La Divina Commedia - 3階-
「ところでどうやったら地獄から出られるのさ」
もふもふの尻尾を暗黒ハンドで揉み込みながら問いかける。もちもちだな。ついでにその狐耳の先端をちょんとつまませていただきたい。うむ。
反省してくださいと言われたが暗黒神ちゃんには反省するところなど何一つとして無いのであるからして。とっとこと帰るべきであろう。
なにせここは見るからして美味しい食べ物とは無縁なのだ。用は無いのである。なんなら悪魔共に頭がおかしい疑惑が湧いているし尻尾をくるくるに巻いて逃げたって問題あるまい。いやそうすべき。
「今心底から妾が案内役で良かったわなと痛感したわ。ンンン、まぁそういう御方であるとは皆知ってはいるンであろうが……。
まぁコレくらいの事なれば誰しも暗黒神殿のこめかみをぐりぐりとする理由付け程度のものとしてお遊びで済ませるンじゃろなあ。
こんなんじゃのに実際は拉致監禁しようが心中しようが本気でやればなんやかんや許して貰える言うとったし……何をしても何を望んでも最終的には全てを許容して呉れるんじゃからそういうとこが鷲掴みなンじゃろか?
……ンマァ、物質界に出るンならばこのアパートの、ほうれほれ、あすこに見えるアパート前の空き地。あの土管の先が暗黒神殿が物質界に置いているトンネルに繋がっておる。
妾達が潜り抜けるのは極小の確率じゃが暗黒神殿であれば当確で行ける筈じゃて」
「むむ……?」
アパートの屋上には恐ろしい事に柵だとかそういうものは一切ない。平坦なコンクリートで構成された屋上にはあちこち草が生えており罅だらけ、端っこにはおまけのような縁があるのみ。
そろそろと近寄り指差す方向を眺める。確かにアパート前の空き地に土管が三本積まれているようだ。その内の一本が不自然に光っている。実にあれっぽい。
流石に飛び降りるわけにもいかないのでアパートを普通に降りるしか無さそうであるが。ちょっと不安である。
「こう……いきなり横合いからグワーッと来たりしない?」
「来るは来るじゃろが本気かどうかは知らんぞ。ンン……多分……反動目的にしてもお茶目の範囲で済ませるとは思うが……。
全員キレたはキレたンじゃろうけども暗黒神殿が悪魔達の行いにまさかの好意のようなものから一人で静かに善意の自己消滅行動を取ろうとしとったのをいきなり突き付けられて殊更大ダメージじゃっただろう事を思えば……マァ……。
一過性のものであろうとは思う……ン……ぞよ……?」
すっげぇ自信なさそうだ。ダメそうである。
「イヤァ、暗黒神殿がヤンデレのメンヘラを育てるのが上手すぎてなんとも……。
今は大丈夫であろうと思うンじゃがちょいとした事で暗黒神殿が御自分で自分の首をキュッといく気も大いにしておってナ……」
「なんでだ……」
めんどくせぇ!!悪魔めんどくせぇ!!
クソッ、もうどうにでもなれの精神だ。考えてもわからんのだ、ならピシピシいくべし。
はためく洗濯物を潜り抜けて階下に続くトタンのドアを開く。ゴウンゴウンと洗濯機が回っていた。二槽式である。脱水がローラーじゃないだけマシと見るべきか。
木で出来た棚には多分それぞれの洗濯物なんだろうなといった感じの脱ぎ散らされた服が籠に入って並んでいる。昭和感溢れる建物に反して服の方は悪魔らしくオシャンな様子。こんな洗濯機で洗って大丈夫か?
いいけど。
壁にはデカデカと大きな黒板が掛けてある。どうやら日々の連絡事項などが書き込んであるらしい。
その横には屋上の清掃、ゴミ捨て、消耗品担当、側溝掃除、草むしり。当番制らしい仕事が並び名前のようなものを書いた木の札がフックに掛けられて揺れている。
マンションに育つには実に程遠そうな塩梅であった。
天陽さんがついでのように止まっていた洗濯機から洗い終わった洗濯物を回収し脱水槽に移し替えている。ぎゅいーむとツマミが捻られガタガタガタと激しく揺れながら洗濯機は脱水を始めた。
「よしよし、行くかの」
こりゃあ絶対にレガノアの神域に負けているなという確信だけが得られた。なんだか胸が詰まったような気持ちになったのでせめて全自動洗濯機、いやその前に大型洗濯機だろうか?
とにかく何かしら導入してやろうなという感じだ。黒板もホワイトボードに進化させてやりたいものだ。
うんうんと頷きながらそこはかとなくプールのような匂いのする屋上から階段を降りる。下の方は下の方でなんか古い公民館の匂いがするが。最早ここまで来ればアパートが三階建てらしい事が奇跡的ですらある。
長屋でも全くおかしくなかった。これ一番最初はどうだったんだろう。屋根があったことを祈るのみである。
「妾の部屋がそこにある。茶の一つも出そうゾ。安物じゃがの」
「お、おお……」
302号室、と書かれたドアが軋みを上げて押し開けられる。絵に描いたようなガチガチの四畳一間であった。中央のちゃぶ台にはせんべいと羊羹だけが乗っている。
台所脇のすりガラスがはめ込まれたドアをそっと開けてみる。うぅん、想像に違わぬタイル地の風呂間。すわ共同で五右衛門風呂かと思っていたので個室にガス風呂釜なのはまだ救いか。
いやまぁ、タイル地に緑の浴槽、小さなすのこに天井から吊り下がる白熱球と手作業感溢れるモルタルで補修された壁やちらりと覗く給湯器とまさにギリギリガス風呂ですって感じであるが。
赤いネットに入れられた黄色い石鹸がカピカピになって吊り下がっている。これはひどい。
廊下を挟んだ反対側のベニヤのドアはトイレか……?いやこんな有り様で三階にトイレとかあるか?
このアパートに水洗式が導入されているという自信はない。絶対に汲み取り式だ。間違いない。悪魔がトイレに行くかどうかも合わせて開けない方が賢明であろう。私は何も見ていない。
割烹着を纏い台所に立つ天陽さんがピーと鳴るタイプのヤカンを火に掛けている。火が緑色と青色の混合色であるがそんなところでファンタジーされても困るのだが。
ゴソゴソとお茶の準備をする天陽さんを尻目にそっと窓から外を覗いてみた。うぅん、奇っ怪な景色が広がるばかりの世界はそれなりに広そうに見えるが遠くは霧か土煙かは謎だがとにかく謎の曇りで見えやしないので実際は目に見える範囲だけが地獄でございも普通にありえる。
鍵の概念の無いガタつく窓を少しだけ開けてみる。何やら声が聞こえるのだ。多分アパートの住人の声だと思うのだが。
「ちょっと男子ィー!!その本こんなとこで堂々と読まないでよね!!」
「うるせぇー!!今読まないとやってられっかよ!!時代は総受けじゃろがい!!監禁するんだはやく!!!」
「アァアァァ゛アア゛アア゛イィ、ギイイィ゛イイイイ゛!!!」
「あっ、NTR読ませたら泣いちゃったや……」
「食い続けたらアレルギーも治るの精神で無理に読ませるからでは?」
「全員悪夢みたいな発狂っぷりでウケる。全員中身シャッフルされて入れ替わったんか?」
「俺の名は」
「よくわからんがお前らすごい会話してるな」
声を差し挟んだところ、すんとアパートが静まり返った。無人アパートです、と言わんばかりの沈黙が落ちる。風が一陣、音を立てて吹き抜けていった。
なんだ、幽霊みたいな挙動やめてほしいのだが。
「暗黒神殿、茶が入ったゾ。埃が入る故、窓は閉めておくが良い」
「ん」
がたがたと窓を閉める。とりあえず一服するか。こいこいと手招きされるままにちゃぶ台に近寄り座布団に腰を下ろす。
せんべいをひとかじりした後にずずずと茶を啜った。んん、結構なお点前で。安物と言っていたがなかなかどうして。芳醇な香りが肺を満たし奥深い渋さとほどよい甘みが舌を楽しませる。
熱すぎない温度が腹の底から身体を温めるようにして広がってゆくに、自然とため息も出ようというもの。良いお茶だ。うむ。更には茶柱がぴょこんと立っていていい感じだ。
土産に持ち帰るか。甘じょっぱい醤油せんべいもガツンと来る甘さの羊羹も実にこのお茶に合っている。お茶だけでなく一揃い持ち帰りたいところだな。どこで売ってるんだろう。
茶を啜りつつちゃぶ台の上にぽんと置いてあるふわふわの端末を手に取り、漫画アプリを起動させる。試し読みはあるが課金せねばまるまる一冊は読めないらしい。うーむ。
マイページにアクセスしポイント画面を開く。指先をつける。そのままくるくると円を描けばみゅいーむとポイントが加算されていった。出来そうだなーと思ったら出来ただけでこれは不正ではない。ふはははは。
たぷたぷと操作を続けて目的の漫画を発見。極!ドンラガーマンの1巻から5巻までをカートに入れて購入。気になっていたので。
熱血スポ根ものの漫画のようであるが実は主人公は世界を守る為に暗躍する正義の組織の一員でありラガーバトルを通して密かにライバルでありながら未来では共に敵と戦う事になる好敵手と書いて友と呼ぶ熱い仲間達の能力を目覚めさせようとしているらしい。
何でだ。6巻では荒廃した世界を彷徨う主人公が並行世界から現れたアイドルと共に歌で世界を救う話じゃなかったか?何が起きたんだ。
ラガーバトルの霊圧が3話にして既に消えたのだが。ていうかラガーバトルってなんなんだ。
「コリャ、暗黒神殿。行儀が悪いぞよ。食べながら端末で遊ぶのはいかンぞな」
「むむ!」
そう言われるとぐぅの音も出ない。仕方がない。後で読むとしてとりあえず茶菓子と茶だな。
ばりばりばり。ん、このせんべいはザラメか。これはこれで。
「このアパートには今どんな悪魔がいるのさ」
雑談がてら聞いてみた。
「ンン……そうじゃのぉ……。とりあえず右隣部屋におるのは蛸じゃな。左が竜じゃ。
深海に潜む者と呼ばれた存在と混沌竜と呼ばれておった存在じゃな。今のところ地獄には大きめのは27匹しかおらンが粒ぞろいのメンバーじゃゾイ。
まぁほぼ全員肉体も楔足り得る依代もまだなぁんも無いンでな、今すぐに干渉しろと言われても難儀じゃろが。東大陸では暗黒神殿が意味不明なトンチキ理不尽さで以て自前で全員無理矢理に呼び出しておったがのう。
ンマァ、あれは暗黒神殿のやる気次第になるでナ。今のところ暗黒神殿が簡単に呼び出せるのは蛇に兎、羊に憤怒と強欲、暴食だわえな」
「あー」
そういやいつだったかメロウダリアが物質としての肉体が欲しいとか言ってたな。
ぼりんと白糖のかかったせんべいをひとかじり。
「兎石や賢者の石のような……存在固定に成り得る楔を手に入れた眷属が自前で受容器を用意して物質界に出るのは今の暗黒神殿としては気軽で楽チンじゃろからええとして。
楔を核に物質界に織り上げた霊質に受肉し物質化した星幽体は高次元存在であるが、物質界で活動するならばやはり物質体で出来た受容器があるのが望ましい。世界観にあっておるデナ。シンプルに堅牢じゃ。
悪魔が持ち得る霊素の塊で出来た受容器では今の物質界の世界構成要素が合わぬ故に復元と再生が叶わぬ。
受容器の制作と維持には途方もないエネルギーを必要とするが、暗黒神殿が主とする手段は今ンとこ物質界での活動をするにあたり経費は本人が内包するエネルギーのみの使い切りでナ。エネルギーを使い果たせばやがて第一質料を直撃する。
悪魔というものは己にありとあらゆる属性結界と物理耐性精神耐性霊的耐性次元耐性時空耐性と各所揃えて諸々備えておる高次元体じゃて防御力という一点に於いてこれを抜くのは至難の業。
せんべいのようにばりんばりんとコレを砕いたところで本来であれば直ぐ様に復元しおるし文字取りの不死身を晒して全てを徒労とさせてくる生物じゃがのォ。
羊ノが言うておった通りの、悪魔というんは新世界を拒絶し絶対神レガノア、……いンや、レガノアと呼ぶのは些か違うか。
まぁアレより離反した反逆者の集団じゃ。
世界の改編に伴い絶対神に習合される筈の混沌属性、それを司る筈だった天使を理性蒸発の発狂状態で生まれた瞬間にブチ殺がし続け地獄を崩壊させ共に消滅したという気狂いの集まりと言っていいだろう、うンむ。
改編の為に演算し直され続ける時空が崩落しておる世界の中にあって、それで稼げる時間は主殺しを成した悪魔が完全に消滅する迄のほんの僅かな時間であったがその消滅しゆく刹那に汎ゆる次元に薄れながら拡散していく魂を文字通りに網のように使い捨てるというコレまた頭のおかしい手段を用いて、現実にして猶予は0分の一秒に等しい刹那の時間、空間にして探索すべき次元は無限に等しい時間という天文学的な可能性を縫って神の座を暗黒神殿に返上したらしいがのォ。
世界を相手に空白となった暗黒神の座を魂を対価に綱引きをしあって制したワケじゃが、それを思えば10次元近い神我まで解けた状態からの魂の復元とウロボロスの首輪の制作と地獄のプリマ・マテリアの復旧と、掛かった四千年程度はまだ軽い方だろうの。
いやはや、クワバラクワバラ。
まァの。兎にも角にも新たな世界観の元に書き直された物語の中で書き直される前の世界観にしがみついたのが悪魔でありデジタル世界にアナログ手段で突撃しとるようなもんで悪魔らしい理不尽性能でそこを埋めておる。マ、新世界が成り立つ際に絶対神より混沌属性を引き剥がし、以て極小であっても閉じた別世界として成り立たせた弊害と言えるな!
新世界がそれを内包するのを認めないと死にものぐるいで抗い得られた結果となれば文句もあるまいが。
魔族や竜種なんぞは悪魔連中がそげなことせなんだならば、マァ新世界では暗黒神殿の時代程とは間違いなくイカンが世界に取り残されることもなかったろうがな。アリャ巻き添えに近いゾ。
物質界とは最早悪魔にとって袂を分けた完全なる別世界。隣接する枝葉に近い在り方と言える。
求むるところの物質的な肉体というのはつまり変換器にあたるンかな。地上で活動する為の肺、水中で活動する為のエラ、主物質界の霊素を熱量に変換しエネルギーと成す。
ンだが、悪魔が物質的な肉体を用意するンは流石にしんどいじゃろからナ。コツコツと制作して数百年は掛かろう。スパコンの如き性能が求められるシステムを手書きで作るような作業量になるンでの。大仕事よ。
暗黒神殿であればそのような処理も作業量もやる気さえあれば全スキップに近いンだろが……ほうれ、やる気は出たンか?」
「空き容量が足りません」
ぼりぼりばりばり。途中で何を言っているのか全くわからなくなった。
えーとなんだっけ、とりあえず本でなんかすればいいだろう。多分。
「コレこの通り。感情を持たぬというのはこういうことなンじゃよなァ……。
逆に何で自我らしきものを備えて快不快程度とは言え情動を持っとるんじゃ?
オニイチャン達も暗黒神殿が再誕されたとて擬似的な魂を備えただけの霊質体であり自我無く物言わぬ植物のようなものであるという前提であったらしいぞよ。
0に何を掛けても0のままだと思うンだが奇跡でも起きたンか?
ほうれほれ。きなこせんべいはどうか?」
「食う!!」
「ウンム、不思議だなぁ……」