからない、そんな不気味さがある。
壁に引っ付くようにしながら本へと近づく。
マリーさん達は勇者に気付いていないのだろうか?
もしかしたら寝ているのかもしれない。
今は何時なのだろう?
せめてブラドさんが起きていればいいのだが。
助けを叫んだら来てくれるだろうか?
いや、来てはくれるだろう。
しかし声を上げた瞬間にこの勇者は飛び掛ってくるのは疑いない。
マリーさん達が来る頃には恐らくこちらの命がない。
何はともあれ勇者が近すぎる。
まずはこの場から逃げねば話にならない。
逃げる時に窓の一つも割ればマリーさん達の事だ、気付いてくれるに違いない。
今は兎に角このお花畑に行った勇者から距離を取る、これに尽きる。
「………………」
ぎょろりと濁った目を向けてくる勇者。
名前は……バーミリオン。
太陽の色などこいつには勿体無い名前である。
うんこ色で十分だ。
レベルは55。
ステータスはイマイチに見えるが……マリーさん達の話からすれば私が見えないだけで実際にはとんでもないステータスとスキルを持っている筈、だ。
ただ、気になるのはあの武器だ。
ちらちらと光を放つ剣は奇妙な形にねじくれている。
思い出す。
昼間の話を。
女子供に拷問を加えるのが趣味のサイコパス。
なるほど、その為の形状か。
のこぎりのような刃はおよそ切れ味など無さそうだ。
あちこちささくれているのは苦痛を与える為だろう。
しかし、形状もそうだが……妙なオーラとでもいうのか、力を感じる。
「ひひ、ひ」
私の視線に気付いたのか、勇者は手にした剣をこちらへと突き出した。
「いいだろ? なぁ? 紅薔薇ってぇ神剣さ……ヒッ、ヒ。モンスター共の苦痛と憎悪に塗れた魂を炉に投げ込んで鍛えた神の加護を与えられた剣なんだぜぇ……?
これで斬られるとサァ……どいつもこいつもスッゲェイイ声で鳴くんだ。いてぇんだぜェ……お前もさ、気持ちよくなれるんだ。ナァ? 斬られたいだろ? ナァ」
「謹んで遠慮申し上げる」
趣味の悪さは折り紙つきのようだ。
神剣、……なんだか凄そうだ。
神の加護を与えられた剣か。
斬られたらやばそうである。
ついでに勇者の思考回路もやばそうである。
「ヒィ、ひひ」
ずりずりと移動しながら油断無く勇者を見つめる。
目線だけでこちらを追いながらも動こうとはしない。
……いや、こちらの隙を窺っているのか?
「……」
私にしては奇跡ともいえる察知の良さだろう。
床を踏みしめた足、勇者が僅かに重心を移動するのがわかった。
飛び掛ってくる予備動作。
来る。
目の前へと迫った刃からの逃亡に間一髪で成功する。
避けるとか躱すなんて表現はとても出来やしない両手両足を伸ばしきったムササビポーズでの逃亡だが回避は回避である。
勢いのまま、直ぐ横の床に転がっている木の枝と本に飛び込むようにして抱え込んだ。
振りぬいた剣が見事に空振りした勇者の怒りのままに喚き散らすキンキンと耳障りな声は当然に無視だ。
立つのももどかしくその場で速攻で本を開く。
カテゴリは何故か生活セット。
商品名 ハニートラップ
蜂蜜をぶっ掛けて固めて動きを封じます。
効果は5分。
「意味がちげぇ!」
叫びながらも購入。
しかしクソ高い。
でもまぁ足止めの相手が勇者ともなれば仕方がない。
べちょっと飛んでいった甘ったるい匂いの琥珀色の粘液が今まさにこちらへ第二の刃を突きたてようとしていた勇者の足元で固まった。
「ぐっ……!? んだこりゃぁ! クソがぁ!!」
「へんだ! クソったれ勇者め! あっかんべー!」
舌を突き出して窓へと駆け寄り、ベッド脇の花瓶を投げ付ける。
ガラスの砕け散る音が夜の静寂を引き裂いた。二階のマリーさん達も恐らく気付いた筈だ。
そのままぴょんと窓から外へと逃げ出した。勇者の足が速くないことを天の不思議存在的なものに祈りながら。
ステータスの素早さだけなら私の何百倍だが、足の速さはステータスには関係ないだろう。多分。
そう思っとこう。
というわけでひーこらと走る。
こういう時、疲れないのはありがたい。足は遅いが仕方が無い。
どこへ逃げよう?
しかし逃げたところでどうにかなるだろうか?
相手は勇者、マリーさん達すらどうにもならないと言っていた奴らだ。
獣じみていた天使と違ってむざむざ結界外で時間稼ぎの末に呪われて死ぬなんてないだろう。
そろそろ5分は経った筈。それに問題は勇者だけではない。
昼間の勇者は聖女を連れていたのだ。勇者がこうなのだ、彼女とてこうでないという保証はない。どこに居るのかも判らない。
今この時ですらどこかに姿を隠してこちらを伺っている可能性も十分にある。どうする。
走りながらも必死に考える。今更ながら昼間に会った事を後悔した。
調子こいてすいませんでした!
後ろから迫ってくる怒気。やはり動けるようになったようだ。
この分なら直ぐ追いついてくるだろう。
ぐぐぐ。仕方がなし、走りながらもなんとか本を開く。
マリーさんの為に使いたくなかったというのに……!
クソ勇者め!
商品名 世界鈍足紀行
相手を呪い、足を止めます。
ロック数は5。持続時間は5分。
迷わず勇者と何処にいるかも分からないが聖女を頭の中で指定する。
超高い。痛い。懐が痛い。
しかし構ってはられない。
購入。よし、今のうちである。
すたこらさっさと逃げる逃げる。
遅いながらも必死に走り続けているとやがて先に見えてきた光。
ギルドだ。
無意識にこちらへと向かっていたらしい。
私も一応ギルドのメンバーだし少しは助けてもらえるかもしれない。
そうと決まれば話は早い。全員巻き込んでやれ。
思うのと――――直ぐ傍、耳元で風を切る音がしたのはほぼ同時の事であった。